2015/10/31

スピリチュアル・カルテNo,28「終わらないカルマ」

ケースファイルNo.28 「Aさん 40代」の場合


こちらにケースファイルとして書き出している出来事は、
比較的、その施療が実を結んだケースばかりだが、
(本人が乗り越えられたり、問題解決が多少なりとも図れたり)

実状としては、もちろん失敗例というか、
あまり実にならず、助けになれなかったケースもそれなりに。

むしろ、スピリチュアル中毒であったり、
ある種の依存を含む問題を抱えている人には、
現実逃避のための、ベタな材料を提供するだけで、
そこから目を覚まさせて、現実を認識させ、
問題に向き合うための力を与えられなかったケースも少なくない。

その度に無力感を覚えるし、おのが未熟さと限界を思い知らされる。

それがいったん、功を奏したと思い、
信頼関係を築き、学ぶところまで導けたと思った相手なら、
なおさら後悔と反省の嵐は尽きないのである。


=====================================================


スピリチュアルなことが大好きなAさんは、
当方を訪れるまで、様々な霊的な知識を求めて彷徨われていた。

著名な霊能者の勉強会に参加したり、
すごい人がいる、と聞けば、好奇心を示し足を運んだり、など。

さて、Aさんが来訪したのは、彼女の知人の紹介。
話を聞いて、興味を持ったのだという。


自分が嫌い、人間が嫌い、
という厭世観と自虐的な気持ちが強く、人生の意味を見つけられず、
ネガティブな思考にどっぷりとはまっていた人だった。

最初、
その時の彼女に一番強く、影響を与えている・・・というよりは、
もちろん、影響は与えているけれども、
話すのに・・・当人が知っても支障の無いという意味で・・・
無難な過去生を解説し、その影響を解くためのセッションをした。

その後、訪れるたびに、
こんがらがるほどに、大量に創られた
ネガティブな思考と感情の、産業廃棄物のようなものを
ひたすら処理して、ポジティブに考えられるように、
地道なセッションを続けさせていただいた。

彼女自身や周囲の人(紹介者)が、
「とても感じが変わった」「ネガティブなことをいわなくなった」
というほどに、ヒステリックなところが少なくなり、
生きることに対して、さほど否定的ではなくなって、
周囲の人のために用いたり、自分の問題に対処できるようになりたいと、
自立した考えを育んでくれていたと思っていたのだが。


さて、
彼女は様々なスピリチュアルなことを学んでも、
ヒプノセラピーなどでは、
自らの過去生を明瞭に見ることが出来ない一人であった。

それは、
無意識下で強く、「過去を思い出したくない」と、蓋をしていたから。


ここで強く断っておくが、
過去生というのは、必ずしも思い出せばいいというものではないし、
思い出す必要のあることではない。

人間が、「過去生」の記憶を覚えていないのには理由があるし、
「忘れている」ということは、「慈悲」でもある。

「過去生」を知るには知るべき時期というものがあるし、
その段階、その人がそれを理解できるレベルにあるか否か、
というのが条件になってくる。

だから「思い出したくない」というなら、それでいい。


しかし、スピリチュアルな学びを進めるとき、
運命の仕組みや「原因と結果」の法則を知りえたとき・・・
それが避けられない壁となり、障害になってくるときもある。

「思い出す」必要はないが・・・過去の情報を知る必要性はないものの、
カルマとして設定した、取り組むべき課題を前にしたときには、
無視できない事象として、
「学び」を理解するために正面から向き合う必要が出てくるときも。

汝、逃げること無かれ・・・と。


=====================================================

Aさんは、考えることが嫌いな人だった。

「自分で考えてごらん」と言うと、

「それは難しい」と言う。

質問を投げかけては、すべて答えが得られる事を望んでいた。

「なんで、なんで」

と聞いては、答えたなら、

「ふーん」で終わらせてしまう。

そこから先、考えることが止まってしまう。

知ったことで、答えを聞いたことで満足してしまうのだ。


また、本に書いてあったことを鵜呑みにし、
それについて深く考えようとはしない。
自分で判断する力を身に付けないことには、なのだが、
疑わないというよりは、
そこに書いてある、「これをすれば、こういう結果が得られる」
と言うことの、「結果」を望み、期待するが故に・・・なのである。


