2015/10/31

スピリチュアル・カルテNo,29「アメージング・グレース」

ケースファイルNo.29 「Yさん」の場合


本題に入る前にまず・・・

本来ならば守秘義務とするべきところの、
クライアントのセッション記録(その付随する内容)を、
どうしてこのような公の場所にて、文章にて公開するかについて改めて。

単に、皆の好奇心を満たすための、
面白がってもらうための読み物としてのネタ提供では意味がなく、
そのために書くことならば、道徳に反することはもちろんのこと、
いたずらに他人の人生や諸問題を晒すという、
とても罪深いことであるばかりか、
人間性の尊厳に対する冒涜と裏切りに他ならないのだとも思う。
(いささか大げさな表現だけれども)

私の目的は、転生の物語を真実のものと証明することではないし、
霊的な事象が事実であると、皆に信じ込ませることではないけれど、
(残念ながら、それは私には出来ることではない)

リーディングやセラピーの過程において知りえた、
クライアントの一個人としての魂の壮大なる歴史・・・
小説よりも奇な、転生のドラマと人間の運命の不思議、
繰り返されるパターンによって生じるドグマ、
奇妙な縁によって結ばれる人間関係と運命の吸引力、
原因と結果の法則によって示される学びのテーマ・・・などなど

それらが私たちに教えてくれることが、
このブログを読む人の心に、何がしかの響きを持って、
「考える」材料になってくれれば・・・と、

いまの自分自身の在り方を振り返ったり、
これまでの人生の行いや、招いてきたことなどを、
見つめなおしたり、よりよく生きるための指針や智恵となり、
新たな視野や視点を見出すための、
気づきをもたらすものであって欲しいと、
そう願って、多くの人の実例をサンプルとして掲載させて頂いている。

でなければ、クライアントの事例について語ることは、
興味本位で悪趣味な暴露にしか過ぎないのだから。

それは知っておいて欲しい。

書かれていることを信じなくてもいいし、単なる空想だと、
妄想の産物だと、疑う気持ちがあっても、それは当然だから。

本当にあったことなのかそうでないのか批判的に疑惑の目を向けたり、
もしくは
過去生に非現実的なロマンを見出して、ファンタジーを夢見るのも、
どう読もうと、それはそれぞれ個人の勝手だが・・・

もっと人の運命や人生に対して、真摯に向き合い、厳粛に受け止めて、
ここに書かれた一人ひとりのドラマ・・・
・・・すべてに意味のあった人生や、重い事実や出来事に対し、
どうか、畏敬の念を持った上で、
身近な人のことや我がことに置き換えて、
考えようとする試みを、持ってみて欲しい。


人生とは、何なのかとか・・・

自分が、何のために生まれてきたのか、
生きるって、どういうことなのか、
何故、いまの人生があるのかとか
どうして、この人生なのか・・・

後悔しない生き方や生きる目的とか意味とか、

他人の人生の過ちや失敗から、学ぼうとして欲しい

他人が示してくれる道に・・・
何かを感じ取って欲しいと、切実に思う


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さて、
Yさんはとても生真面目で向上心があって、
何事にも全力投球、一生懸命で理想が高く、
自分に対しても、「こうありたい」という、要求の多い人。
そういう意味では、物事や自分に対する期待の高さゆえに、
ギリギリまで自分を追い詰めてもしまうので、
もう少し融通利かせて手を抜いてもいいようにも思ったりする。
かといって、頭がちがちの石頭ではなく、
天然なところもあって、周囲をほころばせるところもあったり。


その表面からはふつう窺い知ることは出来ないけれど、
彼女の、ともすれば極端に走りがちな『性格の問題』
・・・例えば、
人生でネガティブに作用してしまいやすい感じ方や考え方のクセには、
もちろん、今の人生の幼少期の環境などにおいて培われた、
親の影響や経験から来るものもあるのだけれど、

そればかりではなく、

今の人生だけでない過去の人生
すなわち積み重なって生きてきた・・・幾人もの人間として生きた時間に、
刻まれてしまった傷やそれゆえの痛みと刷り込まれてしまった恐怖、
ネガティブな思い込みや価値観などが、強い影響力を持ってしまっていて、
それらが、無意識下の中に、
まるで彼女を洗脳するかのごとく、根を生やして居座っているのだった。


