2017/11/28

原始女性は太陽であった~女性蔑視と慰安婦問題

私はフェミニストというわけではありませんが、
世界的に見て、女性の地位はまだまだ低いなと思います。

それでもまだ日本は男女同権と法的には扱われていて、
優遇されたり守られたりしているところもあるから、
第三国に比べるとかなりマシなほうなのでしょう。
カースト制度の根強いインドや東南アジア、
アフリカやイスラム教の国々などの現状を鑑みると、
事実そうなのだと思います。

でも、ネットの女叩きとか、
一向に減らない痴漢やわいせつな犯罪行為、
政治家やお偉い方たちの女性蔑視発言、
嫁を奴隷と思う人々が相も変わらず存在すること。

もっとも安全で文化的な先進国と言われるけれど、
実態は100年前とあまり変わってないようにも思います。
いやそれでも「良くなった」ところのほうが多いのですが。
中身が伴ってない、というところで。

男性も「社会に出れば7人の敵がいる」との諺通り、
イジメにも差別に合うというところでは一緒です。
痴女もいて、男性が性被害にあうことも少なくありません。
「男はかくあるべき」という社会全体からの
ジェンダーに対する無言のプレッシャーもあるわけで。

男性は社会に出て働き妻子を養うべきで、
女性は家庭で家事をして男を支えるべき。
結婚したら式を挙げるべき。子供を持つべき。
結婚は家同士でするもので、子供は親の老後を見るべき。
長男が家を継ぐべき。両親は揃っているべき。
女の幸せは結婚して子供を産むこと。

(なんでもかんでも、べきべきべき…だなぁ)

そういう暗黙のルールも今や崩れつつあるわけですが、
それでもそれを守らないで外れたコースを行くと、
色々干渉されて、とやかく言われることは昔も今も一緒。

思うに、男も女もないわけで、
それは性差であって、区別であるべきこと。
男には男にしかできないことがあり、
女には女にしかできないことがある。
もちろんそのどちらでもありどちらでもない第三の性もある。

それぞれの役割分担を理解して、
各々の特性を生かして助け合っていくのが、
社会のコミュニティの理想的なスタイルかと思うのですが。

しかし人間というのは、
相手を劣勢に置くことで自らの立場を優位にし、
我が身の保身を図りたいエゴイズムを持った生き物なので、
人種や肌の色や国や民族や信仰する宗教を盾にして、
自分が属する側からのマイノリティを必ず創り出し、
偽りの矜持で選民意識と排他的感情を剥き出しに、
徹底的に相手を貶めなくては気が済まないらしいのです。

それが時に男女の性差になるわけで。

第三の性のことはおいておいて…
世には男と女の二種の性があって、
それが自らの父と母の性であるのに、
女の腹によって十月十日育まれ、産み出され、
その乳を飲んで、かいなに抱かれ、
下の世話をしてもらって、育ったというのに、

何故男という性はこれほどまでに女という性を蔑むのか。

それほどまでに自分を産んだ母が憎いのか。
自分をこの世に産んだ性に唾を吐き、足蹴にするのか。

浮気をし放題で下半身に理性のない男性が、
好色一代男だの男の誉だの男の甲斐性だのと言われ、
羨ましがられることはあっても、
同じく性に解放な女性は叩かれるばかり。
不倫のペナルティは女性が圧倒的で、
アバズレだのビッチだの公衆便所だの、
女性を貶める言葉にはキリがない。
性犯罪にあった女性はキズモノだの言われるし、
そもそもそのような暴力的な性の対象として、
どうして消耗品のように扱われなくてはいけないのか。

男でも女でも、
くだらない屑、クソみたいな人間はたくさんいる。
そのどちらにも悪い人間、善い人間がいる。
男だから特別悪いとも女だから特別良いのでもない。
それは国籍でも民族でも人種でも同じ。

日本人でも韓国人でも中国人でも、善い人はたくさんいる。
アメリカ人でもドイツ人でもイタリア人でも、
どこの国だって悪い人間はいる。
環境に影響されて悪くなる人もいる。
平和な世で善人の羊の中にいるから、
狼の仮面や牙を隠せているだけの人もいる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


日本と中国と韓国が仲良くなったりすると、
都合の悪い人たちがいたりする。
アジアが一つにまとまるより、
いがみ合ってくれてたほうがいい…と。

私たちは相変わらず罠にかすめ取られたままだ。

正直、慰安婦問題は仕組まれたものであろうが。

古今東西、女性が戦争の影において、
犠牲になってきた事実は否定できない。
男性ももちろん戦争の主たる犠牲者であるのだが。
侵略侵攻され、征服された土地において、
多くの老人や子供たちが殺され、略奪がおき、
妊婦は腹を割かれ、女性は性の餌食となってきた。

もし、慰安婦問題を本気で語るならば、
戦争の勝敗における女性や社会的弱者に対する
非人道的な扱い全体について、
もっと深く語られるべきではないだろうか。
一つの国家や民族が、一つの国家にしたことだけでなくて。

当人の意志とは関係なく女性を強制的に連行し、
性の奉仕者として屈辱的な行為に甘んじさせた
過去すべての戦争においての女性差別について…
その非道の犠牲となった世界中の女性の慰霊として、
そうした像は創られるべきであろう。

その犠牲者の中にはもちろん日本人も韓国人もいるし、
中国や台湾や東南アジアや西洋諸国、アフリカ大陸の、
あらゆる女性たちが含まれていないといけないと思う。

女性たちを贄にした加害者たる男性たちも、
それこそ日本や韓国、アメリカやドイツや
すべての国が含まれるのだと思う。

今も遠い空のどこかで、犠牲になっている女性も含めて。

一つの国が一つの国に対して行ったことだけを、
部分的に取りあげて単純に糾弾し、
いつまでも怨嗟のターゲットとして
遺恨を次世代へと受け継がせる道具にするのではなく、
女性を強制的に性的な奴隷として扱う行為そのもの、
そのことこそが問題であり、
差別と紛争と分離と対立の歴史の源の根底で、
このような女性蔑視は排除されるべき考えであると、
人が人としてあるまじき非人道であると…

そのように騒がれるのなら、わからずもがな。


なんかこの問題、肝心なことのすり替えというか、
本当に考えべき焦点からズレまくっている気がする。

例えば日本が「反核」を唱え、
被爆者たちが核の恐ろしさ、自らの体験を語ることを、
「被害者ぶって、加害者に補償と謝罪を要求している」
と謝って解釈され、捉えられてしまうのと同じくらいに。

ヒロシマやナガサキの犠牲者たち、被爆者たちは、
「よくも…」という恨み言を言いたいがために、
あの日の辛い記憶や思い出したくない苦しい体験を
後世に語っているわけではないというのに。

ただ、自分たちと同じような苦しみを味わう人々を、
二度と存在させてはいけない、
同じ痛みを誰かにして欲しくない、
過ちを繰り返して欲しくない、
原爆の後遺症というのがどれほどのものなのか、
土地や生き物が死滅し、一瞬にして廃墟になる兵器が
この世にあってはならぬと、
ほとんどの人がそれだけを訴えられているのに。
世界では曲解して伝えられ、理解されていないように。

日本がどうの韓国がどうの、ではなく、
戦争や他国による支配や侵略によって、
本来ならば起こらなくていいはずの悲劇が起きてしまう。
そしてそういった非常事態において、
女性を性の道具、奴隷として玩具のように扱う、
そういう決まりごとのような習慣、
発想がこの世にあることがおかしいのだと…

