2016/01/29

惹かれあう罠

ようやっと過去記事の移動(公開)が終わって一区切り。
やれやれという感じです。

三か月くらい、新しい記事、書いていませんでした。

とほほ・・・

こちらのブログは以前のところと違って、
あまり検索にはかからない模様(何故か海外からの閲覧が多く)。
読者さん、かなり減っちゃいまして、こちらマイナー過ぎるのかしら。

やはり以前のところのほうが使い勝手は良かったかなぁ・・・と。
背景が記事ごとに変えられるとか、あれやこれや。
でも、こちらはこちらで公開したものを非公開に再び変更できるし、
何を優先するかでしょうね。自作できない以上は。


さて、前置きはともかとして本題です。

続きを書いていないシリーズものもあるのですが、
それはまだまだ先延ばしで、別の内容から。


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一度夫婦の契りを結んだものは、
生まれ変わって三回は、学びのため、
お互いをパートナーに選ぶのだという。

相手に対する理解を深めるため、
あるいは前回の結婚生活の失敗を反省し、
関係性のやり直しを図るため、再度トライするのだとも。

共に作った、夫婦としてのカルマのレッスンを、
協力して乗り越えるためだったり、
互いに対する負債、貸し借りを清算するためだったり、
夫婦の再会パターンの背景にあるものは種々様々。



より深く愛情を紡いでいくことになる男女もいるけれど、
前回の失敗パターンをまたしても繰り返してしまう男女もいるし、
その逆に、「卒業」とばかりに、二人の関係性を終焉させ
相手に対する執着を断ち切るために出会う場合もあったりする。

例えば、身分差や親の反対、戦争や止むを得ない事情で
引き裂かれてしまった恋人同士が、
結ばれなかったがゆえにその想いを強く心に宿して、
美化した恋を引きずって相手に対する思慕を募らせた結果、

現世で再び出会うことになり、縁のままに強く惹かれあって、
前回ほどの障害もなく、その恋を成就させることが出来たとする。


さあ、想いは遂げられた。

して、愛する者同士、結婚出来て、めでたし、めでたし・・・



と、いくかというと、必ずしもそうはいかない。


絶対にうまくいかない、ということはないが、

得てして、恋とは一瞬の熱病、陽炎や花火のようなもの。

美しい恋の思い出と現実の生活は違う。

時を超えて結ばれた恋と言えば聞こえはいいけれど、

二人が再び再会するまでには(個々のケースにもよるが)、
50年とか、100年とか・・・はてまた数百年ぶりとか、
とにかく何世紀もの年月が経過しているのである。

その間、人は成長するし、変わりもする。
数百年、何千年経っても成長しない人もいるが、
それぞれの精神的成長、情緒の発達など、
人間的成熟度は経験にもよるが、
同じ年月において同じ速度で同じ距離に達するとは限らない。

また、それだけでなくて、
恋愛の夢覚めやらぬうちに別れてしまった男女は、
お互いの悪い面・・・本来なら一緒に年月を過ごすうちに、
知ることになったであろう欠点を、知らないまま、
それを見ないままに、互いに対する理解を深める間もなく、
切ない、結ばれなかった恋の相手として互いを記憶していて、
それが故に、「こんなはずじゃなかった」というような、
恋愛や結婚の幻滅を人一倍味わうことにもなりやすい。

愛しい思いを募らせて夢にまで会いにいくほど、
どれほどに恋焦がれた忘れられない相手であったとしても。

恋はそもそも誤解なのだから。

もし、その恋に障害もなく、
引き裂かれるような運命も訪れずに、
そのまま付き合っていたとしたら?
理想の相手ではないとか、価値観が違うとか、
もっと別に好きな人が現れたとか何だかの理由で、
すぐに別れていたかもしれない。

実際、そのような組み合わせの男女は少なくない。

過去の恋愛の亡霊に導かれ、
まぶしいほどのパッションで結ばれたものの、
あっという間に破たんしてしまうカップルは。

そういう意味では、
過去からの巡り合わせ、再会した男女というのは、
必ずしもロマンテックなものではない。

そんな劇的な恋はそうそうは存在しない。


繰り返す人生の中で何度も再び出会って、
家族や友人や恋人など様々な関係性を結び、
共に時間を、人生を過ごし、喜怒哀楽をともにして、
衝突したり、苦労を共にして、少しずつ歩み寄り、
理解を深めて、価値観を同じくし、
共感や共有する想い出が増えていき、
そうして本物ともいうべき真のパートナーとなって行ったり、
愛ある関係を築いていく人々もいるのは事実だけれども。

得てして、
幾千もの時を乗り越え、再び出会ったというものの、
互いが真の相手ではなかったと・・・それが「愛」ではないのだと、
幻の理想の相手をずっと追い求めていたことに、
悠久の時を消費した後に気づかされることも多いのである。


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さて、
上記に関しては、
一度は双方あるいは片方からして恋の対象となった者同士、
もしくは結婚という縁を持った相手との再会したケースなど・・・

