2015/11/17

贖罪と受容~赦すこと赦されること(中)

時々、
個人セッション(過去生セラピーやチャクラヒーリング)において、
下記のような質問を受けることがある。

「ブログのケースファイルを読むと、
皆さん、ハードな体験を過去にされていたり、
罪を犯した人生があったりするようですけれど、
私にはそのような罪深い過去生はないのですか?」

もしくは、
「なんか、とても悲惨で辛い目にあった人生ばかりのようで、
被害者というか、幸薄い人生ばかりだったんでしょうか・・・?」


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現実社会では、たまに「オレ、昔はワルだったんだぜ」と、
過去の悪行自慢をして、素行不良の歴史を勲章のように、
いきがるための材料にする人がいるけれど、
そういう風に言う人ほど、
大したことはしていず、真の悪人には程遠い。
いずれにしても、自分のしたことをよく理解していたなら、
恥ずかしいを通り越して、
申し訳なさと犯したの重さで潰されそうになり、
まして自慢しようなどと思うに至らないだろう。

だからこそ、
自慢するような輩は、
単なる自分を大きく見せたがる腕白自慢の小物で・・・
でないならば、
それをするものはサイコパスや真正の悪人ということになる。

普通ほとんどの人が、
自分が罪人であるとは・・・悪人であるなどとは思いたがらないものだ。
できればいつの時代でも善人で、まっとうな生き方をしていたと、
望むべくは人に好かれ、慕われ、
社会的に認められるような仕事を持ち、生きていたと信じたがる。
過去生の自分は今の自分が誇れるような人であって欲しいと・・・

でも、人は様々な経験をするために「生を繰り返す」ので、
ひとつの魂としてこの世に何度も輪廻転生する過程において、
何人たりとも、ひとつの罪も犯さなかったものはいない。
私たちは善を知り、悪を超越するためにたくさんのお試しを受けるので。
悪を知り、罪を知り、愛を知り、善を実践し、愛を表現していくまでに、
人は何度でもカルマのレッスンに臨む。
常に善の側であり、善のみを実行していた人などもいないのだ。
他者の過ちを理解するために、自ら罪を犯して、
未熟な人を赦すことを覚える必要のある人もいるし、
誰かに痛みを与えるために、悪人の立場を受け入れる人もいるので。


さて、理性があり、人としての情、善悪の自覚がある人は、
人に自慢できないようなこと、他人や世間から咎められるようなこと、
すなわち罪・・・と呼ばれるようなことをした自分に罪悪感を持ち、
そのような過ちをした自分を、過去を忘れたいと願う。


ここで冒頭の答えになるが、

己が犯した過去の罪を突きつけられて、平気でいられる人は少ない。
それを知る必要のある人、知るべき時期が来ている人を除いて。

また、得てして人は自虐的かつ内省的に己が罪を振り返るより、
問題の種(原因)を外に求めるし、
周囲や他人のせいであると考える傾向にある。

だから、まず過去生で「傷」になっていること、
今の人生に影を落としている過去生の出来事は、
被害者的な立場であるときの出来事や
そのように捉えている思考の癖が、
原因となり、影響を及ぼしていることが多かったりする。
(事実よりもその人の感情や意識の受け止め方が全てなので)

その人の意識が目覚めて、精神が成熟して、
自分にも他人にも差別意識を持つことなく、
あらゆることを受け止めて理解できるようになるまでは・・・
己が犯した罪を知ったとき、
その罪の真の意味での功罪と贖罪を理解し、
なおかつ自虐的かつ嗜虐的に走ることをせず、
自分の人生の血と肉にすることが出来るようになるまで、
知らせる必要もないことだから。

幸福で満たされた人生は、癒すべく材料、必要がない。
思い出し、知ることで今の人生の選択に役に立ち、
未来への希望やヒントを得られるようであれば、
伝えるのに邪魔は入らない。
けれど、その人の単なる好奇心やエゴイズムを満たすためであれば、
知ること、伝えることは罪になるので、教えることもない。              

なので、
どうしても被害者として記憶されている出来事から受けたダメージ、
ネガティブな思い癖の解放と
そのダメージを癒すことが最初になってしまう。

けれど、ここで注意しなければならないのは、
その人が「被害者」として痛みを伴う人生を味わうことになったのは、
それなりの理由があるということだ。

それは、悪を・・・罪を犯したことに対しての、
反省を促すカルマのレッスンとして起きた出来事かも知れないし、
単純に被害者としての痛みを
知るためのレッスンだったのかも知れない。
その背景にある理由は様々で、人によって異なっている。
一つとして同じ理由ということはない。

ある意味で、過去生のトラウマに苦しめられることでさえ、
大切な気づきを促すための、レッスンという場合もある。
その場合は、そのトラウマに苦しめられる状況を、
安易に癒してはならなかったりする。
その人を苦しめ、重荷となっている「悩み」や「障害」の原因を、
ただ可哀想と考えて、何故その苦しみがあるのかを理解せず、
安直に取り除こうとしたときには、
その人がその苦しみの中から気づかなくてはいけないこと、
会得しなければいけなかった感情を
育てる機会を奪うことも時にあるので。

※この話については
そのうち別の記事の時にでも例を出して説明しようと思う。


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「なぜ、我々は過去世のことを覚えていないのですか」
と誰かが聞いた。

「その方が自分のためだからだ。
過去の習慣や欲望に再び執着することなしに進歩する
チャンスがあるという聖なる慈悲の一環だ。
もし、現世ではよい宣教師でいる人間がいるとする。
何回かの前世のように、
飲酒が問題になっていないところまで進化している。
しかし宇宙の記憶の中では、
彼のアル中だった部分はまだ生きている。
このような記憶が現世で目覚めてしまうと、
古い習慣に後戻りして、再びアル中になる可能性がある。
キリスト自身も、畑を耕す時、もう既に耕された溝を見るよりも、
次に耕す畝に意識を集中せよ、と言っている」

                              「メッセンジャー」キリアコス・C・マルキデス著より


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もしも、過去にマリー・アントワネットだった人が、
現世に生まれ変わっていたとして、
自分が彼女として生きた人生を思い出したとしたならば、
その人物は、
自分が歴史上に名を記す女王だったことに歓喜するだろうか?
そのことを誇らしく、周囲に吹聴し、自慢するだろうか・・・?

もしそうだとしたら、
彼女は過去の自分の人生(経験)から何も学んでいないことになるし、
恥というものを知らず、何が善で悪なのかが分からない、
考えなしの非常識な、分別のない人間であるのかも知れない。

とはいうものの、
マリー・アントワネットという有名人であったことを単純に喜べるならば、
その人は自分の過去の人生を思い出すべき時期には
来ていないということなのだが。

本当に彼女が思い出すべき時期に来ているのであれば・・・
精神的に成熟し、人としての成長を遂げていて、
過去に犯した罪や欠点を克服できるレベルに来ているのならぱ、
自分が過去、その人物として生きた人生を客観的に振り返ったとき、
己が罪におののき、恥じ入るに違いない。

自分の置かれた立場への自覚のなさや愚かな欲望によって、
ひとつの国の国庫を赤字にさせ、民を植えさせ、
たくさんの人々から怒りと憎しみを買うことになり、
王政を滅ぼさせて、
嫁ぎ先と家族をギロチンへと送ることになったのだから。

この思い事実を受け止めて、自分の犯した罪を認識した上で、
しっかりとその過ちから学ぶべきことを学び、
反省を自分の生き方に反映して、他者への奉仕や愛の実践を通して、
今の人生や未来へと生かしていくことのできる人でなければ、
己が罪深い人生を送った過去生を思い出すことには何の意味もない。


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基本的に、
「知るべき時期」が来ていない人が自ら過去生を思い出すことはない。
善と悪、己が罪を理解し、懺悔と悔恨の感情を持ち、
自分の過去を贖罪の意識からも
必要な経験であったという真理の認識からも、
双方の視点で受け止めることの出来るレベルに達していない限りには・・・

しかし、例外も時にある。
「時期」が来ていなくても、過去の自分の片鱗を見つけてしまう人もいる。

スピリチュアルなことに興味を持ち、
サイキカルな能力を磨くことに専念などした結果の賜物として。
あるいは、チャクラを刺激する過度の働きかけをしたり、
過去生を思い出すワークや瞑想にたくさん参加したり、
他者のそのような能力を触発するような人物との出会いなどによって。

「意識の目覚め」がまだない段階にある者が、
適切な知識や指導者のいない状態で過去生を思い出してしまう状況は、
「癒し」が行われ、「気づき」や「学び」をもたらすより先に、
その過去生で培った良くない性質(ネガティブな性格)をも、
目覚めさせてしまう危険性を大きく伴っている。

理性が感情をコントロール出来ず、愛が十分に育っていないことから、
過去の自分の邪悪な部分(エレメンタル)を超越することができないので。

過去の人生の欠点を克服出来ず、失敗から反省を引き出すことも出来ず、
再び利己的な自我から生まれた想念の虜となってしまい、
リプレイするかのように、
捨てたはずの過去を繰り返し生きることになってしまう。


残念ながら、そうした人を何人か知っている。


得てして、
そのような状態で取り出された記憶は、エゴイズムによって
肝心の部分を忘却され、都合よく脚色されていることが多々ある。
事実とは異なり、捻じ曲げて理解された過去生の情報は、
本人に何の実りも成長も、意識改革ももたらさない。



たまたまの偶然ではあるが、
(上)に書いた記事でも、過去生において、
ユダヤ人収容所で働いていたであろう女性のことを書いたのだが、
戦後この日本に転生してきた人物の中には、
過去あの時代に生きた人生を持つ人も少なくなく、
生徒さんの中にも、
あの国の歴史の渦、戦争に人生を狂わされた人はいるし、
クライアントさんとして出会った方の中にも、
今まで数人ばかり見かけたことがある。

中には、自ら思い出し、その記憶を語る人もいた。

しかし、その人は自らの過去生を振り返ったとき、
まったく反省のない人であった。


日本人で、戦後の教育を受け、
あの戦争に対しての歴史認識や道徳的意識を学んだ人ならば・・・
ナチスドイツが犯した戦争犯罪について、
ユダヤ人に対して行った、人類史上においてもっとも忌むべき行為、
人が人に対して決して犯してはならない、その非人道的な罪を、
良くないことだと・・・思うはずだ。


過去生を思い出したと・・・自分が思い出した記憶を、
その記憶を輪廻転生という事実からなる、
まぎれもない自分の過去の人生であると信じたとき、

その組織の一員であり、
なおかつ、その犯罪に手を染めていたことなど、
恥ずべきこと以外のなにものでもなく、

自分が酷い目に合わせた相手に対して、
その命を奪った相手と現世にて再び再会したとき、
申し訳ないと・・・
心がつぶれるくらいの悔恨と懺悔の念を抱き、
今生で相手から当時の恨みで殺されても仕方ないくらいに思ったり、
その人に対していかにして償いが出来るのか考えたり、
その人に対してでなくても、不特定多数の
過去の犠牲者の生まれ変わってきた人々や、
あるいは自分が過去に犯したような類似の罪の、
すべての犠牲者に対して、何かしたいと・・・
自分が何か出来ることは無いのかと・・・
過去の人生の過ちをどうすれば、ぬぐえるほどの事ができるのか、
そう考えるのが、人間らしい「こころ」を持った人であるだろうし。

「恥」の概念があり、人の「こころ」があるのならば、
自分がかような歴史的大罪に関与していたことなど、
思い出したくないと、認めたくないことだと思いこそすれ・・・
自虐的に過去の自分を恨んだり、責めたり、
非人道的な行為を行った自分や運命を憎みこそすれ、



しかし、それを懐かしい思い出を語るように笑いながら話すなど、
自分が人間の心をもたない邪悪な殺人ロボットか
血に飢えた狂人であると宣伝し、自慢しているようなものだと思う。


本当に当時の自分の過去生を思い出しているのなら・・・
自分が罪を犯していると、そう自分の過去生のことを解釈しているのなら、
どうして、その邪悪な犯罪におぞましさも感じずに、
自分のしたことを棚に上げて、自分が犯し、命を奪った人に、
平然と接することができるのだろう?