そういったことにもっと
目が向けられるようになるといいなと思ったりする。

もちろん戦争の悲劇はそれだけじゃない。
戦争はすべてを壊してしまう。
平和だけでなく、人々の暮らしもモラルも品格も尊厳も。
そして戦争は人間が人間であること自体を壊す。
人の子であり親であり友であることも引き裂いて。

てなわけでこの問題に関しては
日本と韓国は未だに戦争をしているのかも知れない。
肝心の被害者になってしまった、
女性たちの本当の人権は置き去りになったまま。
誰も本当の問題を語らないまま。

どこの国の女性たちも犠牲になっている。
どこの国の男性たちも犠牲になっている。

こんなんで今後も女たちが犠牲になることが、
終わりになる日が来るのだろうか。

女性を性の道具とみなし、
戦争になったときに公衆便所として扱う
男性たちがいなくなる日は来るんだろうか

そんな風に女性を扱った男が、
愛する女や娘が、母が
他の男たちからそんな目にあったとき、
どんな風に考えるのか、考えたのか…
どう思ったのか聞いてみたい気がする。

戦火の中だけでないけど、
児童に対する虐待も含めて、
性的な事件が起こるたびに思う。

性的暴行の加害者たち、
あなた方はあなた自身を、
あなたの母を、姉を、妹を、
妻を、娘を犯しているのだ…と。
そして冒涜し貶めているのは彼女らの肉体ではなく、
人間としての尊厳であり人格なのだ。

あなたは、胎内として還るその場所…
あなたの生まれる場所を
同時に汚していることを忘れてはならない。
あなたはあなたを休ませ、
守るはずの手を焼き切り、あなたの宿り場を貶め、
本来あなたが与えられるはずの
母の愛を奪い尽くしているのだ
そのことを忘れないでほしい


2017/11/17

秋の夜長に

ブログを書くといいながら、
なんだかんだ途中筆が止まってしまっています。
書く時間がないわけではないのですが、
他の事に気を取られているといったほうがいいでしょうか。

最近お尻を叩かれることが多いです。
いやさ今になってというこはなく、
以前から突き上げはたくさん来ていたのです。
それはもうずっとでもあるし、毎度のことでもありました。

それでも、去年の今頃は
やっぱりもうこの仕事辞めようと思っていました。
10年続けてきたスクール(Gレッスン)を辞める決心をしたことは、
少し前の記事にも書きましたが、
教えることを辞め、お教室をクローズしても、
なんだかんだこの仕事だけは辞められないのだな、
自分にはこの仕事しかできることがないのだなと痛感しています。
才能だとか資質だとか、
自分にそういうのがあるかどうかはわからないけれど、
たぶん向いてはいるのだと思います。
他のことはやれない人間なんですね。

派遣OLも楽しいのですけど。

この仕事をしてきて、
辞めたい、辞めたい、もう限界だ、無理だ…
繰り返し何度もそう思って休んだり逃避したり、
泣きごと言って騒ぎ続けてきたけれど…
いつもそう思うけれど…

それでもやっぱり好きなんだと思います。この仕事が。
どこかでやり切れていないってのは感じますし、
不完全燃焼でもあります。
クライアントさんが自らの力を取り戻して、
自分らしい途を見つけたり、明るい笑顔を取り戻して、
良い方向性に人生が変わっていくのを見るのは、
最高の瞬間でもあるし、私にとって至福の喜びでもある。

どうなんだろう。
本当に続けられるんだろうか。どうなんだろう。
また数か月したら、「もうイヤだ」って言うかもしれない。
また「人間なんて嫌いだ」って言いだして、
雲隠れするがごとく現実逃避して、
どっかでパートのおばさんやり始めるかもしれない。

それより私はもう必要とされてないのかもしれない。
私の助け、私がクライアントさんに対して提供できるサービス、
知識や技術やスキルを必要としているクライアントさんは、
どこにもいないのかもしれない。

私のサポートは誰にとっても価値のないものかもしれない。
それでもここにいて、情報を発信して、自分を整えて、
サービス提供の準備をすることの意味や必要性が、
どこにあるんだろうか?なんのためなんだろうか?とも思う。

迷いはいつだってありますし、
覚悟を決めたからといって不安や心配がないわけではないのです。

私がこの仕事をする意味、ここにいる意味。
ずっとずっと問い続けています。

でもそれでも続けていくのでしょう。

そんなことを言いながら明日辞めるのかも知れないし、
来年辞めてしまうのかも知れないけど(笑)

とりあえずはやれるだけやっていくのでしょう。

今までの棚卸をして、結果として
ちょっと方向転換はするかも知れないけど。

2017/10/28

人生の宝石

人は決して一人では生きていくことが出来ない。

★ ★ ★ ★ ★

唐突ですが、
皆さんには友人と呼べる人たちが何人いますか?
そしてその中に、親友と呼べる人はいますでしょうか?

気の置ける友人や仲間、
一緒にいて楽しい人、会えないことが寂しい人。
何も話さなくても安らげてリラックスできる人。
会うだけで元気をもらえてハッピーになれる人。

本音を打ち明けて、感情の裏表もすべてさらけだせて、
イヤな自分もダメな自分もお互いに見せ合って、
喧嘩もできて、本気で自分を叱ってくれる人。
自分のために一緒に泣いて笑って怒ってくれる人。
何かあったときには駆けつけてくれて、
黙って傍にいてくれる、自分を大切にしてくれる人。
優しさだけでなくキツイためになるアドバイスをくれる人。

様々な感情や同じ時間を共有して、
色んな事を話して、ともに年を取って、
未来への展望や夢、昔話を懐かしめる人…など。

★ ★ ★ ★ ★

まぁ、それはノリコがいけませんよ
わかいのにおばあさんみたいです

おぎょうぎのよい優等生みんなニガテね
おしゃれやB・Fやスターの話
とても楽しいおしゃべりです

私なんか学生時代 寮を抜け出して
シナトラのコンサート行きましたよ
みんないっしょでそれは楽しかったわ

友達を作らないのは 宝石を捨てるようなものですよ

          by 「有閑倶楽部」一条ゆかり

★ ★ ★ ★ ★

話代わって、
人の幸せってどこにあるんだと思いますか?

何が人を幸せにしてくれるのか知っていますか?

お金でしょうか? 恋人(パートナー)でしょうか?
地位でしょうか? 仕事でしょうか? 名誉でしょうか?
健康? 物質? 成功? 権力やすべてを手に入れること? 
それとも心配や不安のない状態でしょうか?
自分の望みがすべて叶うこと?