最初、当方を訪れてくれたときは、
まだ私がヒーリングの仕事をしていないときで、占いでの相談依頼。
友人関係の問題や、仕事での相談だったように記憶している。

なので、とても長い付き合いになるのだが・・・
 

Yさんの中は、たくさんの『怖れ』と『怒り』があって、
誰しもがそうであるように、そうした想いがあることによって、
ほかでもない自分自身を深く傷つけてもいた。

飢えや貧しさに対する恐れ、
暴力的で威圧的な人に対する恐れ、
居場所を無くすことの恐れ、
人に嫌われたり迫害されることに対しての恐れ、
孤独に対する恐れ、
自分が何もできない無力で無価値な人間だと認めたくない恐れ
・・・そして、
自分に惨めさを与えたり、見下したり、
ぞんざいな、取るに足らない人間として扱う人への怒り

人に言えないような、卑下されるような仕事をしたくないという思い
他人に自慢できるような立派な仕事をしたいという思い

などなど。


人間は、実のところ、
他人によって傷つけられるのではなく、
そのような感情的『反応』を覚えてしまうことによって、
自らの心を傷つけているのだ。


Yさんが、こうした『傷』を抱えることになったのは、
過去の人生での経験を、その都度うまく消化できなかったことがある。

(ようするに、過去の出来事によって生じたダメージを未だ引きずっていて、
その無意識下のイメージに振り回されている・・・というわけなのだが。
何が起きたことによって、自分がそう反応するようになったのか、
ということを覚えていない過去生と呼ばれる人生で刷り込まれた傷に、
苦しめられている人は少なくない)


人は亡くなると・・・
つまり『死ぬ』と言う現象によって肉体を離れた後、
物質的な肉体の崩壊とともに、別の次元に意識が移行するのだが、
その段階において、各自の『段階』にあった経験や振り返りが行われる。
これは俗に言う魂のレベルによって異なるので、
すべての人が同等の経験をするわけではない。
この段階で、自らの『死』を理解しない(できない)ものもいるし、
速やかに『死』を自覚してもなお、
『生』に執着して、ある時点に止まり、その先に進めないものもいる。

幸いな人は、今終えた人生を振り返り、
何が出来たのか出来なかったのか、
その人生での目的を果たせたものか宿題を残したのか、
また、何を間違えたのか、どうするべきだったのか・・・など、

反省会のような状態になり、
それを踏まえたうえで、今後の課題をまとめあげることができるのだが、
残念ながら、そこまでに至らずに
未消化な状態で次の人生へと旅立ってしまう人も多かったりする。
もちろん、
すべての人が次回の人生への切符を手に入れられるわけではなく・・・
やり直しには時期とか段階とか、まあ、いろいろと、あるのである。

一言で言えば、個人の都合ではなく、タイミングでもあるのだけど。

(私たちの運命は、全体として働き、
網の目のように互いに関連付けあっていて、
綿密に組まれた列車ダイヤのようでさえある)

で、
振り返って、反省して、理解してもなお、それが生かされるとは限らない。

生まれたときにはすべての記憶を『忘れて』、
まったく新しく人生を、別の人間として生きるわけだが、
まっさらなところから生きるから、過去の記憶が白紙というわけでもなく、
心や思考はしっかりと、過去のアーカイブ(データ)と繋がっているし、

物質的な肉体を持って生きている、この物質次元には、
過去に幾人もの人間として生きたときに創り出した、
たくさんの想念体(エレメンタル)たちが、浮遊していて、
それらが自分の創造主のところに戻ってきては、
まるで金銭を強請るゆすりたかりのように、当人を苦しめる。

その脅しとも言える誘惑を無視して、負けずにいられることは難しい。

肉体を持たないときには客観的に、それらを外から見ることが出来ても、
肉体を持つ次元に縛られたときには、内側からの視点で、
主観的にしか、自分のことは見られなくなってしまうから。


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話はそれたが、
Yさんもまた、自らが過去の人生において、
創り出した想念としてのエレメンタルに苦しめられている一人には違いなく、
このネガティブな考え方・・・思いグセを手放すこと、
それらを新しいポジティブな考え方、
感じ方や『記憶』としての想念体と入れ替えていく必要性がある一人。


