2015/11/05

スピリチュアル依存と中毒⑦

第一に、「甘え」の心理は日本人の心性を特徴づけるものであること。

 第二に、「甘え」の概念は種々の病的な心理を解く鍵となること。

 第三に、「甘え」は
 現代の社会不安を理解するために有力な観点を提供すること。


                         土居健郎著「甘えの構造」より
                           

==============================


 「ものすごく好きなことがあるということは
  すごく嫌いなこともあるということなのよ
  嫌いなこととうのは 許せないことと同じことなのよ
  平凡じゃない人を望んで 彼を見た時
  わたしはすごく自分が見えたわ
  許せないことがいっぱいあると それはもう
  寛容性が皆無に近くなるのよ

  つまり彼には包容力や許容力がないのよ
  それはわたしが今までお断りした
  お見合いの相手に示した態度と同じだったのよ
  ささいなことが許せなくて
  その人たちを拒否してきたのよ わたしも

  なんとわたしは自分が100パーセント許されることを期待しながら
  相手を1パーセントも許さない人間だったのよ
  そういう人間が他人(ひと)を愛せると思う?

  他人(ひと)を許す 他人(ひと)を受け入れる
  それができなくて 何が愛よね

  お見合いなんか何度やっても同じよ」

                      by「朱雀門」山岸涼子



自分は他人から100%許されること、受け入れられることを期待しつつ、
他人の過ちや不足は1%も許そうとせず、
欠点や至らない点を受け入れることを潔しとはしない人は多い。

自分の不完全さはさも当然で、周囲から許されてしかるべく、
しかし他人には完璧を求め、過ちを許さない。

その裏で完璧を目指し、
人に羨ましがられるような対象になろうと背伸びをし、
理想に近づけないことのコンプレックスに苛まれたりするのだから、
人間というのはまこと矛盾の塊。

 
そして、
自分が傷つくことに対して敏感すぎる人ほど、
他人を傷つけることにはおそろしいくらいに鈍感で。

他人から被っている迷惑やイライラには過剰に反応するものの、
自分が周囲に対して行っている迷惑行為や、
他人に与えているストレスや負担には無関心を通り越して盲目的で。


人は誰もが、
「自分が他人のストレスの原因になっていること」
になかなか気づこうとしないもの。

自分だけが・・・
自分こそが被害者であるとそううそぶき、
他人が自分の要求を満たしてくれないことに、
いつでも大きな不満を持ちがちだ。


・・・・・・・

さて、これは私の失敗談のひとつでもあり、
戒めとして肝に銘じる、教訓を得た経験でもある。

今の仕事を始めた頃、
なまじ、他人の過去生を「視る」といった、
そうした情報を読み取ることが得意であるばかりに、
その「過去生」の情報・・・過去を読み解くことに囚われすぎて、

そうした情報を伝えることが「必要か否か」、
今それを伝えるべき時期なのかどうか・・・といったことや
クライアントが直面している問題の根自信を深く掘り下げてみていくこと、
何よりもその出来事が指し示している
本当に考えなければいけない問題等、
・・・を見失っていた時期があったりする。

ある意味で調子に乗っていたというべきか。

(つまりはなんでもかんでも「過去生」の情報にこじつけていたというか、
そこに原因を見出そうとしてしまっていた時期があるということ。
若気の至りというには、既にいい歳であったに関わらず)


あるクライアントさんがいた。

既婚者で共働き、子供はなし。
彼女は結婚生活に不満を持っていた。
結婚生活に対して、というよりは、旦那さんに対しての不満。

「どうして、旦那に対して、
 いつも怒りの感情を消すことができないのだろう・・・」

そうした彼女の問いに、
私は軽率にも、自分が読み取れた情報をそのままに伝えてしまった。
つまりは過去生の情報。

かつて彼女は、女中として働いていたときに
雇い主の息子である彼・・・と深い仲になり、子供を宿したが、
身分差ゆえに正妻としては迎えられず、
すずめの涙ほどのお手当てをもらって、追い出されたということ。
彼は・・・というと、
一緒になろうと言ったにも関わらず、いざというときには知らん顔で、
親の言うがままに良いところのお嬢さんと結婚し、
その後の彼女は子供と二人、困窮した暮らしをし、
生活のため、好きでもない相手と結婚をしたということ。
(・・・なんか、昔の小説とかドラマによくあるパターンの話)