愛が人を幸せにすると答える人は多いと思います。
でも、その愛というのがなんであるかと問われると、
答えられる人は少ないでしょう。

人の幸せは「愛」にあるといえばそうだけど、
厳密には「愛」がある状態が幸せといったところで。

でも、愛されることが幸せというのでもないのです。
そもそも愛を与えられて幸せになるものではなく、
愛することの意義と意味を知ったとき…
愛を幸せと感じることができるわけで、
人を愛する喜びの中に「幸せ」を見いだせるって感じです。

とはいうものの、
私たちの云うところの「こころ」は、
実際のところ「幸せ」という感情を味わうことができません。
つまり「こころ」というものは、
「幸福感」の疑似体験ができるだけで、
それは一時的な満足感なだけであって、
残念なことに永続的なものではないんです。

真の意味での幸福感は、感情レベルで得ることはできないのです。
なので、一時的に満たされても、
恒久的なものではないから、すぐ飢餓状態に陥ってしまいます。

ようするに、
感情を満たすことは「真の幸福感」を得るにあらず、
幸福の疑似体験を一時的に与える麻薬のようなものです。

物質的なものから得られる満足感は感情を満たします。
ですが、これは本当に一時的なもので、
すぐに次の感情を満たすものを探さないといけなくなります。

男女の恋愛もまた、感情を満たすだけの、
真実の愛とかけ放たれたものがほとんどです。
だから信頼関係も壊れやすく、気持ちも醒めたり、
かんたんに相手を嫌ったり憎んだりもしがちです。
恋は誤解、愛は理解といいますが、
誤解から始まって、一時的な感情の麻薬に中毒し、
それを愛と錯覚して繋がっている人は多いです。
(それが悪いということはありません。
そうしたところからスタートする関係にも意味はあります。
恋愛や結婚という関係は、個人を成長させ、変化をもたらし、
互いにとって人間関係での大きな学びになるからです)


さて、
では人の「真の幸福」というのはどこにあるのでしょう?

それは喜びを分かち合うということ。
感情を「シェア(共有)」し、
あらゆるものを他者と分かち合うことに、
「幸福」への近道があったりします。

そして、自分を犠牲にすることなく、
他人のために生きることができたとき…
他人のために生きることこそ「喜びである」と…
魂の奥底で実感し、知ることができたとき、

人は真の意味での「幸福感」を味わうことができます。

でも、それは
「他人のためにやってあげてる」とか
「他人のためになることをすれば自分は幸福になれるんだ」
などという視点で行っても、到達できる領域ではないのです。

そこに至るまでには、
踏まなければいけないステップというものがあります。

まず自分のために人生を生きること。
これができなければいけません。
エネmeになって、
他人の支配下の中で自己犠牲を強いられて、
搾取されて奴隷のように生きる人生は、
決して「他人のために生きる喜びを得られている人生」
ではありません。

他人を差別・虐待してはいけないと同様に、
自分のことも差別・虐待してはいけないのです。

他人も幸せにするなら、自分も幸せにしないといけません。

自分を幸せにすることが、
私たち一人ひとりがこの世に生まれた主たる目的なのですから。

(もう一つ、その人のお役目を果たすことすなわち、
自分自身のカラー=創造性を表現する生き方をすることが、
魂の充足感と幸福感を得る必須科目たる条件でもありますが)


他者のためになることをして、
自分が満ち足りた充足感と幸せを感じられる。

ぶっちゃけ、
この状態に達することは「悟り」を開くことと同意語です。

まあ、はっきりいって難しいですし、
自分にはまず無理~!って思う人も多いでしょう。


とりあえずそういう人はそれでいいんです。

今生でやり遂げようと焦る必要はありません。
急にそこまで高尚な目標をいだき、
その高みを目指さして、無謀な精神修養に走らなくても、
人類みな輪廻転生を終わらせるために、
誰しもいつかはその山の頂に到達しなければならないので、
来世とか来来世とか、後100回生きればとか気を長く持てば。
数万年先かも知れませんけど。


手っ取り早く、簡単というか、
誰にでもできることで、その学びや機会を得るためには、

「仲間」や「友人」を作り、「親友」を持つことです。

人は人の中でしか学べず、成長できません。
普通の人間関係、社会というコミュニティでもまれ、
自分を形成していくことも大事なんですけれども、
それとは別に、

「友愛」という、「こころ」と「こころ」で結ばれ、
繋がっていける関係を育てていくことです。

もちろんパートナーを持って、
「恋愛」という関係性から
「愛」や「人間関係」を学ぶことも素晴らしいことです。

でも、家族ではなく、血肉の縛りのない他人同士。
同性異性の性別、職業や世代、
肩書や利害関係を超えたところでの、

共に支えあい、助け合い、色んなことを分かち合い、
互いからあらゆることを学び、与え与えられる、
友人そして親友(心友)といった関係作りは、
なかなか容易なものではありません。

失敗もするし、裏切りと思えるようなこともあるし、
恋愛と同じで相思相愛でないと上手く行かないし、
気の合う人、心を許せる人と出会える機会は、
そうそう人生であるものではありません。

だからこそ、縁を大切にして、
たくさんある出会いの中から、
自分にとってしっくりきた「ご縁」を見出して、
大切に育てて、縁を紡いでいく努力が必要になります。

結局、そこは男女間の恋愛も同じなんですけども。


確かに、
友人関係から得られる感情的満足、
色んなことをシェアする感覚も、
一時的に感情を満たす疑似的幸福感には違いありませんが、
それでも、物質的な事物や肉体的感覚、
性的な興奮やクスリから得られるエクスタシーや
エコイムズを満たすだけの疑似的充足感よりも、
はるかに本物の幸福感に近く、
なおかつ私たちの霊的な成長を促進させてくれる
人生の特効薬といっても過言ではありません。

何よりも、歌のセリフではありませんが、
誰かと繋がっている、「独りではない」という状態は、
心の平穏と安心感に繋がり、孤独を和らげますから。

とはいうものの、
ニセモノの、偽りの関係では意味がないのですが。
(妥協して相手にへりくだり、
好きでもなく尊敬のない相手に迎合し、
従属している関係からは何も生まれません。
その逆で相手を縛り付け、相手を認めず軽蔑等あるのに、
力や義理で支配しようとするような関係でも同じです。)

でも、いつわりの自分ではなく、
本当の自分を生きられるようになったとき、
似たもの同士は引き合うので、本物の出会いもやってきます。
自分の力を取り戻すことさえ出来れば…。

FBくらいしか私はやってないのですが、
SNSやツイッター、そしてLINEなどが流行り、
スマホ依存なんかがあるのも、「誰かと繋がっていたい」という、
皆孤立することに恐れを感じているという証拠だと思うのです。
自分に関心を持ってもらいたい(愛されたい欲求でもあり)、
人と話すことで寂しさや孤独感を埋め合わせたい、
…なんかまあ、それも飢餓感かな。

今の仕事ではなく、占いの仕事をしていたとき、
友達がいれば済むようなたわいのない話を、
わざわざお金を払ってしにくるお客さんもいました。

占い師に依頼する内容というより、世間話。
友達にするようなちょっとした相談話とか。

もちろん、
身近な人だから言えないこと、悩みもたくさんあるでしょうが、
決してそのようなものではなく、
お金を払ってまで(大枚はたいて)いう話なのだろうか?
と疑問に思うような話なんかも多くされたものです。
時に命の電話にかけるような深刻な話などもあったりしましたが。

みんな孤独で、自分の話を聞いてもらいたい、
存在や小さな思い、気持ちを分かってもらいたいんだな、と…

そういうのは、今の仕事に移行してからも、あったりします。

友達がいない、友達が欲しい。

そういう悩みを聞くこともありましたよ。


★ ★ ★ ★ ★

憎しみや怒りより、
“孤独”が人間を加害者にも被害者にもさせ、
人間をダメにもする

by 岩井志麻子

★ ★ ★ ★ ★

豆知識になりますが、

スピリチュアリズム的には、
人っていうのは、今所有している身体すなわち、
肉体(3次元)・感情体(4次元)・思考体(5次元)の3つの身体では、
実のところ、「幸せ」を感じることができません。

