2017/07/20

虹の橋の向こう側・・・命の生まれるところ

畜生(ちくしょう)とは、
仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。 

畜生は、苦しみ多くして楽少なく、
性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、
父母兄弟の区別なく互いに残害する。

畜生道に堕ちると言うは、
悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者、
動物のような生き方をする者、死後に畜生に生るという事。

畜生道(ちくしょうどう)とは六道また十界の1つ。

※六道(ろくどう、りくどう)とは、
仏教において迷いあるものが輪廻するという、
6種類の苦しみに満ちた世界のこと。
十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。

                Wikipedia参照

     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


子供の頃に読んでいた漫画「うしろの百太郎」の中に、
言葉を話す犬シロというキャラクターがいて、
その犬は人間の生まれ変わりという設定だったりするのだけども、
実際のところ、人が動物に転生することはありえない。
(それでも、私はこの口の悪いシロが好きだったし、
ペットが口が聞けて話せたなら便利だなあ、って思ったり)

心霊科学では、ダーウィンの進化論も「違います」って、
話になるんだけども、それはさておいて。
(遺伝子ゲノムが近かろうが何だろうが我々の祖先はサルではなく、
人間は最初から人間であり、このカタチだったということ)

どうして、人間が動物に、そして動物が人間に、
というように生まれ変わることは「無い」のかというと、
それは人間とは肉体の仕組みが違うということと、
動物には「霊」も無いし、「魂」も無いからって話になります。
(昆虫、鳥類、爬虫類も。そして哺乳類であっても)

肉体の仕組みの違いを言うなら、
人間は、目に視える肉体が一つと目に見えない肉体が二つ。
けれども動物は目に視える肉体のみ。

人間は原型としての魂があるから、転生をする。
でも、動物は転生はしないんです。

人間の魂を今風?に分かり易くいうと、
魂はそれまでの作業の経緯含めて、
すべての過去履歴、今後の計画、データが入ってる、
メインサーバでホストコンピュータみたいなもの。
一つの人生を一台のPCだとすると、そのPCが昇天する度、
そのPCで作業した全データがホストコンピュータに移行する。
エラーもバグも、何回ウィルスに感染したとか故障したとか、
インストしたアプリやアップデートの回数や使用履歴も一緒に。

そしてそれまでのデータを元に新しいPCの環境作りをする。
それが転生する際の肉体とキャラ作りみたいなもの。
そのPCを使用して作業するのが新しい人生みたいな。
(この場合、PC廃棄は死亡になるかと)

これは人間一人につき、メイン一台。
(転生の終わりはさておいて)

動物の場合は、その動物の種類別にメインサーバが一台。
共有で使っているって感じかな。
一匹の猫が死んだとき、
猫専用メインサーバにそのデータは回収されるって感じ。
犬は犬専用、馬は馬専用に。

あくまで比喩の言い方ですけどね。

動物は魂はないけど、宿っているもの、はあります。
(ぶっちゃけエレメンタルなんですけど)
まあ、生命エネルギーとして考えても問題ないかと。
この辺り説明するとめんどくさいので。

この動物の「命」は学習しますし、記憶もします。
その人生での体験や恐怖など。人間への警戒心や感情も。
人にされたこと、もちろんメモリーとしてインプットします。
だから動物は進化するし、個性も生まれる。

ペットだったり、人間との接点が多い動物は、
身近な人間が創り出すエレメンタルを吸収して、
それを己が特徴や性格として表現するようになります。
(憑依体質ってわけではなくっっ笑)

だから、飼い主に似てくるのは当然なんですね。
攻撃的な人といると攻撃的な性質を帯びてくるし、
穏やかでのんびりした人に育てられるとそうなるし。

どんな人間に育てられるか・・・
これによって感化される性質が決まるんですね。
つまりペットってのは、
一番身近にいる人間が創り出す想念を表現する媒体ともなる。


そして、その犬だったり馬たったり猫だったり・・・は、
やがて死ぬとひとつの命の源たる塊の中に戻ることになる。

原始の海に還るがごとく…。

その人生での体験、記憶したことすべてを携えて。

それは大きな水瓶の中に水が戻されるようなもの。
組みだされた水の量より、
生きた人生分増えた量が加算されて再び水瓶の中に。
そして新たな命が生まれる時、
水瓶から水が汲みだされることになる。
けれど、必ずしもそれは、
以前ひとつの形骸を持っていたものとは一致することはない。
水は混ざるものだから。

だから、動物に関しては悲しいけれど、
同じ「命」は転生してこない。

過去、人生を一緒に過ごした、
あの可愛い子の一部が混ざっている奇跡に出会えたとしても。
同じ子には出会えない。

とても残念で寂しいことだけど。

犬も、猫も、馬も、牛も、鳥も、うさぎも、
生まれながらにして個別の性格があるのはそういうこと。

転生と言えばそうだけど、転生とはかなり違う。

別の犬や猫が、どこかで生きていたときの記憶、
何処かの誰か(人間)から模倣してコピーしたデータがあるから。

それは虐待の記憶かも知れないし、
愛に満ちた幸せな記憶かも知れない。

捨てられた哀しみや人間に対する絶望や恨みかも知れないし、
可愛がられて、抱きしめられた、懐かしい甘い想い出かも知れない。


 "犬には犬の哀しみがあり、
    猫には猫の喜びがある…"


いずれにしても、
いつかこの子とまた会いたい、
生まれ変わって、またうちの子になりにおいでね、
と思っても、それは叶わない夢。
動物に関してだけは、
その子がその子として生きるのは一度きりの人生になるから。

また、その種類の一匹にすることは、
すべてのその種の動物にすることとなる。
その動物にとって、共通の記憶にもなるので…。

つまり、一人の人間が一匹の動物に対してしたことは、
その種のすべての動物の恨みをかうってことでもある。
その人が生まれ変わって姿形が変わったとしても。

それに関しては、その人がそのような行動をしたという
行為のデータ(エレメンタル)をその人自身が所持している、
というのもあるんだけれども。

動物側にも、
「この人はかつて同胞に酷いことをした」
というデータがインプットされているのです。

だから、やたらと動物から攻撃されたり、嫌われたり、
極端な目に遭ってしまう人というのは、
その人自身の身体から匂い立つ悪しき波動とか、
そうしたものだけに反応しているのではなくて、
過去の行いに対して復讐されているのかも知れませんね。



     ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そんなわけで動物は人間と違うので、
いわゆる成仏がとても速いです。
死んだらサクッとサヨウナラという感じで。

しばらく飼い主の周囲をエレメンタルとして徘徊してるのもいますが。
人間みたいに自分が死んだ現場を離れられないとか、
自分の死を受け入れられないでいるとか、そんなことはありません。

何年も飼い主の傍にいるようなのは、
ほぼ100%といっていいんですけど、
その飼い主が創ったエレメンタル(生前に創ったコピー)ですね。

(あ゛ーただし、
あまりにも悲惨で非業の死とも言える状況下では、
キレイに上がれず、人霊の地縛霊と同じ状態に陥っている
そうした動物たちもいます。
飢餓状態で死んだとか人によって残虐に殺戮された場合とか。
こういう状況下で結果的に人間に祟ってしまうなど、
「悪さ」をしてしまう子たちは、
一般に言う「動物霊」というのとはまた別種ですケド)

