2015/11/17

贖罪と受容~赦すこと赦されること(中)

時々、
個人セッション(過去生セラピーやチャクラヒーリング)において、
下記のような質問を受けることがある。

「ブログのケースファイルを読むと、
皆さん、ハードな体験を過去にされていたり、
罪を犯した人生があったりするようですけれど、
私にはそのような罪深い過去生はないのですか?」

もしくは、
「なんか、とても悲惨で辛い目にあった人生ばかりのようで、
被害者というか、幸薄い人生ばかりだったんでしょうか・・・?」


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現実社会では、たまに「オレ、昔はワルだったんだぜ」と、
過去の悪行自慢をして、素行不良の歴史を勲章のように、
いきがるための材料にする人がいるけれど、
そういう風に言う人ほど、
大したことはしていず、真の悪人には程遠い。
いずれにしても、自分のしたことをよく理解していたなら、
恥ずかしいを通り越して、
申し訳なさと犯したの重さで潰されそうになり、
まして自慢しようなどと思うに至らないだろう。

だからこそ、
自慢するような輩は、
単なる自分を大きく見せたがる腕白自慢の小物で・・・
でないならば、
それをするものはサイコパスや真正の悪人ということになる。

普通ほとんどの人が、
自分が罪人であるとは・・・悪人であるなどとは思いたがらないものだ。
できればいつの時代でも善人で、まっとうな生き方をしていたと、
望むべくは人に好かれ、慕われ、
社会的に認められるような仕事を持ち、生きていたと信じたがる。
過去生の自分は今の自分が誇れるような人であって欲しいと・・・

でも、人は様々な経験をするために「生を繰り返す」ので、
ひとつの魂としてこの世に何度も輪廻転生する過程において、
何人たりとも、ひとつの罪も犯さなかったものはいない。
私たちは善を知り、悪を超越するためにたくさんのお試しを受けるので。
悪を知り、罪を知り、愛を知り、善を実践し、愛を表現していくまでに、
人は何度でもカルマのレッスンに臨む。
常に善の側であり、善のみを実行していた人などもいないのだ。
他者の過ちを理解するために、自ら罪を犯して、
未熟な人を赦すことを覚える必要のある人もいるし、
誰かに痛みを与えるために、悪人の立場を受け入れる人もいるので。


さて、理性があり、人としての情、善悪の自覚がある人は、
人に自慢できないようなこと、他人や世間から咎められるようなこと、
すなわち罪・・・と呼ばれるようなことをした自分に罪悪感を持ち、
そのような過ちをした自分を、過去を忘れたいと願う。


ここで冒頭の答えになるが、

己が犯した過去の罪を突きつけられて、平気でいられる人は少ない。
それを知る必要のある人、知るべき時期が来ている人を除いて。

また、得てして人は自虐的かつ内省的に己が罪を振り返るより、
問題の種(原因)を外に求めるし、
周囲や他人のせいであると考える傾向にある。

だから、まず過去生で「傷」になっていること、
今の人生に影を落としている過去生の出来事は、
被害者的な立場であるときの出来事や
そのように捉えている思考の癖が、
原因となり、影響を及ぼしていることが多かったりする。
(事実よりもその人の感情や意識の受け止め方が全てなので)

その人の意識が目覚めて、精神が成熟して、
自分にも他人にも差別意識を持つことなく、
あらゆることを受け止めて理解できるようになるまでは・・・
己が犯した罪を知ったとき、
その罪の真の意味での功罪と贖罪を理解し、
なおかつ自虐的かつ嗜虐的に走ることをせず、
自分の人生の血と肉にすることが出来るようになるまで、
知らせる必要もないことだから。

幸福で満たされた人生は、癒すべく材料、必要がない。
思い出し、知ることで今の人生の選択に役に立ち、
未来への希望やヒントを得られるようであれば、
伝えるのに邪魔は入らない。
けれど、その人の単なる好奇心やエゴイズムを満たすためであれば、
知ること、伝えることは罪になるので、教えることもない。              

なので、
どうしても被害者として記憶されている出来事から受けたダメージ、
ネガティブな思い癖の解放と
そのダメージを癒すことが最初になってしまう。

けれど、ここで注意しなければならないのは、
その人が「被害者」として痛みを伴う人生を味わうことになったのは、
それなりの理由があるということだ。

それは、悪を・・・罪を犯したことに対しての、
反省を促すカルマのレッスンとして起きた出来事かも知れないし、
単純に被害者としての痛みを
知るためのレッスンだったのかも知れない。
その背景にある理由は様々で、人によって異なっている。
一つとして同じ理由ということはない。