幸福を感じる、味わえることができるのは、
精神体(6次元)という、
私たちが上記の身体を用いて育てなければならない身体です。

知恵(思考体)を愛(感情体)を用いて、
行動・表現(肉体)していかないと、
この精神体は育ちません。

愛のない知恵を用いて行動してもダメだし、
愛だけで行動しても、そこに知恵がなければダメです。
知恵と愛だけで、行動や表現をしないというのもダメ。

真の意味の「幸福」を知っているのはこの身体です。
そして、この身体が育たないことには、
幸福感と充足感を得られず、
いつまでたっても何か物足りず、何をしても満たされず、
どこかに虚無と欠落感があり、ゴールが見えず、
魂の飢餓感のある、彷徨える人生を生きることになります。

(物質的なものは肉体を満たし、感情を満足はさせますが、
精神と魂は決しておなか一杯にはならないのです。
物質的な成功をしてもどこか虚しく、精神は満たされず、
不幸な人がいるのはこのためです。
愛=愛する存在が身近にいるということだけではないので。
なぜなら愛は得るものではなく与えるものだから。
愛は外から与えられて満たされるものではなく、
自分の内側にある愛に気づけないと充足に至らないのです)

精神体は6次元の身体(解脱した身体、悟りの状態)ですから、
ある意味でワンネスの場所とも言えます。

私たちが日々求め、欲している「幸せ」は、
この6次元にこそ存在します。

ですが、私たちはリアルで、
3次元(物質界)と4次元(想念の世界)と5次元(思考の世界)にしか、
身体を所有していず、この3つの次元にしか存在していません。

残念ながら、「真の幸せ」は、
今私たちが意識を向けている物質界たる3次元にはないのです。

それでも自らの身体、
「肉体」と「心」「思考」を大切にし、愛や知恵を育み、
それらを物質社会で行動して自らを表現していき、
自分と他人の境界線をなくして考えたり、感じたり、
(他人の身にに起きていることを、
まるで自分のことのように感じたり、
考えたりできるようになって行動できるようになること)

他人と感情や思想、考えなどを共有し、共に生き、
あらゆるものを分かち合い受け入れていく中で、
様々な事物や他者に対する理解を深め、
与えたり与えられたりする過程において、
自らが幸せになり、他人の幸福も喜べるようになり、
そして、そのような日々を一進一退で繰り返しながら、
いつの日か他人のために生きられる人生を、
それが自分の喜びであると…
他者に与え、支え、尽くし、
他人のためになることをすることが、
その中に自分の喜びがあると気づけたとき、

人の真実の意味での幸福にたどり着けたことになるのです。

ようするに、
人は決して一人では「幸せ」になれないのです。

その「幸せ」を分かち合う誰かがいないことには。

より多くの「悦び」をシェアできる人々を得られたとき、
人は、自分にとっての「幸福」を感じられる場所に、
もっとも近いところにいけるのです。

「孤独」はもっとも「幸せ」に遠いところです。
「幸せ」になりたいなら、
「孤独」から脱出しないといけません。

「独り(ぼっち)」のままではダメなんです。


ですから、まず一歩としての、
周囲の人との関係、友人、パートナー、家族との関係性、
その中で「共有できる喜び」を見いだせる人がいるなら、
その可能性を大切にしてください。

あなたの幸福のタネです。

相手が日々元気でいてくれて、
幸せでいること、満たされていること、
そして相手の笑顔を見れたことに、
悦びと感謝を覚える気持ちの中にこそ、
あなたを幸せへと導く道があります。

見知った誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
見知らぬ誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、
それを心から喜び願い祈ることができたとき、
知る人知らぬ人問わず、
誰かの幸せのために働くことができたとき、
私たちは大きく霊的に成長していくことができます。


★ ★ ★ ★ ★

大切にしたい人がいるなら、
大切にできる間に大切にした方がいい。
仲良くしたい人がいるなら、
仲良く出来る間に
仲良くしておいた方がいい。
人間なんて、
本当にふとしたきっかけで
二度と会えなくなったりしてしまうものだから。
驚くほど簡単に
どこかへ行ってしまったりするものだから。


★ ★ ★ ★ ★

一緒にいて楽しい人ではなく、
一緒にいられないことが寂しく、
傍にいてあげられないことが寂しい人を、
友人に選びなさい

2017/10/25

10年目のリセットそしてクローズ

私には生まれる前そして生まれた時の記憶がある。
もっとも、それはとても断片的なものであるが…

里帰りしての出産だったので、
出生地は関東ではなく親の郷里である鹿児島。
産院の大部屋に入院している母を、
私は病室の少し上から見下ろしていた。

その後の記憶は退院してから。
年が明け、泣き出しそうな重くて暗い冬の空、
雪が降りだしそうな寒い日に、徒歩で母の実家へと向かう途中、
何故か母方祖母の手に抱かれている自分。
白いおくるみが印象的だった。
(しばらくは産院に近い、父の実家にて過ごした模様。
母と父の実家は車で30分位だが何故か徒歩での移動。
※ちなみに当時は九州にも雪が降ることがあった)

視点はあくまで俯瞰であって、
祖母を見上げているのではなく、
抱かれている自分と祖母と隣に歩いている母。
そしてもう一人叔母とまだ幼い姉がいた。

どうしてこの景色を覚えているのか…
どうして私は赤子たる己が肉体の中にではなく、
外から他人事のようにこの様子を眺めていたのか…

この記憶があることを不思議に思うより以前に、
何故に私はこの家に、この両親のもとに
生まれてくることになったのだろう?と、
自問自答し、後悔することのほうが多かった。


生まれてくる親を子は選べないと人の云う。
しかし、私は確かにこの母を選んで生まれてきたのだった。

今だからこそわかるのだけど…
私は単純にこの母を、気の毒に思い、助けたかったのだと思う。

親の決めた結婚相手に嫁いで知らない土地にきて、
旦那はシスコンのマザコンでおまけに経済DV男で、
小姑二人のイビリにあい、念願の長男を亡くして、
実家では搾取子だから居場所なく帰れないまま、
長女遺して死ぬに死ねず、病みかけているこの人を。

ああ、そうだったな…と思い出したのが近年。

でもようやく気付いたんですよ。

何でもかんでも他人のせいにして、
私はなんて不幸なのヨヨヨって浪花節に酔っちゃってる人は、
どうにもこうにも救いようがないんです。

親のせい、生まれ(貧乏)のせい、時代(戦中戦後)のせい、
学校行けなかったから、好きな相手と結婚できなかったから、
こんなマザコンシスコン男と結婚したのが運の尽きだった、
イジワル小姑が悪い、父実家の人たちは酷い、
子供がいたから別れられなかっただの、
もうね、状況のせいにして悲劇のヒロインなりたがる人は、
どうしようもないんだって、痛感させられました。
ずいぶん長い時間無駄にしちゃったなあ、と痛感しますけど。

こういう人は、私の母みたいな人は、
自分の人生の責任を何一つ自分でとろうとはしないんですから。
いつだってどこだってどんなことでも他人のせい、周囲のせい。
とにかく私は何にも悪くないって、
自分の問題点を一つも認めようとしないし、一向に非を改めない。