今生、彼女を苦しめ、プレッシャーを与えている『重荷』は、
幾重にも複雑に絡まりあった、彼女を支配する想い癖が創りたもうたもの。

その大元には、
良心の呵責から来る後悔と懺悔の気持ち、
ゆえに自らに責めを負わし、
嗜虐的な人生を生きることを選択した始まりがあるのだが、

結果的に自らに与えた経験、
ある意味では罰とも取れる、崇高なる高みを目指したがゆえの、
過酷な経験によってかえって傷つき、負のループに囚われ、
そこから脱出することが難しくなってしまった背景があったりする。


まず、Yさんが
威圧的で乱暴な言葉と態度を表す人(とくに男性)に対して、
過剰なまでのストレスと恐怖を感じるのは、
養い親に毎日怒鳴られ、日常的に暴力を働かれ、
結果として、それによって命を落としてしまった
不幸で短い人生の記憶(PTSDに近い)があるからだ。

頭で記憶として覚えていなくても、心は簡単にフラッシュバックを起こす。

仕事を亡くしたり、
金銭がない生活や飢えることに対して恐怖があるのは、
(現代においても誰しもがそうであったりするが)
お金がないが故の貧しい暮らしで惨めな想いをし、
ひもじさと寒さに震え、飢えて死んだ過去も多少は影響している。

自分の実力や仕事の内容を正当に評価されないことや、
不当な扱いに腹を立ててしまうのは、
自己実現やアイデンティティが確立されていず、
プライドや存在証明を他人からの評価に頼っているせいもあるけれど、
そればかりではなく、
自らの育ちの卑しさがゆえに、不当に差別され、貶められ、
公平な扱いを受けられないことで、
被った不利益と冤罪の屈辱によるトラウマが刺激されるからであった。

(育ちが卑しいから無能だとかと決め付けられたり、
身分が低いから嘘つきで簡単に犯罪を犯すなど、
当人の人格までもが育ちや身分で否定される時代が歴史には長い)


しかし、結果としてはトラウマを作るばかりになってしまったが、
そのような経験を自らに与えるきっかけとなった人生があり、
この悪循環を考えるときに、その大元まで戻って、
彼女自身の魂の歴史書を辿ってみなければならない。


それは中世のヨーロッパ。
場所は今のフランスで、当時の国名は別の名だったようだ。

Yさんは男性で、家族とともにある城で働いていた。

城といっても、私たち日本人がイメージするようなものではなく、
ベルサイユのような豪勢な宮殿や
イギリスのマナーハウスのようなものでもなく、
石造りの要塞をかねたような、大掛かりではあるが簡素な建物で、
まるで小さな村のように、城の中に使用人たちも大勢住んでいて、
一つのコミュニティを形成しているようだった。

その城で使用人の子として生まれたYさんはまだ若く、
少年といってもよい若輩者で、主に親の手伝いをしていたようだ。

ある日、その城でクーデターのような暴動が起こった。
日本の戦国時代で言うと、下克上というところ。
城の中での覇権争いなのか、そのあたりはよく判らないが、
それまで家族のように暮らしていた使用人たちも、
どちら側かにつかねばならず、
二派に分かれて、剣を交えることとなった。

結果として勝利は、Yさんがついたほうが得たようだが・・・
勝ったほうにつき、生き残ったというものの、
昨日まで友と呼び、家族として暮らしてきた者同士が争い、
血を流し、殺し合うという現実は、
その心に深い痛手と哀しみの種を落とすことになった。

「自分はなぜ、こうして生き残っているのだろう?」

その手に残る、剣の重み。
自らが助かるために、生き残るために、
顔なじみの人の体を、付き刺したときのあの生々しい感触。
自分が暮らしていた城が、たくさんの血で染まり、
そしてその血と肉塊の、むせぶような鼻に付く臭い。

そんな悲惨な光景、悲劇を目の当たりにして、
自分がなぜそんなことに巻き込まれたのか、
何故、こんなことが起きてしまったのか・・・

自分がしたことは人として正しいことだったのか、どうなのか、
一体どうするべきだったのか?
あの争いに加わるべきだったのか、組せず逃げるべきだったのか?
生き残ったことは正しいことなのか・・・??

城を出た彼は、まるで隠者のように人里離れた場所に住まい、
悪夢にうなされながら、自問自答しつづけることになった。

笑いを忘れて、人生に楽しみも見出せずに。


何が正しいことなのか、人としてどうあるべきだったのか?