ナチスの収容所で、自分がユダヤ人たちにしたこと・・・
大勢の人間を残虐に殺し、命を弄び、それを楽しみ、

そのようなことを自分がしたことを思い出していながら、
今生で自分が惨殺した人たちに出会ったとき、
目の前にいる相手がかつての犠牲者、
自らが犯した罪の被害者であることを思い出したとき・・・

相手が自分に対して生理的嫌悪感を抱き、
拒絶反応を示すことに対して理解を示さないばかりか、

どうして拒否されることに怒り、
自分を受け入れようとはしない相手を咎めることができるんだろう?

相手が自分を許さないことに不平不満を言えるんだろう?



どうして、そのように自分の過去を1gも後悔しているようには見えず、
犯した罪に良心の呵責を感じてるようにも思えない、
被害者の傷に塩をなすりつけ、
当時の怒りを逆なでするばかりの生き方をしているような人を、
どうして許すことができるというのだろう?

己が罪の重さに恐れおののき、
相手に対して、贖罪の心を持ち、
自分を戒める心を持った人ならいざ知らず・・・

どうしてそのような人を赦さなければいけないのだろう?
受け入れるのが愛だろうといわんばかりに、
かつての加害者から上から目線でモノを言われ、
侮辱され、罵られ、そしりを受けなければならないのだろう?



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人を赦すことは難しい。

例えば、すべてのことには理由があって、
愛を学ぶために、善と悪が存在するのだと知識の上では理解していても。
被害者になることでさえ、
輪廻転生の循環の中でも因果応報の法則の流れで、
同胞への愛や奉仕のひとつの形であると知識として知ってはいても、
感情は必ずしも、その考えについていけるものではない。



このような仕事をして、
人にスピリチュアリズムを教えることをしていても、
必ずしも、実践できているわけではない。

私の今生の課題のひとつに、
他者の過ちを「許すこと」というのがある。
たくさんの人を赦して、
人間であるが故の弱さや過ちを理解して、
受容しなければいけない。


私は数百年前の過去生において、
西洋の某国にて古い土着の宗教の帰依者で、
とある田舎の村で薬草療法師をしていたのだけれど、
キリスト教徒ではなかったがために、
魔女裁判にかけられ、拷問されたあげく、
首をはねられて殺されたことがあった。

このとき、私はそれまで親しくしていた隣人たち、
患者として自分が助けてきたと思っていた人たちが、
助けてくれないばかりか、
異口同音に魔女だとそしり、非難し、石を投げつけて、
あらゆる嘘を証言してきたことに打ちのめされた。

死へと誘う処刑台に上り、死に至る瞬間まで、
そして死んでからも、この人間不信と人々への恨み、
ひたすら奉仕してきたことに対する仕打ちへの怒りは
ずっとずっと消えず、今の人生に持ち越されていたので。

また、殺されたり、利用されたり、裏切られたりは、
その人生だけでなく、その前にも後にも、
何度も何度も経験していて、
たくさんたくさん、積み重なってしまっていたように思う。


さて、数年前のこと・・・
とあるグループの人たち数人とランチをする約束をしていたのだが、
その約束の直前になって、
ふいに私はその全員から、
殺された過去があったことを思い出してしまった。
猛烈なショックと吐き気と生理的嫌悪感で、
どうにもならなくなってしまい、
とても平静かつ楽しく食事をすることは無理だと、
適当な理由を作って、会食を断ることにした。

一対一なら、まだ何とかなったかも知れない。
けれど、一気にすべてのケースを思い出して、
その恐怖と対峙して抑制するのは神経がもたないと思った。

怒りや恐怖はそんなに簡単に克服できるものではない。

何故そんな、克服できもしない記憶を、
このタイミングで思い出すことになったのか?
・・・そんな疑問のほうが強かったが、
たぶん「お試し」だったのだろう。

知っていることを実践できるかどうか・・・?

否。

私がその人たちを赦せたかというと、答えはNoになる。

その人たちを笑って赦せるほど、
人間的に成熟もしていないし、愛を受容してもいないし、
聖者でも仙人でも、人格者にも程遠い。

私の中にはまだまだたくさんの怒りがあって、
納得できないこともたくさんあって、
当時の自分の「死」の理由を消化できていなかった。


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恐怖はなかなか手放すことができない。
まして、思い出してしまった日には。

無意識の底に沈んでいた得体の知れない何かの、
正体を知ることは出来ても、
「されたこと」から生じた心の傷や埋め込まれた恐れを、
取り除くのは難しい。

でも、赦せない自分を、相手のことを愛することが出来ない自分を、
不寛容で狭量だと、愛が足りないと・・・責めることも違うのだろう。

赦せないのは、その人自身ではなく、
その人をして行われた「行為」そのものなのだから。

罪があるとするならば、
犯す人のほうではなく、罪自身が存在することなのだ。

だからといって、
加害者を憎み、怒り、恨む心もまた、あって然りで、
誰がそれを責めることが出来よう?

愛する人を殺され、自身もまた屈辱的な殺され方をしたとき、
天を恨み、相手の不幸を望み、
末代まで呪いたくなるような、そんな慟哭を抱えた人を、

「愛が足りない」などという言葉で裁いていいはずがない。

被害にあった人に・・・
「それは引き寄せの法則です」
「学ぶべきことがあって、起きた出来事なんですよ」
なんて言うのは、とても無責任で思いやりのない言葉だし、

愛する人を残虐な方法で殺されて、悲しみにくれている人に、
加害者に対して、心が焦げ付きそうなほど、
恨みと怒り、そして憎しみの炎を燃やしている人に・・・
「これは因果応報の法則が働いたからですよ」

なんて・・・そんなの、人が人に言っていいセリフじゃない。

例えそれが霊的真理で宇宙の、カルマの法則だったとしても、
そうしたことを知りたいと、望んで知ろうとする人ではない限り、
その段階にない人に・・・そんなことを知りたいと思っていない人に、
かけるべき言葉ではない。絶対に。

そんなスピリチュアリズムなんて、糞くらえ!とも言える。

2015/11/06

贖罪と受容~赦すこと赦されること(上)

最初に書こうとしたのは去年の春。
このテーマについて書こう、書かなければとは思ったものの、
結局、色々なことを思い出して、しんどくて、苦しくて、
思い出しては泣けてきて、辛すぎてタイプが進まず、
書きかけたまま、一年半も放置してしまった内容。





先日「アクト・オブ・キリング」が公開された。

過去にたくさんの戦争映画を見て、
「キリングフィールド」「ルワンダの涙」
などのジェノサイドものも見てきた。

検視官モノやマーダーケースブックも大量に読破してきた私だが、
この映画だけは本編もさながら予告編でさえも見る気がしない。

※映画「アクト・オブ・キリング」
【解説】1965年にインドネシアで起きた100万人規模の大量虐殺。
その加害者たちが殺人を再現する様を収録した映画。
虐殺を自慢げに語る人々にあるのは心の闇なのか?
それとも……。



 "One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"

     一人の殺害は犯罪者を生み、 
         百万の殺害は英雄を生む
             数が(殺人を)神聖化する

                          映画「殺人狂時代」より
         
               ※元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者
                 ベイルビー・ポーテューズの言葉




人は誰しもが完璧ではなく、誰もが過ちを犯す。

自らも過ちを犯すのだから、
誰かの罪を咎めることなどできようがない。

とはいえ、

罪を憎む気持ち、
犯罪者や相手に対する嫌悪感や憎悪を止めることは難しい。

まして、
犯罪被害者やその家族に一度はなったことがあるものならば。

仮にその罪や被害が、
本当と嘘が入り混じったおとぎ話の世界、
過去生というリアリティのない虚構の中のことであったとしても・・・



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冒頭にも書いたけれど、

子供の頃から、人の生と死について興味を持っていて、
同時に、殺人や犯罪に関しての本をたくさん読み漁ったものだ。
コリン・ウィルソンの「殺人百科」やら、その類のもの。

犯罪そのものに興味を持っていたというよりは、
人は何故犯罪を犯すのか?
その犯罪者心理、犯罪が起きてしまう背景に関心を持ち、
そうした情報を得ることに、貪欲だったと思う。

時代的にも、その当時のテレビ番組は
今のバラエティ化した意味のないゴミ番組とは違い、
昭和の犯罪史や事件簿などを取り上げた、
実に秀逸なドキュメンタリー番組や特番がたくさん放映されており、
ありがたいことに好奇心を十分に満たしてくれた。

また、写真の規制も今ほどではないので、
現場の写真(遺体など)もモノクロであれば、
一部掲載されている雑誌などがあり、目にすることも可能だった。
(食べかけの被害者の体とか、切断された遺体とかetc...)



何故人は人を殺すのか・・・

憎しみや恨みなど、正当な理由なく、
快楽や己の利益のために、
いとも簡単に人を殺めてしまうのか・・・

他者の権利を奪い、虫けらのように命を奪ってしまうのか・・・

どうしてこのシリアルキラーたちは、
サイコパスと成り得たのか・・・?

そのような異常な人間へと育ってしまったのか・・・

このような犯罪を起こさざるを得なかったのか?

どうしたらこんな人間が生まれてしまうのか?

そんなことを知りたくて、ひたすらに本を読み漁った。

それで分かったことは、

彼らが殺人を犯すには明確な理由は無いということだけだった。

ただ、そうしたいから殺すという単純な理由。
そうせざるを得ない要求があって、
本能的にそれに従うだけだ。

まるでそれは空腹を満たすように、
排泄がしたくなったら、それをするというような、
生理的欲求と彼らにとっては何ら変わりがないと。


彼らの中にはそれが「悪いこと」であると、
法律に反し、戒律的、道徳的にも良くないことであると、
そのようなことを考える頭のないものもあるが、
中には、非常に頭が聡く、
その罪を重々承知している、
贖いようのない咎であると判っていると言いながらも、
自分の楽しみが失われたことの失望を隠さない。

彼らは人の姿はしていても、人の"こころ"を持っていない。

いったい全体どうして、こんなモンスターがいるのか?

この世の中に??

どうして人を殺すことに悦楽と快楽を感じるような人間が、
この世に生まれるのか・・・? 存在するのか・・・?