嫁いだ相手がダメだこりゃな相手だったら、
裸足で逃げ出せばよかったんですよ。
社員の経験はあるし、九州と違って関東なんですから、
仕事だって探せば何とかなったでしょう。
子供がいるから離婚できないなんて、甘えですよ。
中絶できないから生んだとかいうけど、
私ができたから離婚できなかったっていいわけする前に、
私のこと中絶すりゃ良かったんですよ。
それでて子供に危害加えられても助けも守りもしないし、
離婚する勇気とかなくて、子に対する愛情もなくて、
結局独りで生きていくのがイヤだっただけじゃんて、もうね。

ようやくこの結論に行き着いた決定的な出来事があって、
あれやこれやそうだなあ、と自覚した次第です。

★ ★ ★

私のこの甘い認識は、仕事にも反映されていました。

今生での母への同情は、
同じく周囲の人やお客さんに対してもそうで。

人生の荒波で溺れている人、
どん底の苦しみや慟哭の辛さを抱えて、
やりきれないネガティブな思いに囚われて、
不幸の連鎖から脱出できずにいる人。
奈落に転げ落ちるようなにっちもさっちもいかない、
四面楚歌の壁に阻まれて、絶望の底にいるような人。

そんな運命の迷路で彷徨い、
舵を見失ってしまったかのような人に、
運命の抜け道を探してあげたいなって思ってたんですね。
希望を与え、光ある方向を見つける手伝いをしたかった。

自分に自信がなかったり、生きる気力を失っている人に、
理由なき苦しみやトラウマに悩まされている人に、
その原因を取り除き、その人本来の力を取り戻す、
そういうサポートをしたいとずっと思ってた。

占いにしてもヒーリングにしても、
その手段にしか過ぎませんが。
結局そのどちらにも限界があったから、
根本的な問題解決として自分の問題に向き合ってもらい、
望むような創造的でよりよい人生を生きてもらうために、
人生の、運命の仕組みを
(どのようにして人生が創られるのか)知ってもらい、
その上で様々なテクニックとしてのエネルギーツールを
教えるためのスクールを始めることになりました。
スピリチュアリズム(霊的真理)を基礎とした、
エソテリックな人間塾、グループレッスンです。

それが10年前のこと。

当初はリクエストを頂いての成り行きから始めたことでしたが、
次第にそれはもっとも私が力を入れるライフワークへとなりました。

やはり、一回きりの、
何かあったときの問題解決のサポートとしての、
個人セッションでは限界があったので、継続的に、
それぞれ個人が潜在的かつ常習的に抱えている問題に対し、
定期的にサポートして、なおかつ共に考えることの出来る、
チームメイトで同胞たる仲間がいることはとても有益で、
複数の人間の意見を聞いたり、アドバイスを受けたりすることは、
個人セッションより何倍も有意義な時間をもたらしてくれました。

でも、それでもやはり人が集まると色々問題は起こります。
トラブルが発生することを避けることは出来ません。

知識を得て、何かの技術を取得出来る段階において、
人は慢心することがあります。

同じスタート地点から始まった人と比較して、
自分のほうが優れているとか劣っているとか、
コンプレックスを抱える人もいれば、
驕りが生まれ、優越感に浸ろうとする人もいます。
「先生」のお気に入りになろうとする人もいます。

知識やテクニックを得たことで、
それまで自分より上と思っていた
「先生」たる人に近くなったことで、
「先生」への尊敬が消え、期待外れとばかりに、
見下すかのようにバカにしたような態度をとる人も出てきます。
自分のほうが「先生」や「仲間」よりも秀でていて、
能力が上とばかりに傲慢の罠に囚われてしまうのです。

スピリチュアルなことを学び、
サイキカルな能力が目覚め始めた人によく見られる兆候です。
このような人はごく一部にしか存在しませんが、
必ず一定数は出てきてしまいます。

自分の人間的な欠点に目を向けず、
何を学びに来ているのかを根本的に理解しないで、
ただ自分を悩まさせている問題や事象が、
自分の期待している方向に、
ただ解決することを期待している人も多いです。
これは一般的にみて仕方ないかなとも思います。
学びが進む段階において、知識を身に着け、
自覚が生まれたり、視点が変わっていったり、
問題意識が高まってくるかどうかなので。

エソテリックな学びの場においては、
グループになったとき、学びもグループ単位になり、
お休みする人がいたりするとグループとしての波動も下がります。
学びの場に参加して、ともに支えあい、互いの問題を考え、
同調して取り組みあうことで個々の波動が上がるので。
でもこの過程でエゴイズムが露出します。
個人も大事だし、協調性も大事。
だけど同じ仲間となった人に対しても責任がある。
グループの一員として、他の人の学びに対して責任を持つというか、
手助けをしようというサポート意識、連帯感もすごく大事で。

急な体調不良や事故、忌引(冠婚葬祭含)、
どうしても休めない仕事だとか、やんごとのない事情で、
やむなく出席できないときもあるでしょう。
でも、他の用事よりも優先順位が低く、
かんたんに休む人はいます。
ローテで早めに来て準備を手伝って欲しいとお願いしても、
早く来る人はいつも同じです。
遅刻する人、ぎりぎりに来る人、減りません。

誰よりも自分の問題でレッスンの時間を割き、
仲間のサポートをたくさん受けていた人ほど、
不義理な止め方をしたり、挨拶もなく、音信不通です。
何年も一緒に関わって、助け合ったり、助けたり、
共に泣き笑いしたように思っても、
人間社会のルールもマナーなんてあったもんじゃありません。
置いておいた私物を送付しても、なしのつぶてです。

自分がうまくいっていないときにはものすごく熱心で、
助けを求めるときには貪欲で、
遅刻だのなんだのでさんざん迷惑かけ通しで、
うまく行きだしたらば他の人の問題には無関心。

いったい何を学んでくれたのか…

教えられない、導けない、気づきを与えられない、
そのような影響力のない私がダメなのか…
たぶんそうなんでしょう。
私に力がないんです。
私が人としてダメだから、甘すぎるから、
それだけなんだと思います。




さて…
それが個人セッションにしても、
グループレッスンや講座にしても、

皆さん、自分が抱えている悩みや問題を解決したいと、
自分が望む人生を生きたいと、今の状況を変えたいと、
そのようなことを仰います。

でも、
いくらそのためのアドバイスをしても、方法を教えても、
ほとんどの人が、
言われたことに対して素直に聞く耳を持ちません。
文句ばかりです。
アレはイヤだ、コレはイヤだ、といい、
それに対して「ではこうしたら、ああしたら」といっても、
「できない」「したくない」「でも」と、
でもでもだってで、イイワケのオンパレードです。

自分の欠点を指摘され、行動のダメ出しをされるのは、
誰しもにとって楽しいことではなく、
耳の痛い、うれしくないことだとは思いますが、

反発する人、逆切れする人、逆恨みしてくる人、
怖いだのなんだの被害者意識丸出しにして逃げる人、
こちらのあら捜しをして粘着してくる人、
いたりします。

その性格や思い癖や考え方の誤りが、
あなたが納得していない今の人生を創り出してきたのですよ?
過去のあなたの選択の結果が、いま現在なんですよ?
あなたの望まないその状況は、
あなたが今苦しんでいるその現実は、
あなたの他人を思いやらない態度や言動、
行動が招き、引き寄せた結果なんですよ?