飼い主が死ぬと一緒に回収(人間の方に)されるものだけど、
たまーに、はぐれちゃって迷子になって、
犬好きな人や犬を飼っている人に、
くっついていたりすることがあったりします。

あと前に街中で見たケースでは、電車の中ですけど、
盲導犬に心配そうに寄り添っている犬の霊
(霊ではないけどっっ)を見た事があります。

これもまた、誰かが創った、
ペットのコピーとしてのエレメンタルでしたけど。

犬ってやっぱ優しいんだなって思いました。
人間と違って「心の身体」も「思考の身体」もないけど、
だからこそ、人と違って混じりけが無いというか、
計算なくて、純粋でまっすぐなんだなって、ホント。

あ゛・・・そういえば昔、
実家が肉屋(解体とか含む)だって言う人の、
家に遊びに行った時、牛とか豚とかの霊(正確には違うが)が
たくさんいて、苦しくなって、「ごめーん、用事てきた」と
すぐに飛んで帰ってしまったことがあります。
彼らってボリューミー(体重が)なんで・・・。



さて、ならばどうして動物という存在がいるのかっていうと、
私たち人間がため、だったりするんですよね。
こういうと人類至上主義みたいな言い方になってしまうので、
ちょっとイヤなんですが、そういう意味ではなくて。

地球という天体、
私たち人類が生きていくための母なる大地、
その環境維持のためには、微生物や昆虫や各種の動物、
植物、魚類の存在(生態系)が不可欠で。
動物たちを滅びの道に追い込むことは、
自滅の道であり、環境破壊以外のナニモノでもありません。
我々人類が存続していくためには地球環境を守る必要があり、
そのためには、動物たちの世界もそのままに、
維持して守っていく必要があるのです。
彼らはこの地球を住みよい天体にしてくれている功労者で、
環境を生みだし作り出している自然システムそのものなので。

(だから彼らが生息している地域から彼らを引き離すのは悪です。
命を必要以上に奪うことや彼らの生息地を荒らすことも含めて。)

またそれだけでなく、動物の生きる姿から、
様々なことを学ぶためでもあります。
あと、私たちのために「命」を「糧」として
提供してくれているところもありますが…

でも、いつかは彼らから「命」を頂くことも、
卒業することが目標ではあります。

して、「動物」に対してどう接するか…ってのは、
その人が同胞たる「人間」に対して、
どう想い、どう考えているか、
人を人としてどう扱かっていうバロメーターなんだそうで。

まぁ、だから、
動物虐待は殺人の予兆だっていうのは真理なのか。

子供は虫やカエルなんかを殺すことで残虐性を発揮して、
やがて命の大切さを知って、しなくなるというけど。

動物しか愛せない人、昆虫としか向き合えない人、
植物しか関心がないってのもかなり問題があるとは思いますが。
やっぱ動物嫌いより好きな人のほうがキャパあるかもな。

動物に対してどう接する人なのか…
動物の命をどのように考えている人なのかって言うのは、
その人の「人間」に対する本当の想いを知ることの出来る、
ひとつの目安になるでしょうね。
動物や植物をどう扱っているか、って点がね。



とはいうものの、
私は植物は好きだけど枯らしまくりの炎の手の持ち主だし、
犬も猫も鳥も金魚も飼ってたことはあるけれど…
よその犬には4回噛まれてますのよ、ワハハハ。
(そして蛙とクマとネズミは嫌いだ~!)

動物園も大嫌いで、反対の立場であります。
野生動物を保護する施設は必要だけど、
その土地に生息しない動物を人間の娯楽のために、
別の土地に連れてきて見世物にするのは良くない。
人間のエゴイズム以外のナニモノでもなく・・・。
一般の人が動物の生態を学ぶなら、書物や映像だけで十分です。
野生に戻れなくなった動物を保護飼育する施設が、
維持管理費稼ぎのために見物料を取るのはいいかなって、
そう思いますがね。


てなわけでして、人間が動物に転生することはありません。
動物に人間が、人間に動物が「憑依」することはあったとしても。

(あるんだな、これが)


2017/07/14

知る者は言わず言う者は知らず

"私たちの苦の原因は、私たちの執着にある"
                  by ゴータマ・シッタルダ(仏陀)

    ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

私が占いを用いて他者の相談に乗ることをしていたのは、
正確には高校時代からで、仕事にしたのは24歳の時からだけれども。
途中やらなかったりの時期もあるが、ダラダラと40近くまで続けていて。

何度同じことの説明をしても、
最悪を回避するためのアドバイスをしても、
こうしたいのならこうしたほうがいいと伝えても、

いつまで経ってもオウムのように同じ愚痴や不満を繰り返し言い続け、
「私には難しい」と自分が変わること努力することには消極的で。
そのくせ、こうなりたい、あれが欲しい、こうじゃなきゃだめなのと、
未来に対する期待とこだわりは半端なく、リクエストは常に最上級。
いつも誰かのせいにし、運命のせいにし、状況や環境のせいにし、
自分は変わらずとも何も努力をしなくても、
ある日突然に状況が変わって、すべてが自分の望む通りになり、
欲しいものが手に入っている幸福な人生が訪れるのはいつなのか?
(但しそのために自分は何のリスクも負わないのが前提)

そんな風にとどのつまりが、
自分の欲望の奴隷になっている人が多く、
執着から自分の本心も本来の自分の幸せが何であるかも
見失っている人ばかりの現実に辟易しつつ、

「占いでは人を救うことは出来ない」

なぞと、
占いを用いて他者の相談に乗ることに限界を感じ、
フラストレーションとジレンマに陥っていた。

ちょうどその頃、
たまたまレイキヒーリングを習うきっかけがあったり、
偶発的かつ強制的にヒプノセラピーをやるはめになり、

「この人に必要なのは占いによるアドバイスではなく、
エネルギー(エーテル体)の状態を改善することなのでは?」
という状態にあったクライアントさんに対して、
お試し的な施療をして結果(改善)を得られたことから、

「なるほど、これだ!」

と活路を見出したものの、
やっぱり数年で似たような壁にぶちあたることになった。

もちろん立ち直って自分の状況を理性的に判断できるようになり、
自分の力を取り戻し、問題を解決できるところまでに至るなど、
混乱と迷いの森から脱出して自立できた人もいるにはいるが、

どうしても往来の考え方の癖や執着を手放せない人は多く、
考え方の歪みや性格的な問題から引き寄せている憑依の問題や、
過去生や他人からの良くない影響、カルマのレッスンといった課題、
繰り返してしまう運命のパターンなど根深いものに関しては、
本人が自覚して意識してそのことに向き合わない事にはどうにも・・・
だったりするので、

これはもうきちんと霊的な知識を身に着けて、
己が運命を作り出している仕組みを理解してもらわなければ、と。
レイキの伝授やヒーリングを教える以外に、
瞑想やエクササイズを教えたり、私塾みたいなスタイルで、
霊的真理(心霊科学)を教えることを始めたのだけども。