何故、彼らは後悔したり、反省をしないのか・・・

罪の意識を持たないのか・・・

自らを責め、懺悔の気持ちを示すことをしないのか

被害者に対して、申し訳ないとか、酷いことをしたとか、
そのようなことを一片のかけらも思わないのか・・・

どうして人の痛み、悲しみ、苦しみが理解できないのか。

何故他人の感情を想像することができないのか・・・

それらを知る、"こころ"がないのか・・・




そして、また 
何もそのような異常性のある人物でなくても、
善人と言われるような人であっても、
人は状況次第で簡単に他者を殺めることをする。
敵とみなした人の命を、
自分に正義の刃があるとして奪おうとする。

ある日突然に、普通の人であると思った人が、
温和な隣人が・・・急に牙を向き、
狂気を目に宿らせて、なぜ人を害し、殺すのか。

命を慈しむその一方で、どうして命を奪うのか。

戦争という場においては、殺人は正義になり、
かくも人はいつも簡単に、
残虐で冷酷かつ非情な生き物へと変わってしまうのか。

人を殺したその手で、どうして命を創ることが出来るのか。
どうして平然とした顔で、
愛しいものに触れることが出来るのか・・・

どうして人間は、同じ人間を、命を、
殺そうなどということを考えるのか、
それを行動に移すのか・・・


一時期ずっとずっと疑問に思って、
そのことばかり考えて過ごしていた時期がある。

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もう20年くらい前のこと。

まだ若く、外に出ていくことに積極的だった私は、
とある趣味のオフによく参加していたもんで。

そこで知り合った、ある女の子に
何かの拍子で抱き着かれてしまったんだけども、
ものすごく血生臭い感じがすると同時に、
その子の過去生と思われるビジョンが頭の中に飛び込んできて、
一瞬フリーズしてしまった。

その子はリストカットをしていた子だったから、
血の臭いはそのせいだったのかも知れない。

でも、頭の中に飛び込んできたそれは、
ナチスの収容所で集められた囚人たちから、
色んな持ち物を集めている金髪の女性の姿だった。

それは事務的に淡々と作業をしているいうよりは、
嬉々朗々と、すごく楽しそうに・・・
数人かで彼らを罵り、嘲り笑いながら、
衣類や貴金属を引きはがしたり、
あげく髪の毛を毟るかかのように切り取ったりしていて、
一言でいうと、ゾッとする光景としか言いようがない。

うわあ・・・と思い、ダメだこの子、イヤだ、と思った。

そういえば、
その子は脱毛症でレッグをつけていたのだけど、
ビジョンで見た女性は、ケタケタと笑いながら、
ユダヤ人の髪をひんむしっていたから、
その理由がなんか納得できてしまった。


ちなみに、私のその子に対する最初の印象は最悪で、
なんか・・・本能的に近づきたくないというのが働いて、
「あの子、嫌い」ってなのがダダ漏れだったと思う。
親しい男友達には、
「私、あの子ダメだわ」とはっきり言っちゃってたりした。
とても大人気なかったんだけれど。

で、その子はとてもその趣味のことが上手くて、
オフでは皆にチヤホヤされるアイドルみたいな存在で、
人に媚びたり甘えるのが上手な子でもあり、
私に対しても、友好的な態度なので、
「毛嫌い」してしまう私のほうが狭量なのだろうと思ってもいた。

けれど、その日を境に、
なんで自分がこの子が「ダメ」なのか、
野性的な本能?で拒絶反応が起きていたのかが、
その理由が判ってしまい、さらにダメになってしまった。

でも、そんなこと、誰にも話せることじゃない。
それにそれが本当かどうかも確実じゃない。
(当時は前世療法などは仕事にしていなかった)
それ以上は親しくならないように、
なるべく距離を保つようにしていたけれど、
趣味の"仲間"であることには違いない。

そんな彼女の情報は他の仲間と飲みに行くと、
どうしても耳に入ってきてしまう。

家庭環境も複雑で、リストカットの常連で、
抑うつ剤なんかも飲んでいる、とかとか・・・



私はまだヒーリングの仕事はしていなかったけれど、
たまたま、友人のちょっと名のあるヒーラーMさんが、
新しいスキルを学んだんで、
無料のモニターさん募集してるのヨロシクって話をされ、
それが彼女の精神の安定にちょっとでも役に立つのなら、
お金もない人なのでちょうどいいんではないかと・・・

紹介しちゃったりした。

大嫌いな子なのに。


紹介してくれた子が来たよー!

・・・とMさんから連絡が来て、

「随分とヘヴィーな子、紹介してくれたもんじゃない?(笑)」

と、かくかくしかじか話をした。

実はその子ちょっと、苦手なんだけどねーって。

したらば、

「でもさー 
 見捨てられないつーか 放っておけないンでしょ?
 なんだかんだ、ホントこーいう子、好きだよねぇ」

と言われて、

「え゛え゛ー 好きちゃうやん、
 むしろ嫌いよぉ 拒絶反応出てるモン」

なんで~私がああいう子好きだなんて、思うのよん! プリプリ

・・・だったんですが、その意味って後からわかった。

Mさんが言った言葉の意味。


そういや、昔から犯罪者や犯罪心理に興味持ってたんだっけ。
今でもそういうの読み漁ってるし、ネットでも見るし・・・


す、好きって、そういう意味かー!

あああ 納得。


だから、縁が出来ちゃうのねん。

興味持ってて、関心が強かった分野だから。


引き寄せの法則では、嫌いも、好きも同じ意味を持つから。

関心を持ち、調べまくって、知りたいと思う行為そのものが、

ダイスキーってことだもん。


ああ、そうかー 


あっちゃ~ って思った。


一度創ったエレメンタルは、消すことができない。

それも長い年月で、強固に創られたものならば、なおさら・・・



続く

2015/11/05

インスタント・カルマ

  インスタント・カルマ(因果応報)が、
 キミを捕まえにやってくる
 それはキミの脳みそを打ち砕く
 誰かと一緒に自分の身を守らないと
 たちまちキミは、死んでしまうだろう

 それなのに、お気楽に笑っていたりして
 一体、キミは何をしているんだい?
 そんな事をしている場合じゃないだろう?
 分かっているのかい?

 インスタント・カルマ(因果応報)は、
 必ずキミを捕まえにやってくる
 それは、キミの顔を覗きにやってくるんだ
 だから愛する人を守れ
 そして、全人類と繋がるんだよ

 インスタント・カルマ(因果応報)は、
 キミを殺しにやってくる!
 それは、キミの思考を停止させる
 だから、たくさんの仲間を愛するんだ
 皆、キミの事を知っているんだから

 なぜこの世界に生まれてきたんだい?
 決して、傷ついたり、恐怖に震えるためじゃないだろう?
 なぜ、地球に生まれてきたんだ?
 どんな荒涼とした場所にでも
 キミの居場所は、絶対にあるんだから

           byジョン・レノン
              「インスタント・カーマ」より抜粋


    ∞  ∞  ∞  ∞  ∞  ∞  ∞  ∞


アルバム発売時、タイトルをカタカナ表記にしたとき、
カルマではなく、カーマと・・・
たぶん原音(サンスクリット語)の響きがそうなんでしょうね。
でも、カーマより、カルマのほうが日本人には馴染んでたり。

この"インスタント・カルマ"の語意の訳に関しては、
色んな翻訳家の方が悩んでいるみたいですね。
私的には、因果応報でいいんじゃないかなって思ってますが。
そのほうが日本人には意味が分かり易いし。

でも、因果応報を英訳するとRetributive justiceになるし、
諺として似たものを探すと、what gose around comes around
(よい行為をすればよい報いが、
悪いことをすれば悪い報いがめぐってくる)とかとか。


で、結局インスタント・カルマはどういうことかっていうと、
日常生活の中でいとも簡単に作られている"小さい罪"
のことを指していて、カルマ自体が大きな罪だとするならば、
毎日呼吸をするようにごく自然に積み重ねている、
あまりよろしくない行い(小さな悪)、悪い習慣や癖って感じ。

まさにインスタントに作っちゃうカルマのことです。
タロットの教義でいうと、小アルカナで表されている罪のことね。

(だから、因果応報っていうとちと違うけど、
ほかに当てはまる、ちょうどいい短い言葉がないっっ
もしかしたら仏教用語の中にあるかもなあ)

でも、まんま「即席カルマ」という意訳でもいい気がする。
分かる人にしかわからない言葉になってしまうし、アレか。


その些細な、罪悪感もなしに積み重ねている小さな罪が、
どんどんたまりにたまって、まるで借金のごとく膨らみ続け、
大きなカルマへと成長していくわけですね。

うん。大きな罪なら人は自覚もするし、
他人に咎められることも必然的にあるけど、
小さな罪は気づかないし、みんなやってることだとか、
自覚がないことのほうが多いし、
他人もスルーするし、指摘されずに済んでしまうことも多い。

でも、大きなカルマになってしまう前に、
小さなカルマである内に・・・自らが日々創り出している
インスタントカルマの芽を早く摘んでおかないと、
取り返しのつかないことになっちゃうよ~ってのはありますね。



ジョンはビートルズ時代、一時インド思想にはまってたから、
(ほかのメンバーたちも)
まーこういう詩を書いたのだろう。
奥さんの洋子も日本人だから、仏教に造詣もあったろうし。

どういう意図や含みを持たせたて書いたかは分かりませんが。


ちなみに、カルチャークラブの「カーマ・カメレオン」も、
正確には「カルマ・カメレオン」で、こっちは掛詞として使われてる。
「宿業・運命」のことを気まぐれな女性に例えてるのね。
変わりやすい運命と変わりやすい女心をなぞらせて・・・

して、作詞を担当したボーイ・ジョージは、
イギリス人だけどれっきとした仏教徒です(改宗した)。
禅にはまってたから、たぶん曹洞宗か臨済宗のどちらか。



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 人の人生に与えたものが、
 そのまま自分の人生に戻ってきます

                  by エドウィン・マークハム


 お前の口からついてでる言葉が お前を生かすのだ
 お前の口からついてでる言葉が お前を殺すのだ

                  by ボブ・マーリィ

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街中の光景を見ていたり、日々過ごしている中で、
ふっと思うことをインスタント・カルマ標語にしてみましたっっ
いやさ標語にするとわかりにくいから、ちょっと長め。

うん。AC広告機構で採用してくれないかな・・・笑
 


「救急車が来たのに、
 止まらない、徐行しない車の運転手さん
 気にせず横断歩道を横切って渡っている通行人の方

 その救急車に乗っているのは
 あなたの家族や大事な人かも知れませんよ?

 その大事な人は、
 その数秒、数分の遅れのために命を落とすかも知れません

 そして、
 今まさに救急車に乗って、救急手当を必要としている人は、
 いずれ未来のあなたの姿になるでしょう
 いずれあなたの家族の姿になるでしょう

 その時あなたは、
 今のあなたのように、救急車の走行を邪魔する人によって、
 間に合うものも間に合わなくなるでしょう

 あなたが今していることは、
 未来の自分や大事な家族が救急車で搬送されたとき、
 誰かにその搬送を邪魔してもらうようにと、
 自分がそうされたいと、リクエストしていることなんですよ」



「消防車が来たのに、
 止まらない、徐行しない車の運転手さん
 気にせず横断歩道を横切って渡っている通行人の方

 燃えているのは、あなたの家かも知れません
 
 あなたが素直に徐行したり、足を止めなかったがために、
 あなたの家は何も残さずに灰になるでしょう
 あなたの家族への救助も間に合わないかも知れません

 あなたがほんの数分、待たなかったがために、
 あなたはすべてを失うことになるかも知れません

 もし燃えているのが、
 あなたの家でなく、知人でも身内でもなく、
 見ず知らずの垢の他人の家であったとしても、
 
 いつかあなたの家が火事になったとき、 
 ガス漏れが起きたとき、

 消防車が急いであなたの家に向かおうとしたときに、
 今のあなたのように、走行を妨害したり、
 急いでいるからと立ち止まらずに横断歩道を渡る人によって、
 到着は必ず遅れることになるでしょう

 あなたがしていることは、
 自分に対して、他人がして欲しいこと、なんですから

 今日あなたがしたことは、
 未来のあなたが払うことになる借金です」


「人が並んでいる列に横入りして、
 いけしゃあしゃあとしているあなた・・・
 
 あなたが、心から一番欲しいと切望しているもの、
 手に入れたいものを求めて並んだ時に、
 あなたが喉から手が出るほど欲しいと思っているそれは、
 あなたの目の前で他の人が手に入れることになるでしょう
 