しかし、彼女にこの話をするのは、時期ではなかった。

この話を聞いた彼女、
みんなお前が悪いんだと、すべてはお前のせいだと、
ますます夫への怒りと憎しみを深めることになってしまった。

「よくもあのとき」・・・とか
「やっぱり、おまえのせいか」・・・みたいなね。


でも本当は違う。

そんなふうに理解すべきことではなかった。

彼女が気づくべきことは、
「過去にあった出来事」をまんま、知ることではなかった。

このケースでは、
私の伝え方が悪かった、
まだまだ未熟だったとしかいいようのないケースなんだけれども。
(ホント、大失敗で大反省したこと)


過去にしても、現在にしても、
彼女が、そうした相手や状況を
自ら「選んでる」って事実がまずあるってこと。

なぜなら、今の人生だって、離婚する自由がある。
相手に不満を持ち、愛情や尊敬を持てず、
一緒にいることがストレスになるならば、
建設的に互いの将来やベストな日常を考えて、
「別れる」ことを選ぶことだって、できるんだから。

相手の文句を言い、最低と責め立てるなら、
その許せないって相手(夫)を選んだ自分は何?って話もあるし、
憎んでいるという人の稼いだお金で、
生活してご飯食べてることって、どうなんだろうね。
そこにも気づかないと、なんだけど。
(養ってもらっているという事実に感謝もしないと、だし)

上記の過去生が本当だったとして、
無理やり手篭めにされたのではなくて、合意の上なわけで、
彼女は、お坊ちゃまの誘惑を退けることだってできたんだから。

「騙された」わけではなく、
「そんなオトコ」だって言うことを見抜けなかったのは彼女のほうだ。

つまりは彼女が選んだ男で、彼女が選んだ人生。

今も昔も・・・

これは決して、他人(相手)のせいにしていいことじゃない。

自分の責任なんだよ。


今生で出会ったとき、
魂の奥底で相手を恨んでいたのならば、
結婚することを何故、選択したのか?

運命が結びつけた・・・それが因縁だ・・・という人もいるかも知れないが。

すべて当人たちが選んでいること。

選ばない自由があり、共に生きない未来もあったというのに。

それが間違いだと気づいた時点で、離れればいいのに。

彼女は、「私の不幸、ケチのはじまりはあなたのせい」だとして、
旦那さんの悪口をいい、
すべてを相手のせいにして、怒りを燃焼させる方向性に走っていた。

結局は、離婚して独りで生きるのもイヤで、
結婚生活に依存しているというか、
そこにいて、文句言ってるほうが楽だったりするわけ。

旦那さんが借金作った事を理由に離婚して、
その責を負わない選択もあったのに、
「まったくもー!これで離婚できなくなった!!」といい、
「借金はオレが作ったものだから、離婚して欲しい」
という、本来なら待ち望んだ相手のセリフを前にしても、
「私がついてないと、ダメなんだから、あなたは!」
と、
結婚生活に固執しているのが自分のほうであることを認めようとはしない。
(まあ、典型的な共依存の関係なわけです)

こういう人は、すべて何もかもが他人のせいになる。

他人が自分の要求を満たしてくれるのは当然と思い、
そうしてくれない相手のことを逆恨みしたりしがちだ。


後日、この人は、
ボディトリートメントのメニューで訪れてくれたのだが、
終わって、リラクゼーションタイムのお茶を出したときに、
悩み事を延々と話し始めてくれ、それはゆうに一時間以上になり、
料金外のことだし、既に23時を回っていたので、
どう話を切るべきか・・・と、
当方が困惑した表情を浮かべてしまったことに対して、
とても失礼な対応をされたと怒りをぶつけられ、
案の定、逆恨みをされるハメになってしまった。


ある意味でボーダー、なのだが・・・
でやっぱり、彼女もスピリチュアル依存症であった。

彼女は、
「私はもうあなたなんかに癒される必要なんかない、
 私が他人を癒せる人になってやる!
 あなたなんかよりも!」と、
自分がどれだけ傷つけられたのか、
私のことをうらみ、怒っていると訴えてきたメールによると、
ヒーラーになるべく勉強をしたらしいが・・・