ある意味で、過去生のトラウマに苦しめられることでさえ、
大切な気づきを促すための、レッスンという場合もある。
その場合は、そのトラウマに苦しめられる状況を、
安易に癒してはならなかったりする。
その人を苦しめ、重荷となっている「悩み」や「障害」の原因を、
ただ可哀想と考えて、何故その苦しみがあるのかを理解せず、
安直に取り除こうとしたときには、
その人がその苦しみの中から気づかなくてはいけないこと、
会得しなければいけなかった感情を
育てる機会を奪うことも時にあるので。

※この話については
そのうち別の記事の時にでも例を出して説明しようと思う。


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「なぜ、我々は過去世のことを覚えていないのですか」
と誰かが聞いた。

「その方が自分のためだからだ。
過去の習慣や欲望に再び執着することなしに進歩する
チャンスがあるという聖なる慈悲の一環だ。
もし、現世ではよい宣教師でいる人間がいるとする。
何回かの前世のように、
飲酒が問題になっていないところまで進化している。
しかし宇宙の記憶の中では、
彼のアル中だった部分はまだ生きている。
このような記憶が現世で目覚めてしまうと、
古い習慣に後戻りして、再びアル中になる可能性がある。
キリスト自身も、畑を耕す時、もう既に耕された溝を見るよりも、
次に耕す畝に意識を集中せよ、と言っている」

                              「メッセンジャー」キリアコス・C・マルキデス著より


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もしも、過去にマリー・アントワネットだった人が、
現世に生まれ変わっていたとして、
自分が彼女として生きた人生を思い出したとしたならば、
その人物は、
自分が歴史上に名を記す女王だったことに歓喜するだろうか?
そのことを誇らしく、周囲に吹聴し、自慢するだろうか・・・?

もしそうだとしたら、
彼女は過去の自分の人生(経験)から何も学んでいないことになるし、
恥というものを知らず、何が善で悪なのかが分からない、
考えなしの非常識な、分別のない人間であるのかも知れない。

とはいうものの、
マリー・アントワネットという有名人であったことを単純に喜べるならば、
その人は自分の過去の人生を思い出すべき時期には
来ていないということなのだが。

本当に彼女が思い出すべき時期に来ているのであれば・・・
精神的に成熟し、人としての成長を遂げていて、
過去に犯した罪や欠点を克服できるレベルに来ているのならぱ、
自分が過去、その人物として生きた人生を客観的に振り返ったとき、
己が罪におののき、恥じ入るに違いない。

自分の置かれた立場への自覚のなさや愚かな欲望によって、
ひとつの国の国庫を赤字にさせ、民を植えさせ、
たくさんの人々から怒りと憎しみを買うことになり、
王政を滅ぼさせて、
嫁ぎ先と家族をギロチンへと送ることになったのだから。

この思い事実を受け止めて、自分の犯した罪を認識した上で、
しっかりとその過ちから学ぶべきことを学び、
反省を自分の生き方に反映して、他者への奉仕や愛の実践を通して、
今の人生や未来へと生かしていくことのできる人でなければ、
己が罪深い人生を送った過去生を思い出すことには何の意味もない。


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基本的に、
「知るべき時期」が来ていない人が自ら過去生を思い出すことはない。
善と悪、己が罪を理解し、懺悔と悔恨の感情を持ち、
自分の過去を贖罪の意識からも
必要な経験であったという真理の認識からも、
双方の視点で受け止めることの出来るレベルに達していない限りには・・・

しかし、例外も時にある。
「時期」が来ていなくても、過去の自分の片鱗を見つけてしまう人もいる。

スピリチュアルなことに興味を持ち、
サイキカルな能力を磨くことに専念などした結果の賜物として。
あるいは、チャクラを刺激する過度の働きかけをしたり、
過去生を思い出すワークや瞑想にたくさん参加したり、
他者のそのような能力を触発するような人物との出会いなどによって。

「意識の目覚め」がまだない段階にある者が、
適切な知識や指導者のいない状態で過去生を思い出してしまう状況は、
「癒し」が行われ、「気づき」や「学び」をもたらすより先に、
その過去生で培った良くない性質(ネガティブな性格)をも、
目覚めさせてしまう危険性を大きく伴っている。

理性が感情をコントロール出来ず、愛が十分に育っていないことから、
過去の自分の邪悪な部分(エレメンタル)を超越することができないので。

過去の人生の欠点を克服出来ず、失敗から反省を引き出すことも出来ず、
再び利己的な自我から生まれた想念の虜となってしまい、
リプレイするかのように、
捨てたはずの過去を繰り返し生きることになってしまう。