それでも、
エゴイズムの罠にはまり、己がレッスンと向き合わず、
執着や私欲から逃れられない人は少なくないのです。

その度に色々とがっくりきてしまって、
自分が出来ることの限界を感じていたのだけど、
そもそも、「人を救う」ことなんて誰にも出来ないし、
自分が他者に良い影響や感化を与えることが出来るなんて、
思い上がりもはなはだしいこと。

他人を変えることなんて誰にも決して出来やしない。
その人を変えることができるのはその人だけ。
変わることを選ぶのも選ばないのもその人次第。
すべてはその人が選んでいるんだから。

交流原則の基本、
「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」
を口にしながら見失っていたのは私自身。

私が誰かを「変える力」を持っているなんて、
傲慢以外のナニモノでもなく・・・
その人の問題を解決出来るなんて勘違いもいいとこ。

自分だって問題てんこもりで道の途中にいる人なのにね。
結局、私はクライアントさんの問題を、
解決できる自分になりたかったんだろう。
「助けて」と言われて、「助けられる」人に成ろうと、
クライアントさんの期待に応えられる人になろうとしていただけで。

私が出来ることなんてたかが知れていて、
ホント大したことは出来ない。

それに私は「占いでは人を救うことが出来ない」なんて、
過去に思い込んでしまったけど(占いに意味無しって感じに)、
その「占い」の段階のアドバイスだけでも、
そこからヒントを見つけたり、希望や気づきを得て、
自分の可能性を見つけ出して、未来へと歩き出し、
道を切り開いていくことができる人はいるし、

マグネティックヒーリングとしての気功や、
レイキヒーリングの施療を受けただけで、
氣が充実して、エネルギーのダメージが回復し、
自分自身の力や生きる力を取り戻す事が出来る人も、
運気が上がって人生が変わっていく人もいるわけで、

それはホント、無駄ではないわけ。

どの段階でも、
良くなっていく人、良くならない人はいるし、
アドバイスを無にする人、無駄にしない人、
人の話を聞く人、聞かない人もいる。
状況が改善する人、しない人、
問題が解決する人、しない人、
努力する人しない人、変わろうとする人しない人…

過去生の情報が役に立つ人もいれば、意味のない情報な人もいるし、
過去生セラピーやヒプノで問題を手放せる人もいる。
憑依していた霊や生霊を取ったり、エレメンタルを書き換えたり、
そういうハードワークをしないことには改善されない人もいるし、
でも、それさえもすべては良くなっていく、成長の過程において、
その人にとっては意味のある事だったりする。

知識を学んだことでそれを活かして知恵に換えていく人もいるし、
たくさんお金をかけてヒーリングを習得し、
霊的知識を学んだって、教えの本質を全く理解しようともせず、
相変わらず他力本願で勘違いに磨きをかけている人もいる。

結局は当人の問題だ。

どれだけお金をかけたから、でもなく。

学ぼうと思えば、人はどんなことからでも学べるし、
人生すべてに無駄はなく、起きていることすべてから学べるわけで。

その人か人生や経験から吸収することに関して、
そこは私の責任ではないのね。
今までの私は「救おう、救わなきゃ」とばかりに、
私にはその人の人生の問題を「解決する責任があるのだー」
みたいな感じで気負って、ものすごく肩に力が入ってました。

だから、
気づいてもらわなくっちゃ、気づいてよ~! となって、
あなたの人生の課題、これもあるよ、これもだよ、と…
余計なこと言いすぎでした。
早くカルマのレッスンをクリアしてもらおうと、
焦って急かしてぎゃーぎゃーと。

物事には適切な時期があるというのに。
すべての出来事には意味があるというのに。

大事なのはその人自身が経験を通じて、学ぶこと。
自分の人生を生きて、経験して、知恵や生きる力を得ること。
その人自身が内側からの声と出会って、内面から気づきを得ること。
自分の人生の意味をその人自らが見つけること。

その人に起きていることは、
良くないことも良いこともすべて必然で、
その人にとって、何もかも絶妙なタイミングで起こってる。

だから、無理に外野がそれを変えようとしてはいけない。
必要で起こっていることを変えることはできない。
出来るのはそのタイミングが来るまで見守ることだけ。
それが起こるその日まで支えてあげることだけ。
準備を進める手伝いをすることだけ。

なんですよね。

この辺りは子育てと同じ。
自分が楽したいからって、子供の成長の機会を奪ってはいけない。
子供が「覚えようとしていること」を取り上げてはいけない。
その子が転ぶのを見たくないからって、
怪我をして泣いて欲しくないからって、手当が面倒だからって、
石ころをいちいち取り除くことをしてたら、
それはその子の「怪我」をする機会を奪ってしまうことになる。
石に躓いたら転んでしまうとか怪我がどういうものかというのを、
その子が知る機会を潰してしまうことになる。

そんなのはその子のためにはならない。
その子を守ることではなく、
自分を守りたいがための自己満足でしかないから。

私もどっかで、仕事に対するスタンス、間違えてた。
情熱とエゴイズムを錯覚して、勘違いしていた。
随分と傲慢になっちゃってて、自己満足なセッションに陥っていた。
レッスンの参加者に対しても、成長をサポートするどころか、
自主性を妨げ、自立を邪魔して縛り付けてたかな。
責任感と誠実さを混同して、完全にはき違えてた。

脱落したり、反発して出てった人も、
満足できず他所に行った人も、「ほっとけ」なんですよね。
すべてその人には必要で起きていることだから。

去るもの追わず、来るもの拒まず、な姿勢でいいのに。

そう…相手を無理に変えようとしなくていい。
ほっといても変化のタイミングはいつか訪れるし、
成長したいかしたくないか、時期も当人が決めること。

理解できないことを教えようとしても、無理。
知りたくないことは知るべきことではないし、
知ったからといって、当人がそれを受け入れられるわけでなし。
なんでもかんでも、「知った立場」から言うべきではなく、
そういうのは愚の骨頂でしかないんだと。
所詮奢りで自惚れでしかなく、知識をひけらかし、
自分の力を誇示するためのパフォーマンスでしかないんだと。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

先日、数年ぶりのクライアントさんがいらしたのですが、
6年前の初見のときより状況が悪化しているとのこと。

初見で、やりたくない仕事(親の跡を継がれた)をしていて、
なおかつそのやりがいの無い、好きでない仕事を通して、
お金儲けと業務拡張に走っちゃってるのが良くないんですよって、
これ以上、営利を追求したり事業を拡大するのは止めて、
少しずつ業務を縮小し最低限の規模にして、その傍らで
本来やりたかったことに近いことを始められては?
というアドバイスをさせて頂いたんですが、そこはそれ、

いくら嫌々継いだ家業とは言え、
「我が城」となったものをなかなか手放すのは難しいもの。
まして養うべき家族がいるなら、なおさら。

思いきれないというよりは、
「うーん、現実的でないですね」と笑って流されてまして。

今回も結局は根本原因はソレだから、
6年前のアドバイスと対して変わらず…
だけど、今回はその方、聞く耳があったんですね。
うち以外のところでも同じこと言われたと。
「6年前にアドバイス頂いた時にその通りにすればよかった」