スピリチュアルなことを学ぶことは、決して悪いとこではない。
けれども、彼女にとってはさほど重要なことではなかった。


Aさんが今生で学ばなければいけないこととは、
「自分で考えて、行動できるようになること」といった、
思考力と状況判断力を身に付けること。
そして、現実から逃げずに、
社会性と生活力を身に付けて、生きれるようになること、だった。

スピリチュアルなことは、要らないことだといえばそうだし、
人としての成長に結びつけることができるならば、
それを選択しても良い、といった程度のことであった。

何故なら、彼女はいつも「考える」ことをしないことから、
人生を放棄したり、お役目を果たさなかったり、
自堕落かつ怠惰に、
欲望のまま、惰性的に生きる人生を繰り返してきた人だったから。


その大元は、古い時代に遡る。

Aさんが男性だったとき・・・
努力をしないで・・・つまりは世襲制で、
権力を持つ側の人間となったのだが、
君主としての仕事をせず、甘言にそそのかされ、
政を怠り、享楽的な日々を送り、
結果として、民を困窮させ、都市を弱体化させ、
自分や家族のみならず、多くの人を不幸へと導いてしまった。

決して上手くなくても、適性が無かったとしても、
精一杯できるだけのことはすべきだったし、
自分に能力がなくとも、才ある者の意見を聞くなり、
賢い、忠実なものたちと信頼関係を築いていれば、
最悪のことは避けれたろう。
(ようするに、その立場、地位に生まれたからには、
それにふさわしい人間になるための努力をすることが大事なのであって、
賢王になって、素晴らしい結果を出せたか否かは、問われることでもない
何故なら、その立場での学びが必要だったからこその人生だから
Aさんはその人生で、権力者といった立場に生まれることで、
その立場に立たされたものが求められるものは何か、
君主たるものが考えるべきこと、行うべきことは何か、
権力を持ったものはそ権力をどのように行使すべきか、
といったことを、知らなくてはいけなかった。そのためのこの人生だった)

しかし、「考える」ことが嫌いで、叱られるのが嫌いで、
甘やかされることが大好きだったが故に、
愚かな間違いを多々、犯してしまった。

つまりは愚王と呼ばれるような人生を送ってしまったのである。


その失敗、その人生は仕方ないとして、
その後でAさんは失地回復とばかりに、
過ちを正すためのチャンスの人生を何度となく、得たのだが、
残念ながら、あまり上手くはいかなった。

僧侶として謙虚に生き、仏の道で慈悲と慈愛を学び、
人々のために尽くそうと試みた人生も、
それ以前の自堕落な過去生に創ったエレメンタルの影響もあったろうが、
なまじ、権力を行使できる立場についてしまったが故に、
色欲と物欲に負けてしまった。

何度トライしても、繰り返し、繰り返し、似たような過ちを犯したり、
「考える」ことをせずに、欲望や感情に流されてしまう人生で、
中間生において、自らの生を振り返るとき、
そんな自分の姿に、誰よりも落ち込み、苦悩したのは本人だと思うが、

「今度こそは」と、誓いを立てて、いきごんだ今生の人生。

残念ながら・・・。

今回も、耳障りの良い言葉のほうを選ぶことにしてしまったよう。


スピリチュアルな、心地の良いことよりも、

Aさんは世の中のことにもっと目を向け、
関心を持たなければならなかった。
他人に興味を持って、働くことで社会参加をし、
現代社会が抱える問題にもっと関心を持たなくてはいけなかった。