 他人のものを奪ったあなたは、
 自分のものを奪われることになるのです
 それもあなたが人生で一番欲しいものに出合ったときに、
 その法則はあなたに戻ってくるでしょう」


「満員電車の中、他人が譲られた席に厚かましく座ったり、
 並んでる人を押しのけて無理やり座ったあなた、

 あなたは、あなたが一番疲れていて、ヘトヘトで、
 座りたくて座りたくてたまらないときに、
 やっと見つけた空席を他人に席を奪われることになります
 
 あなたに席を譲ろうとする人は誰もしないでしょう
 あなたは身体が座ることを欲しているときに限って、
 空席には出合えず、椅子に座ることは出来ないでしょう

 あなたがしたことは、未来の自分にしたことだからです」



 
 
他にもいろいろ思うところはありますが、
今はまだこんだけ。
思いついたら、追記してきます。




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 店員に不平を言った数時間後、
 隣人から電話がかかってきて、
 あなたの犬の吠え方がうるさすぎると文句を言われても、
 あなたはそれらを関連付けたりしないでしょう。

 友人と一緒に昼食を食べながら、
 共通の友人の悪口を言った後、
 職場に帰ると大切な顧客との間に
 深刻な問題が起きていることがわかったとしても、
 それらが関連しているとは思わないでしょう。

 夕食時に嫌なニュースを話題にした夜に、
 お腹が苦しくて寝られなかったといって、
 この二つを関連付けたりはしません。

 誰かが道端で落としたものを立ち止まって拾ってあげた事と、
 駐車場に簡単に空きを見つけた事を
 関連付けたりはしないでしょう。

 子供達の宿題を手伝った翌日、
 予想以上の税金が還付されると聞いても、
 それが関係しているとは思わないでしょう。

 友人を助けた同じ週に、
 上司からある競技への無料招待券をもらったとしても、
 それらを関連付けたりはしないでしょう。

 人生の全ての状況や瞬間に、
 自分では何も関連がないと思っても思わなくても、
 実際にはあなたは自分が与えたものを受け取っているのです。

              byロンダ・バーン「パワー」より

スピリチュアル依存と中毒①

 ときどきこの世は、
 思いやりなどまるでなく、 自分のために相手を利用しようとする、
 自分本位な人であふれかえっているように見える。
 彼らは、自分の欲求は他人の欲求より重要で、 
 何事も自分の便宜がはかられて当然と考える。
 思い通りにならないと、暴君のように怒り狂ったり 
 気の毒なほど落ち込んだりする。
 そのため、波風を立てないほうが無難に思えて
 彼らの欲求に応じてしまうことも多い。
 わたしたちはみな、そのような人を知っている。
 自分の親や兄弟や子供かも知れない。
 配偶者や恋人や友人、同僚や上司、
 あるいはクラブや会のメンバーかも知れない。
 彼らはどこにでもいて、
 彼らの人生とわたしたちの人生が絡み合うほど、
 惨めな気持ちにさせられる。
 ~略~
 その病はその本質ゆえに、
 わたしたちをお互い同士遠ざけるだけでなく、現実からも遠ざける。
 そして、
 私たちが手に入れたい、こうありたい、と願うものの実現を妨げる。
 その病の名を自己愛(ナルシシズム)といい、
 多くの社会悪の裏に潜んでいる。
 自己愛はいまに始まったことではない。
 虚栄心が強く、貪欲で、他者を操ろうとする人間や、
 慢心し、思いやりのない人間はいつの時代にもいた。
 現代の文化で厄介なのは、
 これらの欠陥が広く世間の承認を得ていることだ。

               by 「結局、自分のことしか考えない人たち」
                     サンディ・ホチキス著 草思社:刊

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私もその一人ですが、
スピリチュアルな仕事をする人間にとって、
ある種の依存的な人々に対して、
どのように対処していったらいいのか・・・

ということについて考えるのは、
仕事上必ず突き当たる問題で、考えざるを得ないテーマだったりします。

どうしても避けては通れない問題といいますかね。

数としては決して多いわけではないのですが、
この種の人たちは、トラブルや頭痛の種を持ち込むのがお約束で。


まあ、スピリチュアルな仕事だけでなく、
心療内科や精神科の現場の人たちも、常に直面している問題ですが・・・。


中毒も依存も、どっちもどっちで似たようなものですが、いろいろあります。

恋愛依存、セックス依存、物質依存、買い物依存、仕事依存、共依存、
地位や名誉に依存したり、家柄や学歴、肩書きに依存したりとか・・・

なんでもかんでも占いや迷信、お告げだの心霊の力だの、
スピリチュアルなことに頼ったりする、
占い中毒やスピリチュアル依存という問題も、
まったくもって、困ったことのひとつです。

そのくせ、依存や中毒にかかった人は、
アドバイスに頼ったようでいて、実のところ、
自分が望む「答え」を言ってくれることを期待していたりするのです。

自分が求めるものを与えられるまでは、

占いジプシーやスピリチュアルジプシーをして、
次から次へと、当てのない放浪を続ける人のなんと多いことか。


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スピリチュアルな事柄・・・
スピリチュアリズム(霊的なこと)というのは、
社会に適応できないことの言い訳に使われるための道具ではありません。

まして物質的な事柄や現実や社会を否定するために、
スピリチュアルな世界があるわけでもないです。

この物質的な世の中で・・・現実をしっかり生きていくための智慧であれこそ、
そこから逃避して、ファンタジーの世界に生きるための方法ではありません。

そういう世界(スピリチュアル)もあると知ったとき、
新たな視野・視点で、多角的に物事を考えることの出来る、
世界観と人生観を手に入れることが出来るだけです。

大事なのは、現実をしっかり見つめることです。
この世を・・・人生をしっかりと生きることだけです。

過去生を知ることも、カルマを学ぶことも、
霊などの見えない存在や、
そうした世界とどう付き合っていくか・・・ということも、
(そこから教えられること、すべて)

「いま」の自分のあり方を見つめなおし、
「これから」どうやって生きるかを、
よくよく考える手立てを得ることにしか過ぎません。

それが事実にしろ、「情報」は「情報」でしかないのです。


私は、グノーシス(霊的真理)とスピリチュアリズム(心霊科学)を
教える立場にあって、自らの経験からも、
そうした「見えない世界」を信じ、肯定する立場にありますが、

スピリチュアルな事柄が示している内容に現実逃避して、
現実をおろそかにする言い訳に使う人がいることが残念でなりません。


                        以下つづく・・・
 
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 不健康な自己愛の根底にひそみ、「悪い自己」が浸透した恥の意識は、
 年齢や状況に関係なくだれにとっても耐え難い感情であり、
 人はあらゆる方法を用いて恥を追い出そうとする。
 何より手っ取り早いのは、ドラッグやアルコールなど、
 否応無く現実から逃れる方法だろう。
 依存症の専門家たちは、慢性的で深く染み込んだ恥の意識が
 人を依存行為や強迫行為に駆り立てると考え、
 それらと自己愛とのあいだの情緒的な関連性を指摘する。
 自分を欠陥のある人間として体験することは
 激しい自己愛の傷つきをもたらし、
 気分を変えたいという抗いがたい欲求を生む。

                        引用の本より
                           自己愛と依存症

スピリチュアル依存と中毒②

やたらに強さを誇示したり、愛情を誇示したり、
 悲しみの感情を誇示したり、人はさまざまなものを誇示する。
 フロイトの説明を待つまでもなく誇示されたものは欠如を表す。
 つまり誇示された強さは弱さの裏返しである。
 誇示された愛情は冷たさの裏返しである。
 「自分なり」にこだわって、
 周囲の言うことに耳を貸さない人は実は自分がない。

 世の中には、
 そうした裏返しにされたものだけを表現しながら生きている人がいる。

 セーターを裏返しに着ていたら人にはどう映るか。
 人にはその人がセーターを裏返しに着ているということがわかる。
 着ている本人にはわからなくても、それを見ている人は変な人だなと思う。
 それと同じで、裏返しの感情を表現しながら生きている人を見て、
 私たちは何となく違和感を覚える。

 その人とは何を言っても通じ合わないような気持ちになる。
 その人とのあいだに壁を感じる。

 そういう人たちに「あなたは間違っている」と説得するのは困難である。
 そのような人はいったん自分に都合の良い思い込みをすると、
 それを訂正するのは極めて困難である。
 それはその人に自分がないからである。

 その人にあるのは劣等感だけである。
 その人が劣等感に支配されているからである。
 誰にでも劣等感はある。

 話し合いができる人は、その人自身が劣等感をコントロールしている。
 しかし自我が劣等感にコントロールされている人は、
 友人であれ、親であれ、先輩であれ、
 とにかく他人の言うことに耳を貸さなくなっている。

 難しく言えば、自我が劣等感に同一化している。
 その人イコール劣等感なのである。
 彼らは人の言うことに耳を貸すのが怖いのである。
 それは自分が間違っていると、
 心の奥底のそのまた底で知っているからである。
 耳を貸したら現実と直面しなければならない。
 現実に立ち向かわなければならない。
 自分は敗北者だと認めて、人生を改めて出発し直さなければならない。
 自分の非を認めない人々は、その恐怖に怯えている。

 ~略~
 自分の非を認めることができないのは、愛情を求めているからである。
 自分の非を認めない人は、
 同じように自分の非を認めない人と一緒にいると心地よい。
 「世の中間違っている」と一緒に言ってくれる人といると心地よい。

 一緒にいて心地よい人というのは、
 喉が渇いたときの塩水のようなものである。
 会っていれば会っているほど、生きるのが辛くなる。
 自分にとって心地よい人とは自分を地獄に連れて行く人である。

 しかしそのときそのときは、一緒にいることが最も楽なのである。

                 by「自分の弱さとどうつきあうか」
                   加藤諦三著 ダイヤモンド社

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他人とのコミュニケーションの場では、情報交換はよくあることで、

「どこどこのアレは美味しかった」「この買い物は失敗した」

といった、

グルメや買い物、健康や生活全般に至るまで(はてや他人の品定めも)、
口コミから得るものは大きく、なおかつ相手の趣味嗜好を知る上でも、
役に立つ情報のひとつであることは、古今東西で違いがない。

けれど、そのように相手から語られる情報はあくまで情報であって、
その情報に頼るかどうか・・・
情報から得た内容を、自分の生活に取り入れるか否かは、
聞き手が判断すべきことであって、
情報提供者は、「お薦めだよ」「良いよ」と、
せいぜいプッシュするまでに留めておくのが、人間関係のマナーでもある。


けれど、時にスピリチュアル依存症の人は、
多くの自己愛人間が示すのと同じように、
相手に対して、自分が「良い」と思ったものを強要し、
押し付けてくる傾向があったりする。

「あなたのためを思って」とか・・・
「絶対に、よいものだから」という風に・・・。

偽善の中に、
欺瞞と相手への支配欲求が隠されていることに気づかぬまま。

相手がそれを拒否すると、憤り、
もしくは相手の拒絶にもめげずに、「親切」は売られてくる。


なぜ、彼らはそうするのか・・・。

よくあるパターンとしては下記の通り。


薦めた相手に、
「これ、いいね」「教えてもらってよかった」と・・・
そう言われ、感謝されることで、
「自分の感覚が間違っていなかった」ということの安心を得たいのである。

つまり、彼らは、
相手すなわち自分以外の他人の同意を得ることで、
自分の正しさを「証明」したがっている。

そして同時に、相手に対して「優位」な立場に立つことを欲している。

「あなたのためだから」と、無理強いをするのは、
自分を証明し、優越を味わいたいがための行為とも言える。

それだけ自信がなく、
自分を保つ材料を自己の中に持っていないという証でもあるのだが。

尊敬されたい、認められたい、
他人に、すごいね・・・と言われたいのに、
自分の中に、「すごいね」と言ってもえらるだけの素養を、
何も持っていないということを、誰でもない当人が自覚しているから、
同時にそれは、借りてきた知識や権威などの
他のもので代用しようという代償行為でもあるのだけれど・・・。
(諺で言うならば虎の衣を借りる行為)


そこには、コンプレックスがあり、
自らが何も所持せず、空っぽであると言うことを自覚する空虚感がある。

自分は何も持っていない人間なのだ・・・という自信の無さ。

でも、他人から認められたい、褒められたい、賞賛されたい、という気持ち。

それは裏返しの感情。


自信の無さは、自分が「良い」と感じたことへの疑惑、
自分の感性に確証を持てず、
他人の価値観を通して・・・相手の正誤のフィルターにかけて、
その判断で「調べてもらおう」という依存めいた計算を誘致する。

そこには常にジレンマがある。

相手の下す判定が、自分の感性を否定する結果だったら?