なんですけども。

結局のところ、
いつまでたっても他力本願で、誰かに何とかしてほしくて、
自分ではこれっぽっちも努力したくなんかなくて、
インスタントに願いが叶ったり楽になる方法を探していて、
自分は変わりたくなくて状況が変わってくれることを期待してて、
いつだって何だって、自分には何も問題がないと思ってて、
自分はどんな時でも被害者でおかわいそうな人で、
なんでもかんでも霊だの他人や過去生のせいにしていたくって、
自分に優しくない人、感情を害する人、きついことをいったり、
困ったことをいってくる人は加害者で、いつも相手が悪くて、

・・・ってそういうような人は。

もう、どれだけこっちが頑張ったって無駄なんですね。
一生懸命話したって、口を酸っぱくして同じこと何回言ったって、
どれだけこちらがその人のために時間やエネルギー使ったって、
プライベートな時間や食事の時間犠牲にしてえんえん話聞いても、
どうしたら気づいてくれるかって考えて、カリキュラム組んだり、
サポートしたり、例題出してみても、指摘なんかしたって、
何したって無駄だったんだなって、本当に心底思います。
個々それぞれが抱えている問題、解決するべき問題、
その人の人生を狂わせている原因を何とかしようと、
見極めて、あれやこれや考えたって、
肝心の当人にとっては余計なお世話で、うるさいお小言なんです。
他の用事に比べれば、いつだって後回しにしていいことなんです。


私には無理でした。役不足、力不足です。

もう無理。
それを知るためのこの10年だったような気がします。

人生が障害だらけ、うまくいかないって人は、
その人自身の考え方によるものが大きいってそれだけなんですが。
カルマのレッスンでわざとそうなってることのほうが多く、
ある意味で、性格や考え方の歪みを「気づかせるため」であり、
暴走させないための重石みたいなものなのだと思います。

この辺りは、その「重石」が一時的にでも軽くなると、
すぐにその人本来の性格が顔をのぞかせるから、すぐわかります。
状況が改善されて、自分を苦しめていた問題が解決したとき、
そのことに対して謙虚に感謝して、本来の直さで生きられる人と、
調子に乗って本来の傲慢さとわがままに拍車がかかる人とに、
だいたい大きく分かれるからです。

スクールでは、
後者の人はすぐに天狗になるからわかりやすかったです。

人生がうまくいっていかず、にっちもさっちにもいかなくなって、
行き詰まって、藁をもつかむ思いでいるときには、
人の話に耳を傾ける人は多いです。
でも、問題はそのあと。

自分を悩ませている事象が消えたとたん、
それまでの謙虚さは一気に消え失せてしまう。

ああ、だからこの人の「問題」は解決しちゃいけないんだな。
本当に気づくまでは、苦しまなくてはいけないんだな。
でないと、またもっと大きいのが後からやってきて、
其のときにはきっと取り返しがつかないんだろう…

そういう人って多いです。
「重石」が取れてみたならば、
自己中さが赤裸々にむき出しになる。

でも、そういう人を見分けるのって難しいです。
そのような要素がある人だからって、
最初に突き放すことは出来ません。
途中で気づいて、
人としての良心に目覚めてくれることも多々あるからです。


とはいうものの、
スクールやグループレッスンでは、
寄り添って色々考えて、
あれやこれや心を砕いて尽力してきたつもりですが、
上記にかいたようなことが重なって、
なんかもう、心が萎えたというか、情熱が枯れたというか、
すっかり心が折れてしまいました。

本当に疲れてしまいました。

なので昨年には結論を出していましたが、
10年続けてきたグループレッスンと講座ですけど、
リセットしてクローズします。

このスタイルではもう開催することはありません。

私には…

とことん自分のことしか考えてなくて、
自分のことは100%許されることを期待していながら、
他人のことは1%も許そうとはしないんです、まずこういう人たちって。
人の思いを、気持ちを踏みにじって、好意や親切をあだで返して、
約束や時間を守らず、他人を平気で振り回して、
さんざん他人を利用して、でもいつだって自分が被害者だって顔して、
自分の要求を相手が満たしてくれないことに対して、
自分に対して優しくない人に対して、自分の気持ちを傷つける人のこと、
いつだって怒ってて、コンプレックスこじらせてる。
自分の人生にいっさいの責任を持とうとせず、取りもしない人。

そのような方たちのサポートはもう無理です。
向き合うにはものすごくパワーがいることだし、
すべてを受け入れて許す懐深い愛情がないことには出来ません。
私にはその愛が圧倒的に足りません。


直らないものは直らない。
できる方もいらっしゃるでしょうけど、
私ごときのような若輩者には所詮無謀なことでした。


他人がその人を変えるわけではなく、
私は変わりたい、成長したい、人生を変えたいと、
そう望んでいる人をサポートしてきただけですが、
変わりたくない、
変わろうとしない人を手助けすることは、
私には無理なことだと痛感しました。


これからは、

本当に変わりたいと心から思っている人、
自分の人生をよりよくするための努力を惜しまない人、

他力本願ではなく、
自らの問題を根本的に解決するために
積極的に取り組み、時間や投資を惜しまない人、

自らの成長を望み、常に向上心を持って、
生きることや望みを叶えるの努力に前向きな人、

周囲や他人のせいにせず、運命のせいにもせず、
自分の人生にきちんと責任をもとうとしている人、
真摯に自分と向き合える、自分から逃げない人、

をもっとサポートしていきたいです。

人生の秘密を教えて、全力でサポートするなら、
そういう人たちじゃないとって思います。

マイナスに投資してもゼロにしかならない。
その言葉の意味がすごくよく分かった10年でした。

人を救うなんて本当に驕りでしかないけど、
私が今回の人生で、
「この人の娘に生まれて、母であるこの人を救ってあげよう」
なんてのは笑止千万の驕りでしかなかった。
偽善的な甘いドリームだったというのかな。

うちの母のようなレベルにいる人を助ける力なんて、
そんな影響力も愛も、私にはまだ全然なかった。
生徒さんにしてもクライアントさんにしても同じ。

そういうわけで、スクールはいったん終了。

ちょうどリ・バースの季節。
一度壊して再構築ですね。
さそり座はそういったサインですから。




2017/10/24

会者定離~幽明境を異にす

会うは別れの始めなり。

別れの来ない出会いはない。
人は死に向かって生きており、
共に人生を生き、同じ道のりを生きていたとしても、
やがて「死」が互いの居場所を引き離す。

出会ったときから、別れは常に付きまとう。
いつか必ず別れの時は訪れる。
どんな風に「別れる」か…
互いの関係性をどんなふうに締めくくるのか、
出会いと別れまでの物語をどのように飾るのか、
心の中の、思い出という置き場所にどのようにしまい、
どう位置づけるのか…

それだけ。

どんなに大好きな相手とも、大嫌いな相手とも、
憎くてたまらない恨めしい相手とも、
憧れの人であっても、
さみしいかな、「会わない」「会えない」という選択以外に、
「死」が確実に互いの居場所を分かつのである。
別れの日は誰にでも公平に訪れる。

和解は生きている間でこそ。

「あの世」での再会なんて幻でしかない。
死んでしまえば、その人生での出来事も、
お互いのことも、何もかも忘れてしまうので。

だから、生きている間に、
仲良くできる人とは仲良くしていたほうがいい。
二度と会えなくなってしまう前に。
できるだけ会いたい人とは会っておいたほうがいい。

「別れ」の日は、望もうが望むまいが、
思いがけずあっという間に訪れてしまうのだから。

下手なプライドに振り回されて、
意地を張って、強情でいる間に、
相手はこの世から去ってしまうのだから。

すべてを失って後悔した後には何もかもが手遅れなのだから。

2017/10/22

私の仕事

先日2年ぶりくらいに知人と会ったのですが、
「どんな仕事をしているの?」
と問われたとき、
上手く説明できずちょっと困ってしまいました。

職業の名称として、
いちおうスピリチュアルセラピスト、
あるいはウィッチドクターを名乗っているわけですが、
じゃあその仕事がどんな仕事であるのか、
どんなサービスを提供しているのか…
この方面に関心のない人に、
分かりやすく説明する言葉を持っていないというのが実情で。