その心からの問いは、ある人生へと、Yさんの魂を導くこととなる。


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次にYさんが生まれたのは、新大陸。
私たちがいま、アメリカと呼ぶ国である。

Yさんは再び、男性として生まれた。

貧しさから抜け出そうとして、あらゆる仕事をし、
苦役ではあるが、確実に収入にはなると誘われて、
ある船で働くことになった。

その船の行き先は黒い大陸。
積荷は人間である。

つまりは奴隷船での仕事。

白人とは異なる人種の、褐色の肌をしたものたち・・
インディオたちは見たことはあるものの、
それよりももっと黒い肌をした彼らは、とても異質な存在として映ったようだ。

彼らを現地の奴隷商人から買い取り、
あるいは自分たち自ら狩ることによって、船に集め、
家畜のように管理し、市場のあるアメリカまで連れて行くことが、
その船での仕事だった。

初めて見る異形の彼らのことを、
その容姿の差ゆえに、罪悪感が軽減されるものも多かったようだ。

しかし、Yさんは徐々に疑問に思った。

彼らもまた、人ではないのか?・・・と。

何よりも生活のため、
よりたくさんのお金を儲けるために着いた仕事ではあったが。
時が経つに連れ、良心のうずきを感じることが多くなったようだ。

それでも、それが仕事であり、そう感じる自分が少数派で、
むしろ珍しい考えの持ち主であることを自覚していた彼は、
疑問に思ったとて何も出来ない存在であることも理解していた。

まさにそこに、前回の人生での、
自分に対する『問い』が、隠されていたのだが・・・


「それに組み従うことは人の道として正しいことなのか、どうなのか?」

・・・と。


海の男たちは荒くれものが多い。

彼一人が、

「人が人を奴隷として、モノのように扱うなんて、おかしいじゃないか!」

「これが人が人に対してすることなのか??していいことなのか?」

と、唱えたところで・・・
黒人たちの扱いに対して、不満や意義を唱えたところで、
ただの下働きでしかなく、何の権限も持っていない、力無き者が、
何か出来たためしはなかったと思う。

何も変える事は出来ず、誰一人救えることもなかったかも知れない。

大きな流れの中では、大勢や権力の前では・・・
個人の力など無きに等しいもので。


とはいうものの、明確に罪悪感を覚えていたわけではない。

何となく、イヤな感じがする。気持ちがよくないことをしている・・・
といった、そのような自覚症状どまりで。
とてもモヤモヤとした感情で、その理由が何なのか、
自分の気持ちがどうしてこんなにスッキリしないのか、
彼自身、それを「良心の呵責」という風には、捉えていなかったようだ。
(当時の世相では仕方ないのかも知れない)

やがて彼は、
奴隷船の仕事を止め、酒びたりになり、怠惰な日々を過ごして、
自堕落に命を落とすことになった。


自分はなんて残酷で酷いことに加担したんだろう・・・と、
そう振り返り、自らの人生を後悔するのは、死を終えた後のことで。


そして、その次は再び西洋に生まれ、今度は女性で、
孤児となり、ある家に働き手として引き取られたものの、
直前の人生の後遺症(アルコール中毒)の影響から、
軽い智恵遅れの肉体を持って生まれることになり、
いつまで経っても物覚えや働きが悪いことなどから、
養い親に殴られ、怒鳴られ、
あげく衰弱して亡くなる、短い人生を生きることとなった。

この人生、経験は、先の人生での黒人奴隷の立場、
彼らに与えた数々の暴言や暴力を身に受けるための経験として、である。

罰でもあり、同時に、
人が人に対して行う罪を我が身として知るためでもあった。


その後、とても短い人生をひとつ経て、再び生まれたのは、
南北戦争がまさに始まろうとしている、アメリカ、であった。

このときも男性として生まれ、
成人する前に始まった戦争に参加したのであるが、
過去の人生の立場を贖うように、北軍の兵士として、
彼らの解放のために、戦に参加することとなった。

けれど、過去この地で生まれ、生きた人生の「考え」の名残か、
その影響を否応無く受けてしまった故か・・・
もしくは、その人生での親や環境や周囲の影響に、
染まってしまったが故か・・

