2017/04/14

お知らせと案内など

またしても、しばらく放置していました、ここ。

書きたい内容はそれなりにたくさんあったんですけれども、
なかなか時間的にも精神的にもゆとりなく、気が付けば四月半ば。


さて、
私はスピリチュアルな方面の友達(ちょっと言い方がヘンだ)とか、
同業の友人ってほとんどいないんです(何しろ話とか色々と合わない)。

その私の数少ない10年来の信頼できる友人が、
最近ようやっと重い腰を上げて(何度もお尻叩いていたんですよ)、
サイトを開設してくれましたんで、ここでご案内をば。

Blossom-Works

ちなみにブログは 魔女の見習い よもやま歳時記

よかったらどうぞご利用下さいませ。

ようやく由美子さんがやる気になってくれて、アタシャ嬉しいです。
今までやれーやれーうるさく、ぶーぶー言ってきた一人なので。
彼女は才女で、知識も豊富な美魔女です。
私なんかより遥かに色んな事に通じてて詳しいですし、
私が勉強している霊的真理の道では先輩なのです。

皆さま、是非っっ!



それと私のほうでは、

5/7(日)に
マネーレイキ1(全3回のうち、プラテクショナーレベル)
のグループアチューンメントを開催します。
13時30分~17時頃くらいまで 
通常料金1万円ですが、グループワークなので5000円

このエネルギーをアチューンメントしたら、
お金持ちになる、お金を引き寄せられるというような、
成功術を教えるものや引き寄せ的なものではなく、

お金に対する負の感情や思考、トラウマ、
お金にまつわる問題を浄化(クリーニング)するための
ヒーリングツールとしてのエネルギー伝授です。

とくに伝授に関しての条件はありません。
どなたでも受講できますが、
エネルギーワーカーなら、ベストです。

今のとこ3名で、あと3名まで枠があります。
申し込みはサイトの問い合わせフォームか、
FBのページかメッセにて。

初夏のアバンダンス祭り



2017/02/05

月の呪縛, 解放の呪文

先日、占星学のワークショップを開催したんですが、
その時、
「月はその人のお母さんとの関係をも表していて、
お母さんがどんな母親であったかというより、
その人自身が自分のお母さんをどう見ているのか、
どのような人だと思っているのか、
自分から見たお母さんの印象を表している」
というような話をしました。

あとシンクロなのか、ちょうどバーストラウマと
母子の関係性の話なども身近で出ていたりして。

占星学的には、
0歳(受胎時)から7歳(幼児教育)くらいまでは、
月の支配下(年齢枠)にあり、
母親の影響を強く濃く、受け取る時期だったりします。
離れていても母親の感情を受け取り、その身に吸収し、
母親の感情を外に映し出して、表現する
ツールのような役割をするのですね。
まるでモニターのように。

だからこの時期、母親が穏やかで心安らかに、
満ち足りた日常を過ごしていることは、
子供の精神の安定と心身の健康のためには必須。
この時期に母親が不安定で心の均衡を崩していると、
子供の心に何かしらの影響を与えることになります。

そして、物理的には既にないものの、
3歳までは目には見えないへその緒がまだ繋がっていて、
その糸を通って、母親の感情が子供に流れ込みます。
そうして、母子は感情そのものを共有していたりする。
肉体としては既に分離したのに、未だ一部といった具合に。
だから、少なくとも子が3歳まで、
母親のメンタルバランスが安定してることってとても大事。
この時期に肉体的な接触(ハグ、ボディタッチ)をたくさんして、
母親が精神的にリラックスして過ごすことって、
その後の人格形成にも影響を及ぼします。

児童心理学のことは私はよく分からないのですけど。
占星学やスピリチュアルズム的にはそうですね。

0歳児から7歳頃までの間、
母親のメンタルが不安定かつ精神的に抑圧されていて、
なおかつストレスや不満を過度に抱えていて、
幸福感や満足感を十分に得られていなかったりすると、
それはそのまま、子供の心に吸収される。

つまり、
母親の不幸は、そのまま子供への呪いになるんです。

当時の母親の心理状態、抱いた負の感情が、
そのまま子供のトラウマになり、
その後の人生に影を落とす呪縛となるということ。



月は感情の模倣を示しています。
子供は、母親の気質、感情の在り方をこの時期、
学んでいくことになる。
感情の表し方を。母を見習って、そのままコピーして。
そして、女性はこの時期模倣した母性をモデルに、
そのような母親像を自分の外側に創り上げていく、
母親のような女性に、真似するかのように育っていく。
(男性は結婚した後、妻にこの月のイメージの母親を求め、
自分の太陽に父親のセルフイメージを投影します)

困った刷り込みです。悪しき負の連鎖ですねー


とはいうものの、
現代では1歳過ぎると保育園は当たり前で、
専業として育児をスタートさせることができる人は、
経済的にもなかなか難しいという時代背景があり、
理想的な環境での子育てをしようにも無理があります。

まあ、共働きにしてもシングルマザーにしても、
大事なのは、両親が揃っているとか、
経済的に不自由しない環境を提供することよりも、
母であるその人が幸せであるか否か、でしょうか。
両親の仲が良くて、家庭円満なら直よし、ですが。

そして、何よりも、自分を生んでくれた人が、
自分の誕生を心から望み、喜んでくれているかどうか、
そこも母と子の信頼や絆が育つのには大切なポイント。

そうすれば多少、躾が厳しくても、言葉足らずでも、
その感情の記憶が根っこにあれば、
何処かで「自分は望まれて生まれてきた」
「愛されてる」って、自己存在を肯定できるものです。

でもって、成長してお互いの絆に溝や亀裂が生まれても、
修復されるための土台が、残ってるって感じでしょうか。


ここからはほぼ自分語りになるかな…。

私の月は魚座にあります。
私の母親のイメージは、
自己憐憫と被害者意識の強い、精神的に弱い人。

今もそうですね。愚痴が多いです。
一緒にいると毒ばかり吐いているので、
しんどくて疲れます。2時間が限界ですね。

誕生日は戦前で、
当時は生まれても死ぬ子が多かったので、
すぐに出生届が出されることはなく、
数か月経って"生きている"から、
大丈夫だろうということでの届け出。
なので、正確な誕生日が判りません。
その年に生まれたということだけ。
父は祖母が言うには、旧盆の中日に生まれたけど、
出生届を出したのは翌年の正月明けだったり。
だから、占いでの父母との相性は判らないですね。

昔は生まれても育つのは確実ではなかったですから。
死産も多く、出産の事故も当たり前で。
育っても、病院や医師が近隣にいなかったがために、
手遅れになって死んだ人も多かった時代のこと。
そういう意味では、昨今の医療事情というのは
格段に進歩していて、素晴らしいですね。

父の兄弟姉妹のうち死んだ子もいるし、
母のほうにもいますね。珍しいことではなく。

でも、まあ今は無事に生まれて当たり前、
な時代になっているから、
何かあると、すべて医師の責任になってしまって、
助けてもらったとか、手を尽くしてもらったとか、
そういう感謝をすることが少なくなっていて、
現場の人のプレッシャーは半端ないだろうなって思います。


私は「三丁目の夕日」の頃に生まれて、
戦中や戦後に比べると人々の生活水準は上がって、
世の景気も良く(朝鮮戦争やベトナム戦争特需)、
少しずつ日本が豊かになっている、そんな時代でした。

それでも今の時代と比べると、貧しかったです。
でも、一部の人を除いてみんな貧しかったから、
貧乏なのがさほど恥でもなかったです。

幼稚園に入る前までは、
お風呂のないアパートに住んでいたので、
毎日お風呂に入ることは出来ず、
食事も粗末なものでした。
ご飯のおかずがなくて、漬物と味噌汁だけ、
そんな日もしょっちゅう。
お肉が買えないので魚肉ソーセージで代用したり、
お腹いっぱいにご飯を食べることなんてできず。
小学校に上がってからは給食が栄養源で。
だから、食べ物を残すなんて考えられませんでした。
だって食べたくても無かったんですもの。
休んだ日の給食はクラスメイトが、わら半紙に包んで、
学校帰りにその人の自宅に届けるのが当たり前の習慣。

洋服だって滅多に買えません。
私の場合、下着まですべて姉のお下がりでした。
鉛筆やら文房具もです。
鉛筆は短くなったのにキャップをつけて、
使えなくなるまで使っていました。
消しゴムもノートも何もかも、モノはすべて貴重でした。

少しずつ、年単位ごとに、
みんなの生活が向上して、ちょっとずと差が開いて、
だんだんと貧乏なのが恥ずかしくもなっていく、
そんな時代でしたが。

実際、うちは貧乏ではあったんですが、
決して父の稼ぎが悪いというわけではなかったんですね。
むしろ高度成長期で、時代は建築ラッシュ。
皇居の内装の仕事にも参加してたから、
実は高給取りだったんです。当時で月収70万くらい。
なのに、どうしてそんなに貧乏だったのか…

父が自分の姉妹たちにお金を渡していたからです。
とくに父の妹。この4人家族たち…
ほぼ我が家に居候だったんですね。
家は別でしたけど、朝から来て夜までいて、
朝ごはん、昼ご飯、夕飯まで食べて、風呂も入ってく。
ヤドカリというか寄生虫みたいなもんです。
ようするに、父にとっての家族とは、
自分の生家の人間であり、自分の兄弟姉妹の縁者のみ。
私や母といった妻子は、彼の家族ではなかったんです。