確かにそうかも知れません。
でも、実際はこの方が今の心境に至るまでに、
6年の月日とさらに悪化した状況が必要だったんです。

ほら私が言ったとおりになったでしょう!ではないんです。
その時にアドバイスを受け入れてくれれば
今の最悪な状況は回避できたとか、そんなんじゃないんです。
違います。予見してたとかはどうでもいい。

この方は痛い思いをする必要があったんです。
どうしようもないところまで叩きのめされるような、
奈落の底に突き落とされる挫折を経験しないことには、
至れない心境、掴めない「気づき」が。

人間ってそこまで追い詰められないと、
ブライドや執着を手放すことが出来なかったりするんです。

6年前に私が言ったアドバイスを受け入れてたとしても、
この方が変わらなければ、別の出来事が起きていたでしょう。

そして、その手の職業の人に言われたからという受け入れ方では、
当人心の底では納得してないから、くすぶるものもあって、
結果が気に入らない時、周囲や私のせいにしていたはず。

もちろん、本人の意識がシフトというのかな、
現在起きているような最悪な状況が起こる前に、
自分自身を見直すことや生き方の修正をしていれば、
ある程度早い段階で避けられていたとは思う。

でもそれって第三者の誰かが起こすことではなく、
当人が選ぶことなんですね。
自分自身の声に耳を傾けるか否か。
自らが気づかなければ、気づこうとしないことには、
こればかりはどうすることも出来ないこと。

この人を、このクライアントさんの意識を「変える」ために、
すべては必要なこととして起こっている出来事なのですから。

それに対して第三者や私みたいな職業のものが出来ることは、
本当に小さく限られています。
もちろん当人が求めたことに対して、
こちらが理解できた情報や知り得たことを伝えたり、
アドバイスはしますけれど、当人が知りたがらないこと、
求めて来ないことに関しては、伝えようがないのです。

そして、伝えたその情報やアドバイスをどう扱うか、
そのこととどう向き合うのかは、
相手の自由意志と選択に任せるしかありません。


改めて、当人に必要で起こっていることは、
どうにも避けられないのだと思った次第です。

これはどうにも変えられない。

人生のあらゆる出来事には原因があって、
その人が原因を造りだし、引き寄せていて、
当人にとって良いことも悪いこともすべて、
その人を成長させ、意識を変え、気づきをもたらすことで、
人生を修正させるべく働きかけている出来事であるのだから、
干渉無用、関与すべきではない…ってことがたくさん。

この場合、その出来事に関して無力と自分を嘆くこともなく、
起こることをじっと見守るしかないのだと、痛感しました。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

そして先日の記事に書いた、
「私がこの仕事をする動機ってなんだっんたっけ?」
「何をしたくて、私はこの仕事をしているんだろう」の答え。
確かに私には
「情熱はイラネー、過剰になるだけだから」なんですけども・・・

結局のところ、
人の運命の変遷(魂の歴史)、不思議さを見るのが好き。
なんだというのに気が付きました。
人間を知ることが好きというのかしら、
そこに好奇心が働くのですよね。
一人の人がこれまで生きてきた物語を知るのが楽しいっていうか。
(もともと伝記や人物伝とか歴史とか事件史とか好きだし)
そこに尽きる。

あー それでいいんだなって思いました。
好きでないと面白くないし、つまらないから。

あと、クライアントさんが明るく元気になっていく姿、
その人らしさを取り戻してまるで憑き物が落ちたように、
その人自身もその人を取り巻く出来事も、
良い方に変わっていく現実やその過程を見られるのも好きですし、
生徒さんの目覚ましい成長を実感出来る距離にいるのも楽しい。

だからもうそれで、それだけでいいんですね。
この仕事をする理由はそれだけで十分。

それでもって第一に、それで自分の特技というか、
個性(霊媒で他人の過去生を見るのが得意)が生かせる道で、
他人に重宝してもらえる知識や能力があるわけで、
そこに自分が面白い楽しいってことがリンクするんだから、
もうそれでいいやですかね。

ヘタな大義名分とかお役目ガーとか、イラネ。
隣人愛はあっても、妙な使命感や博愛精神だの必要ないや。
ヘンに理想や天命だのを掲げるとエゴイズムの餌になる。
んなもんあると、反面教師だと他人をジャッジしていた、
なまじスピリチュアルナルシズムの罠にはまるばかりだから。


お金を頂く範囲で、自分の出来ること(能力)を提供する、
それ以上でも以下でもない。
感謝も尊敬も評価も名誉もなんも必要ないっす(お金で十分)。

そういうところで落ち着いたべー

はい。肩書きなんて何もなし。
私は聖人(聖者)でもグルでもマスターでもない。
私は大工の孫で、建具職人と縫製職人の娘でしかない。
自分の知っていることを教えて、
出来ることでお金を稼いでいるだけの単なる職人なんです。

2017/07/12

我が身の臭さ我知らず

毎度のことですが、なかなか投稿せずにすみません。
こんなつたないブログでも、
楽しみにして下さる方がいるのは有難いことです。

何かあったとか多忙とかいうことはなく、
精神的に落ちていたとか舞い上がっていたとかでもなく…
書きたいこともネタも都度にあったのですが、
こういうのって、なんて言うんでしょうね…
色々と考えごとばかりしていて、
目まぐるしく移り変わる自分の感情と深く向き合っていたら、
今この時期になってしまった、そんな感じです。

人生において変化の時期って度々訪れるものですが、
この数か月、半年くらいもたくさんの気づきがあって、
その気づきの中にいたらば、自分の考えを人様に伝えたり、
他人様(クライアント)のことを記事にする作業が
とても愚かしいことのように思えて、
モチベーションも上がらなかったのです。

そうですね。
これまでブログに書いてきた内容って、
私自身の傲慢さや自惚れといった、
エゴイズム的上から目線があったからこそ、
書けた内容なんだなーって改めて思ったりします。

したり顔で自分はなんでも分かっているんだっていうような、
スピリチュアルナルシズムがないことには、
デカイ顔して解説めいた、
自己陶酔的文章は書けなかったなあ、と。

読み返すと「うげー!」と、
思うような文章ばかり(誤字脱字や文章の不味さも含めて)で、
とっても恥ずかしいけど、
こうしてネットという公共の場に晒し続けるには、
自己嫌悪になるような記事ばかりですけども・・・
(謙虚さのかけらもないっていうかー)

でもまあ、
この文章(文体)が面白い、読みやすいという人もいるんだから、
また書き直す気力もないし、そのままでいいやと恥晒し続行決定。
私が死ぬまではこのブログ(公開)は続けることでしょう。
更新のペースは相変わらずになりますが。