ニュースを見たりとか、そういうことからでも。

何故なら、かつてのAさんは、
君主的立場にいながら、民の暮らしにまったく無関心な人だったから。
政を行わなければいけない立場で、それを学び、
知る必要があったのに、遊興と快楽にふけり、
外にいる人々が貧しく飢えていたりすることを知ろうとしなかったから。
(まるでマリー・アントワネット? いやAさんは男性で場所は東洋)

今生は普通の一市民として生きるにしても、
だからこそ、経験して、その目線から見れることを
たくさん見ないといけない。
日本という先進国に生まれて、ネットでも新聞でも雑誌でも、
たくさん情報の入る国にいて、それを学ばなければいけなかった。
世界史も日本史も、一般常識も、そして世の中の諸問題のことも。
国際情勢にしたって、なんにしたって・・・

それはテレビや映画や漫画を見ることだっていい。
本を読むことでだって出来る。

そして、そこからあらゆることに疑問を持ち、考えて、
視野と見聞を広めて、思考を鍛えていかなければならなかった。

けれど、
それを何度アドバイスしても、それが課題だと伝えても、
残念ながら、「気持ちのよくなる」こと以外には、心動かなかった。


「私のやり方に文句ばかりつけて!
 もー アレもだめ、コレもだめって、ケチばかり、反対ばかり!」

と、
かつての忠臣たちの諌言に、腹を立て、
彼らをはむかうものたちとして処刑したときの彼のように・・・。
(正確ではないけど)


この人生のこと(過去生)のことは、Aさんには伝えていない。
本人が、『見ざる、聞かざる、言わざる』状態で、
思い出すことを強く拒絶していたから。

本人が知ることを、思い出すことを望まない過去の情報を伝えるのは、
時期が来ていないということでもあるし、伝えても意味のないこと。
なぜなら、そこから『気づき』を得ることも、知ることも出来ないから。

けれども、この過去の人生が極端に表すように、
大なり小なり、この欠点が、
今の人生に至るまで・・・その後の彼女の人生において、
カルマとして、彼女の人生を狂わせたり問題の核心となる、
大きな問題・障害として、
今もなお深く根を下ろしているのは事実だったりする。

知る準備が整っていない段階で(本人が聞く耳を持っていない)、
時期が来ていない場合においては(客観的に罪を受け止められない)、

まして、本人が知りたがっていない状況ならなおさら。

けれども、繰り返しの過ちのパターンを避けるために、
カルマが与えた追試のような試験に合格してもらうためには・・・

ただ問題点を指摘して、欠点を克服する力を養ってもらって、
試験に合格するための学習能力を身に付けてもらうしかない。

何故なら、『回答』を教えることでは意味がないから。

大事なのは、
『答え』を導きだすことが出来る能力を身に付けてもらうこと。

こればかりは、誰かが変わりにやってあげられることではないし、
アンチョコを見て、形ばかりの『答え』を知るだけでは意味がないから。

でなければ、運命の課題をクリアしたことにはならない。


本人がそれに気づこうとしている段階でない限り、
直接的な種明かしなど、無意味なことで、
かえって遠回りをさせるだけの、余計な行為でしかない。

周囲は、本人が自分の問題に気づくように、
それとなく提示しては、サポートすることしか出来ない。

克服するのは本人で、自らの弱さや欠点を克服し、
本人にそれを乗り越える力をこそ、身に付けてもらうことが、
肝心なことだから。

=====================================================


とはいうものの・・・

人は学ばないのだろうか?

過ちを後悔し、罪に苦しんでもなお・・・

同じ道に進むことを止めることは出来ないのだろうか?

それを正せないというのなら、
私のような仕事をするものは、
どんな存在価値や社会的意味があるというのだろう?

『真理』を教えることをしてもなお、
それに気づけない人がいるのならば・・・
自らの真実から目を背け続けるばかりの人たちならば

道を説くことは虚しいだけかも知れない

0 件のコメント:

コメントを投稿