そして、私の洋服や持ち物をすべて持ち帰られてしまう。
従妹(長女のほう)は私のひとつ下でしたから、
サイズが合うわけです。靴なんかも。
決して豊かとは言えない母方の祖父母が
なけなしのお金で買ってくれたものも、
私自身がお年玉を貯めて購入したものも、
全部従妹のものにされてしまう。
父が勝手にあげたりする。
これはずっと実家を出るまでやられました。
アルバイトで不在の時に持ち物を近所の子にも
あげてしまわれたりして、取り返すことも出来ず、
泣いたことが何度もありました。

それだけでなく、父はよく職人仲間をよんで、
飲めや騒げやの宴会をする。自分の見栄のために。
その食費、酒代がハンパなかったんですね。
お客さんや従姉妹たち一家のために並んだご馳走が、
私や母の口に入ることはありませんでした。
(姉だけは長子ということで食事は特別。
この時代に「飢え」を経験しているので、
私には食べ物に強い執着があり、
美味しいものを食べることに目がないのかもしれない(笑)

そんなんで家計はいつも火の車でした。
父がそうやって、自分の妹家族のため、見栄のため、
散財をするので、稼いでいるというのに貯蓄はなく、
ボロを着て、お腹を空かせていました。

なので母は、家計のために、
内職をしてミシンを踏み、保険の外交をして、
それでなんとかしのいでいたんですね。
中卒だったから、そういう仕事しかなかったのです。

そういう状況下で母が心を病み、
子供に対して暴力を振るうようになってしまったのも、
仕方がないかなあ、と思います。
離婚したくても出来ませんわね。
離婚や母子家庭にはまだ厳しかった時代です。
中卒で資格や経験、頼れる実家のない人には、
婚姻を継続する以外には生きる道はなかったのでしょう。
まして一人ならまだしも、子供を抱えていては無理です。

2chではよく見る話です。
ああ、うちだけでなくて、似たような人いっぱいいたんだ、
あるある、わかるわかる、そーなのそーなの同じ、
と、今でこそ思いますが・・・


高校に入学してから(実際は春休み)、
アルバイトを始めて、初めて洋服や靴を買えた時、
とても嬉しかったのを覚えています。
コートも買ってもらえず、寒くて凍えていたので。
(それでも父親に勝手に他人に上げられちゃったリして)
暖房もなかったから、バイトして自分で買いましたしね。
生活費も少しは入れてたし、定期代とか、
すべて自分で賄ってましたよ。
確かに遊びもしたし、趣味のものも買ったけど。

この仕事を始めてから、
セッションの金額が万単位だったりとかするので、
労力を対して使ってないわりに高いお金をもらってる、
普通の人が一時間いくらで働いているのか知らないでしょう?
あなたが一回のセッションで稼ぐお金は、
私の時給の何時間分だと思う?
みたいなことをその昔、言われたことがあります。
お金の価値を、苦労をまったく知らない人みたいに
その人は私のことを思っていたのかな。

確かに医師や士業の人たちほどではないにしても、
専門職とはいっても特殊だから、
実質、高給取りに見えるのでしょうね。
対して労力を要していないのに、高い料金を取って、
暴利をむさぼってる職種とでも。

でも、実家はそんなんで、
ネグレクトみたいな放置はされなかったものの、
経済的には困窮していて、
自分で必要なものは自分で稼ぐしかなく・・・
高校時代はアルバイトばかりで、
ひたすら働きまくるって、そんな感じ。

一日4800円稼ぐために、
そのバイトを確保するために期日に電話して、
朝早くからパン工場で流れ作業、
お昼を節約するために無料のパンと水でしのぐ、
そういうのもたくさんやってきましたけどね。

いちおう難病指定の疾患持ちだったけど、
働かない訳にはいかないんで。生きていけないんで。
時おり倒れながらも、休むことも多々あったけど、
それでも死にもの狂いで頑張ったかな。

アニメーターの仕事してた時は、
放映スケジュールに間に合わせるため不眠不休で、
徹夜を何日もして、お風呂にも入れず、
どんなに頑張っても、給与は8万弱。
家賃払って冷蔵庫もテレビも無い生活。
三食100円のラーメンに同僚と10円ずつ出し合って
購入したもやしのみの食事がメイン。
週に一回だけホカ弁でのり弁買って、
月に一回の給料日だけ定食屋で焼き魚定食を食べる。
夏は素麺。西武の優勝セールで投げ売りしてた、
キャベツだけ入ってるお好み焼きを食べ続けたり、
栄養失調状態になり身体中に斑点が出たこともあった。

なのにお金を稼ぐことの苦労を、意味を、
まったく知らない人に見られてしまうこともある。
そう見る人もいる。
(どうも自分一人で生活したことのない人ほど・・・
本当のお金の苦労をしたことがない人ほど、
そう思い込む傾向にあるのは何故なんだろう)

それはそれで仕方がないし、
その人の問題とも言えますかね。

まっ、いいけど。

ところで、7歳までは母親のコピーというか、
子供は母親の感情を吸収し、外の世界に表現する
母親の心の代弁者だと先に書きましたが。

私もまさにそうだったかな、と思います。
兄が亡くなって、母が離婚を決意し、
姉を連れて家を出たものの、
私を妊娠したことが分かり、婚姻継続となったのですが。
まあ、そんな時期でしたから、
まさに不安定そのもので、マタニティブルーも加わって、
「この子さえ宿さなければ離婚出来たのに、キィー!
 お前のせいでっっっ んもっー!!」
となったわけで。

私のASCにどっしりと座っている土星が
まさにその状況を表していますが。
そして当時毎日のように言われたのが、
「金食い虫」と「貧乏神」「疫病神」という言葉です。
他にも色々あったけど、
短いフレーズのほうが覚えてるものでして。

少し前のエッセイで仲違いした先輩が、
私のことを「疫病神」だったと言っていましたから、
母が私に繰り返し言い続けた言葉は、
まさにその通りに成就したという訳か…

母親が子供に与える言葉って、
本来は祝福となり愛の言葉になるはずだけど、
その言葉の内容によっては、呪いの言葉になる。

刷り込みという予言。

おめでとう! あなたの予言は叶いました

 私はあなたがかけてくれた、呪いのままに、
 それはそれは見事な、
 他人を不幸に出来る立派な疫病神に育ちましたよ!」

とは、母には言いませんけど。

いやさ、イヤミ的に言ったことはありますね。

「どうせ。私は金喰い虫だからさ」って。

言えるようになっただけ、私も強くなったというか、
おばさんになったということか。

しかし、母親の呪縛、母親が子供にかけた呪いって、
なかなか解けないものだなーと

その辺りはクライアントさんを見てても強く思います。

チャクラのヒーリングワークで、
第一チャクラにアプローチしても、色々出てきますから。
バーストラウマもそうだし、胎教もそうだし、
その後の事とかも…
覚えているはずはないのに、ちゃんと傷として残っていたりする。

でもね、母親だけの問題ではないんですよね。
繰り返し、繰り返し、祖父母の、先祖の代から、
負の連鎖で続いていることでもあったり、
何よりも父親ですかねー

うちも父親がマザコンでシスコンでモラハラエネ夫でなければ、
母親がおかしくなることも追いつめられることも無かった訳で。

諸悪の根源はお前なんだよ!
真の悪はっっっ
影のフィクサーはお前だっ!

お前だぁぁあ! お前が悪いんだょっっ!

この糞爺がっっ!

早く、死んでおしまいっっ!

(悪人ほど長生きするものですな)

・・・ってつくづく思いますもん。

でも、マザコンを育てるのも母である女なんだよな、ふう。

なんかねー 当時のヤツを
気団の方たちにけちょんけちょんに叩いてもらって、
ウォーターさせて頂きたいものだと思ったりしますが。
もはや手遅れ。

そもそも今の時代であったとしても無理だろな。

そして、もしも私がトランプ大統領だったら、
ママンスキーでモラハラなエネ夫は、

全員去勢すべし!!

という大統領令を発布するに違いありません。

(すっかり私もねらーになってしまったな…ふっ)



さて…母親が実の子供にかけた呪縛。

この永遠の、手強い呪いから、
子としての私が解き放たれる日はくるのであろーか。

そして解放の呪文が耳に囁かれる日は来るのであろーか。

そは、解放の呪文とはいずこなり・・・?