普段からきちんとまとめておかないといけないな、と痛感した次第。

ちなみに、このちょっと前に気づいたんですけど、
私、どうやらずっと自分のこの職業を卑下していたんですね。
「何してるの?」って聞かれたとき、
「胡散臭い仕事」とこれまでは答えていたんです。
「山師みたいなもんよー」とジョークで返すこともあったし。

人に言うのが憚れる仕事といいましょうかね。
恥ずかしい仕事をしているというのではなく、
他人に胸を張って言える仕事でも誇れる仕事ではない、みたいな。

実際、親族には言えませんし、
公務員や教育関係の仕事をしている親戚や知人たちに、
自分の職業のことで迷惑をかけてしまったらどうしよう、
という気持ちはあります。

確かに社会的地位や信用はない職業です。
誤解されることも多いし、偏見を持たれることもある。
バカにしてきたり毛嫌いしてくる人もいますし。
その逆で特別なことの出来る人と頼ってくる人もいますが。

でも、私自身がこの仕事に誇りを持っていないのに、
どうしてこの仕事を通して良いサービスを提供できようか?
自分がしていることを卑しめ、貶める言い方をして、
それでこの仕事でお金を稼ぐというのはどういうことだろう。
この仕事で食べさせてもらっているというのに…
そんな風に反省していたんですね。
ちょうどそんなことを思っていたときに、
たまたま私の知り合いがサイトやブログを見てくれて、

「とても素晴らしいお仕事をしているのね。
 誰にもできることではないし、意義のあることだわ」

みたいなことを仰って下さったんです。

そこで「ハッ!」と思いました。

私には天が与えてくれた、ちょっとした才能があって、
持っている知識や技術が他人の役に立つことがある。
私のような人間の手助けを必要としている他者のために、
役立てたらと有償のサービスを提供しているだけなのに、
どうしてそれを恥と思う理由がどこにあるんだろう?

…で吹っ切れたかな。

それまでは名刺を人に渡すのも躊躇したり、
あれやこれや職業をごまかすことが多かったのですけど、
(単なる派遣のオバサンです、というのも事実ですが)
「ああ、こういう仕事をしていますよ」と、
ラフに名刺を出せるようになりました。
まあ、微妙な反応をする人も少なくないですけどね。

でもって、
じゃあ私のこの肩書がどんな内容の仕事をしているのかって、
一言で説明するのが難しいと、そういう話に行きつくわけです。

ホント、どういう仕事なんでしょうね(笑)

占い師(フォーチュンテラー)でもないし、
霊媒体質だけどイタコでもチャネラー(宇宙イタコ)でもない。
霊能者でもないし、超能力者とか透視能力者でもないし、
呪術師だとか祈祷師とか拝み屋さんでもない。
宗教家とか神職なんていうのでもない(無所属)。
ヒーリングはするけど、純粋なヒーラーというのでもない。
シャーマンといえばそんな感じでもあるし、
魔女が一番しっくりくるんでしょうけど、それも変。
ヒプノセラピストってのとも違う。
スピリチュアルカウンセラー、スピリチュアルヒーラーじゃない。

占い師を長くやってたから占いもまぁできるし、
エネルギーを読み取るリーディングもヒーリングもする。
霊媒としてチャネルになることもある、
アチューンメントもする(レイキティーチャーだから)。
ヒブノもやるし、過去生をリーディングすることもする。
それらを複合的にやってるから肩書をひとつに絞れない。

安直な未来予測はしないし、相性とかは見ない。
死んだ人と話もしない、霊も降ろさない。
守護霊とかオーラの色とか見ないし、
ミーハーな好奇心に答える形での過去生情報は読まない。
縁結びもしないし、呪いの請負もしない。
エゴイズムの願望を叶えるための手伝いはしない。

んー

どう伝えたらいいんだろうか。

「カウンセリングやセラピー、
エネルギーヒーリングやリーディングなどの手法を用いて、
クライアントさんの悩み相談や問題解決のお手伝いをしています。
また、そうした技法のバックグラウンドにある霊的知識としての、
スピリチュアリズムやヒーリングを教えることもしています。」

短くまとめるとこんな感じでしょうか?

もしくは、

私の仕事は基本的には、
クライアントさんの悩み相談や問題解決のお手伝いなんですけど、
占い師や霊能者やヒーラーさんや、
一般的にスピリチュアルで括られている人々のしているお仕事とは、
ちょっと異なっていて、

クライアントさんがこの地球上に人として生まれて、
輪廻転生を繰り返してきた"魂の履歴"というのを読み取って、
たくさんの人生を生きる中で積み重ねてしまったカルマのレッスンとか、
繰り返しの運命パターンとか今生のノルマとか課題とか…
本当はこういう方向に進みたかったのに進めてないとか、
出来ていないことや間違えてしまっていることとか、
現象として起きている現実と
本来魂が進みたかった方向性の誤差というか、そういうのも見た上で、

現在そのクライアントさんに起きていることが
悩みであれ問題(病気や現象)として表れている壁であれ、
その方の人生にどういう意味を持っているのか、
なぜ起きてしまったのか、その人に何を教えているのか、
原因がどこにあって間違えていることはどこなのか、
必要な経験なのか無用な経験なのか、
避けられることなのか避けてはいけないことなのか、
どのように考えて取り組むべきなのか…

そうしたことをメッセンジャーとしてお伝えしています。

つまりはその人が人生で間違えていること。
性格の問題点や考え方や心の歪み、選択の誤りなど、
そうしたことをアドバイスする人生の整体師とも言えます。

また、霊的なレベルで起きていることなのか、
その人が引き寄せてしまったカルマのレッスンなのか、
霊的な現象にせよ、肉体に表れていることにせよ、
当人の体質や内面的なことに起因しているのか、
外部的な原因から起きてしまっていることなのか、
単純な思い過ごしであるのか、当人の性格の問題なのか、
過去生に起因するトラウマやPTSD的な症状なのか、
総合的に非科学的な事象を分析推理して解き明かす、
探偵のようなこともします。
(なんでもお見通しで、なんでもわかるということはなく、
私ができるのはキャッチできる情報を集めて、
経験値と知識から状況を考察して謎を解き明かしていく、
そんな程度のことです。万能じゃありません。
できることは限られているし、わからないことのほうが多いので)

エネルギーヒーリングを用いて改善が図れることであれば、
そうした手技やシャーマンや魔女的なテクニックを使い、
クライアントさんの氣をいじったり、
透明なヘルパー(ガイド)さんたちのサポートを受けたりもします。

そんな感じです。

…というような説明かしら?