その後どうなったろう。
立派なヒーラーさんになっただろうか。


でもまあ・・・その前に、
アロマのトリートメントを依頼するのであれば、
水虫は治してからにして欲しい。

・・・と、思ってしまう私はやはりイジワルか。

(水虫は感染症ですので、
リフレとかボディトリートメントとか温泉とかは普通断ります)


自分がどれほど傷つけられ、失礼な態度に不愉快な思いをさせられたと、
私に対する怒りや恨みつらみを、粘着気質に長文メールで訴えてくるなら、
自分の痛みにそれだけ過敏になれるなら・・・

その前に、
自分がどんだけ他人に迷惑かけてるかってことや、
礼儀知らずで思慮分別や常識に欠けてるかって、
そういうおのが無神経さと無頓着さにも気づいて欲しいもの。


さてさて・・・このときは、
確かに問題のあるクライアントさんではあったものの、
私も認識が甘かったというのかなあ・・・

過去生のことを伝えるのは、良くないときもあるというか、
そのまま伝えるべきではないというか・・・
相手を見て伝えるべきでもあり、
やはり伝えるには時期というものがあって、
やたらと理解した情報を、開示するべきではないというか。

霊的な存在にしても、過去生の情報にしても、
そうした「視えた」ものに固執して、振り回されるのは良くないと思ったし、

その人にとって、本当に大切なこと。
一番知るべきことは何か、気づくべきことは何か、

なぜ、そんな状況に陥ったのか、そうした人生を生きることになったのか、
どうして、こうしたパターンを繰り返すのかとか・・・

「起きた出来事」よりも、問題の本質を重視するといいますか。

その出来事からその人が何を学ばなければいけなかったのか、
いまその人が気づくべきことは何なのか

そうしたことをきちんと見極めていかないといけないって、
痛感させられたのでした。


何でもかんでも、視たままを伝えればいいってもんじゅないってことを。


=============================


 「まさか蘭子さん、
  その時 猪鼻さんの悩みを解決したりしなかったでしょうね?」

 「え? 
  夫と別れるか不倫相手と別れるしかないだろうと答えたわよ」

 「それだわ」

 「え?」

 「あのね。普通の主婦の悩みを聞くときは、
 『へぇー』 『そう』 『それで?』と、相槌を打つだけで、
  決してその悩みの種を無くしたりしてはいけないのが常識なのよ」

 「い、言ってる意味がわかりません・・・」

 「つまりね。
  暇で退屈な日常を過ごしている女性にとって、
  不倫ていうのは大イベントなわけよ。
  そしてそれを他人に話すときは、
  自分が劇的な物語のヒロインになっていることを
  自慢しているようなものなの。

  
  だから、聞き手がその悩みを解決してしまったら、
  物語自体が無くなってしまう。
  退屈な女性はいつまでもヒロインでいたいわけだから、
  悩みを解決して、
  自分を舞台から引きずり下ろした聞き手を恨むことになるわ」

 「でも、でも、どうしたらいいのかって、聞いてくるのよ・・・?」

 「それはね。一般の女性というのは、
  たいてい人に聞く前に、自分で答えを出しているのよ。
  その自分で出した結論に沿う意見以外は受け入れないから、
  蘭子さんの意見は、
  猪鼻さんの結論とは違うものだったのでしょうね。
  
  まあ、そういう面倒な人間とは、付き合わないのが得策だけどね」


                     by「マダム・ジョーカー」名香智子


=============================


前述のケースのときは、
私の未熟さや認識の甘さが大きかったのだけれど、
それでもやはり「伝え方」というのは難しい。

気をつけているつもりでも、
うまく伝わらないことは多いというか・・・
まっすぐに伝わらないどころか、湾曲して捉えられていたり、
まったく違う意味に解釈されていたりとか、
指摘しているところより、どうでもいい情報すなわち
本筋でない話のほうに意識が向いてしまって、
意味を取り違えられていることがあったりする。

後でその人が、別の人に伝えたことを偶然聞いてしまい、

「なんで、そうとる!」

「いや! それ、伝えたことと全然違うから!」

と、愕然とすることも少なくない。

(うちは紹介が多いので、
 クライアントさん同士が横の繋がりで連鎖していたり)