なにはともあれ

すべての母たるものたちよ、幸福であれ
それがすべての子であるものたちの幸いなれば

2017/01/31

感想「チャクラヒーリングを受けて気づいたこと」

クライアントさんでGレッスンの生徒さんでもある方が、
チャクラヒーリングのセット(二回目)を
受けた感想を下さいましたので掲載します。



昨年のチャクラヒーリングで気づいたことをまとめてみました。
箇条書きのようになってしまいましたが、
この経験を踏まえて、自分と向き合って生きたいと思います。


【第一チャクラ】

この時はまだ混乱した部分が多く、
心は未整理な部分ばかりが表に出ていました。
アドバイスや指摘のひとつひとつが心の奥まで行かず、
表面的に理解しようとしている感じでした。
そのなかで印象的な体験をしました。


●友人を事故で亡くした経験の時の感情

古い過去生の記憶の中に、
事故で助けられなかった友人のために悲しむものがありました。
その感情を体験した時、
自分の中にこのような心があったということに驚き、
その悲しみの中でしばらくとどまっている自分を体験しました。
自分の中に、無情でない部分を発見したひと時でした。
このことは後から考えると、
決して育たない心を持ち合わせたわけではなく、
自分が経験を理解しようとしなかった
ということをあらわしているように思いました。


●荒い波動に細かい波動は伝わりにくい

第一チャクラのヒーリングを受けた時、
自分の中にあるエレメンタルを
全て綺麗にした後にエネルギーを入れると、
とても入りにくく感じました。
私の中には細かい波動と荒い波動が混在していて、
荒い波動の方が割りを占めているように思いました。

荒い波動の多い中に細かい波動を広げていくには
とても時間がかかり、伝わりにくいものなんだと思いました。

この経験から推測したことは、
低い波動の人は高い波動の人のものは伝わりにくく、
高い波動を持つ人には、
低い波動はひどく疲れるのではないか、ということでした。

低い波動はネガティブなものが多いように感じました。
それがすべて欲望志向型のエレメンタルだとしたら、
欲望志向型エレメンタルを多く持つ人は
他者にとってエネルギー的にも
痛みを与えやすい存在になるのではないかと思いました。

私は人に痛みを与えやすい人間だったんだと思います。
ネガティブなものを心からなくしていくことは、
自分だけの解放ではなく、
周りへの影響に変化があることにつながると感じました。


【第2チャクラ】

この日は対話の中から
自分のありようを見つめたという感じが残りました。
この頃起きた事件などで
自分の身に起こったとしたらどうなのか、
では過去の記憶を持ち合わせながら、
その人に拘らなければならなくなった時どう感じると思うのか。
対話の中から
自分の感覚を確かめていく時間のように思いました。

実際第2チャクラを見ても、
全てを口にできていない自分がいました。
どこまで話していいのかがわからないという感じです。
見たもの全て、感じたこと全てを言った方がいいのに、
なぜか言わないでいる自分がいました。
どこまで本当に感じているのか、
自分に対して疑問を持っていました。
見たものをすべて話せなかったのは、
恐怖に勝つことができなかったからだろうと、今は感じています。

自分が過去に行なったことは、
二度と消えることはないということを実感し、
エレメンタルをすべて取ったとしても
自分が変わらなければ意味がないということが心に響きました。

ヒーリングの間涙が止まらず、後味が悪く、
もう二度と過去のような行いはしたくないと感じていました。

ヒーリング後、相手のことを考えること、
相手の幸せを考えることは、
すぐにうまくできることではないけれど、
できないことではないのかもしれないと感じ、
また、無意識のエレメンタルに
気が付けるようになりたいという気持ちにもなりました。


【第3チャクラ】

この回に気づいたことは、自分の視野の狭さでした。
それは今も昔も変わっていなくて、
誰かのアドバイスがなければ周りが極端に見えてなく、
気づかないのでした。
また、一つの過去生から気づいたことがありました。

それは、3000年前の奴隷の人生だった頃です。
彼は体が小さく、できる仕事は少なかったようでした。
仲間は多く、色々助けてもらったのに、
そのことと人生観とは別で、
もう自分はこんな身分には二度と生まれない、と思っていました。

彼はこの人生で、どんな人生にも人を愛し、学びはあり、
変えなければいけないのは社会のシステムだけで、
どんな人生にも意味があるということを
学ばなくてはならなかったのです。なのに学べませんでした。

それは物事を悲観的に、
他者を排除して考える傾向がこの頃にもあったということです。
物事をとても狭い視野からとらえ、その考えを広げられない、
その傾向は今の私の性格につながっていました。

また、この人生は、
この後の人生に大きな影響を及ぼしているように思いました。
この後の道を踏み外した人生に進んでしまうきっかけの人生が、
奴隷だったとは思いませんでした。
ネガティブなものは本当に怖いことになることを知りました。

アドバイスをいただいて、この過去生の彼の生き方について、
私が提案を考えることになりました。
私は、過去生の彼に対して、小さなことにも喜びを見出し、
仲間が助けてくれることに感謝し、
日々のたわいないことに気を向けて、
1日1日積み重ねるというようなことを提案しました。

エレメンタルに向き合った時のアドバイスを大事にして、
自分で考える癖をつけていこうと思いました。
少しでも視野を広げるためには、努力するしかないと思いました。


【第4チャクラ】

●目標を自分で決めて生きることは、とても大切なこと

この回のヒーリングの前に、心に決めたことがありました。
自分の生きる目標をしっかり持つということです。
たとえ間違っていても、
自分で決めた大きな目標に向かって生きるということは、
自分の人生を人任せにしない姿勢であるというように思いました。

今までもそうして生きてきたように思うのだけれど、
なにが違うのか考えた時に、
もしかしたらたて方の方向が違うというか、
根本の考え方が違うものだったのではないかと思いました。

今までは、私欲(エゴイズム)に基づいた、
生きる目標たったように思います。
人並みになりたい、認められたい、
人として対等に扱われたい、などなど。
そのためにどう生きればいいかという目標だったように思います。

目標とはそういうものではなくて、
自分が成長するためにはどうあるべきか、
という視点が重要だったのだと思いました。

この項の最初に書いた、
「たとえ間違っていても」という言葉の意味は、
「(成長するという観点ならば)たとえ間違っていても…」
という書き方が正しいのでしょう。
いつか本当の生きる目標にたどり着くために、
今感じている生きる目標を
しっかり心に据えて生きていこうと思いました。
その気持ちを持ってヒーリングを受けました。

第4チャクラにあったものはさまざまなものの残骸で、
それぞれの品物に詰まった、作ってくださった人の気持ち、
丁寧に管理してくれた人の気持ち、
壊した人の気持ちが伝わってくるものでした。
そのひとつひとつは哀しく寂しく、切ないものでした。
何も分かろうとせずに邪険に扱っていた過去生の自分は、
一つ一つのものに込められていた
気持ちのひとつも気が付かず生きていました。

「壊した人の罪を無くしなさい。
元どおりに一つ一つ自分で直しなさい」
とアドバイスされたことで、
人の罪をなくしていくことも大事なことなんだと感じ、
原因を作ったのは自分であることを再認識しました。

この回は他者の様々な感情を追体験し、
ただただ悲しくて涙が止まらず、人を大切にしたい、
もう二度と悲しませたくない、と思いました。
そのために成長したいと思いました。

「羨ましいと思った時、自分にないものを人に見た時は、
そのまま認めてあげればいい。
素敵だなって思うこと。それが愛すること。
そのことを見られたことに感謝すること。
それが愛すること。じぶんにないものをみられたことを、
見せてもらえたことを、その人の美徳を、感謝すること。
それが愛すること」

愛について教えていただいた言葉です。

終わってみて、気持ちはとてもハードだったけれど、
愛する方法、悲しみの実感、
寂しさの本質が少しでも感じられたことが印象的でした。
私の過去の行いは消えることはないけれど、
向き合いたいと思いました。


【第5チャクラ】

前回の後、
「やらなくてはいけないと思っていたことが、
実はやりたいことだった」
ということに気がついた日がありました。
今まで、やらなくてはいけないと思って生活を律してきたけれど、
そのほとんどが実はやりたいことでした。
ちゃんと生活したかったし、さぼりたくなかったということは、
いろんなことを覚えたかったし、
できるようになりたかったんだと思います。

また、人としてどう生きたいかを考えた時に、
例えば一番身近な介助の方との関係について頭な浮かび、
介助を通しての関係性をビジネスライクに考えて
我が道を行く生き方よりも、いろんなことを考えながら
ベストを尽くす生き方をしたいと感じました。

今回のヒーリングは、私の中にある
「見栄」「誤解」「間違った解釈」に向き合う回になりました。
寂しさばかりで、
そこに愛のない赤ん坊のような心から起こした私の行動は
、多くのひとを傷つけ、悲しみを残しました。

とても悲しく、ただ悲しく、
もう二度とこんなことはしないと思いました。
ヒーリングの最中に見えたたくさんのガラスの破片は、
私が壊したひとの心だと教えていただきました。
「おもちゃのようにひとの心を欲しがったけれど、
心は得ることはできなかった」

この日は立ち直れないほどの悲しいきもちで終わりました。
この悲しみは、私のものではありませんでした。
多くの人が感じていたものでした。


【第6チャクラ】

毎回毎回がとても大事なひとときになりますが、
この回は特に私にとって大切な時間になりました。

●人の幸せを願うことをしてもいいということ

私は、人の幸せを願うということが、
何か特別なことをしなくてはいけないことなんだと
思い込んでいたようです。
私にはできそうもないことなんだと、
心の何処かで思っていました。
それは、自分と他者を差別していたということかもしれません。

ある過去生と向き合った時に、
私も人の幸せを願っていいということに気づきました。
今生で私と接してくれる人のなかには、
(障害を持つ人と)どう接していいかわからない、
何か特別なことが必要なのかもしれないという気持ちを
教えてくれる人たちがいます。

そのような経験の中で、実は私自身の中にある気持ちを
見せてもらっていたのかもしれないと思いました。
また、今生で障害を持つ私に足らなかったことは
「他者の幸せを願うこと、祈ること」だったんだと感じました。

感謝だけではダメなんだと思いました。
人の視点に立つということは、
その人の幸せになる視点に立つということなのかも知れません。

どうすればいいかメタトロンに聞くと、
心からしあわせを願えばそれでいいと教えてくれました。
なにも難しいことではなく、心から幸せを願えるならば、
その時にその人に対して
自分のできることがわかるように思いました。
自分がなにもできないとか、
なにをすればいいのだろうと焦る前に、
その人が幸せであるように願ってみようと思いました。