・・・という畏怖。


でも、相手が「これ、いいね」と認めたなら、

その人よりも先に「良いものを見つけた」自慢になり、
相手にそれを「教えられた側」になることでの優越性を味わえ、
何よりも、自分が正しい判断をした(正しいものを選べた)証明となり、

相手に対して影響力を持つことの出来る自分を確認して、
その人のささやかなエゴイズムは満たされるのである。

しかし、それはすぐに不安にとって変わられる、
とても小さな、一時的な満足にしか過ぎないのだが・・・。


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なんだか生きるのが辛いと感じたときには、
どこか今までの生き方が間違っているのである。
その今までの自分の生き方の間違いを直さないで、
辛さの原因を自分の外に求めてしまうと、いよいよ生きるのが辛くなる。
今の生き辛さはいままでの生き方がつくってきたものである。

          
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上記に書いたような人物に、少なくとも私は過去、幾人かに会っている。

狂信的な宗教の信者だったり、
スピリチュアルヲタクだったり、一見普通の人だったり・・・

共通しているのは、
彼ら彼女らは皆、他人に対して強い影響力を持ちたい、と
欲している点であろうか・・・。

そうした人々は、今の自分、生活に満足をしておらず、
彼らの言うところの特別な「能力」を持った、
誰にとっても「特別」な人になりたいという願望を持っていた。

別の自分になりたいという切望。

それから、
「他人に対して、良いことをしている」
と思い込んでいるところに共通点がある。

ありがた迷惑なことをしているという自覚がないのもいえる所で。


なりたいと思う人を思い描き、憧れを抱くのはいいと思う。

憧れの人物が芸能人であったり、有識者であったり、
身近な、尊敬できる人であったり、
そういう「こうなりたい」と思える、目標とする人に出会えるのはいいことだ。


けれど、大事なのは動機である。

 スーパーマンになりたい
 ウルトラマンになりたい
 仮面ライダーになりたい

・・・子供ならそこまでいい


しかし、肝心なのは、
「何のためにそれらになりたいのか」
「ヒーローになって、何をしたいのか」
「何をしたくて、ヒーローみたいな立場になりたいのか、力を欲するのか」
だったりする。


でも、残念なことに、

得てして多くの人は、

力を誇示し、失われた自尊心を取り戻し、
他人に優越を感じて、自己満足に浸りたいがために・・・

おのれの野心とエゴイズムを満足させたいがために、

他人を支配して、すべてをコントロールして、

そうしたことに「利用」するために、

力を欲したりするようである。



単純にサイキックに憧れる人、
ヒーラーになりたいとか人を癒したいとか、

人を救いたい、・・・と、たやすく口にする人もそう。


スピリチュアル依存の人は、
そうやって、スピリチュアルを利用していたりする。

しかし、
自分がスピリチュアルな思想を自己満足と自己弁護のために、
「利用」していることにはなかなか気づけないところにいる。


                       とぅびーこんてぃにゅー

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 甘えを満たされないと人は周囲の人を恨む。
 それがその人の弱さである。
 彼らはとにかく周囲から認めてもらいたい。
 それだけに自分を認めない周囲の人々に対する憎しみは大きい。
 自分が求めるだけの愛が得られなくて、それが不満である。
 求めるだけの愛とは無条件の愛である。
 幼児が母親に求めるような愛情である。
 大人になってみれば、
 それはほとんど神経症者の求める愛と言ってよいかもしれない。

 単純に言えば彼らは皆わがままなのである。
 そのわがままがひどくなるのは、
 そのわがままの中に愛情欲求があるからである。
 自分のわがままが通らないことを、
 自分が愛されていないと解釈するからである。
 自分のわがままが通らないことを、
 自分が愛されていないと解釈するからである。
 だから甘えている人は怒りや恨みがひどい。

 自分が望むほどには愛を与えてくれない相手を恨んでいる。
 自分が望むほどには自分を評価してくれない相手を恨んでいる。

 恨んでいるということは、
 相手を受け身の形で攻撃しているということである。
 相手を攻撃しているから、
 自分の非を認めることができないのである。
 悪いのは自分ではなく相手だと思ってしまう。

 責任転嫁は攻撃であるという点を見逃すと、
 責任転嫁の心理を正しく解釈できない。
 自分の嫌いな人の攻撃を正当化するためのものが責任転嫁である。
 
 責任転嫁をする人は、
 「もっとオレを認めてくれ!」「私を認めて!」と、
 叫んでいるのである。

 人は周囲の人が好きなら、責任転嫁はしない。
 人は周囲の人が好きなら、突っ張らない。

 突っ張っている人は、責任転嫁をする人と同じように、
 「もっとオレを認めてくれ!」と叫んでいるのである。
 そして何よりも神経症的愛情を求めている。
 人を恨んでいる人は皆、神経症的愛情を求めている。

スピリチュアル依存と中毒③

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
 愛が無ければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、
 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
 愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い果たそうとも、
 誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、
 愛が無ければ、私に何の益もない。

 愛は忍耐強い。
 愛は情け深い。
 ねたまない。
 愛は自慢せず、高ぶらない。
 礼を失せず、自分の利益を求めず、
 いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、
 すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。
 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
 幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。
 わたしは、今は一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。

 その中で最も大いなるものは、愛である。

                新約;コリントの信徒への手紙1,13:1~13


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その昔、同じ研究会に属していた知人の男性は、
なぜ、心理カウンセラーの仕事を選択したのかとの問いに、

「人の心を操る仕組みをマスターしたかったから・・・」

と答えた。


彼の両親は彼がまだ幼かった頃に離婚していて、
そのせいで彼は妹とともに、祖父母に預けられることになったのだが、
母親が新しい恋人を作るたびに、
新しい父親になるかも知れない可能性を秘めた、
その男たちと暮らすことがあったのだという。

しかし、それは彼の心に深い傷跡と暗い影を落とすばかりで、
上記のように考えるに至った、屈折した人生観を与えることになった。

彼の母・・・の恋人となったある男性は、
幼かった子供たちに対して、自分への絶対服従をさせるがめに、
身体的暴力を与えるだけではなく、
完膚なまでに子供たちの自尊心を叩きのめし、考える力を奪い、
暴君と奴隷といった関係に、一切の疑念を抱かさぬよう
巧みにアメとムチを操り、洗脳という形での支配を成功させた。

彼はこの抗えがたい屈辱的な経験に復讐するために、
自分が憎悪する相手にされた術を知るべく、
その手段を得られるであろう道に進んだのである。

それは・・・その選択や動機は、
「間違っているよ」と、いうのはとても簡単だが、

大体にして、心理学や精神医学に関心を持ち、その道に進む人の多くが、
自らの病的な傾向、あるいは身内など近親者の問題を通じ、
そこを発端として、解明への好奇心をくすぐられて誘われていくのだから、
自分の過去への復讐という動機を、あながち否定することもできない。

健康な精神を持つ者(あるいは近親者にいない者)には、
不健康な精神を持ち、そのことに悩む者の気持ちは判らないのだから。

健全で五体満足な身体を持ち、病ひとつしたことのないものに、
そうでないものの気持ちや立場がわからないように・・・。

ただ、誰かに苦しめられた恨みをして、
自分がされたと同じ苦しみを誰かにも味合わせてやろうなどという動機で、
心理操作をされてしまう患者側としては・・・は、たまったものではない。

愛がないという以前に、
そこには患者への共感どころか客観性もなく、
屈折した復讐の代替行為でしかない。

復讐をすべき対象を見誤っているという以前に、
それでは彼自身が癒されるどころかかえって傷口をえぐりとるだけで、
救われない道へと他人を道連れにしているだけだから。


不幸な幼年時代の経験を、
もっと別の形に昇華することが出来たなら、
彼はその道の誰よりも、
他者からのコントロール依存に悩む人たちの側に立ち、
洗脳を解き、支配という鎖を断ち切ることの出来る、
素晴らしいカウンセラーになっていたろう。


しかし、彼は同様の理由で、魔術に興味を持ち、
サイキックな力で、人を支配し、畏怖されることに憧れを持った。

表では従順に病院勤めをし、
穏やかな人柄で、その陰はなかなか人には知られることはなかった。


いまは・・・そこからは脱出して、
彼なりの幸せと道を得られていると思いたい。


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私はもともと占いの仕事から今の道に入って、
オカルト(神秘学)だの魔術だのといった分野での勉強もしていたことから、
そのような人たちと知り合うことも多くて、
ニューエイジというムーブメントも身近で見てきた。


いじめられっ子だったり、社会への敗北感などの屈折した心理が、
超常現象への憧れを募らせ、特別な人間になりたいとの思いから、
カルト宗教に走ったり、自己啓発の誘い文句に魅了される人も多く、

魔術やサイキック的能力などに至っては、
他人を操ったり、周囲を見返す材料にするために、
超常的な能力を得たい・・・と望む人は多い。

しかし、

不健全な動機から、サイキック能力を開発しようと試みるものは・・・

不健全な精神のまま、人間的にも未成熟な状態で、
成熟した精神や肉体向けの過酷な鍛錬を行ったものの末路は
往々にして悲惨である。

彼らは精神を壊し、心を破綻させていく。
あるものは、エゴイズムに取り付かれ、妄想に支配されていく。
現実感を失って、モラルを荒廃させ、
自我を膨張させて、肉体すら操ることが出来なくなっていく。

(そんな人をこれまでにイヤというほど見てきた)


他人を操ることではなく、
自分を操ることこそが肝心なのに・・・・

己が欲望をコントロールさせることも出来ずに、
自分自身のマスターになることも出来ずに・・・
それ以前の問題を解決することも出来ないうちから、

人は、他人や運命のマスターになろうと欲張る。

そのことから多くの間違いを犯す。



まずは自分を知ることだ。
自分の傷を癒し、問題点と向き合うこと。

理性を使って、自分の感情と肉体をコントロールする術を覚えることだ。

それを教えているのが
スピリチュアルな道で、教えで、叡智だったりする。

スピリチュアル(霊的、霊性)というのは、
現実に反するものではない。抗うものでもない。
逃避の材料にすべきものでもない。

オカルトや魔術だってそうだ。


現実をコントロールするための、自我を満たすための手段ではなく、
自分のあり方を見つめて、宇宙そのもののリズムと調和するための、
バランスのとれた生き方をするための知識のひとつなのだから。


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ある人が言った。

「あなたは、そのうちスゴイ人になるかもよ」

「???」

はて・・・すごい人って何?