ここのところは、そんな風に自分を振り返って、
色々と内省して、心境の変化とか、気づきとか、
霊的成長の道を粛々と進んでいるのかいないのか。

自分を観察して周囲を観察して、
日々の事をあれやこれや思って過ごしています。

そうですね。
私もダメダメな欠点どころか問題だらけの人間で、
精神年齢は低いし、一度反省しても、
またやっちゃったなーってことばかりです。
困ったことに。
でも、そういう繰り返しの反省を反芻運動のように、
定期的に行わないことには、前に進めないのでしょうね。
二歩進んで一歩下がってばかりなんで、
なかなか先には進めてないですけども。

道のりは遠いなあって感じで。


最近気づいたことは、
私はなんでもかんでも「過剰」すぎるってことです。
すべてにおいてやりすぎの傾向があるっていうのかしら。
先走って、思い込みだけで突っ走ってしまうの。
なのでとんだお節介をしてしまう。
「よかれ」と思って、あれやこれや気持ちを押し付けてしまうのね。

それはプライベートでも仕事でもそうで、
仕事でそれをやってしまうと、
相手を過保護に甘やかしてしまうことにもなるし、
自分の見解や気持ちを押し付けて、
相手をコントロールしようとする支配欲にも通じる。

私がそんな状態でいると、
生徒さんやクライアントさんと健全な付き合いが出来ません。
共依存の関係を作ってしまいがちになりますから。


少し前、仕事に対する情熱が萎えてしまった瞬間があって、

「私がこの仕事をする動機ってなんだろう?」
「私はこの仕事を通して何がしたかったんだっけ?
 何をしたくて私はこの仕事をしているのだろう?
 その"動機""情熱"がしっかり見えてない、
 今の気持ちでは良い仕事が出来ない」

って思って、うーんうーん・・・と模索してたんですが、

最近、
「あ゛ー 他の人はともかく、
 私にはこの仕事に対する情熱とか無くていいんだ」
って結論に至りました。

何故って、ヘタに情熱とかあると、「やりすぎ」てしまうから。
すべての行動が過剰になって、行き過ぎたことばかりしてしまう。
うん、だから今くらいがちょうどいい。
熱苦しい目的意識なんて、私には必要のないものだって、はい。

たぶんそれがちょうどいい塩梅なんです。
無理もしすぎていましたし。

それと、自分の人とは変わった個性のことを嫌いだとかいいながら、
自分を否定しながら…認めて欲しいというような、
スゴイ人だと言われたい、評価されたいっていうエゴイズム。
ありましたねー たっぷりと。

どっかでこの仕事を通じて、自分を証明しようとしていたかな。
自分の能力だったり、価値を他人に認めさせようとしていて、
それが得られないことにフラストレーションを感じていたり、
傷ついたり、卑屈になっていたり、
ヘンなプライドから他人に批判的になってもいたなあ。
自分を認めて欲しいからか余計な事をしゃべりすぎて、
自分を必要として欲しかったり、関心を得たいからか、
他人の期待に応えようとして背伸びして、
なんでもできる違う自分になろうとして、
自分を偽って無理をして疲れ果てて、苦しんで・・・

そういうのはたぶん、親との関係から来てるんですけどね。

すごい歪みだなあって思いました。
克服していると思いきや、まだまだあるもんです。

私は自分を証明するために生きているのではないし、
私自身の価値を証明するためにこの仕事をしているんじゃない。

なのに、いつの間にか持ち込んじゃってました。
混同しちゃってたというのかしら。
それがあるがためにめんどくさいことになっていました。
道を見誤って、見えなくなっていたというのかしら。
自分の人生で迷子になってました。

てなわけで余計なものをそぎ落とし中です。
軌道修正中ともいうな。

そんなこんなで、色んなことをリセットする時期に来ています。
あくまでそれは内面的なもので、
表面的には何も変わりはないのですが。

そんな感じで、我が身あるあるというか、
自分を振り返ってエゴイズムを発掘して、
"穢れ"を洗い出す作業に集中してたってところです。
これは本当に毎日しないといけません。
そして大掃除のような棚卸も数年に一回しないことには、デス。

2017/06/17

花の命は短くて・・・

占いの館で占い師の仕事をしていた時、
相手がいるいないに関わらず、恋愛相談は圧倒的で。

中でも、
「どうしたら、恋人ができるでしょう?」
みたいなのは結構多かったんですが、

そう真剣に仰る、その方の手をふと見ると、
爪の中が真っ黒だったり・・・
ぐいっと身を乗り出した時の口臭に、
「うっ!」と呼吸を止めさせられるときもあったり…
あと、セーターが毛玉だらけだったり、
「襟足汚れてますよ」とか、「毛抜き使ってますか?」とか、
「ヒゲは剃りましょう」と言いたくなるような方も。

彼氏が欲しいといいつつ、恋がしたいといいつつ、

「それ以前の問題ですよ、お嬢さん!」

なんて言いたくなる人は多かった。

うん。
誰かに自分を好きになってもらいたいなら、

「それ相応の努力はしましょうよ」

って感じ。

今のままのアナタがいいといってくれる人が大多数なら、
ありのままのあなたを愛してくれる人がいるんなら、
とっくの昔に現れてて、
年齢=恋人いない歴にはならないんですぜ、マジ。

別に自分を偽れってことではなくて、
自分の見た目の短所や長所を知って、
より良く見せる努力って必要です。

お洒落以前に清潔さは当たり前。
食事で臭いのきついものを食べてしまった後の口臭と、
口腔内のケアをしていない人の口臭ってやっぱ違います。
たまたま汚れてしまった服と不潔な衣類や身なりも違うし。

肌のケアとか、ムダ毛の処理とか、そーゆーのも大事。
指毛もです。ワッキーの毛もそう。夏はとくに。
耳の後や耳の中の汚れ、見えてるんですってばよ。
鼻毛もね。鼻くそもちゃんと鏡でチェックしてね。
(アタシは目ヤニよくくっつけてるオバサンですけど)
髪の毛ゴワゴワでキューティクルはどこ行った感じで、
ひっつめてて、んでもって洋服がかび臭いとか最悪やん。
※余談ですがデリケートゾーンも洗う習慣もってね

なんたって、

「口が臭い女に、
 男が惚れると思うなよ!」

・・・です。

そしてその次に、
自分に似合うファッションやメイクをしましょうよ。
ヘアスタイルもそう。

貞子ヘアは似合ってる人はいいけど、昭和過ぎ。
ゴスロリや奇抜なファッションは似合う人には個性的でも、
顔が麗子像なのに・・・顔無しかコケシなのに、
(麗子さんは麗子さんでコケシはコケシで魅力がありますが)
市松人形がフランス人形の服着たって滑稽なだけなのに。
平たい顔の一族顔で金髪に染めててもなー むむ

どうして自分をわざわざ不細工に見せて、
元々の可愛さとか持ち味とか殺して台無しにするんだろう。

「もしかして、
 笑いをとるためにそんな恰好してる?」

って子もいたりする世の不思議。

そりゃ、中身はもちろん一番大切です。
でも、それは中身を知ってもらう機会(距離)があってのこと。
まず最初は見た目から。何よりも恋には第一印象が肝心。
だから人は見た目も大事なんです。

中身が魅力的な子はコミュ能力だけで恋人作れるけど、
コミュ能力のない受け身な子は、
自分の中身も外見も磨かないことには何も始まりません。

縁結びのお守り買って、パワースポットで願掛けしたり、
占いで未来の可能性や出会いを期待する以前に、

「お洒落しろや、ゴラァ!」

と、私は言いたい。

まず、自分の顔やスタイルの欠点を知ること。
そして同時に自分の顔やスタイルの綺麗なとこを探すこと。
自分を綺麗に見せるメイク、自分に似合う色、スタイルを研究し、
身体のラインを美しくみせる服や靴を身に着けること。
ヘアスタイルもそう。
いかに自分を魅力的に見せるか、自分の良さを引き出すか、
個性を際立たせて、好印象を異性に持ってもらう工夫をするか。

エチケットやマナーを知ることも、箸の持ち方とか、歩き方とか、
そういった所作も含めて、自分を高める努力って損のないこと。

そうした努力のひとつもしないで、
やっすい100円ショップで買えるほどの価値の女のままで、
誰かに自分を好きになってもらおうなんて、

100万年早いんじゃあ~!