また、メタトロンのいるべき場所が
エレメンタルでいっぱいだったことにはじめて気づかされました。
ネガティブな自分のエレメンタルと向き合えるよう、
鍛えたいと思いました。


【第7 チャクラ】
第7チャクラのヒーリングを受ける前に気がついたことは、
「提供する方の人生を選ぶということ」です。

自分の人生は求めることばかりだったと気づきました。
人生で選べる道が二つにひとつならば、求める人生ではなく、
提供する方の人生をこれからは生きてみたいと思いました。
なぜならば、求め続けるときりがなく、
不安になり、得られないことに不満が募り、
エゴイズムが大きくなるだけだとわかったからです。

私はそういう人生を生きてきたのだと思いました。
これからはできれば、一つ一つに学びを見いだせるような
豊かな人生を生きたいと思いました。
そして、頭で考える、と言っていたことは
エレメンタルが考えていたんだということを、
なんとなく感じるようになりました。

サイキカル体とノエティカル体を使って、
感じたり考えたりすることが必要だということを実感しました。
好きな人たちを幸せにしたいという最初の思いに戻って
(自分のことしか人は幸せにできないということを胸に留めて)、
自分のやりたかったことをぶれないようにすること、
間違ってしまったことで
取り返しのつかないことがたくさんあるけれど、
二度とその道は行かないということを誓い、
幸せを願おうと思いました。

第7 チャクラのヒーリングを受けて感じたことは、
思い込みや恐れなど、
自分で作ったネガティブなものはとても手強く、
深く大きなものになってチャクラに宿っているということでした。
幾つ振り返っても新たなものがあり、
不安になればまたできていくような感じを受けました。

また、恐怖は本当に怖いものだと思いました。
いつも雲のない空を保つためには、
気持ちを強く持たないとと思いました。
自分の現実を知り、
一歩一歩確実に歩くことが大事なのだと思いました。


【トータルのチャクラヒーリングを受けて】

実はまだまだヒーリングは続いております。
私の中で自分と向き合うことに終わりはなく、
今回は納得のいくまで向き合ってみたいと思っております。
昨年中に自分の中で納得のいった、
上記以外のことを記させていただきます。


【障害についての理解が深まったこと】

私が持って生まれた障害は、
私に必要な経験を与えてくれるものであり、
私が人に与えてきたものを理解するためのものでした。
今までの人生の結果であり、
一つひとつの行いの重さに気づかないまま
過ごしてしまったツケであり、蒔いた種であるということです。
私が今回できないこと、
制限のあることひとつひとつには意味があり、
その状態を体験しなければならなかった理由があります。

障害のことにすべて向き合うには
まだまだ長い道だとは思いますが、
本気で受け入れて、生きてみようと思いました。


【エゴイズムと自分の区別がついたこと】

第4チャクラの2回目のヒーリングを受けた時に、
エゴイズムというものは怒るばかりで反省もしないし、
自らも振り返らないということを見ることができました。
ただ自分の気持ちを押し通すだけで、
人のことを考えることもしないエゴイズム。

これは自分とは違うものなんだと気づきました。

振り返らないのがエゴイズムならば、ああそうか、と思う心は
私自身なのかもしれないという仮説が生まれました。

明らかにエゴイズムと違う行動なのだと思いました。

自分の姿を見つけた時、
こちらの方を大切にしていこうと思いました。
エゴイズムと自分を切り離して、
日々自分を見つけようと思いました。


【自分の中にも愛を感じたこと】
第4チャクラの2回目のヒーリングの時に、
エレメンタルを綺麗にした後、湧き出るようなものを感じました。
言葉にならないものでした。
それが「愛」なんだと説明していただきました。
胸の奥に湧き出るものは熱くなく、
硬くもなく、暖かいとかそういう言い方では言い表せない、
表現しようとすると涙が出てきてしまうものでした。

私の中にもあったということが驚きでもありました。
今でも思い出すと涙がが出てきます。
日々思い出して記憶を留めておきたいものです。

「愛は愛である」この時に心に聞こえてきた言葉です。
「愛は許しではない。愛は愛である」
この言葉を聞きながら、脳裏に浮かんだことがあります。
愛は許しではない、愛は愛である。そのことを肝に命じました。
ことあることに、この時のイメージを思い出している自分がいます。


【傲慢でしかなかった】

私はいつの日も自分のことしか考えず、
傲慢でしかありませんでした。
そのことに気がつくこともありませんでした。

傲慢さに気づいた時、
私の選択のほとんどが間違えていたことを知りました。
自分の世界しかないということはとても怖いことだと思いました。

自分の殻の中に入らず、学ぼういう姿勢をいつも持つことは、
知らなかった世界を知ることになるのではないかと思います。

毎日を大切にして、一つでも多く知り、
謙虚さとは何かをいつも胸にといながら、
人として生きることを身につけていこうと思いました。


【自分なりに物事を考えるということ】

私は今まで、いただくアドバイスや意見に対して、
そのまま受け取って、直さなくてはと思うばかり、
その方向でひたすら考えるばかりでした。
今回のヒーリングの中での対話などの体験を通して、
アドバイスなどいただいた言葉は、
もう一度自分で検証し内省して、自分なりの結論という、
見解を出していくことが必要なのではないかと思えました。


【人の気持ちを感じることができるという実感】

今回のヒーリングを受けるまで、
自分には人の心を感じられるような心はないと思っていました。
いくら努力をしてもできなかったことでした。
今回のことで、感じることは努力してできることではなく、
感じたい、理解したい、その人の心をわかりたい、
とまず思うことと、
自分の中のエゴイズムを捨てていこくとを
日々やっていくことが大事なことなんだと思いました。
人を大切に思う姿勢を持ち、
経験を積んでいけばできるようになるのだと思いました。


【エゴイズムの奴隷に二度とならないということ。
そのためにどう生きるか】

私は、長い間、エゴイズムの中で生きてきました。
スクールで様々な知識を学んでいる時でも、
そこからなにも気づけずに日々を重ねていました。

習ったことを復習しても、実践していても、
そこに自分の生きる目的を持ち、自分が成長する観点から、
美徳の観点から
「どういう自分になりたいか」という思いがなければ、
成長は決してしないということを知りました。
エゴイズムの観点から生きる目標を持っても、
エゴイズムを育ててしまうだけで自分自身は成長せず、
エゴイズムの強さの中で溺れてしまうのだと思いました。

20回あまりの過去生の中で同じ道を歩んでしまった私は、
やはり性格に欠点があったように思います。
まず傲慢なこと。
自分が正しいという観点から離れられませんでした。
差別意識が強いこと。
自分は人と違うとどこかでいつも思いたいという欲望がありました。

これらのエゴイズムは、感情が強すぎること、
理性を働かせる経験が少ないこと、
思い込みに対して執着が激しいこと、
そのような傾向が引き寄せたものではないかと思います。

そして、
他者に対しての愛を育むことを忘れてしまったということが、
転落の大きな原因でした。

自分の弱さ、臆病さがそこにあり、
その性格と向き合えないために、他の理由をいつも探して、
ひねくれた嘘の正しさ、嘘の正義感の中にいました。

なにかと自分は孤独だと思いがちなのも
その傾向があるからだと思います。
弱さのために、人との関係を作ることを
怠けてきたということに行き着きます。

感じている恐怖や不安の根本に向き合わず、
ただ逃げるだけだったということです。
そして自分が一番楽な理屈に逃げてしまったのです。

その結果、エゴイズムに囚われてしまいました。
本来絶対に手放してはいけない、愛も見失いました。

辛くてもその場にいて、
物事を見る目を謙虚な気持ちで養っていけば、
自分がその場しのぎの楽な方に逃げなければ、
もっと早く道は拓けたかも知れません。
多くの人を悲しませることにはならなかったかも知れません。

自分の弱さを変えていくには、忍耐を身につけること、
どんなことからも学んでいこうとする謙虚さを育てることだと、
今は思っています。
日常の様々なことから教えていただけることに感謝して、
傲慢の自分を手放し、
胸の中に感じた愛情を増やせるような人間を目指そうと思います。

人は望めば限りなく成長できるという言葉を信じて、
わかったと安心しない生き方を身に付けたいと思っています。
心から納得のいく人生を探し続けたいと思います。


この機会に、本当に、感謝しています。
ありがとうございました。

論語読みの論語知らず(後半)

勉学は光であり、無学は闇である


魂の探求の無い生活は、
人間にとって、生きがいの無いものである


唯一の真の英知とは、
自分が無知であることを知ることにある


我々が唯一知っていることは、
何も知らない、ということだけである


私が知っているのは、
自分が何も知らないということだけだ


汝、自らを知れ


                 byソクラテス

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


少し前に書いた「裏切りの報酬」の中で、
私自身の金銭に対する不信感や嫌悪感といった、
お金とそれにまつわるトラウマが生まれることになった原因、
最初の核が出来た源流たる過去生に触れましたが、

この時できた、お金に対するマイナスイメージは、
お金に対する怒りや憎悪があるという単純なものでなく、
人や恩を裏切るもの、欲深な人々への憎しみと復讐心、
精神的かつ霊的な道(宗教等)を探究する人々への強い不信感、
そのようなものと複雑に絡み合って、
私自身の自惚れや偏見、高飛車で生意気な傲慢さといった、
スピリチュアルナルシズムを産み出していました。