それはそれで再会してめでたく大円団になるもよし、
そうならずとも、前回の続きをして想いを遂げて心残りを果たし、
こんなはずじゃなかったとがっかりするもよし、
いずれにしても、
とりあえず満足したと・・・終結させて結果を出せるなら、
その再会は無駄ではなく、双方の人生の良き経験にはなれているはず。

ですが、問題なのは下記に書くような関係性での男女の再会のこと。




ほか、過去で何かしらの関係性を持った異性と、
「恋慕」の情とは程遠い感覚的な反応を錯覚することから、
恋愛や婚姻関係に至ってしまうことがある。

この手のことに関心を持つ人がよく知っている、
有名な案件、事象を持ち出すならば、

ブライアン・ワイス博士の「前世療法」の臨床例の中にある、
被害者と加害者と言える関係性を持ったことのある者同士が、
現代の人生において偶然にも同じ職場で再び出会い、
その時抱いたシンパシーやデジャビュ感、
何か抗えない電撃的な吸引力をその相手や出会いに覚えて、
そのショックめいた反応を恋と勘違いしてしまい、
不倫関係に陥ってしまったというケース・・・があげられる。

このケースでの場合は、
その恋も相手も、相手との関係も、
結局彼女を苦しめ、傷つけるだけで、
何も実をもたらさない不毛な関係であった。

彼女はいくつか前の人生で、彼によって命を奪われていた。
カルマのレッスンとして、二人が出会ったことは
過去の不幸な出会いを超えたところで、
その罪を赦しあい、今度は平和な社会において、
争いや誤解のない友好的な人間関係を築くことだったろう。

それが戦という仕方のない状況であったとしても、
彼女の人生、命を奪うという行為をした相手(彼)が、
彼女に対して人間性を尊重するという態度で望み、
職場の同僚として出会った以上、
良き隣人としてサポートしていくことが理想的でもあった。

しかし、実際はそうはならず、
今度は相手の肉体的の命ではなく、
心を殺すような関係性へと陥ってしまった。


私がクライアントさんを見てきた中でも、
そのような相手と恋愛関係に陥って苦しんだ経験をした人がいる。

その人の場合では、過去生において主従関係にあった相手に、
DVやレイプを受け、最後には殺されてしまったのだが、
現代において再会したとき、何のいたずらか恋人同士になり、
今生ではDVやモラハラなどの被害を受けたわけではないというのに、
一緒にいると身体が震え、心臓が苦しなるほどに肉体が辛くなり、
理由の見えないフラッシュバックに悩まされるというもの。

過去を紐解いてみて、自分に日常的に暴力をふるい、
無残な殺し方をした相手であることを知ったとき、
それがPTSDであり、被害者が加害者に抱く・・・
自分を殺した相手に対する「正常な反応」でもあると、
ようやく彼女の中で全てのパーツが繋がった。

そんな相手と再会をして、拒絶反応が出ながらも、
運命の吸引力に抗えなかったのは、

過去の彼女が過去の彼に対して、
ストックホルム症候群のような共時性や同情や、
自らの身を犠牲にしても相手を救いたいというエネmeな母性、
そして、どこか相手のサディスティックな行為の中に、
自分への僅かばかりの愛情を期待して探していたから。

しかし、答えなどあるはずもなく、
互いに、まして彼女の傷が癒えていない段階では、
その関係は健康的かつ対等と呼べる恋愛関係には成り得ない。


最近のケースでは、まだ幼く子供であったというのに、
当人の意志とは関係なしに保護者と慕っていた相手から、
無理やり妻とされた(いわゆる児童婚)心の傷を持つ人もいた。

これも根深い問題だと思う。

そして未だに世界には児童婚という、
不幸な風習のある国が存在している。


詳しいことは書かないが、

いずれにしても、
そのような相手に対しては、他の人とは異なる一種独特な、
特別な感覚を出会いのときに体験する傾向にあるようだが、

結果的にその関係は双方にとって、
あまり幸福な結果をもたらさない。

いやさ、
時に加害者側とも言うべきポジションにいたものにとっては、
再び望みの「相手」を手に入れた、という
偽りの喜びと自己満足的な幸福を味わえることにもなるのだが、

最初は恋と錯覚し、他の出会いとは違う何か・・・
他の人に対して抱くのとは異なる、
肉体的あるいは「感情的反応」を相手に対して抱いたものの、

一緒にいると精神的に不安定になり、
何処からくるのか分からない怒りや相手に対する憎悪が
ふいにこみあげてきて、暴発するかのように相手に向けてしまい、
それをコントロールできず、
相手を傷つけてしまう自分をただただ責めて、