別のとき、このブログのことをその人が言った。

「まるで、ほん怖の玲子さんの漫画みたいねー」

「???・・・あら、そうなの?」



また、あるとき、その人が言う。

「あなたは、そのうち、
 江原さんや玲子さんみたいなことが出来るようになるかもよ」

「・・・・・・・???」

いや、仕事がまったく違います。

お役目も違いますし、それぞれ別人格てか、人が違うんで。


というか、たぶんこの人は、
私が仮に、江原さんや寺尾玲子さんと同じことが出来たとしても、
その人の目の前でそういうことをしたとしても・・・

「同じことをしている」

とは捉えないんだと思う。


テレビや漫画の中で表現されてることに「憧れている」のであって。
「事実」として、展開されている事象には、見る目を持たないだろう。

(とどのつまりが、スゴイ人というのは有名な人のことで、
有名かそうでないかっていうのが、スゴイことである基準なわけ。
有名である=スゴイ=信用できるという単純図式)


私にその「憧れの人物」と同じようになることを「望んで」いるこの人は、
実のところ、自分がそういうふうに「なりたい」人だったりする。

けれども、なりたくてもなれない自分がいるので、
そうした人たちに近そうなところにいる私に、
その憧れと理想を「投影」しているに過ぎない。

これは一種の期待なのだけれども。


つまりは、その人は、
自分がその手のスピリチュアルな人に憧れを抱くのと同じ「憧れ」を、
誰かが自分に対して抱いてくれることに「憧れている」人なのである。

でも、無理そうだから、
せめて私という身近にいる人間が、代理でそうなったりしたならば、
たぶん、彼女のちょっとした野心というか・・・
利己的な虚栄心は満たされることになるのだろう。

けれど、申し訳ないが、
私はそうした欲求をかわりにかなえてあげられる存在にはなれない。

私は私で、私の道を行くだけ。
私は私の仕事をするだけ。

私には私のお役目があり、私にしか出来ないことがあるのだから。

素晴らしい人たちを尊敬し、賞賛こそすれ、
私が彼らのようになる必要性はどこにもない。

スピリチュアル依存と中毒④

1996年3月末、私はアメリカにいた。そこで驚くべき事件がおきた。
 それは「ヘブンズゲート」という宗教団体のメンバー、
 三十九人が集団自殺したという事件であった。
 彼らはカリフォルニア州サンディエゴ口外にある豪華な家で自殺した。
 ヘール・ホップ彗星と一緒にUFOが迎えにくる。
 それに乗って神の国へ行くための自殺である。
 なんと彼らは自殺する前にビデオで自分たちの映像を撮っていた。
 テレピのニュースではそのビデオが放映された。

 集団自殺した彼らは、「私たちは特別な人間」で
 「自分たちは天使として地球に送られてきた」と主張していたのである。
 そして自分たちは、この世の一般の人々よりも
 精神的なものを大切にする優れた人々であると主張した。
 
 自分たちが死ぬのは、
 この世ではそうした精神的なものが与えられないからだというのである。

 彼らはこの世の中は自分たちが求めてるものを与えてくれなかったという。
 比喩的な言葉で彼らの言い分を説明すれば、
 自分たちのいる部屋の花瓶が汚れている。
 この花瓶は汚いから別の部屋に行きます、ということである。

 この世の中は私を理解してくれなかった。
 だから私を理解してくれる世界に行きます、ということであろう。
 これはまさに集団ナルシズムである。

 「私たちは高貴な存在、あなたたちは俗物」と主張しているのである。
 あなたたちには私を理解できないというのである。
 
 もちろん口ではそう言いながらも、
 彼らは心の底では世の中に認めてもらいたいのである。
 集団自殺した彼らも、
 あるいは「世の中なんてくだらない」と虚勢を張る若者も、
 「私を認めて!」「オレを認めてくれ!」と叫んでいるだけである。

 実は彼らの本質は精神的なものを求めるということとは反対で、
 強迫的に名声を追求しているだけである。

 彼らにとって第一に大切なことは「他人に優越すること」である。
 しかし、彼らには脂ぎった精悍な事業家のように強さがない。
 心の底では世俗の中での成功を求めながら、
 現実から逃げてしまっているために、今の生活からは満足が得られない。

 この集団は心が満たされていない人々の集まりである。
 そこで満たされない人々が集まって
 「私たちはこの世の中の人よりも優れている」
 と主張することで満足感を得ようとしている。

 彼らが求めたのは現実の世の中で「他人に優越すること」であった。

 優越することで自分の安全を確保したかった。
 しかし彼らには俗物政治家のようなエネルギーがないから、
 現実の世の中で他人より優越することができなかった。
 そこで「解釈」によって他人より優越しようとしたのである。

 私たちは高貴な存在、あなたたちは俗物。
 このように世の中を「解釈」することで、
 自分たちが求める優越を確保したのである。

 そしてこの世の中で生きている人たちは無知である、
 だから私たちはあの世へ行くと主張する。
 彼らは自分たちが世間の基準で測られるのを嫌がっているだけである。

 しかしこの自殺した人たちは自分たちの集団の優越性に酔っている。
 明らかに自己陶酔である。
 自分たちはこの世の中が与えてくれるよりものより
 もっと素晴らしいものを求めていると主張する。
 この世の中で感じることのできない善や正義を求めているのだと主張する。

 つまり「私たちは精神的なものを求める高貴な人間である」と言い、
 自己讃美に酔っている。
 自分たちのほうが、
 世の中の人たちより優れていると感じることで満足しようとする。


 「異質の(私でない)世界は劣等で、危険で、不道徳である。
 それゆえ、
 ナルチスティックな人は最後には非常にゆがめられた人間になってしまう」

 集団自殺した人々は
 実は自分たちが人間的なものを感じる能力を
 失っているだけだということに気がついていない。
 もちろん気がついていてもそれを認めない。

 自分たちが人間的ではないから、
 人間的なものを感じることができないのである。

 この集団に属していたメンバーは彼らを精神的なものの追求者であり、
 豊かな感情の持ち主であると言っている。


 しかし彼らは精神的なものの追求者などではない。
 それどころか俗物である。彼らの感情が鈍化しているだけである。


                  「自分の弱さとどうつきあうか」
                          加藤諦三著 ダイヤモンド社


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現実逃避のために、スピリチュアルに依存する人は少なくない。
得てしてそういう人たちは、スピリチュアルな事柄が、
とても「おキレイ」で「素晴らしいもの」だと思い込んでいる。

まるで、
天使や天女が舞い踊り、花爛漫に咲き誇る、
よく極楽や天国として描かれる、心地良い場所に憧れるように。

もしくは、漫画で描かれているような、
超常的な能力を有した人々が、ばっさばっさと悪霊や死霊を片付けていく、
刺激的でかっこよい世界のように、錯覚している人もいるかもしれない。

でも、現実はそうではない。

何か勘違いしている人が大勢いるとしか、いいようがない。

映画は映画、漫画は漫画、小説は小説・・・
それはそれで面白いし、娯楽として楽しむべきものだが、
フィクションはあくまでもフィクションなのだから。

光の戦士だの、ソウルメイトだの、アセンションだの、
魂のかたわれとか、守護天使がどうとかこうとか・・・
申し訳ないが、
私にはちんぷんかんぷんで、ついていけない世界。
(それが何をいわんや、はわかってはいるものの)

人を「助ける」とか「救う」とか、そんなことはおこがましいと思うし。

スピリチュアルとは、直訳そのままに、「霊性」でしかないし、
霊的な分野に与えられた俗称に過ぎない。



20年以上前、ニューエイジブームが沸き起こったとき、
(チャネリングや前世療法がもてはやされたブーム)
当時、私が働いていた占い館の近くに、
ニューエイジのイベントを積極的に展開していた、
その道では先駆者的に有名なショップがあり、
類似と言えば類似のジャンルで、店長同士も懇意にしていたことから、
その店のイベントのお誘いなどを頂くことがあって、
たまたま予定が合った日には、好奇心から参加することもあったりした。

ショップで働く人にせよ、参加者たちにせよ、
中には人間的で社交的な人もいたが、
多くの人たちは「かいつぶり」みたいに死んだ目をしていたように思う。

彼らに共通していた特徴的なこととしては、
ほとんどの人が、「あいさつ」をしないということ。

そして、人と話すときに目を合わさなかったり、
自分のことは話しても、人の話を聞かない(つまりは他人に興味がない)
・・・というのが、何とも印象的だった。

肥大した自我・・・選民意識は持っていても・・・
地球を救わなくては・・・なんてたいそうなことは口にしても・・・
目の前にいる人には関心がなく、
お互いを知ろうともせず、交流もしようとはせず、
共有する時間を楽しく過ごすために気を配ることや、
サービス精神のかけらひとつ、示すことができない。

・・・そんな人たちばっかりで。

いったい、何だろう? この人たちは?? と、

違和感と共に、大いに疑問を持ったものだった。
(嫌悪感に近かったかも知れない)
また、その占い館のお客として来てくれてた男性がいたのだが、
(常連さんで、何度も頻繁に通ってくれていた)

たまたま、来訪してくれた数ヶ月後に、
そのニューエイジショップの店長(雇われ)になっていたりして。

買い物があって、その店に行った際、
男性がレジにいたので、「あら、お元気」と話しかけたのだが、
占いのお客としてきたときの謙虚な低姿勢とは打って変わって、
お客に対する態度とは思えないくらいの、
尊大で、傲慢ともいえる失礼な対応をされてしまい、
いったい、こうしたショップの店長になれたことの、
何がそんなに偉いのか? それのどこが特別な人間の証だというのか?
・・・と、驚かされたというか、大いに気分を悪くさせられて、
二度とその店に足を運ぶことはなくなった。

すぐその後、ブームは去って、
その店は無くなってしまったのだが。



もちろん、当時も今も、
その方面に携わる人のすべてが、偏っているわけではない。

いつの時代でも、
勘違いしたり、意味を取り違えたり、解釈を間違って、
自分たちの都合の良いようにしてしまう人たちがいるというだけのことだ。

スピリチュアルや精神的なものが悪いわけではない。
それに携わるすべての人が常識知らずで、反社会的なわけでもない。

目には見えず、科学で解明されていない部分であるが故に、
確かな「かたち」として立証されたり、
定説が確立されてない世界のことなだけに、
どうとでもとれて、いかようにもされてしまう危険性をはらんでいて、
その結果の弊害というか、
妄想が入り込んでくる「隙」がたくさんあるのが実状なので。

現実を直視できない人たちが、
スピリチュアルに群がってくるのも致し方ない。

病んでいるのは己ではなく、
他者や社会のほうが誤った価値観を有していると、
つまりは、歪んだ自我意識を正当化するために・・・
スピリチュアルな事柄を隠れ蓑や盾にして、
武装したがる人が紛れ込みやすい領域だということなのだ。


だからこそ、正しく伝えていくことが必須ではあるし、
スピリチュアルな仕事に携わるものは、
現実と妄想を混同し、肥大した自我を投影してくる人物には、
要注意ということなのである。



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 もしあなたが今、属している集団に寄りかかって生きているならば、
 その集団の仲間のあり方を十分に調べてみる必要がある。
 彼らと同じように不幸にならないために調べてみる必要がある。
 つまり彼らのように不幸になることを避けるにはどうしたらよいかといえば、
 応えは簡単である。仲間を調べることである。友達を調べることである。
 あなたの今の人間関係を調べることである。

                     「自分の弱さとどうつきあうか」
                          加藤諦三著 ダイヤモンド社

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数年前、
とある二人の人物と、某県にある三箇所の神社を回ったことがある。 