と私は思ったりする。



まあ、私も人の事は言えませんがね。
化粧はほとんどしないし、お洒落でもないし。
ファッションセンスも決していいほうではない。
(ただPTAのおばさんにならないよう、
イタイ人にもならないよう、気を付けてはイマス)


例えば先日たまたま、
ファッションのアドバイスを求められたのだけど、
その方はとても小柄な方でなおかつ童顔でもあるので、
トラディショナルなカジュアルをかっちり着たり、
ちょっと個性的で奇抜なデザインの服を着ちゃったりすると、
どうしても「子供服」を着てるようにしか見えないのね。
しかも、肌が小麦色なもんで、
落ち着いた色、ダークカラーを着ると、
顔色悪い人つーか、肌が汚く見えちゃうの。

だからまあ、肌を綺麗に見せる色を選ぶ必要があるし、
それだけでなくて、子供服に見えないようなデザイン、
年相応の落ち着きを出せる服を選ばないと、だったり。
あと、その方は首がとても細くて、首から肩のライン、
とくに鎖骨がとても綺麗だったから、
その長所を目立たせるカットソーなんかいいわけ。

欠点を隠すのも大切だけど、
その人の身体の一番綺麗なところを見せると効果的だから。

このあたりはその昔、ハリウッドで
スタイリストをしていた人の著書からの受け売りなんだけど。
(エリザベス・テーラーやグリース・ケリーとかの)

自分の胴が長いとか、手足が短いとか長いとか、
あんまり知らない人が多いよね。
そして顔やスタイルに文句をつけつつ、
自分の身体の何処が一番美しいかってのについても、
知ろうとしない人は意外と多いんだ。

人の第一印象は、まず顔で、その中でも目に人は目が行く。
ファンデーションでいくら隠しても首の色は隠せない。
自分の顔色を美しく見せる生地の色を知らない人も多い。
(ただ色って、素材や染め方(プリント)次第で随分違うから、
実際は出来上がった洋服としての全体で考えないとですが)

自分が他人にどんな表情を見せているのか、
自分の顔の表情が他人にどんな印象を与えているのか、
それを知ろうとする人も少ない。
芸能人やサービス業の人は、鏡に向かって、
自分の表情を研究し、笑顔の練習をし、
放送後のビデオチェックなんかも怠らないけど。

化粧直しは熱心にしても、
口元を歪めて他人の悪口を言っている自分の醜い顔や、
意地悪な目つきを直そうとする人はあまりいないし。

ボトム…スカートの長さもそうね。
足の一番太くなっているところまでの丈を選んで、
(ものすごく細い脚の人なら問題ないけど)
わざと自分の足を薩摩大根並みに太く見せている人多いよね。
靴もそう。ふくらはぎの太いところからのロングブーツとか。

ちゃんと全身鏡観ようよーって感じ。

なんかねー 

電車なんかで私はよくそんな風に、人間観察をするですよ。
ファッションチェックとかしてたりしてっっ。
スマホ持ってない人だし、本も疲れるから読めないので。

あの人、仕立ての良い服着てるのに、靴が残念だとか、
惜しい、バッグだけがダメぢゃん、あともう一声…とか。
ヘアスタイルがファッションに合ってないとか。
そのストッキングの色は酷すぎないですか?とか…
そのメイクはいつの時代のですか?
大映ドラマのイジワルキャラですか? 
ひょっとしてその服はバブル当時のを改良したものですか?
ああ、幸せ薄い女の典型的な見た目ぢゃん!
せっかく顔だちが整っててキレイで、磨けば光るのに、
ジミーにおばさんファッションにボサ髪でなんてもったいない、
なんでもっとなんとかしようと思わないのよ~
とかとか…

ねーちゃん、パンツ見えてるよ! 足開くなよ。
その長さのスカート履くなら、足は組みましょうよ。
斜めに傾けてちゃんと足は閉じようよ~
もしくはひざ元にスカーフ置くとか、バッグで隠すとか、
女子なんですから恥じらいもって配慮しましょうぜ。

電車内、化粧するブス、しない美人・・・なんて標語を作ったり。


うん…

とにもかくにもね。

開運の石とか、アイテムとか縁結びスポットとか、
こうすれば彼氏が出来るとかの行動や何かに頼る以前にね。

もっと自分に興味を持って、外見を魅力的に装うこともしてよ!
中身もだけど、見た目ももっとみんな何とかしようよ!

そういうとみんなお金がないとかいうけど、
値段じゃないんですよ。お金かければいいってもんじゃないの。
やっすい服でもね、いいの。
問題は似合うかどうか、着こなしの仕方ひとつなの。
組み合わせなの、コーディネイトなの。

ユニクロだってGUだって、なんだってね。
その辺のバーゲンの服でも、見つけられるのよ。
アクセサリーも100円、300円ショップでも見つけられるし。

でも、
好きな服、着たい服と、自分を美しく見せる服って別だからね。
自分が着たい服を着る冒険が出来るのってせいぜい20代前半まで。
後は年齢とか自分なりの個性を加味しないと、残念なことになる。

とにかくね。女性が一番きれいな時期って、
何もしなくても輝いていられる時期って、10代と20代なのね。
その時期に、自分が一番美しい時期に、
美しく装っておかないと後悔するし、人生無駄にする。
30代以降はある程度、年相応のスタイルを確立しないとだしね。

そして恋愛のチャンスも10代、20代ならたくさんあるわけで、
30代過ぎて、他人に紹介してもらわないことには、
異性との出会いがないという人は、
自力での出会いは不可能に近く、ほぼ無理。
ぶっちゃけ100%ない。酷いこというけど、
そういうドリーム入ったお花畑の人、実に多いんで。
誰か王子様がって待ってたって、絶対来ない。
出会い系とかヘンなナンパくらいしか、声かからない。

社交的で多趣味で同性の友人も異性の友人も、
たくさんいる人なら別だけど。

ただ、何かが人生に起こるのを待っている人はまずない。
だから、努力しないと始まらない。

とりあえず、
見た目をなんとかすることから、始めたほうがいい。
中身を変えるのも勿論必要だと思いますけど。

と、いう訳で

己を磨け! メスとして!!