何でこんなに小さなことで怒ってしまうのか、
相手を受け入れられないのか・・・
二人でいるのに孤独で、一緒にいるとしんどくて、
ますます辛くなるばかりなのか・・・

幸せになりたいから一緒になったのに、
互いを理解して支えあって、
平凡ながらもただ笑いあって暮らしたいのにと、

そんな風に自分はメンヘラなのだと、
自分がおかしいのだと、すべて悪いのは自分だと、
責めてしまう人も多くて。

そういう人は、
その相手(恋人や配偶者)にだけそのような面がでてしまい、
他の人に対しては至って普通で感情もコントロールできたりする。

恋人や配偶者に対してだけ、
ヒステリックに、常軌を逸した攻撃性が出てしまう。

(もちろん、アダルトチルドレンだったり、その他もろもろの理由で、
特定の対象となる人に対してのみ、感情を爆発させる人はいます。
なので、過去生に原因がある人だけに限ったことはないですが)



では、どうすればいいのか・・・

確かに再び出会ったということは意味のあることで、
互いに解消すべきもの、学ぶべきカルマのレッスンが
あるといえばあるのだけれども。


実際問題、こういう関係は、離れてしまうほかない。

現実的に距離をおいてしまう、これしか方法はない。

関係を解消して、いつか互いのことを冷静に見れるようになるまで、
「他人」としての関係性に戻るのが一番だったりする。


それしか方法がない。

一緒にいて、
自分の中の感情の折り合いをつけようとしても無理だ。


人間の感情なんて、そんなに簡単なものじゃない。

汝隣人を愛せとはキリストの言った言葉だが、

こうした相手との出会いを、
霊性の成長の機会と捉えて、自らに重い試練を課すのは、
拷問にも等しい自虐的行為で、自分に対する虐待で差別でもある。

相手を赦して愛そうとするあまりに、
愛せず、許すことが出来ず、
怒りを手放せない自分を赦せないという負のスパイラルに陥ってしまう。

そんなのは間違っている。

相手は自分を無理やり手籠めにした人だ。

憎しみや怒りは生まれて当然で、手放せくても責められたことではない。

赦すべきは傷を負った自分自身だ。
相手を赦すことができない、自分自身をまず赦すべきなのだ。
そんな自分を愛して、大事にしてあげるべきだ。


相手は自分に異性としての思慕を、
愛情を持ってくれてた人かもしれないが、

それがゆえの行為であったとしても・・・

夫婦という世間的に認められた
「かたち」にあった者同士だったとしても、

強姦は強姦だ。

相手の同意のない行為は凌辱でしかない。
それは「人間扱い」をされていないということ。
人間以下のものであると、
そうした烙印を押されたのと同じこと。

レイプは殺人と同じ。

自分の人間性を、存在自体を否定されるに等しい行為だ。

男性には分からないことかも知れないが。


幼い自分の人生を奪って、性の意味も知らないうちに、
自分をいいようにしたとしか思えない大人に対して
かつての少女が、
その大人であった相手の圧倒的な力に畏怖を覚え、
生活の面倒を見てもらっているという恩義とのはざまで
裏切られたような嘆きと慟哭と怒りとを募らせたとして
誰が責めることが出来よう?

その相手を赦せとか、汝隣人を愛せとなどと言う人は、
そんな人はどれほどの苦悩も哀しみも知らないのだろう。

その怒りのエレメンタルを取り除けば、それで終わる?
癒されれば平気になる?

そんなことはありえない。

こういうのはとてつもない時間が掛かることだ。

時間と距離だけが解決することでもある。

相手を赦すことなど、しなくていい。

相手がいつか、人のこころを持ち、
他人の、そして女性の立場になって、
考えたり、感じたり出来るようになって、
思いやりを誰しにも表現できる人になって欲しいと、
そう願ってあげるだけでいい。
自分が相手を変えようとはしなくていい。
自分にそんな重荷を与える必要はない。

それは誰でもない、自分自身を一番傷つける行為だから。


一緒にいて、楽しくない相手だと判断して、
黙って袂をわかって、離れるのがいい。


いつか過去の悲しみを手放して、癒されて、
すべての傷がなくなって、乗り越えられたとき、
そのときにはまた新しく、一から始められるかも知れないが。

過去から始まった不幸な出会いは、
一度リセットしたほうが一番いい。

それがいい。

不安定な基礎のもとに、新たな関係を築こうとしても、
上手くいくわけはない。
いつかその土台は崩れてしまうし、
その前に無理が二人の心を壊すことになるだろう。


だから、相手を前にして、
相手を受け入れられない自分を責めることはない。
相手に対して、憤りを感じる自分を抑制する必要もない。

そんな自分を受け入れるだけでいい。

人は誰しも別れに向かって生きている。

会うは別れの始めなり。

そして、再び出会うために人は別れるものだから。

いつかまた出会うときのために、

今は「さよなら」を言おう。


そういう関係もある。

手放すことが「愛」の表現であることもある。

一緒にいるばかりが愛じゃない。

相手のことを思えばこそ、
お互いが幸せになりたいからこそ、選ぶ「別れ」もある。

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