あるラインを「お掃除」するためなのだが、
同行した二人には、それを手伝ってもらう反面、
その方法を教えると言う目的もあったし、
なおかつ、試して、ある経験をさせるという目的があったりした。


最初に訪ねた神社は素晴らしく、良い氣の満ちた場所で、
二番目は最初の神社に比べると平凡で、
決して悪い神社ではなかったが、力も弱く、
もともとの敷地(神域)が道路によって分断されたことの問題が起きていた。
ここは三点のラインの中点で中継地点。

極めつけが三番目、最後に行った神社で、
ここは最初の神社(基点)から引かれたラインの終点となる位置だったのだが、
一言でいうならば、汚染が酷く、毎日の浄化もされておらず、
人々の欲望のエネルギーとそれに引き寄せられた動物霊の吹きだまりと化し、
もうエライことになってたりした。

物質的なものでいうなら、下水・・・より酷いか。
(ンコとゲロまみれ。虫わき放題なイメージ)

「え゛ーーーーーーーーまじぃ? 
 ここ、掃除するの? ホント? 誰か嘘だと言って!!」


・・・・内心の叫びとしては、こんな感じ。


でも、やるしかない。

本音としてはやりたくないけれど・・・。


同行した二人にも練習で、やってもらったのだが、

「ある経験」をさせるためが第一の目的だったということもあり、
ひよっこな二人にはまず無理な場所。

完璧にはできず、されど、それでよし、で、
残りは改めての宿題に(それやるの私だし・・とほほ)。


しばらく日が経ってから、

二人のうちの一人が、

「あそこ行ってから、
 なんかスピリチュアルなんて、もうイヤだって思って、
 思い切り、嫌いになってました」

・・・と、
言葉は正確ではないけど、上記のような意味の内容を伝えてきたり。



そう、それが目的だったりする。
もちろん、そう仕向けたのは私ではなくて、
ガイドさんたちの意図、策略?だったりするんですが。


スピリチュアルって、決してキレイごとじゃないよ、と。

あなたが考えているようなものではないよ、
現実は、こういう「汚いもの」をたくさん見ていくことなんだよ、と・・・

皆、スピリチュアルに「魔法の杖」を求めて、
ヒーローや変身魔女っ子ものみたいな、
ゴミを花に変えちゃうような奇跡を期待するけれど、

現実は、汚部屋にある「汚物」や「ゴミ」を一つひとつ手で片付けて、
湧いた無数の気持ち悪い虫を一匹ずつ退治して、
額に脂汗かいて、ごしごし力を入れて汚れを落として、
・・・・というようなことを、
自分が汚物まみれになって、やっていくことなんだよ、と。

全然キレイな仕事じゃない。

キレイごとで済む世界じゃない。

他人の過去(悲しみや罪)を見ていくことも・・・
その人に取り付いた霊を浄霊することも、
エレメンタル(生霊や欲望によって創られた想念)を処理することも、

力仕事といえばそうだし、汚れ仕事といえばそう。

人の醜さ、愚かさ、浅はかさ、弱さ、
気持ちが悪くなるような出来事も、全部見つめることができなければ、
できる仕事ではないよ・・・と。


それを思い知らせる意味での、汚れた場所でのお試し。


・・・・ええ、実際、厳しい仕事ですから。

浮かれた気持ちで・・・「いいこと」するつもりで、
勘違いしていると痛い目に合うし、罠が張り巡らされてる怖い世界でもある。


(エネルギーって一口に言うけれど、
それらの塊は・・・人間の醜い思念で創られたゴミたちは、
ホントに○ンコみたいなもの、いやそれ以上だし、
唾液まみれ、ゲロまみれ、人間の遺体が腐敗して放つ腐臭のごとく、です。
呪いしかり生霊、嫉妬や依存の気持ち、憎しみとか執着の念とかね・・・
物凄い汚い、恐ろしいものばかりなんですよ。
人間にこびりついた、汚物や油汚れや湯垢以上のソレを、
こそぎ落として、化石化してミイラになったものとかを引き剥がして処理して、
まあ、ゴミ処理業者を超えた特殊清掃業の仕事並みです。
海外ドラマ「ゴースト~天国からのささやき」なんかは、
死者の導きをとてもドラマティックに描いてて、とても感動できるけど、
あんなんは、所詮ドラマですから。
同じドラマでも「ミディアム」のほうが現実に近いかな。)



その人には、スピリチュアルというものが・・・言われているものが、
気分を高揚させ、自分を優しく癒してくれる、
甘い砂糖菓子のようなものに見えていたのだろう。
実際、そのようなものを「スピリチュアル」に期待している人だったし。
そんな風にスピリチュアルなことが、
自分を「変えてくれる」何か良いもの・・・
魔法や奇跡の薬のように思い込んでいる人は多い。
(それは麻薬のような「夢」を見させてくれるものとしての)

自分自身も、自分の周囲も、運命も現実も、
スピリチュアルなことはそれらを良いように変えてくれて、
勉強し、携わることで、
自分も誰かを変えたり、世の中を変える力が手に入ると勘違いしている人は。

それは、このコラムの以前のページに書いたように、

他人に対して、影響力を行使することができる自分に憧れていたり、
今の自分ではない別の自分になりたがっているだけのことだ。
(つまりは現状や自分自身に不満を持っているということ)


でも、そういう人たちは、周囲の人をまったく見ていない。
現実の社会、世界をほとんど見ようとしない。

「地球のために平和を祈ろう」とか、
「世の中のために尽くしたい」とか、
「人を癒したい」
「他人の力になりたい」

と、よく言葉ではそういうことを言うものの、
そういうことをやたらめったら口にする人に限って、

世界情勢だとか、リアルに起きているニュースには無関心で、
差別や人権問題で亡くなっている人がいるとか、
戦争や飢餓やエネルギー問題(原子力等)だとか、
そうした話題にも触れようともしない人が多いのは事実で。

実際、そのような人たちが今回の地震のボランティアに行くか、
というと、行動に移す人は圧倒的に少ないし、

今目の前にいる人たちに・・・
手を伸ばせば届くところにいる、助けるべき人たちに、
現実的にいま自分が何ができるか、なんてことを、
具体的には考えようとしなかったり、手を出そうともしなかったり、

自分が関われるリアクションが目の前に差し出されても、
見えていないかのようにスルーして、「ふうん」といわんばかりで、
いつだって目は見えないものを追っていたりする。

現実には冷淡で、非現実なことに対して親密で。

自分からは何一つ与えようとはしないで、与えられることばかり考えていて。

残念なことに、そういう人たちをたくさん知っていたりする。

飲み水を無駄にして、食べ物を粗末にして、
援助を求めている人たちの声を聞かないで、

今この瞬間に亡くなっている人たちのことには、心をはせることをせず。
隣人との関係から何も学ぼうとせず。
積極的に社会活動に参加していくことすらせず。


この世の中を良くする為の現実のリアクションは軽視して、
頭の中で語られる、スピリチュアルなことにだけ、価値を見出す。

何という矛盾。



一体、何のためのスピリチュアルなんだろうか?

その人たちにとって、スピリチュアルな生き方って何なのだろうか?

それで、神だの天使だの宇宙だのワンネスだの無条件の愛だの、
地球や人を救うだのって、どういうことなんだろう?


                        

                       まだまだつづく・・・みたいです。


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 ダスカロスに会う以前の私は、
 ニューエイジ思想に憧れ、本をたくさん読んでいました。
 ニューエイジの考えは、
 
 「私たちはみんな光の子」
 「一人ひとりに使命があり、使命を果たすことで地球が救われる」
 「1、2年で悟ってヒーラーになり、地球を救うことができる」

 というものですが、
 
 ダスカロスとの出会いは、
 そんな幼い考えを脱却していく、大きなステップとなりました。

              by ハラランボス・ランバート
             「ダスカロスの思い出~エソテリック・ティーチング」


スピリチュアル依存と中毒⑤

アダルトチルドレンや共依存は、
 「機能不全家族」を背景とした病理的現象とも言える。


 アダルトチルドレンは、「嗜癖」を症状として呈する場合がある。
 また、アダルトチルドレンは、「嗜癖」の家族に育っていることが多い。
 
 「嗜癖」(アディクション)とは『強迫的行動』のひとつであるが、
 現代人は襲い掛かる不安を打ち消そうとして、
 「嗜癖」へと走っていく場合が多い。
 現在、嗜癖臨床の領域では、

 「嗜癖」を
 「物質嗜癖」(サブタンス・アディクション)
 「過程嗜癖」(プロセス・アディクション)
 「関係嗜癖」(リレイション・アディクション)
                  の三つに分類している。

 第一の「物質嗜癖」には、
 アルコール嗜癖、コカインやクラックや覚せい剤などの薬物嗜癖、
 ニコチン嗜癖(タバコ中毒)、カフェイン嗜癖(コーヒー中毒)、
 拒食症と過食症の摂食障害、などが挙げられている。

 「過程嗜癖」には、
 マージャンやパチンコや競馬などのギャンブル嗜癖、
 セックス嗜癖、仕事中毒(ワーカホリック)、貯蓄嗜癖、
 エクササイズ嗜癖、世話焼き(ケアテイキング)嗜癖、
 コントロール嗜癖(支配嗜癖)、恋愛嗜癖(愛しすぎる女たち)、
 消費嗜癖(買い物しすぎる女たち) などが挙げられている。

 また最近問題になっている、宗教に過剰に強迫的に信仰するのは、
 カルト嗜癖や宗教嗜癖と呼ばれている。
 その他に、強迫的にスピード狂になるスピード嗜癖や危険嗜癖、
 活字中毒になる読書嗜癖、
 テレビを強迫的に見ているテレビジョン嗜癖、なども挙げている。

 「関係嗜癖」には、
 シェフは夫婦や恋人などの男女関係や親子関係などを挙げている。


                       「アダルトチルドレンと共依存」
                             緒方明著 誠信書房

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自分で物事を決められない人がいる。

自分の人生に、自ら責任を持とうとしない人たち。


「私にとって、何が一番良いことなんですか?」

「どうすればいいですか?」

「どっちが私にとっての幸せですか?」


こういう仕事をしていると、昔から多々聞かされる質問。


マニュアルを求めているというのか、
指示されたり、保証がないことには動けないというのか、
他人にレールを敷かれることに慣れすぎているのか、
世間一般でいうところの正しい道、世の中の規範から外れたくないあまりに、
自分にとって、何が良くて悪いことなのか・・・
誰からも認められる「正しい生き方」をしなければという強迫観念から、
(道に逸れてはいけない、いい子でいなければという刷り込み等)
何が正しくて間違っていることなのか、
自分で考えられることができなくなってしまった人々。

行過ぎると、情緒障害にも似た、
何が好きで嫌いなのか、
自分が楽しいこと、楽しくないことの判別もつかなくなって、
五感障害というか、感覚麻痺を起こしている人も少なくない。

それは自分と向き合うことをせず、
誰かしらの顔色ばかり、窺って生きてきてしまったツケだろう。

親を満足させ、その期待を裏切りたくないがために、
他人に好かれたいがために、
常に周囲のリクエストに応えることばかり優先して、
自分の本心を偽り、誰でもない
自分自身を裏切って、ごまかして生きている人の何と多いことか。


これは日本の教育制度や家庭での躾といった、
個人の自主性よりも周囲に合わせることを美徳とし、
協調性というよりは右に倣うこと、長いものにまかれることを教え、
決して個性を伸ばそうとはせず、
生きる力を与えるよりも、その創造性を奪うばかりである、
社会全体の責任であるようにも思う。



さて
学問や哲学としての運命学にしても、
偶発性や啓示としての占い(ト占)にしても、
スピリチュアルな視点からのアドバイス、
はてまた心理学を礎とした正当なカウンセリングやセラピーにしても、