「なんで、こんなクロンボ野郎たちのために、
 俺たちが戦に借り出されなければならない?
 なんで、やつらのために、
 同じ白人同士が争わなくてはいけないんだ?」

と、差別と偏見の気持ちを育ててしまった。
戦いには参加したものの、そんな気持ちを持ったままに。

そして、その戦で命を落とし、

次に生まれたのは、またフランスで、
親を亡くした孤児の女の子として、
養護施設のようなところに入れられ、
親の出自から、施設の他の子たちからも苛められ、
飢えと寒さと、そして暴力と、
外からの差別に孤独を募らせる人生を送り、
やはり幼くして死ぬ人生を生きることになった。

今度は、ドイツ。
男性として生まれ、
十代のうちに第一次世界大戦に志願して戦い、そして死んだ。

名誉のために戦うということは何か?と、
失われた自分の尊厳を取り戻すために・・・
これは彼女の魂が欲したことだ。


次に生まれたのは、南米。
平凡な男性として、
安い賃金で過酷な労働に耐える毎日を生きることになった。
これも、自ら与えた試練。
真面目に生きること、誠実に生きること、そして勤勉に働くこと。

それは過去からの反省がそうさせたものだった。
孤児の経験から、家族が欲しいと願った。
人に優しい男性にもなりたかった。
辛い経験にも耐えられる忍耐力を自らに育てたかった。

この人生はそれまでの人生に比べると、
比較的長くは生きられたようだ。
ワーカホリック(働き過ぎの過労)が死の原因ではあったが。

そして、今度は日本に生まれた。


ここに書いた人生ばかりではないが、
今の彼女に影響を与えている、
負のループが創られた状況を説明するときには、
それ以前は必要ないし、概要としてはこれだけで十分だろう。

(それ以前には、
陽気なインド人としてお気楽に生きたこともあったし、
平凡だけれども楽しい充実した人生も勿論あったりする)



彼女が自分自身に発し、問い続けた答え・・・

答えというよりは、問い続けた問いとは、

「人として、どうあるべきなのか? 
 どう考え、どのように行動すべきだったのか?」

彼女は、自らをその答えを見つける旅へと、送り出したのである。

身をもって、知るために。


そして、
生計のため、お金稼ぐ手段として選んだ仕事とはいうものの、
他人をムチ打ち、暴力と力で支配する側に立って、
その力を行使することをしてしまったが故に、
暴力を振るわれる立場を自らに経験させ、

ときに偏見の差別の意識を育ててしまったが故に、
その偏見と差別意識を棄てさせるがために、
差別される側の立場に立たされる人生を選び、

人と人が争うのは何故なのか?
何故、人は殺し合いをしなければならないのか?
そうした疑念があるがために、
あらゆる理由にたった戦争を経験することとなった。

奴隷貿易という不名誉な仕事をしたという無意識下の罪悪感が、
他人に誇れる立派な仕事をしたい、
他人に評価されるような人間になりたいという、
仕事に対する思い入れと強いこだわりとなり、

過酷な労働条件や、人が人を公平に扱わない現場は、
児童労働や忌々しい奴隷市場の現場を思い出させ、
粗雑で荒々しい横柄な人間を見ると、
かつての奴隷船の船長たちや人非人たち、
しいては、罪深い自分の姿を思い出して、心が辛く、
耐えられないほどの、苦しみを彼女に与えることとなってしまう。

本来は、そのステップステップで・・・様々な立場を味わうことで、
その経験から彼女は、
身に染みて、深く考える機会を持つことによって、
心と精神を鍛え、心からの「気づき」を自らにもたらしたかったのだろう。

しかし、現実とはうらはらなもので、今もまだ、旅の途中。

己がためと、選び歩んだ道筋が彼女に残したものは、
とてつもなく、大きな壁であり、
重い十字架として、心を圧迫するものであった。

まるで、大リーグ養成ギブスのように。

Yさんの魂は、間違って身に付けてしまった歪んだ価値観を正し、
自らを矯正するために・・・己が精神を研磨し、正しき道へと導くために、
「気づき」をもたらすための、たくさんの経験を人生に用意したのだが、
その過程において、不要な荷物を増やしてしまったというべきか。



しかし、神は、「乗り越えられる試練」しか与えないのだとも言う。


ならば、彼女の神たる、彼女自身の魂は、
いつかこの学びを終えたときの、
すがすがしい夜明けを予感しているのだろう。

その日が訪れるのが、早すぐと、思いたい。


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アメージング・グレース
何と美しい響き
私のような愚かな者までも救ってくれた
道を踏み外し、さまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り

そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ

やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ

何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう

                  アメージンググレース
                  byジョン・ニュートン(1772年)

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