花の命は短いのだから

2017/06/13

レイキ受講の感想

クライントさんより
臼井霊気のアチューンメント(伝授)の感想を頂きましたので
単独で紹介(掲載)しておきます。

またこうした体験(体感的なもの)は個々によって異なりますので、
すべての人にあてはまるものではなく、
伝授を受けたすべての人がこのような変化をするとは限らない、
とだけ、お伝えしておきます。とにもかくにも個人差がありますので。
※ちなみにこの方のお祖父様は元々一般人(農業従事者)だったのですが、
とある出来事があって、行者さんの修行をすることになり、
心霊治療家として多くの方々の相談にのってらしたとのことでした。


 ☆  ☆ ☆ ☆  ☆  ☆ ☆ ☆  ☆ ☆ ☆  ☆  

アルマ様

こんにちは。
セカンドから1か月を過ぎましたが、
途中経過のご報告をします(^-^)


ここ最近だいぶ変化を感じます。
靈氣で・・・というか、自分自身の内面に変化があります。
セカンドアチューメント後、その日は、気分が気怠く、
”自分など大した人間ではない感”みたいなのが色濃く迫ってきて、
なんだろうな~このダルダルな気分は・・・と思いましたが、

翌日はすっかり気を取り戻し、
その次の日から部屋の模様替えをし、祭壇を充実させ、
家の中の各部屋の機能をすっかり様変わりさせていきました。

1週間後くらいから、
ようやく遠隔ヒーリングを開始し、レイキボックスに祈りを封入し、
その後は、気づけば、毎朝早く起きて、瞑想を日課にし、
チョロチョロと遠隔やらなんやらやり続けております。

ちなみに母によると、眠くなったり、
シャキッとして体が軽くなったり、変化があるそうです。
(母は特別受け取りやすい人のような感じもします・・・
 直接の時は100%寝てますし。)


レイキボックスを開けて確かめると、
「朝早く起きられますように」等、すでに叶ったものがちらほらあり、
また、心境が変化したためにこれは要らんわというものもあり、
今日、ごそっと入れ替えしました。

また、夫には、
あなたの病気のおかげで靈氣に出会えたことを感謝している等々
よく述べていたのですが、最近は、
彼の調子の良い悪いがあんまり気にならなくなり、
(申し訳ないけど・・・^^;) 
毎朝一番に私の部屋から遠隔ヒーリングをしていたのを
とうとう現在2日続けてやっていません。
執着が離れたという感じでかなあ・・・


実は一昨日あたりから、
瞑想や内省で、思いがけない自分が出てきまして、
”悪は許すまじ”という感覚で、
よく考えれば、刑事もののドラマが大好きなのだから
元からそんなタイプだったのでしょうが、
明らかに、魂の奥底から湧き出る感じで
祓いたい!祓わなければ!という強い使命感み たいな喜びみたいな・・・
で、何を?と考えてるんですが、
特にその辺に対象物があるわけでもなく・・・
でも、夫の病気云々のことなど、
大したことでもないみたいな感じで吹っ飛んでしまいました。

今朝、母と話をしていたら、
祖父はエクソシストだったんだそうです。和風のやつです。
悪魔祓いというか、邪気祓いというか、
それが本筋で、毎日地域のための祈りとかをやっていたそうで、
病気を治すとかお告げをするとかは二次的な需要だったそうです。

今まで話をよく聞いていなかったんだなと思うとともに、
ということは、あれ?
ひょっとしてこの感覚は血筋ですか?とやや思った次第です。


瞑想中にたまに、
坊主頭のちょっと凛々しい青年かおじさんが浮かんでくるのですが、
私はその人がとても好きでして、ま、ただそれだけの事なんですが、
ワイン派の私が日本酒を買ってきて飲んでみたり、
まんじゅうが食べたくなったり、ここのところ「和」の気分です。
そういえば、いつもいるこの部屋は和室です^^!


余談ばかりで失礼いたしました。
来週末のサードアチューメントとても楽しみにしています。
またその後も精進のために、レッスンを受けていきたいと思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

2017/06/03

世の哀しみを減らすために私自身が出来ること

先週のことですけど、数年ぶりかで映画を見てきました。
映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、
PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップがないこともあり、
とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。
視力のこともあり、字幕を見るのが無理というのもありましたが…

その映画を見ようということになったのは、
当日の午後、渋谷にて開催されている、
抱きしめる聖者アンマのダルシャンに
一緒に行こうという話になっていたので、
ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、
休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、
上映時間もピッタリ合ったからなのでした。

映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」

どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識もなく、
その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、
たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。

インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、
偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。

たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、
この映画を見た事自体もラッキーでした。
友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、
見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。

まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。

どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると、
インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、
誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、
1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、
言語が通じない事から、迷子になり、
さらにストレートチルドレンになってしまうものの、
親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。
が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、
身元が分からず、コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、
1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、
海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、
オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。
が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、
故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、
フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、
幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、
インドへ旅し、家族と再会する‥というもの。

実話がベースになっていますが、
ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、
はしょっているところや脚色しているところなど、
そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。

友人はこの映画のテーマ
(インドという貧しい国の実状や養子問題)
の重さにズーンとなってしまいましたが、

私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、
もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、
(「ルワンダの涙」とか「キリングフィールド」とかetc)
臓器目的の人身売買のための誘拐とか、
孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、
現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。
今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。

インド映画はこれまでも、
サタジット・レイ監督の「大地のうた」とか、
ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とか、
そういう牧歌的なものやはちゃめちゃな娯楽もの。
一番好きな「きっと、うまくいく」
それ以外にもみ終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。
オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、
アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・
国単位の見た本数としては少ないほう。
それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、
それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。

ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、
カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、
女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、
近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、
IT大国でもあったりするけれども…
サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、
貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、
路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。


話を映画に戻すと、
この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、
「え?どうしたらそういう話になるの?」と、
列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、
信じられない、想像がつかないという反応をする人が多いらしい。
得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。

まあ、日本という全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。
日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も統一されているし、
新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。
ほとんどの人が「情報」を手にすることができる。
なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。

インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。
治安がとても良いとは言えない国で、
地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、
刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。
貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、
その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。
道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、
野良犬程度の扱いであったりすること。

今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、
実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。


さて、私がこの映画をして脅かされ、感動したのは、
主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、
幼少期の想い出を覚えていられたという事実。
あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。

養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、
マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。
彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、
フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、
成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。
このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、
かなり大げさにしているみたいだったんだけども。

彼がそうなっちゃったのは
実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、
インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。

対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、
とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、
母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、
子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。
だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。

養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。

同じ養子として、同じ環境に引き取られ、
愛情深い養父母に育てられたというのに、
二人のその差はどこから生まれてきたんだろう?
もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。

でも、サルーの場合、五歳になるまで、
面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、
物質的には恵まれて無くても、
そうした愛の記憶があったから・・・
というのが大きかったんではないかと。

マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期に、
自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、
十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、
ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと、


まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。

さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、
先進国たるアメリカでは23万人だったりする。
こちらは人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。
中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、
離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。

臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、
インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。

ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働や児童婚、子供兵士の問題などもある。

かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。
つまらないことで感情を害して、
ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。

衣食住足りて人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。

だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限はなく、貪欲さはますばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、
人は人であることを見失って、大切なものを忘れて、捨てていく。
豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。

テロは無くならないし、中東の和平は遠く、
アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。
中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。

相変わらず世の中は問題でいっぱい。


こうした世の中の現状を考えるとき、
自分は何が出来るんだろうって再び考えた。

インド映画を見て、考えて、そして
奇しくもインドからやってきた、
抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。

今の自分が出来ることって何だろう。

それは私自身を活かすこと。
私にしか出来ないことをすること。

もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら、続ける。
生徒さんたちとの祈りの会も続ける。

そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。
自らをきちんと成長させていくこと。
後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、
スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、
クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、
そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、
人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。

この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、
その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、
その人がその人らしく生きられるように、
生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、
一期一会のセッションでの出会いを大切にして、
限られた時間の中で全力を尽くして、
(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて)
とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、
この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、
少しでも、ひとつでも無くしていく努力をするしかないのです。

それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。

2017/06/02

見えなくなって見えてきたこと

気が付けば、
前回の記事(お知らせですが)を書いてから二ケ月近く経っていました。
読み物的なものとなると、実に四ケ月ぶりになりますね。 

書きたいこともこのブログに即したネタもそれなりにあったのですが、
筆を取る気力というか、考えを文章にまとめる集中力が萎えていました。
おそらく視力の問題が大きいように思います。 

どうしても視野欠損というのでしょうか・・・文字が一部見えないんですね。
例えば、4桁に並んだ数字とか、真ん中が重なって3桁に視えちゃう。
そんな風に読み飛ばしてしまう文字があったりするわけです。紙はとくに。
死角のように見えない部分が出来てしまうので、しんどいのですね。
目の痛みも相変わらずありますし、一年経ってだいぶ慣れてはきたものの、
見えづらいのには変わりがありません。暗いところだと鳥目状態ですし。 

まあ、あーだこーだ言っても始まりません。
歳を取ると、どっかしら体にガタが来て不具合が出るのが肉体というもので。
 (鍛えてないとか日頃の不摂生とかも反映され)
そして・・・健康を害することによって、
身体機能の衰えとか損傷とかを体験することによって・・・
その状態を経験し、類似のハンデを負っている人々の置かれている世界や、
彼らの不自由さを知ることになります。 
肉体的マイノリティの人々のフラストレーションだとかを。

例えば、傍目にそれとわかるハンデを人は理解して対応できるけれど、
一見して健康にしか見えない人には健常者として接しますから、
そこでトラブルや誤解なんかも発生してしまうわけです。
まったく目が見えない人は他人からも分かり易いけど、
なまじ私みたいに弱視というわけでもなく中途半端に見えている人間もそう。

耳が聞こえないとか一語も言葉を発せない聾啞者は理解できるけど、
重度の難聴とか、高音部が聞き取りにくいとかの聴力に問題のある人や、
話せないわけではないけど、声を出す事に困難がある人もいるわけで。 
パッと見で理解してもらえず、
なまじ健康な人と変わりが無いように見られてしまうから、
相手からしたら、眼鏡をかけているのに「視えない」とが分からない。 

私の場合、暗いトコだともう真っ暗なんですよ。
いつも行くところだとか通いなれたとこなら分かるけど、
数メートルくらいの距離しか見えないので砂嵐の中にいるみたい(笑)
昼間でも距離感は未だつかめないし、急に目の前に人が現れる感じ。
右目に映るのは凹凸鏡の世界なんだけども、
友達や会う人に「他の人と同じようには見えてはないんだよ」って説明しても、
皆そこのところはいちいち覚えていず、忘れてくれちゃうから、
もうめんどくさいので、適当に話を合わせちゃいますしね。
まっすぐ歩けないのでぶつかっちゃった日には、
事情を話すより、誤ったほうが早いし。
見えない理由を話すより、「あれなんて書いてあるのー?」って聞いちゃう。

だって私の目で見えている歪んだ世界を理解してもらおうと思っても、
それは無理なことだし。
もっとも、それは霊的かつ不思議な体験のほうで散々経験しているから、
今さらって感じではあるのですけどもね。
なので見えないときにはまあいいやで流すか、
わかんないから適当でいいやになります(笑)

拡大鏡は買ったし、PCも文字を大きく出来るのでそこは何とか、ですし。
印刷物の文字、書物が読めなくなったのはサビシーですけどね。
ここらへんは老眼になったならば同じだし。 
もちろん、こういう不自由さは身体に障害を持っている人ならなおの事。
世の中は健常者であることが基本として社会が成り立っているので、
少数派の、それぞれ固有のハンデを抱えている人は、
この社会の中で適応していくしかないのだなあと思います。 

またまた私事で恐縮ですけど、 私はお箸と鉛筆は右利きですが、
それ以外は左利きだったりするのです。
お金を扱う時は左利きなんで左利き用の財布を使うことになるし、
切符や定期を扱う時は左利きです。なので自動改札機が使いづらい。
エスカレーターも左利き視点だと右側歩くのは歩きづらいし。
(本当は歩いちゃいけないんだけどさ)

あと、生徒さんで最近膝を痛めて松葉杖状態になった人がいるのだけど、
彼女曰く、「エスカレーターのスピードが早すぎて、乗れない」 

ああ、巣鴨商店街に面した地下鉄のエスカレーターがゆっくりなのは、
お年寄りや身体の不自由な人に合わせていて正解なのだな、と思ったり。 

そういう意味でも、世の中って流行もそうだし家電も町の作りも何もかも、
健常者や若い人(20代~30代)たち働き盛りを中心に回っているのだな。
グローバルスタンダードってなかなか広まらないのねん、とも。 

だって、
郵便局や宅配便の不在票なんて文字小さいしさー 年寄り読めないよ。
携帯(とは今はもう言わないか)の機種とかもそう。
50代、60代以降の消費者は対象外だもの。
まあ、50代はまだついていけるのかな。 
税金や給料の指標も
公務員とか大手企業のサラリーマンの所得が基本ですものね。

全ての世代、全ての職業、そして全ての五体満足ではない人も含めた国民・・・
確かに各々違って幅広いから、
全員を対象とした「ものづくり」も「街づくり」も難しい。
だから平均値を出して、一番人口の多いところ、
平均値のところを基準にするしかないのですけどもね、実状として。

ただ、平均値のところから外れたマイノリティの人がいることを、
多くの人たちが周知してくれるようになってくれればそれで良いとも思う。 

「左利きだから、それは使いづらいんだよ」
「耳がね、拾えない音域の音があるんですよ」
「視力に問題があって、夜だと辺りが見えなくなるんです」

 って誰かが言ったとき、

「なんで?」ではなく、
「ああ、そうなんですね」と… さりげなく、受け止めてもらって、
事情を察してくれるだけでいい。 そんな優しい社会になるといいな。