ようは使いようで、決して無用なものではなく、
その時々の問題に応じて、
有益に役立てるべく、使い分ければいいだけのこと。

方法はなんであってもいい。
やり方の違いは大して問題ではなく、
自分自身および自身が抱える問題と対峙して、
第三者の意見を得て、客観的かつ多角的に状況を捉えるため、
そうしたことに取り組むための時間を持つことが重要なのだから。

つまりは、いったん足を止めて、
状況を振り返ったり、過去からの見直しをしたり、
他人に心情を話したり、第三者からどう見えるのか人の意見を聞いたり、
そうやって感情を整理して、理由づけもして、
自分の身に起きていることがどんな意味を持っているのかを考えたり、
他人との関係性におけるポジションの見直しや
価値観をチェックしなおすなど、

生きているうえでは、そうした行為は必要不可欠なのだから。

自分ひとりの頭の中で、ぐるぐる反芻していても、
新しい視点や視野、発想が生まれてきそうにもない場合、
自分が受け入れることができる、信頼できる人や
専門的な知識を持った人のサービスを受けることは、
それなりに必要な投資であるとも言える。


ただ、補助的なサポートを求めてではなく、
すべてを丸投げして、自分で考えることの責任も放棄して、
何もかもを相手に決めてもらおうとするような、
そういった依存的な頼り方は、極めて不健康であると言わざるを得ない。

問題を解決したいというよりは、
自分が「期待」している理想の未来を告げられることを夢見てる人は
まったくもって問題外であるし。


また、そのような頼り方をする人にとって、
占いやスピリチュアルというのは、
残念ながら、役に立つどころか、自ら考える力を失わせ、
人格を損ない、自立を蝕む、
実害のあるものになってしまっていることのほうが多い。
占いはあくまで占いで、
未来予測に至っては、天気予報のようなものでしかないのに、
その結果に左右され、振り回される人がいる。

相手の気持ちさえも、自分で確かめることもせず、
占い師が告げる言葉を真実と錯覚する人がいる。

良いことだけを期待して、何かが起きるのをひたすら待ち構えて、
積極的に運を切り拓こうとは一切しない、受け身の人たち。

自分の運はいいのか、悪いのか・・・

そういうことを気にする人がいる。

努力もしないで、運だけを期待する人。

つまりは「運」が回ってくることを待ち構えているという意味で。

宝くじが起きるような良いことが、
誰もがうらやむような素晴らしい容姿の良い、自分好みの人が、
ある日突然現れて、自分のことを好きだと言ってくれる・・・

そんな「良いこと」があるよって、
占いが・・・スピリチュアルなメッセージが、
いつか伝えられる・・・そんなことを夢見る人たち。


でも、

「運」は努力したものにしか与えられない。

「運」は性格にあり、
その性格、その考え方が
今の人生、状況という現実を創ってきたのだから。

あなたが選択した未来が現在である。

その性格が故に、引き寄せたものたちに囲まれているのである。

結果として現れていること、引き寄せたものに不満なら、
まず、自らの性格を見直し、歪んだ思いや誤った考えを知り、
これまでの価値観や選択の間違いに気がつかなければいけない。

つまり「現在」を変えなければ、
「未来」など創造できないのである。

「性格」と「思考」を変えていかなければ・・・
問題を手放すことをしなければ、
新しいことなど何も起きないし、
「運」なども手にいれることができないのである。



しかし、

いつまでも受け身でいたい人は、

「こうすればよくなるよ」
と、

改善点、変わるべき点、どう努力すべきか・・・

ということを伝えても、

「難しい」というばかり。


占いに依存して、
占いを上手に活用しない人の中には・・・
そんな風に努力をすることはイヤだといい、
ただ「幸運」が訪れるのを期待して待つだけの人が圧倒的で。


100万円のものを欲しがるなら、
100万円がないことには手に入らないのに・・・

一億円の価値がある恋人が欲しいのなら・・・
その相手に見合った、
一億円分の価値のあるイイ女にならなければ、
その恋人の心を魅了することなんてできないのに・・・

自分の価値はそのままで、100円の安い人間のままで、
一億円の価値あるものを欲しがる人間が多すぎる。

幸福になりたいと願いながら、
その幸福を得られるだけの、
価値ある人間になろうとはしない人が多すぎる。

そのことの努力は放棄して、
自分で自分を幸せにしようとはせず、
誰かが自分を幸せにしてくれるのを期待して、

与えられることばかり夢見て、自らは何も人に与えようとはせず、
他人に求めるばかりで、自分には求めようとせず、


そして、そういう人に限って、

自分にとっての「幸せ」が何たるかをわかっていない。

どうすれば自分が満たされるのか、

自分が幸せを感じることができる瞬間が何なのか・・・

他人に問われられても、即答できる人はほとんどいなかったりする。



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 まず、「共依存」が生まれる第一の重要な段階は、
 不健全な機能不全家族や機能不全社会が存在することである。
 そのような家族や社会に住んでいれば、
 子供は健全な人に出会うことができない。

 第二の段階では、そのような機能不全家族や機能不全社会に育つと、
 「見捨てられ不安」が出現する。
 次いで「屈辱感」が出現する。
 さらに、その他の種々の心的外傷体験を経験すると、
 子供の心には傷つきが生じ、
 「真の自己」(トゥルー・セルフ)は姿を消してしまう。
 そして慢性的に「空虚感」が持続してしまう。
 
 第三の段階では、子供はその「空虚感」を埋めようとする。
 人生を「偽りの自己」(フォールス・セルフ)で生きていくか、
 外からの力を借りて「空虚感」を埋めるかの方法を取るようになる。
 これが「アダルトチャイルド症候群」と呼ばれる初期の、
 「一次共依存」(ブライマリー・コ・ディペンデンス)を生み出すという。

 
 そして「空虚感」を、人、物、行動などで満足させようとする。
 それが挫折すると多彩な症状や行動となって、
 海面上に出てくるようになる。
 
 それは、抑うつや不安、物質依存、摂食障害、
 ストレス性障害、関係嗜癖、強迫症状の六つである。

 アダルトチルドレンは初期の「一次共依存」を形成するとされるので、
 アダルトチルドレンは、
 その後に、成人の「共依存」へ移行することになる。


                              前出の本より


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モノに依存する行為もそう。


これをすれば「よくなる」

これを身に付ければ「よくなる」

やれ開運だの方位だの、アクセサリーや大安吉日、縁起をかつぐことも。

ときに迷信には根拠があることもあるし、
縁起をかつぐことは別に悪いことではない。
それで気持ちよくことが進められるのであれば。

モノに依存するエネルギー~開運のハナシ
にも書いたけれども・・・

パワーストーンのアクセサリーにしても、なにがしかの幸運グッズにしても、
モノが「幸せにしてくれる」といわんばかりに、
それに頼り切るのは・・・執着するのは、とてもよくないことだ。

とても醜いことというのかな。


そんな風にモノに頼り切って、
「こうすればよくなる、ああすれば幸せになれる」みたいに、
依頼心と依存心の塊みたいな人のエネルギーは、正直とても見苦しい。

肉眼で見えないからいいようなものの、
エネルギーが人にすべての人に見えたなら、
その人が、汚物まみれの状態で、
特撮モノに出てくる醜い怪人、はてまた怪獣や宇宙人のごとく、
恐ろしいものであったりして、本人も自分の姿に耐えられなくなるはずだ。

「こうすれば、よくなる」「これが自分を幸せにしてくれる」

なんて考えは、煩悩であり、欲望と妄執というモンスターそのものだから。

(だから、視えなくて幸いなのである。
人が、この物質界(三次元)以上のものが視えないのには理由があって、
視えていたら、もし視えてしまったならば・・・
人間が毎日大量に作り出している、
恐ろしく、醜い・・・欲望から生まれるものを直視することに耐えられず、
絶望と狂気の中に引きずり込まれるかも知れない。
だから、軽い気持ちで視えるようになりたいなどと思うべきではないし、
まずは己の心をキレイに磨き上げることのほうが、先であると思う。
今まで創ってきた汚いものを断捨離するべきだ)

そうしたモンスターを身体の外にも内にもはべらせていて、
そんな汚らしいエネルギーの状態で、
美しいキレイなものがよって来るわけはない。

幸せ・・・は、とても美しく、波動の高い、ピュアなエネルギーだから。

ンコとクサヤとドリアンと、腐敗した死体の臭いプンプンさせて、
それで幸せを引き寄せられるなんて・・・

まず無理だってことに気がついて欲しい。


ヒーリングセッションの現場では、
まずそういった、その人が今まで創ってきた、
「おぞましく汚い」醜く歪んだエネルギーのお掃除から始まる。
それがスタートで、基本中の基本ともいえる。

だって、それをしないことには、どうにもならないから。

汚れまくって、ものすごいことなっている部屋に
キレイな家具やインテリア、ファブリックをあしらうことはできないし、
鼻が曲がるほどの臭いで、臭くてたまらない人に、
素晴らしい芳香の香水をつけても、
元の臭いで消されて台無しになってしまうわけで・・・

そんな風に、

汚れた醜いエネルギーまみれの汚染された人に、
波動の高い、良いエネルギーをいくら注入(らぶ注入?)しても、
・・・なので。

それが実状。

そして、ヘドロは後から後から湧いてくるものなのですよ。
そこに巣食う虫とともに・・・


                 で、このテーマシリーズまだまだ続く。

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 子供時代を、
 子供として過ごすことができなかったアダルトチルドレンは、
 周囲に気を使い、自分の感情を抑えて子供時代を過ごしている。
 したがって、
 大人になっても、素直に自分の感情を表現することができず、
 自分の気持ちを言いたいときに言い出しかねたり、
 抑えすぎて急に感情が爆発したりする。
 泣くときに泣けなかったり、
 ひとりぼっちで声を立てずに泣いていたりする。
 その抑圧された感情が、怒りになることもある。

 さらに、特定の感情経験に反応して、
 転職、結婚、離婚などのときに、
 「白か黒か」の決定的な決断をしてしまいやすく、
 「生きづらさ」を自らも体感している。

 また、大人を信用できない子供時代を送ってきたので、
 他人を信頼する力が弱い。
 したがって、他人を信頼していないので、
 援助や助けを求めるのが下手である。
 同時に、
 甘えたくても甘えることができない子供時代を送ってきたので、
 依存したくてもできずに、
 自分の心をコントロールしたがったり、支配をしようとする。
 さらに間接的に相手の心もコントロールしたがり、
 支配しようと一生懸命になる。
 しかし、相手のコントロールや支配が失敗すると、
 相手を恨み、信頼しなくなる。

 子供時代を寂しく暮らしてきたアダルトチルドレンは、
 大人になっても得たいの知れない寂しさにさいなまれたり、
 抑うつ的になったり、不安になったりする。
 結婚や恋愛をしていても寂しく、家族を持ってもなお孤独なことがある。
 そして相手から見捨てられることに過剰に敏感であったり、
 自分が相手を見捨てるのに過度に鈍感であったりする。
 また、両親の葛藤や家族関係の歪みに、
 自分が関連しているのではないかと感じて子供時代を過ごしていると、
 自責感が強く、自己評価も低くなりやすい。
 夫婦関係や家族関係が悪くなると、
 自分を責めてしまい、自己卑下してしまう。

 感情表現、信頼、依存、支配などに問題のあるアダルトチルドレンは、
 上記のように、家族や会社での対人関係に微妙な問題を起こし、
 「生きづらさ」を感じながら、人生を送ることになる。


 
                               前出の本