残念ながら、そうした人を何人か知っている。


得てして、
そのような状態で取り出された記憶は、エゴイズムによって
肝心の部分を忘却され、都合よく脚色されていることが多々ある。
事実とは異なり、捻じ曲げて理解された過去生の情報は、
本人に何の実りも成長も、意識改革ももたらさない。



たまたまの偶然ではあるが、
(上)に書いた記事でも、過去生において、
ユダヤ人収容所で働いていたであろう女性のことを書いたのだが、
戦後この日本に転生してきた人物の中には、
過去あの時代に生きた人生を持つ人も少なくなく、
生徒さんの中にも、
あの国の歴史の渦、戦争に人生を狂わされた人はいるし、
クライアントさんとして出会った方の中にも、
今まで数人ばかり見かけたことがある。

中には、自ら思い出し、その記憶を語る人もいた。

しかし、その人は自らの過去生を振り返ったとき、
まったく反省のない人であった。


日本人で、戦後の教育を受け、
あの戦争に対しての歴史認識や道徳的意識を学んだ人ならば・・・
ナチスドイツが犯した戦争犯罪について、
ユダヤ人に対して行った、人類史上においてもっとも忌むべき行為、
人が人に対して決して犯してはならない、その非人道的な罪を、
良くないことだと・・・思うはずだ。


過去生を思い出したと・・・自分が思い出した記憶を、
その記憶を輪廻転生という事実からなる、
まぎれもない自分の過去の人生であると信じたとき、

その組織の一員であり、
なおかつ、その犯罪に手を染めていたことなど、
恥ずべきこと以外のなにものでもなく、

自分が酷い目に合わせた相手に対して、
その命を奪った相手と現世にて再び再会したとき、
申し訳ないと・・・
心がつぶれるくらいの悔恨と懺悔の念を抱き、
今生で相手から当時の恨みで殺されても仕方ないくらいに思ったり、
その人に対していかにして償いが出来るのか考えたり、
その人に対してでなくても、不特定多数の
過去の犠牲者の生まれ変わってきた人々や、
あるいは自分が過去に犯したような類似の罪の、
すべての犠牲者に対して、何かしたいと・・・
自分が何か出来ることは無いのかと・・・
過去の人生の過ちをどうすれば、ぬぐえるほどの事ができるのか、
そう考えるのが、人間らしい「こころ」を持った人であるだろうし。

「恥」の概念があり、人の「こころ」があるのならば、
自分がかような歴史的大罪に関与していたことなど、
思い出したくないと、認めたくないことだと思いこそすれ・・・
自虐的に過去の自分を恨んだり、責めたり、
非人道的な行為を行った自分や運命を憎みこそすれ、



しかし、それを懐かしい思い出を語るように笑いながら話すなど、
自分が人間の心をもたない邪悪な殺人ロボットか
血に飢えた狂人であると宣伝し、自慢しているようなものだと思う。


本当に当時の自分の過去生を思い出しているのなら・・・
自分が罪を犯していると、そう自分の過去生のことを解釈しているのなら、
どうして、その邪悪な犯罪におぞましさも感じずに、
自分のしたことを棚に上げて、自分が犯し、命を奪った人に、
平然と接することができるのだろう?

ナチスの収容所で、自分がユダヤ人たちにしたこと・・・
大勢の人間を残虐に殺し、命を弄び、それを楽しみ、

そのようなことを自分がしたことを思い出していながら、
今生で自分が惨殺した人たちに出会ったとき、
目の前にいる相手がかつての犠牲者、
自らが犯した罪の被害者であることを思い出したとき・・・

相手が自分に対して生理的嫌悪感を抱き、
拒絶反応を示すことに対して理解を示さないばかりか、

どうして拒否されることに怒り、
自分を受け入れようとはしない相手を咎めることができるんだろう?

相手が自分を許さないことに不平不満を言えるんだろう?



どうして、そのように自分の過去を1gも後悔しているようには見えず、
犯した罪に良心の呵責を感じてるようにも思えない、
被害者の傷に塩をなすりつけ、
当時の怒りを逆なでするばかりの生き方をしているような人を、
どうして許すことができるというのだろう?

己が罪の重さに恐れおののき、
相手に対して、贖罪の心を持ち、
自分を戒める心を持った人ならいざ知らず・・・

どうしてそのような人を赦さなければいけないのだろう?
受け入れるのが愛だろうといわんばかりに、
かつての加害者から上から目線でモノを言われ、
侮辱され、罵られ、そしりを受けなければならないのだろう?