もちろん、私の意志伝達能力の未熟さ、
説明不足だったり、ボキャブラリーの貧困さから来る問題、
伝え方の不味さというのも、あるのだけれども・・・

どう考えても、それだけとは思えない誤解もあったりする。

つまりは、自分の聞きたい言葉だけ耳に入れて覚えて、
聞きたくないことは排除するってパターン。

そう、まるで ある文章から、好きな言葉だけ抜き取って、
それを羅列して、新しい物語が創作されてしまうということ。

話の要約でも物語のあらすじでもなく、
まったくの二次創作というもの。

そうなってしまう人は、本当につわもの。

訂正をしようがないし、何度言っても、何を話しても無駄というか、
すべてを自分に都合の良いように捉えてしまうので、

「私があなたに対してできるアドバイスはありませんので」

と、お帰りを促し、お断りする以外はないのです。

だって、それは精神科の領域ですから。

(私のような仕事をしているもののところには、
 明らかに精神科を受診したほうが・・・という方も訪れるわけです)


でも、普通の人でも、自分の都合の良いように、
アドバイスやメッセージを解釈してしまう人は多かったり。

そう、みんな他人のせいにするのに忙しい・・・。

自分で自分の人生の責任を取ることには消極的で、
何かのせいにして、誰かを悪者にすることで楽をしようとする。

自分の問題を突きつけられるのは嫌いで、
努力もしたくなくて、
何かに寄生し、依存して生きていく道を選びがち。


いやまあ、普通の人はそんなことないんですけどね。
すべての人がそうではないし、
あくまで一部の人のことなだけなんですが。

でも、スピリチュアル依存というか、スピリチュアルヲタクの人は、
結構その傾向が強いので。


・・・・


何ていうか・・・


スピリチュアルという言葉を口になんかしなくても、
人として一生懸命に生き、愛を表現して生きている人はたくさんいる。

エラソーにスピリチュアルのうんちくを語る人よりも、
夢見がちに、キラキラした目でスピリチュアルに憧れる人よりも、

汗水流して、家族を養うために働いている人のほうが素晴らしい。

自分の仕事にやりがいと誇りを持って、
前向きに努力している人のほうが美しい。

夢を持って、それに向ってひた走って、
自分の信念に忠実に生き、転んでも立ち上がろうとしている人

海外で地雷掘ってる人
より良い未来のために発明や研究に取り組んでいる人
炎天下や極寒地で道路掘り起こしている人
24時間体勢で市民の安全のために待機してくれてる人
海の上で私の大好きなマグロを捕ってくれてる人
そして私の大好きなお酒(笑)を仕込んでくれてる人
美味しいお米を作ってくれてる人
危険地帯で走り回ってニュースを発信してくれる人
美味しい美味しい食べ物を毎日作ってる料理人
工場で色んなものを作ってる人たち
素晴らしいお芝居を見せてくれる人


みんなすごい人たちだ。

そういう人たちの前には、
スピリチュアルなんか、なんだ、どうした・・・ってことのように思う。

言葉にすると、めちゃくちゃ胡散くさいし。
(すっかり手垢がついてしまった言葉のようにも思う)

結構その傾向が強いので。


・・・・


何ていうか・・・


スピリチュアルという言葉を口になんかしなくても、
人として一生懸命に生き、愛を表現して生きている人はたくさんいる。

エラソーにスピリチュアルのうんちくを語る人よりも、
夢見がちに、キラキラした目でスピリチュアルに憧れる人よりも、

汗水流して、家族を養うために働いている人のほうが素晴らしい。

自分の仕事にやりがいと誇りを持って、
前向きに努力している人のほうが美しい。

夢を持って、それに向ってひた走って、
自分の信念に忠実に生き、転んでも立ち上がろうとしている人

海外で地雷掘ってる人
より良い未来のために発明や研究に取り組んでいる人
炎天下や極寒地で道路掘り起こしている人
24時間体勢で市民の安全のために待機してくれてる人
海の上で私の大好きなマグロを捕ってくれてる人
そして私の大好きなお酒(笑)を仕込んでくれてる人
美味しいお米を作ってくれてる人
危険地帯で走り回ってニュースを発信してくれる人
美味しい美味しい食べ物を毎日作ってる料理人
工場で色んなものを作ってる人たち
素晴らしいお芝居を見せてくれる人


みんなすごい人たちだ。

そういう人たちの前には、
スピリチュアルなんか、なんだ、どうした・・・ってことのように思う。

言葉にすると、めちゃくちゃ胡散くさいし。
(すっかり手垢がついてしまった言葉のようにも思う)