今更ながら、そのような事実に気づき、愕然とさせられました。


たかだか、主役と
その他大勢のエキストラ的出会いにしか過ぎないというのに、
「彼その人」を知っている、同時代に生きていた、
会ったことがあるというだけで、どこをどう勘違いしたものか、

「教え」だって、子供で理解なぞしていなかったであろうに、
説話をしているのを聞いたことがあると・・・
(もちろん、それ以前の人生において学び、教えたこともあるが、
それは長らく伝言ゲームのように伝えられたことで、
徐々に意味が誤って伝えられ、解釈の間違いもあった教えのこと。
「彼」により、修正される前の不完全な内容です)


そして、
恩人、師を裏切り、見捨てた12人の弟子に対する怒りが、

「自分のほうがあなたたちより、本当の意味を知っている」
とばかりの高慢な自惚れを生み出していたのですね。


どこかで、無意識の中に、
「自分のほうが分かっている。知っている」
自分はなんでも知っている・・・みたいな、
勘違いした、知ったかぶりなエゴイズムが潜んでいるな、と。

そして、あらゆる人をジャッジするクセが
習慣みたいに身に付いていたわけです。

自分こそが正義で、真理を知っているもの、とばかりに。


なんとまあ、お恥ずかしい限りです。

気づいていないだけにたちが悪い。

本当に、エゴイズムには巧妙に騙されるものだと痛感しました。
2000年もこんな考えを自分の中に保有して、
知らずと、そんな醜悪さを振りまいていたんですから。

もっと、早く気づけよ、って感じです。

情けない。


さて、そんな風に私はまだまだです。

人としても、スピリチュアリストとしても未熟も未熟。
全然実践なんて出来てません。

知ったかぶりばかりで、偉そうに講釈を垂れていても、
本当に口先だけで、行動が伴っていないのです。

でも、言い訳ばかりしているわけにはいかないのです。

自分の撒いた種は自分自身で刈り取らなければいけません。

もう寄り道をして、
同じ過ちを無限ループで繰り返しているわけにもいきません。
やらなければいけない仕事がたくさんあるのですから。

本来取り掛かるべきだったことに、そろそろ、ですね。

いつだって、言い訳をして、
向き合うべきことから逃げてきた気がします。

クライアントさんや生徒さんたちに
上から目線でお説教をしたり、
突っ込みを入れている私がこれでは、
まったくもって示しがつかないなんてものじゃありません。

本当に私には他人の手本になれるような、
周囲からの尊敬を頂けるような人徳はひとかけらもなく、
慈悲も慈愛も、懐の広さも、全くないというのに、
よくもこの仕事をさせて頂けているものだと思います。

この分ですと、
生涯見習い中といった、三流のまま、
この人生を終えることになりそうです(笑)


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


私がどんなにダメなヤツかのエピソードです。

その昔、実家でのことで色々あった当時、
事情を知っていて、とても力になって下さった方がいました。

その方は占い師の先輩で一回り以上年上の人でした。
彼女自身がご実家を乗っ取られるという経験をしていて、
親戚との間でとても大変な苦労をなさった方なので、
私の事情を察して下さり、あれやこれやと
親身になって下さいました。

精神的に辛く、参っている時に、
彼女の労りの言葉や親切は骨身に沁みたものです。

仕事(ゴーストライター)を紹介して下さったり、
住居を探すとき、私ひとりだと舐められるでしょうからと、
不動産屋巡りに着いてきて下さったりと心強くもあり、
とても面倒見のよい方でした。

ですが、付き合いが長く、深くなってきたとき、
彼女のその情の厚さ、面倒見の良さが、
段々としんどくなってきてしまったのです。

彼女はよかれと思って、
あくまで親切に言ってくれてただけなんですが、
それはとてもよく分かってはいたのですけれど・・・

「ああしなさい」「こうしなさい」「こうするべき」
「だから私が言ったでしょう」「こうしないと駄目ですよ」と、
ちょっと過干渉的な物の言い方が多くなってきて、
そこに押しつけがましさとプレッシャーを感じて、
重たいというか、苦しくなってしまったんですね。
そのような言い方をされるのが、辛くて、
段々と会うにも、電話で仕事の連絡を取ることさえも、
ストレスを感じてしまって、しんどくなってしまったんです。

彼女にはそのような事由で精神的に辛いとき、
親切にしてもらい、よくしてもらった恩があります。
悪気があるわけでなく、こちらのことを思って、
色々と言ってくれているのもよく分かっていました。

今思えば、
少しずつ距離をおいて、適当に言われたことは流して、
ただ離れれば良かっただけだと、そう思います。
仕事も何か理由を作って断るとか、
そうすればよかっただけで。

けれども、当時の私はまだ甘ちゃんというか未熟で、
彼女に、私がストレスを感じてしまう物の言い方を
止めて下さいって言っちゃったんですね。
話せばわかってもらえる・・・そう考えていたみたいです。

でも、そこには、

「他人に対して威圧的な態度を取ったり、
自分の考え方や価値観を押し付けて、
相手をコントロールしようとするのは彼女の欠点で、
直したほうが彼女自身のためになるわけだから、
自分がその言い方で傷ついていると伝えて、
指摘するのも彼女のためだ」

っていう、上から目線な奢りがあったわけです。
これこそ押し付け以外のナニモノでもない。
他人を変えることなど出来ようはずはないのに、
他人を変えるなどおこがましいというか、
傲慢な自惚れでしかないのに。
(交流原則の基本は、
過去と他人は変えられない。
変えられるのは未来と自分だけ、ですから)


ああしろこうしろいうのをやめてくれ、みたいな・・・
かなり直接的な言い方をしちっいましたね。
相手の性格も考えずに。

結果として彼女は激怒し、物別れになりました。

まぁ、あちこちで私のことを怒っているというのも聞きました。
恩知らず、飼い犬に手を噛まれるとは的なこととか。


それから、10数年経って、
たまたま、彼女がネット上に書いた商業誌のエッセイに
私とのことが書いてありました。

色々と親切にして面倒を見たのに、
その恩を踏みにじられたことがあると。
けれど、その人と縁が切れた途端、
ツキが回ってきて、次か次へと仕事が回り、
よいことばかりが巡ってきたとも。
そして、結果的にその人は疫病神のような人で、
縁が切れて良かった相手なのだとありました。


はい。私は疫病神だったようです。


その文を読ませて頂いた時、ショックというより、
「ああ、この方とは多分どう話しても、
分かり合えなかったんだろうなあ」と思いました。

「『ああしなさい、こうしなさい』っていう、
その言い方は止めて頂けませんか?」
って話したわけですけど(伝えたつもり)、
彼女は、自分の抑圧的な物言いに
私がストレスを感じているということに対して、
悪いことしたな、なんてのは
残念ながら少しも思ってくれる人ではなくて、

こちらが親切で色々言ってあげたり、
してあげたりしているというのに、
不愉快なことを言ってきて、恩をあだで返すなんて!

と、自分のプライドを傷つけられたこと、
自分を否定された、自分の傷だけがすべてなんだと。

そういうことを伝えるまでに追い詰められた「私」の気持ちとか、
私という個の人間としての人格とか尊厳とか、
そこを考えたり、尊重してくれてたことはなかったんだ、
施しとか慈善事業をする対象のようなものとしてしか、
見られてなかったのかも知れないな、と。


とても残念に哀しく思いましたが・・・。
でも、たくさんよくしてもらったこと、
お世話になったのは事実で、そのことには今も感謝しています。
助けてもらったこと、親切に、優しくしてもらったこと、
想い出も大切なもので、それは忘れません。
もう二度と今生では会うこともないけれど、
彼女が心安らかに幸せであるようにと、祈るばかりです。



それに私のやり方が悪かったのは事実で、
とくに何も言わず、ただ距離を置いて、
仕事の関りを絶って、プライベートでも会わないようにして、
季節の便りをするくらいの関係にまで、
その程度のところまで、
徐々に静かにFOすればよかっただけのこと。


賢く、上手くやれなかった私のせいなのです。

伝えて相手がどう思うか、どう反応するかってことを、
考えられなかったし、予測するのを無視してた。

それもこれも、無駄なエゴイズム、
「欠点を伝えてあげるのも、相手のため」っていう、
へんな正義感ぶった、自己欺瞞な傲慢さ故の過ちでした。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


そんな過ち、若さゆえの愚かな選択、たくさんあります。

失敗も数えきれないくらい。

後悔してもしきれないこともたくさんたくさんてんこもり。

ちいとも、上手く世渡りなんて出来ていないのです。

反省、反省、また反省。

永遠に反省して反省して、後悔し続けるのかも知れません。

「後悔ばかりが人生さ」とは何かの映画であつたセリフだけど、
それはそれで困ったもので、そうはなりたくないものです。

せめて、今からは・・・これからは、
もっとまともな判断が出来る、理性的な大人にならないとネ。

てなわけで、永遠に修行中。

半熟な、三流セラピスト(ヒーラー)としての
みっともない、へっぽこ人生はまだまだ続くようです。



みっともない醜悪な姿を晒して、
みっともない恥ずかしい人生を生きてるって自覚はあります。

我ながら、本当にヘタレな人生で、
過去生にしても、今生にしても、
後退してばかりの、成長のない愚かしい人生ばかり生きてて。
胸張って生きて、自慢も出来るような人生なんて、
全然生きること出来ていませんし。
これといって人に誇れること何もないです。