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人を赦すことは難しい。

例えば、すべてのことには理由があって、
愛を学ぶために、善と悪が存在するのだと知識の上では理解していても。
被害者になることでさえ、
輪廻転生の循環の中でも因果応報の法則の流れで、
同胞への愛や奉仕のひとつの形であると知識として知ってはいても、
感情は必ずしも、その考えについていけるものではない。



このような仕事をして、
人にスピリチュアリズムを教えることをしていても、
必ずしも、実践できているわけではない。

私の今生の課題のひとつに、
他者の過ちを「許すこと」というのがある。
たくさんの人を赦して、
人間であるが故の弱さや過ちを理解して、
受容しなければいけない。


私は数百年前の過去生において、
西洋の某国にて古い土着の宗教の帰依者で、
とある田舎の村で薬草療法師をしていたのだけれど、
キリスト教徒ではなかったがために、
魔女裁判にかけられ、拷問されたあげく、
首をはねられて殺されたことがあった。

このとき、私はそれまで親しくしていた隣人たち、
患者として自分が助けてきたと思っていた人たちが、
助けてくれないばかりか、
異口同音に魔女だとそしり、非難し、石を投げつけて、
あらゆる嘘を証言してきたことに打ちのめされた。

死へと誘う処刑台に上り、死に至る瞬間まで、
そして死んでからも、この人間不信と人々への恨み、
ひたすら奉仕してきたことに対する仕打ちへの怒りは
ずっとずっと消えず、今の人生に持ち越されていたので。

また、殺されたり、利用されたり、裏切られたりは、
その人生だけでなく、その前にも後にも、
何度も何度も経験していて、
たくさんたくさん、積み重なってしまっていたように思う。


さて、数年前のこと・・・
とあるグループの人たち数人とランチをする約束をしていたのだが、
その約束の直前になって、
ふいに私はその全員から、
殺された過去があったことを思い出してしまった。
猛烈なショックと吐き気と生理的嫌悪感で、
どうにもならなくなってしまい、
とても平静かつ楽しく食事をすることは無理だと、
適当な理由を作って、会食を断ることにした。

一対一なら、まだ何とかなったかも知れない。
けれど、一気にすべてのケースを思い出して、
その恐怖と対峙して抑制するのは神経がもたないと思った。

怒りや恐怖はそんなに簡単に克服できるものではない。

何故そんな、克服できもしない記憶を、
このタイミングで思い出すことになったのか?
・・・そんな疑問のほうが強かったが、
たぶん「お試し」だったのだろう。

知っていることを実践できるかどうか・・・?

否。

私がその人たちを赦せたかというと、答えはNoになる。

その人たちを笑って赦せるほど、
人間的に成熟もしていないし、愛を受容してもいないし、
聖者でも仙人でも、人格者にも程遠い。

私の中にはまだまだたくさんの怒りがあって、
納得できないこともたくさんあって、
当時の自分の「死」の理由を消化できていなかった。


∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞ ∞∞


恐怖はなかなか手放すことができない。
まして、思い出してしまった日には。

無意識の底に沈んでいた得体の知れない何かの、
正体を知ることは出来ても、
「されたこと」から生じた心の傷や埋め込まれた恐れを、
取り除くのは難しい。

でも、赦せない自分を、相手のことを愛することが出来ない自分を、
不寛容で狭量だと、愛が足りないと・・・責めることも違うのだろう。

赦せないのは、その人自身ではなく、
その人をして行われた「行為」そのものなのだから。

罪があるとするならば、
犯す人のほうではなく、罪自身が存在することなのだ。

だからといって、
加害者を憎み、怒り、恨む心もまた、あって然りで、
誰がそれを責めることが出来よう?

愛する人を殺され、自身もまた屈辱的な殺され方をしたとき、
天を恨み、相手の不幸を望み、
末代まで呪いたくなるような、そんな慟哭を抱えた人を、

「愛が足りない」などという言葉で裁いていいはずがない。

被害にあった人に・・・
「それは引き寄せの法則です」
「学ぶべきことがあって、起きた出来事なんですよ」
なんて言うのは、とても無責任で思いやりのない言葉だし、

愛する人を残虐な方法で殺されて、悲しみにくれている人に、
加害者に対して、心が焦げ付きそうなほど、
恨みと怒り、そして憎しみの炎を燃やしている人に・・・
「これは因果応報の法則が働いたからですよ」

なんて・・・そんなの、人が人に言っていいセリフじゃない。

例えそれが霊的真理で宇宙の、カルマの法則だったとしても、
そうしたことを知りたいと、望んで知ろうとする人ではない限り、
その段階にない人に・・・そんなことを知りたいと思っていない人に、
かけるべき言葉ではない。絶対に。

そんなスピリチュアリズムなんて、糞くらえ!とも言える。

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