スピリチュアルって、視えないものにも価値があるってことで、
視えないものにも価値を見出して、そうした生き方を尊ぶことだ。

目に視える世界だけでなく、
視えない世界(心も精神も含む)をも大事にしていこうって、それだけだ。


何かみんなスピリチュアルを勘違いしている・・・ような氣がする。

ヒーリングができるとか、
人には視えないものが見えるとか感じるとか、
過去生がわかるとか、除霊ができるとか、
そんなものがスピリチュアルなんかじゃない。

人を大事にして、人と人の縁を大事にして、
モノを大切にして、命を慈しんで尊んで、
私たちを生かしてくれる視えない力の存在に畏敬の念を払って、
いろんなことに感謝して、生かされていることを感じて、
生きることを楽しむことがスピリチュアルなんだと思う。

人としてどうあるかを考えて、
人の気持ち、心を大事にして、
人間としてどう生きるか・・・
自分がどうあるべきかを考えて、
人として大切なこと、大切なものを考えて、
自分や他人にも、愛情や思いやりをもって接すること。

人間として大切なものを見失ってはいけないんだと思う。

そういう、
人として忘れてはいけない、大切なものを大事にしていくことが
スピリチュアルな生き方なんだ。

「人間らしく生きていくこと」

スピリチュアルって、本来そういうことだったはずだ。

たったひとつの大切なことを教える道だったはずだ。

(ちなみにスピリチュアリズムとスピリチュアルってまったく違う)

アセンションがどーとか、来年になったらエネルギーが変わるとか、
(エネルギーなんて毎日、毎秒ごとに変化しとるし、
残念ながら地球人は、物質としての肉体を持たずに存在できるほどには
全然進化できていないし、ンなのは不可能なことだ。)
天使と交流するよりも先に、
自分の身近な人たちと交流をするのが先でないのか。

親やパートナーや友人との関係性を見直したり、
心の交流をはかるなど、
もっと思いやりや感謝の気持ちを示すべきではないのか?
一期一会の精神で今日出会う人々とふれあうべきでは・・・?

エネルギーに敏感になる前に、
いま目の前にいる人たち、知人や友人など
周囲の人たちの気持ちにももっと敏感になって欲しい。
KYで無神経なまま、自分の世界に浸るのではなく。


エセ・スピリチュアルなことを考えるよりも、
原発問題のことを考えたり、
自然を大切にし、それらと共存することを考えたり
勝手に作られたり改正される条例や法律のこと、
私たちが飽食な生活を満喫している間に、
飢餓で亡くなっている人が何人いるのか、
そのために私たちがどう生活を改めていくべきか、
人間の奢った考えゆえに絶滅に追い込まれている動物たち、
モノのように毎日処分されている犬や猫のこと、
私たちのために犠牲になっている命のことを考えること、
未だ無くならない差別や世界中の紛争の種・・・など、

関心を持ち、考えるべきことはいっぱいある。

そして何よりも自分のこと、自分の生活のこと。
自分自身と向き合って生きること、
自分が抱えている問題を解決したり、
人生を楽しみ、自分を幸せにすることを考えることのほうが重要だ。


現実を視ないことにはなにも始まらない。

現実を大事にすることこそがスピリチュルの根源だからだ。



最近はまぁ・・・「スピリチュアル」という言葉に対して、
一種のアレルギーすら感じる。

こういう仕事をしている私だけれども・・・。

「スピリチュアルに興味があって」
「スピリチュアルなことが好きで」


そういう言葉を聴くと、拒絶反応が出るというか、何というか。


なんていうか、

スピリチュアル依存とスピリチュアル中毒にかかっている人に、
懲りたというか、うんざりさせられているというか、
辟易している今日この頃。

そんなこんなで思うことあれやこれや・・・

延々とシリーズにして、つぶやいてみた次第です。


とりあえず、このくらいかなー


また、何か書き忘れたことがあったら、続きを書くかもかも、です。
(そろそろ飽きたから、他の話題に移りたいんだけど)



============================

 スピリチュアルを語る連中を
 「ああウソっぽいな」と気づくのが
 スピリチュアルの入り口です。
        
            by 「BLACK BOOK」真木蔵人著

0 件のコメント:

コメントを投稿