さて、この人生に痛みをもたらしてくれた人たち、
私自身に苦しみを与えてくれた人って、
結局、過去の自分だったりするのです。
ディフォルメ化された、私の欠点を誇張して教えてくれただけで。
自分が引き寄せたトラブルや事象、
それは本当に私自身の内面にある問題が具象化されたもの。
内面の醜さや攻撃的な考え、否定的な想念が創り出したもの。

他者への批判は自己の正当化で、妬みや嫉みがあるから。

この人生で出会った、たくさんの人たちが、
私の映し鏡となって、苦痛を教える教師となって、
私の中にある色んな「エゴイズム」を教えてくれました。

そうした人々との出会いが私を成長させてくれました。

クライアントさんやレッスンの参加者たちの中に見つける、
その人の解消すべき問題は、かつての私自身の姿です。

私もまた、クライアントさんや生徒さんの映し鏡となって、
その人の内側にある、醜い姿、エゴイズムの在りかを
人としての姿を持って、知らしめ、教える存在でもあります。

そうやって私たちはお互いに学び合っていきます。

クライアントさん、生徒さんもまた私にとって、
教師であり、私に課題を提供してくれ、
私にたくさんの成長と内省の機会を与えてくれる人々です。


自分が感じている痛みは、
過去に自分が他人に与えた痛みなんですよね。

私たちはカルマのレッスンを、
人に与えたり、与えられたりして、生きている。
それがお互い様、でもありますし、因果応報とも言います。

人間は本当に弱くて強いものであり、
愚かでありながら美しくけなげでもある。

そして痛い思いをしても、人というのは、
なかなか経験から学習する事が出来ない生き物でもありまして・・・

その都度、反省したり、後悔しても、
また同じところで躓いて、何度でも過ちを繰り返してしまう。
自分でもうんざりするほどに。

その位、自分自身や人生を変えることは難しい。
一度の人生で、すべてを理解して、過去を清算して、
生まれ変わって一から、
別人のように理想的な人間に成長することは難しい。



ほんの10数年前まで、
私は本当にどうしようもない人間でした。
傲慢で、生意気で、何様な占い師で、
派遣の仕事をしていた際も、
対して仕えないクセに態度だけはデカくて、
愚痴と文句は一人前で社会性も欠けていて。
謙虚さのかけらもありませんでした。

感謝するって気持ちがなかったのです。

ヒーリングの仕事を始めてから、
エゴイズムの種が膨らんで、
スピリチュアルナルシズムがムクムクと成長し、
勘違いから鼻が伸びきってたなあ、と思います。

真理の勉強を始めてからも、
すべてを知った気になって、自惚れていました。
自分のスピリチュアルナルシズムの何たるかを知らず、
自分は浄化と解放と、気づきの日々を送っていると、
まったくの誤解をしていたのです。

それでも、少しの光明の中、
内省と挫折を繰り返し、今自分を冷静に見れていること、
ようやっとのこの地点に到達できたことを思うと、
一進一退の学び、エゴイズムのそぎ落としの日々は
無駄ではなかったと思いますし、

幼少期の体験からのPTSDを始めとして
自らの諸問題(性格の歪みや心の弱さ、憑依体質)を克服すべく、
スピリチュアルなワークやセッションを受けたり、
ヒーリングを学んで自分で取り組んだり、
真理の教えと出会って、学びに取り組んだことで、

時間とお金はかかったけれども、
自分はとても変われたと思うのです。

まだまだでトホホなところはいっぱいありますが、
スピリチュアルなワークや道において、
こうした自分を見つめ直す機会を持たなかったなら、
どうしようもない、自己顕示欲と自己承認欲求、
そして自己欺瞞と高飛車で自惚れでいっぱいの、
エゴイズムの塊な自分のままで老害をまき散らし、
昔以上に周囲に迷惑をかけまくっていたに違いありません。

そういう意味でこうして変われたことは大きいです。

完全に変われているかどうか、は判りません。
相変わらずだね、と・・・
以前の私を知る人は言うかも知れませんし。

それでも、自分を振り返ったとき、

「人は変わろうと思えば、
過去と決別して、変われるものだ」と思います。

もちろん時間は掛かります。簡単ではないです。
一日で欠点や問題とおさらば出来ることはなく、
年月をかけて、じっくりと取り組む必要があります。

人生そのものが癒しのプロセスで、
人と人の出会いとか、経験が、学びが、
その人を育てていくことになるのですから。

スピリチュアルなワークを受けたり、
そうした教えを学ぶだけで、変われるわけでもありません。

スピリチュアルなワークや学びを受けつつ、
日常のこと、人間関係のこと、
人生そのものに取り組むことが肝心だと思うのです。

ワークやセッションを受けること、
スピリチュアルな知識を学ぶことは、
現実生活(物質的次元)に現れている自分の内面の問題、
それらの事象との関連性や対処法としての取り組み方、
その問題が何故起こったのか、どう考えるべきなのか、
そうした現実との付き合い方や
物の見方(考えや感情の落としどころ)の手助けになるだけです。

別に知らなくても生きていけますが、
知ることで、新しい視野や着眼点を得ることが出来ます。

少なくとも私は、
このような角度から自分の問題と向き合うことで、
発狂することなく、この11年を乗り越える事が出来てきたかな、
と感じています。

すべての人が同じように益を見つけられるとは限りませんけど。
また、生徒さんたちが同じように感じてくれているとも、
そこはそれ、判りませんけれど(笑)

そもそもきちんと教えることが出来ていたり、
的確なアドバイスを与えられているとも、
その人が抱える問題を乗り越えるための
適切で効果的なレッスンを提供できているとも、
言えないのですけれどもね。

何しろ、三流の先生ですのでっっ


なんていいますか、親がだらしなく、
頼りないほうが、子供はしっかりするといいますから、
私があまり先生してないで、あくまで同等の仲間、
むしろ皆さんに世話を焼いてもらって
助けてもらうばかりのダメな反面教師ってほうが、
生徒さんはしっかりして、自発的になるかも知れませんね。
実際そうか。


確かに、自分と向き合うのは辛いし、しんどいことです。
自分の中の「恐れ」を知って、
心とか精神を鍛えるために、弱い部分をそぎ落とし、
ひたすら己が欠点で人生の障壁、問題として現れている、
周囲に痛みをもたらしているエゴイズムを捨てていく作業は。

霊的成長と一口に言っても、
自分の闇の部分に光を当てて、
心のデトックス、醜い心のお掃除をしていくことですから。
見たくないものをいっぱい見ることになる。

でも、それをしないと、人生を変えることは出来ない。
自分自身が変わらないことには、
過去を乗り越えて、新しい人生を生まれ変わって
生きることは出来ないので、「生みの痛み」は必須で・・・

でも、そこを抜けたら、生きることがラクにはなるのです。


自分を知ること。

本当の自分の姿を知って、本当の望みを知ること。

そこがすべての始まりであり、帰結する場所でもあります。


変わろうと思ったら、勇気が必要だけれども・・・
変わらないことには、何も始まらないのです。

自分が変わればすべてが変わる。

これは本当です。

何よりも私自身が実感しています。

それを知った11年でした。

2017/01/29

論語読みの論語知らず(前半)

はっきり言って私は、たいした人間ではありません。

こんな仕事をしてはいますが、
だからといって、特別な人間なのではなく、
平凡な何のチカラもないただのオバサンです。

たいした才能もスキルも持っていません。

占いがちょっと出来るとか、
人の氣をちょっと読むことが出来るとか、
ヒーリングが多少出来たりもするし、
時に過去生を見たりすることもあるけれど、

その程度です。

霊能力者でも透視能力者でもなく、
すべて何もかもが見通せるような、何でもわかる人ではありません。

判らないことだらけだし、出来ないことだらけです。

評論家がうんちくを垂れて、あれやこれや解説は出来ても、
実際の現場では役立たずだったり、
プレーヤーとしては無能だったりするのと同じで、
知識は持っていても、解説は出来ても、そこ止まりで、
判るから解決出来る能力と技術を持っているわけではないのです。

これは謙遜ではなく、自己卑下でもなく、事実です。

たまにまぐれで実力以上の結果を出せることもあるけれど、
残念ながら私には、多くの人の力になれるほどの、
素晴らしい能力やパワーは備わっていないのです。

奇跡なんか起こせません。
霊だって見えません。呪詛返しも除霊も浄霊も出来ません。
病気を治したり、失くし物を見つけたり、
人の心を読んだり、未来予知とかも出来ません。

大したことは出来ないんです。
ちょっとしたことが出来る程度で。
ほんの少しばかり、判ることがある程度で。


けれど、どうしてそんな三流のセラピスト(ヒーラー)で、
三流のスピリチュアリストが仕事をしているかっていうと、

それはそれ、
私みたいな三流にも三流なりに出来ることがあるからです。

ヘタレなへっぽこはヘタレなへっぽこなりに、
それでも人の役に立っていることもあるようなのです。

何故なら、
一流じゃない二流でもない、
人としても不出来でダメなとこだらけの三流ですが、
三流には三流にしかできない事があったりしますから。



このブログを書き始めたとき、そして今でも、
私にはたくさんのスピリチュアルナルシズムやエゴイズムがあり、
ここに書いてある記事の文章や内容からも、
その臭いがプンプンしています。

少しして振り返って、読み返すなどしたとき、
書かれていることの中に自分のエゴイズムや自惚れを見つけて、
吐き気がするほど気分が悪くなるときがあります。
我ながら情けないというか、自分にがっかりしてへこむことも多いです。