やっぱ長いか。

もう少し上手い説明を考える必要がありそうです。

2017/10/21

秋の日は釣瓶落とし

とはいうものの<タイトル
四季の移り変わりという風情を愉しむ間もなくなった昨今。
5月は爽やかでなく6月に雨は少なく8月は晴がほとんどなく、
10月も行楽日和とは言えず、先週から雨続きで台風近づいてマス。
伊勢湾台風並みといいますが、
ここのところ関東は大きい台風来てないので、
台風ってどんなんだったっけ?という感じ。
(母は岡崎に住んでいたとき伊勢湾台風を経験してまして、
ドラマ「赤い運命」で語られるごとく、すごかったらしいですが。
紡績工場の屋根飛んで水浸し機械全滅で会社倒産→実家戻る)

地球温暖化ってヤツなんでしょうか?
せっかく四季の豊かな日本に住んでいながら、
ここ数年は春夏秋冬の移ろうさま、
四季折々の豊かさを堪能できず、
昔の日本の風景を懐かしむことも多くなってきました。
うん。IT文化や化学、経済的には発展したけど、
日本て貧しくてつまらない国になったと思います。
心が貧しい人が増えました、ホントに。

さて、久しぶりのブログです。
すみません。気が付けば3か月くらい放置していました。
いつものことですが。
書きかけて放置してある記事もあるので、
ぼちぼち書いてUPいきます(書かなければ)。


でもって、夏はまた派遣の仕事をしていました。
そして性懲りもなくまたやるんだと思います。

いろんな人に言われます。

「もう派遣いいじゃん」
「どうしてこの仕事一本にしないの?」
「もっと本職に専念しなよ」

エネルギーの無駄遣いともいわれます。
必要ないじゃん、止めなさいよという人もいます。

向いてないのは分かっています。
重宝されるほど優秀で実務能力の高い人材ではないし、
組織向きでもなく、社会性も高くない。

でも、だからこそ、でしょうか。
楽しいんですよ、OL。
いろんな会社に行って働くのも、
様々な企業を知るのも、人を見て知るのも。
できないことができるようになるのも楽しい。

人の中で人は揉まれる。
コミュニティの中で、人間関係においてしか、
人は成長することができないというのは、真実。

アスペではないのですが、若干多動気味というかAD寄りで、
根っからの右脳人間で電波な私は、
社会性が大いに欠けており、論理的思考が育っていません。
それは霊的な資質を生かしてこの仕事をする利点でもあるけど、
人としては大いに問題のあることです。
バランスがとても悪すぎます。

会社というのは社会の縮図です。
不条理で道理のいかないこともたくさんありますが、
常識や現代的な感覚、ありふれた価値観を養うためには、
私にとってはもっとも適した学校なんですね。
お金も頂けますし。

まぁ、派遣先や派遣元にしてみれば、
さほど仕えるわけでなし、生意気で迷惑な人材でしょうが。

私からして、里の修行の一言につきますね。

自分の生まれ持った資質を生かして霊的な仕事をし、
社会や他人のお役に立てるのもとても嬉しいけれど、
それ以上に自分という人間を磨き育てていくのも大事なことで。
それが一番私の人生の中でプライオリティの高いことなんです。
霊的成長=人間としての成長が。

真理の探究者は、まず怒りをコントロールできなければなりません。
ですが、困ったことに私はとても酷く感情的で短気です。
今生で生まれ育った環境(家庭)は、
とても貴重な体験を私に与えることになりましたが、
同時に「怒り」をたくさん刷り込み、
感情を抑圧させて一気に爆発させるクセを作ってしまいました。

また機能不全家族に育って、虐待の負の連鎖もあり、
アダルトチルドレンのまま、大人になってもしまいました。

結構厄介でなかなかどうして手強いなって、自分でも思います。

スピリチュアリティを高めたり、
サイキカルな能力を鍛錬するより以前に、
こうした問題を矯正して乗り越えるほうが先なのですね。

ずっと取り組んではいますが、時間はたくさんかかってますね。
でも、軽視できないし、面倒でも根本から向き合わないといけない。
これでもかってくらい、もう大丈夫だと安心できるレベルまで。

だって、怒りっぽい人間がサイキカルな能力持っていたなら、
どうなると思いますか?

相手に対する怒り、憎しみで、簡単に起動スイッチが入ってしまう。
生霊だとか"呪"などの攻撃的な想念が自動的に発動しちゃうんです。
無意識的に…それをしようと意図しなくてもね。

クンダリーニがカッーと熱くなって、
背中(背骨)から頭上に抜けて、打ち上げ花火みたいに、
勢いよくズコーンあるいはヒューっと…
「ソレ」は飛んで行ってしまうんです。

「あれ? 今もしかして何か自分から出て行った?」

という具合に。

そう。私もやっちゃったことありますよ。
知識とか何も知らない頃です。ずっと昔ですけど。
(普通こういう体験も体感もあまりないことだと思いますが)

今の人生でそのようなトレーニングはしたことありませんが、
困ったことに過去の人生では訓練受けてますから。
ちなみに憑き物筋ではないです。

だから、自分は絶対に「怒ってはいけない」
感情をしっかりとコントロールできるようにならないといけない。
二度と人を恨みたくないし、無意識とはいえ、
自分の中の般若を飛ばすようなことはしたくないと思ってます。

けれど、ようやっと最近になって、
そのあたりの自分の変化というか、
成長を感じられることがあったりしました。
数年前の自分だったら、怒りポイントに反応して、
ムカムカきてたことだけど、反応しなくなってた、ということが。

どんなことかっていうと、

今回派遣先で、
マウンティングしてくる人がいたんですね。
完全に格下認定してくるわかりやすい人が。

私は見た目が不思議ちゃん?ぽいというか、
ボケッとした、いつも眠そうな顔つきで、
精神年齢が低いっつーか行動も言動もアホですから、
まあ、舐めてくる人、小バカにしてくる人、いるのです。

同じグループだったし、お昼も一緒で、
まあ完全に見下されてるのはわかっていたけれど、
いいとこもあるし、気づきをくれる発言もあったので、
そういうとこはスルーしていました。
でも、最後の最後に思いっきりpgrれることされまして…
過去の私だったら、鼻息荒くするというか、カッーと来て、
イヤミで反撃したり、怒りまくってたと思うんですけど。
確かに気分は良くないものの、
スッーと冷静に相手を観察できたというのかしら。
「ほほう、これがマウンティング女子!(BBAだけど)
の常とう手段なのか」と思いつつ、反論するのもバカらしいな、
何言ってんだろうこの人は?って、ひたすら珍獣を見る気分で、
自分の怒りが反応しないこと、沸点がわかないことに感動してました。

今までだったらやられっぱなしで言い返せなかったことに、
あ-いえばよかったこーいえばよかったと後悔したり、
くだらないことに反応して怒りにとらわれたことに対しても、
自己嫌悪に陥ったりすること多々あったんですが、
「コンプの裏返しで他人より優位に立ちたいのねー
 自分の人生に満足してないのねー」と分析に回ってて。

その間、相手にさんざん言われまくり、
下げられまくりだったわけですが、そんなことはどーでもよく。
ハイハイハイ、どうぞお好きなだけバカにしてください、
ご存分に見下して叩けばー? どーぞどーぞって気分で。
(でも、
「あなたが誇らしげに吹聴している知識、それ間違いだからっっ」
 って教えてあげない私はやっぱり性格が悪いのです。)



何かひとつミッション・コンプリートした気分です。

そういう確認ができるから、いいのかな<派遣のお仕事

忍耐強くなったというのとはちょっと違うと思うけど、
少しだけ成長できた自分に満足かな。
直さなくてはいけない欠点、まだまだたくさんありますから。



はい。また頑張ってブログ書きます。頑張ります。