それでも削除しないで、生き恥をさらすことをし続けているのは、
自己欺瞞や自惚れや高慢ちきな目線に満ち溢れた、
そんなスピリチュアルナルシズムとエゴイズムまみれの
文章であったとしても、誰かの役に立つことがあるからです。


怒りと醜い、どす黒い感情から吐き出したような、
そんな書きなぐった文章であっても・・・

それを読んで、目が醒めたとか、溜飲が下がったとか、
自分が抱いている感情や違和感が何なのか分かったとか、
そんな風に、その人が必要としている情報を、
駄文から見つけて下さる人もいるので、

波動が低い言葉(言霊)の羅列であったとしても、
そこに感じるものがある人がいる限りは、
過去に私がそれを書いたことも意味のあるものなのだろうって、
イイワケでしょうが、開き直っていたりもするのです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


思えば、この仕事を通して、つくづく私は、
自分の成長の機会をさせて頂いてるなあと実感します。


この世は学校で、人生とは学びであり、
生きることは日々楽しみながら、自分を完成させること。

それを別の言い方で修行とも申します。


お客さんの問題と向き合うことは、
自分の問題と向き合うことだなぁと本当に思います。

とくにレッスンの生徒さんに関してはそうです。
個人セッションのお客さんはその場限りの相談がメインなんで、
全体的なサポートはしないし、そこまで深く関わることもしません。
けれども、レッスンの生徒さんは、
年単位での長期的な関わりなんで(長い付き合いというか)、
その人固有のあるいは家族も含めての、
大きな人生の流れ、全体的なサポートをすることになります。

そうすると、必然的にその人が私の映し鏡の存在になり、
その人にとっては私が自身の映し鏡(反面教師)となり、
生徒さんの問題に取り組むことは、
私自身の問題に取り組むことになってきます。

引き寄せられて出会った存在でもありますから。


これまで、私の人生に痛みをもたらした人は、
私自身の内なる問題(ネガティブな思考)を具現化し、
外側の存在として知らしめてくれた、「教師」に他なりません。

こういう気づきを得られるようになったのも、
この道に進んで、この仕事を通して、知識を理論と実践から、
多くを学ぶことが出来たからだとも思います。


私が占いの道に進んだのは、
私からすると単なる成り行きであり、
成りたくて成った職業ではありませんでした。

そのあたりの事は他の記事の何処かに書いたと思うから、
深くは触れませんが・・・

たまたまレイキのアチューンメントを受けて、
それをきっかけとして、ヒーリングをするようになってから、
そしてそのセッションを通して体験した、
様々な不思議な出来事があり、
幼少期から疑問に思っていたことも含めて、
自分の身に起きていることを知りたいと、
これはいったいどういうことなのか?・・・と。

そんな風に思っていたとき、
当時の友人から、ダスカロスの本を教えてもらいました。

それを読んで、すべての疑問が解けてから、
私は彼の教えを学び始めました。

それはちょうど11年前のことでした。

学び始めると同時に、
たくさんの「お試し」が起きたように思います。

自分の中のエゴイズムの掃除が始まったかのように、
自分の内側でも外側でも色んな事が起こりました。

気づきも起こったけど、同時に罠もあり、
スピリチュアルナルシズムに囚われたり、
ひとつ気づいては後退して、また膿が出て、
そしてまた、エゴイズムに囚われている自分に気づかず、
何もかも知ったような錯覚に陥って、
誤った考え方に囚われて、上から目線でいたり、
下手な自己擁護をして、自分が正しいと思いんでいたり、

まぁ、色々です。

今考えると恥ずかしいもので。

何度も、はっとして、気づかされて、
ひとつステップアップしたような気になって、
でも、数年経って振り替えると、
その気づいたと思ってた自分がまた、
全然気づいてないじゃんって状態だったと気づかされ。

その繰り返しですねー

クライアントさんのセッションや
そのセッションでの仕えない無能な自分。
勘違いして何か出来たようになっている自分。

スクールを主催していて、あれやこれや起きるトラブル、
生徒さんの抱える問題に自分の問題を見つけて、
エゴイズムが騒ぎ出したり。

仕事もそうだし、プライベートでも。

様々な感情の問題、私がもともと抱える弱さ、
人間としてのダメダメさ、何かあると逃げるところとか、
繰り返し対峙させられました。


ついこの間も、ワークショップのレジュメを作ろうと、
その参考にするべく、昔作った古いテキストを開いたなら、
テキストのあまりの不親切な出来に、唖然とさせられたり。
(情報が詰め込み過ぎで、初心者に分かりづらい)
そんなところに自分のエゴイズム・・・
自己満足に浸り、自分本位な目線から、
とても良い、分かり易いテキストを作っているという自惚れ、
そんなのを見つけて、吐き気を覚えたりしました。

なんて傲慢だったんだろうって。

優しくなかったなあ、と・・・

色々と反省しました。

気づいたことはそれだけでは無く、
ひとつ気づくと雪崩のように、あれやこれやと
過去の情けない自分、高慢ちきな勘違い女だった、
過去の自分のアラがたくさん見えてきて、

自己嫌悪でしばらく立ち直りませんでした。


本当に、過去の自分から長所を見つけるのは難しいです。

恥ずかしくて穴が入りたいと思うこともしばしば。

だからと言って、今の自分はどうか・・・と言われれば、
たいして進歩しているようには思えません。

それでも、こうした過去の生意気な自分を「恥」と
思えるようになっただけ、マシと言えるのかも知れませんが。

それも、なんだかんだ、真理のお勉強を続けて来れたから。
「スピリチュアリズム」たる、真理の教えを、
ダスカレの教えに沿って、日々のエクササイズや学びを
何とかやれてこれたからでしょうか。

また、その本流たる教えを核にして、
グループレッスンやスピリチュアリズムの講座を
生徒さんたち、参加者の人たちに教える機会を
こうして持ち、何年も続けて来られたお陰だと思います。

この霊的知識ありきで、
自分の人生の問題に取り組んだり、
自分自身と向き合う機会を持ち続けられたからこそ、
ようやっとの今の心境、
自分の成長を感じられる場所に来れたのでしょう。

でなければ、変わることは出来ず、
昔のまま、高慢ちきで、自惚れた、生意気なヤツのまま、
年を取って、色んな人に嫌われて、憎まれて、
エラソーな態度で上から目線のことを言い続け、
自分の醜悪さに気づかず、老害となって、
キチな姿をさらして生きていたに違いありません。

もしくは勘違いして、邪悪な霊に取り込まれ、
精神を病むことになっていた可能性も高いです。


それでもまだ、気づいていないエゴイズムはたくさんあるし、
怠けていたこと、さぼっていたこと、たくさんありすぎで、
人としての力が付いているとは言えず、
まっとうな人間になれているかというと、自信はありません。

ようやっとまっさらなスタートライン立てた、

その程度でしょうか。


この年になってようやく、というのが情けないけれども。

そしてこれからも、学びの日々は続くし、道のりは果てしなく、
先は長いなあって思います。

それでも自分を育てていく作業には終わりはなく、
日々精進して、心の澱を掃除して、
人様のお役に立てるような人間になるべく、
成りたい自分になるために・・・
このダメダメな自分と付き合っていくのであります。

もちろん、人生を楽しむことも忘れてはいません。


思うに、謙虚さと感謝。

これをいつも忘れたらいけないのだと痛感します。

謙虚になるのって本当に難しい。

自分にはこの謙虚さが足りず、
謙虚さと感謝が足りないことから、
数々の問題がいつだって起こっていたんだよなあ、と改めて。


まぁ、11年もかかって、ようやっとここまで来れたかなあ・・・

ていうか、11年でこれだけの進歩かよって、情けないですね。

トホホホホ


で、後半に続く

2017/01/28

自立のための利用は依存にあらず

最近、「日本の神託カード」というのを買いました。
「神様カード」ではなく、「神託カード」のほう。

タロットカードは仕事道具でもあるので、
コレクションしていたこともありますし、
今も複数のデッキを所有しています。

確かに以前にも、
この手のメッセージカードを所有していたことはありますが、
実用的でないと思い、手放したことがあります。


でも、今回たまたまよく行くショップに置いてあり、
このような、御御籤的に引く、ポジティブッメッセージも、
時に人には必要かも知れないと思ったりして、
ひとつくらい手元にあってもいいかなと考えたのでした。

そうですね、友人が集まったときに余興になるし、
クライアントさんやGレッスンの参加者とか、
ワークショップとかそういう時になんか、楽しいかなって。

日本に住んでいるし、身近な日本の八百万の神様なので、
日々の暮らしを見直したり、
瞑想したときに内省や振り返りのヒントを得るのにもいいかなーと。

書いてあることが現実の自分の身に「起こる」ことだと、
そう信じ込むような未来予知的な使い方ではなくて、
一日一枚引いてみて、
そこに書いてあるメッセージやアドバイスを元に、

ちょっと自分の日常や行い、考えを振り返ってみる。
書いてある事柄について、瞑想して、考えてみる。

私の場合、そういった使い方をしています。


書いてあることが、真実であるか否か、
自分の身にこれから起きる「吉兆」であるか否か、

たぶん書かれている「いいこと」を拾い集めてたくて、
書かれている「いいこと」が自分の現実に現れる・・・と、
そう期待してしまうと、
人は自分が現実化したいことが書かれているカードなど、
望む答えが得られるまで何枚も引いてしまうのでしょう。

そんな風に予言めいた占いを期待してしまうと、
依存になりやすいのかも知れません。

引いたカードに「いいこと」が書かれていたら、
それで気分を良くして、その「良い気持ち」で
明るく日常を過ごせれば、たぶん運気もよくなるけど、
何か突然の棚ぼたがやってくる「吉兆」と信じて、
訪れる幸福に過剰な期待を抱くのがよくないのかなー。
それだと他力本願で。

だから、まあ こういうのは、
モノは使いようというか、付き合い方ひとつだなあ、と思います。

上手く付き合って、楽しく活用すればいいだけのこと。

書いてある内容に振り回されて消耗するか、
書いてあることについて考えて、我が身を振り返る時間にするか、

どう利用するか、だけなのだと思います。

所詮、使うのは人であり、
起きている出来事に意味付けをするのは、
いつだってその人の心の在り方次第なのですから。



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心理学にしても、占いにしても、
民間のボディヒーリングやワークにしても、
エネルギーヒーリングや、
スピリチュアルなワークやセッションにしてもそうです。
(学ぶことも含めて)

他力本願で、相手に頼って依存してしまうのと、
自分主体で利用するのとでは結果も異なります。

占い師やチャネラー、セラピスト、施療家が
自分の問題を解決してくれる・・・
この人にお願いすれば、奇跡が起きるとばかりに、
相手の能力にすがりついてしまうことから、
誤解や間違いが起こりやすいのだと思います。

「レイキのアチューンメントを受けたけど、
それで別に人生がよくなったわけではない」とか、
「○○さんに観てもらったけど、
言われたアドバイスは今の私には難しいし、無理。
結局、お金と時間の無駄だった」

みたいな。


でも、どんなスピリチュアルなセッションも、
クライアントさんが積極的に参加してくれないことには、
何も始まらないんですよね。

セッションというくらいですから、
クライアントさんとの二人三脚なので。

主役は、あくまでクライアントさんであって、
セラピーを提供するほうはナビゲーターであり脇役。
状況を説明する解説者にしかすぎません。

ヒーリングにおいて、
ヒーリングが成功するか否かというのは、
ヒーラーの能力というより、
クライアントさん側の問題が90%だと言われています。

セラピーとかもそうですね。

確かに心理療法やカウンセリングなんかでは、
話の誘導や質問の仕方、話を上手に聞けるか、
そうしたことも大きいんですけども。

でも、クライアントさんが自分の問題を丸投げで、
ただここに来れば何とかしてくれる・・・
といった他力本願的なスタンスでは、
どんな名人でも、その人の力になってあげられません。


クライアントさんの方で、
その方法、その相手のやり方が有益であると判断した上で、
自分が抱えている問題を解決するために、
その人の提供しているサービスを「使う」のだという意識で、
あくまで利用する側がきちんと自らの問題意識を持ち、
サービス提供者に歩み寄り、積極的な姿勢て取り組まないと。
そうじゃないとセッションの結果は出せないし、
その試みは成功しません。

こちらから何か言わなくても
相手が自分に必要なことは全部言ってくれるだろう・・・
と座っているだけだったり、

してもらえることを受け身にされるがままになっているだけで、
それだけで現実が変わることを期待するだけだったり、

このセッションを受ければ、すべての問題が解決するかも、
この人なら、自分の人生に奇跡の癒しをもたらしてくれるかも、
と・・・

結果だけを望んで、
奇跡や魔法の一振りやクスリを期待しても、

自分の人生に一発で利く、特効薬のような方法はないのです。

占いやスピリチュアルなワークやセラピーだけが、
世の現れた人生の問題、目には見えない問題を解決し、
その人を変え、見方を変え、生き方を変えるための、
すべての方法であり、唯一無二の、
たった一つの道というのではないように。

逆を言えば、これらは付き合い方、
どのように使うかといった利用の方法次第で、
自分を変え、視点を変え、人生を・・・そして運命(未来)を、
変えることの出来る道具であり方法となりうるのです。


自分が何を解決したいのか、どうしたいのか、
何をどうなりたいのか、ちゃんとそこが分かっていて、
そのためのアプローチの方法として、
どのやり方を選んで、そのやり方でどの範囲のこと、
どこまでのことを自分にしてあげようと思うか、
そのための自己投資(予算)をどうとらえるか、

各自の価値観で判断すればいいと思うのです。

自分の人生を変えるために、
人生上の問題を解決するために、
トラブルを引き寄せたり、人生を邪魔するものを
問題を引き起こす性格的な問題に取り組むために、

心理学や啓発セミナーにしたって、
スピリチュアルなことにせよ、
そうした場や方法を利用することを有益と思うか否か、

スピリチュアルなサービスに対して今お金を使うことが、
自分のこれからの人生にとって価値のあることと思うか否か、

自分でそれが信じられるかどうかだと思うのです。

もちろん、胡散臭い詐欺まがいなものもありますから、
情報収集も下調べも大切だと思います。
相手を信頼できるか、相性も図るべきですし。
誰かにとって、名医だったり、
素晴らしい人だと知り合いが推薦してくれたとしても、
自分にとってどうか、で判断するべきですから。


提供するサービス側の技量というよりは、
やはりクライアントさんのスタンスや心持ち、意志の在り方が、
そのセッションを成功させるか否か、
90割方決めているっていうのは、責任逃れと言われても、
実際のところ、そうなのは否めなかったりします。

自分で何かを見つけよう、相手から答えをもらおう、

そういう気づこうとする・・・
何かヒントを見つけよう、もらって帰ろうっていう、
貪欲な積極性がないと、
たいていクライアントさんは消化不良で返ることになるから。
(言ってもらいたい言葉を相手から聞き出すというのでなく)

だから、払ったお金が無駄になるか、
後でその人の人生に豊かさとして戻ってくるか否か、
それもまた、受けたクライアントさんが決めることになりますね。


もちろん、どんなセラピーもセッションも、
ヒーリングも何もかも、万能なものはありません。

だからこそ、自分の人生に責任を持ち、
自分の人生に積極的に参加していく姿勢が大事なのです。

その態度が結果を作ることになり、
受けたセッションが実になるかどうかを決めるのです。

というわけで、
自分がスピリチュアルなワークやセッションに頼ろうと思った時、
それが依存なのか自分の弱さなのかどうか迷いを感じたなら、

自分は自分が抱えるこの問題(悩み)を解決することに対して、
積極的に参加したいと思っているのか、
誰かに丸投げして救って欲しいと思っているだけなのか、

どうかそのあたりを考えてみて下さい。

自分が自立して、心身ともに健康になるために、
建設的な人生を生き、自分の人生や力を取り戻すために、
その方法の助けを得ようと思っているのであれば、

それは依存ではないでしょう。

病気になった人、怪我をした人が、
健康で自立した生活を営むために、
医療やヘルスケアのサービスやサポートを受けるのと、
何ら変わりがないのですから。

でもそうではなく、
その方法、サービスを提供してくれる人が、
自分の人生を良いものに換えてくれる、
そこに行けば、何かいいことがある、
お金を払ってサービスを受ければ、
自分の問題の大半が解決するに違いない

そんな風に思って受けようというのなら、
それは依存であり、中毒のようなものですから、
不健康な関わり合い方になり、
百害あって一利なしな結果になりやすいので、

そのサービスは受けるべきではありません。


自立して生きていく力を得るために、
自分で自分の問題を解決できるようになるために、
自分の問題を一人で解決できる自分になっていくために、
そのために意識を持って、利用するかどうかの違いです。




























2017/01/24

【イベント告知】初心者からのプチ・スピリチュアリズム入門①

そしてまたイベントのお知らせです。
2/3のイベントもまだまだ参加者募集中です。


2017年2月25日 13:30 - 17:00
場所:当サロン(新宿区山吹町/有楽町線江戸川橋駅下車徒歩3分)
場所は参加申し込み後にお知らせします
参加費:5000円 茶&茶菓子付
最小開催人数:2名より 定員6名


オーラやチャクラ、エーテルバイタリティ(氣)やエネルギーボディ(エーテル体)とその健康やエネルギーヒーリングのこと。また、人の健康を損ない、運命をも形作っていく「エレメンタル(想念体)」の話と引き寄せの法則の本当の仕組みについて。
本格的にみっちりお勉強する半年間の講座ではなく、まずはさわり程度の入門編からといった、受けやすいショートスタイルでのちょっと軽めのプチ講座。とりあえずやってトライ(その先は判りませんがっっ)

第一回目は基本中の基本、私たちの物理的な身体以外の、目には見えない身体やその身体が必要としているエネルギーについて。心や思考の身体によって創られる想念体についてなど。その他、オーラやチャクラがどのようなもので、どのような役割をしているのか、など。その健康を維持するために、どのようなことに注意を払えばいいのか、などなど・・・です。あとはエネルギーヒーリングとは何なのか、ヒーリングとは何をすることでそれによって何が変化するのか等も。時間があれば質疑応答の時間なども儲けたいとは思っています。

オーラやチャクラって何? エネルギーって? という用語自体がよく分からないレベルの人から、興味はあるし知りたくはあるけど、いきなり本格的に勉強を始めるほどの気合はなく、お試し程度にお話しを聞いてみたいという方から、ヒーリングやボディワークをしてるけど知識のほうはさっぱりという人まで。


申し込み、問い合わせはフェイスブック、あるいはホームページのメールフォームにて。

締め切りは2/15 
※最小開催人数に満たない場合は中止または延期になる場合があります。また平日や夜間開催を希望される方はお気軽に問い合わせ下さい。