2016/02/29

贖罪と受容~赦すこと赦されること(番外編)

(上)(中)を書くのに一年以上かかって、
ようやく書いたものの、最後まで書くのに
途中また間が空いてしまいました。

私の中で現在進行中の葛藤を抱えている、
とても重いテーマなので、筆もなかなか進まず、
あれやこれや問答し、どう書くべきかと・・・
ずっとずっ悩み続けて今に至ってしまった次第です。

このテーマで書き出したこと、
書きたいことを書くためには・・・
どうしても避けては通れない自分の問題があるなと。
まず、先にこのことを吐き出しておかないことには、
本題を締めくくることが出来ないと思い、
(下)よりも番外編を先に書くことにしました。

でないと、(下)書けないなあ・・・と。

これを書くと傷つく人がいるのは承知しているけれども、
いつか乗り超えないと、ここを通らないと・・・
私自身も彼女自身も未来へと進めないのだろう。

しっかり見つめて、ホンネを吐き出さないことには、
先には行けないのだと痛感したので。

何故って、何よりも私自身の気持ち(本心)や
被害者側の置かれた立場や気持ちを
誤って解釈されてしまっているので。

拒絶していないからって、
全面的に受け入れているわけじゃない。

罪を憎んで人を憎まずとも言うけれど・・・
そうしたいのはやまやまなれど、言うはやすしで、
ことはそんなに簡単じゃない。

「生まれる前のことだし、過去のことなんだから忘れましょ」
なんて単純に割り切れるものじゃない。

人を赦す赦さないなんて、
そんなに簡単に出来ることではないのだから。



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テレビの時代劇・・・例えば
「水戸黄門」のように勧善懲悪の物語で、
悪人が罰せられるのを見て、爽快に思う人は多い。

私も「必殺仕掛人」「必殺仕置人」などの
「必殺シリーズ」が大好きで、
弱い立場のものたちが理不尽な運命に弄ばれ、
虫けらのように殺されて、遺されたものが、
自らの命と引き換えに金銭を作り、
「敵を取って」と無念を託すシーンなどに、
やたら我がことのように感情移入して号泣したもので、
「子連れ狼」の中でも、
底辺の生活を強いられているものたちの
哀しみや境遇を思って、ダメージを受けたりとか。

とくに「復讐」リベンジものには、のめり込んでしまい、
虚構と現実の境界線の区別がつかなくなるほど。


男性に対して、ものすごい怒りを抱いていることに
気が付いたのはいつだったろう。

自分は男嫌いなのかなあ?・・・というくらいに
最初は思っていたのだけれど、
幼馴染は男の子たちだったし、初恋も普通にあった。

でも、そんな風に男の子に交じって、
彼らを友とし仲間として遊ぶ自分とは別に、
世の中に存在する男性という存在、その「性」を軽蔑して、
憎悪している自分もいることにいつしか気づくこととなった。

何をされたか・・・ということもないのに。

友人が痴漢にあったとき、
そのまた友人の友人がレイプされて自殺したとき、
憎悪はピークになり、女性に対してそのようなことをする
すべての男性の股間を散弾銃で討ちぬいてやりたいと、
それをしないと気が済まないと思うくらいに、
自分の中の「夜叉」が激しい怒りの炎をたぎらせて、
目覚めていくとばかりにどんどん大きくなっていった。

もちろん、それだけでなくて、日々の事、
親との関係や様々な出来事からの累積していく
理不尽なことへの憤りなども大きかったけれど。


それはまるで自分の中にいる「怪物」が、
冬眠しながらも少しずつ養分を取って成長し、
耳だけは聞き耳を立て、様々な怒りを吸収して、
いつか爆発する日を待つように・・・。


それでも男友達はいたし、恋愛もしていたから、
それはしごく一部の、
特定の男性や世のニュースに対してだけの
特殊で過激な反応であったように思う。



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さて、縁というものは奇妙なものである。
今の仕事をする以前にも、
過去生のご縁ある人物とは何人か出会ってはいるし、
仕事を始めてからもそれはそう。

自分の兄姉弟妹だった人、母親だった人、
子供だったり、友人だったり、仲間だったり、
魔女裁判において私を嘘の告発で陥れた人とも。
(相手は急にトランス状態になり謝罪してきた)


それに気づいたり思い出した人ならともかく、
いちいち相手にそれをいう必要はないと思うし、
だから何?という問題でもあるので、
私自身、過去生でどんな関係性であったか、
ということに縛られないようにしている。
今の関係とそれは別のものなので。

けれども、時にそれは
無視することの出来ないものであるというのも知った。

それが今に続く葛藤である。


その人の施療をすることになったとき、
深い考えも感情的反応もとくになかった。


クライアントさんと接するときはフラットな状態を保つべきで、
個人としての私(人格や私情)は脇に置くものと心得、
個人的感想も感情も一切合切持ってはならず、
あくまで「道具」と成りきって、
人間でありながら人間ではない単なる「存在」として、
メッセージを伝えるなり、その都度出来ることに徹する。
・・・というように、いかに「自我」を捨てるかが大事なので。

しかし、であるのにも関わらず、どうしても施療の度ごと、
その人に使用したリネンを捨てたい衝動に駆られた。
汚れもののごとく、まっさきに洗濯機に放り込み、
即座に洗わずにはいられなかった。
まるでそのリネン類が不浄のものになってしまったかのように。

私がしているサービスにおいて施療をするとき、
ベッドに横になって頂くのだが、
衣類を着たままに受けてもらうこともあって、
当日なら、いちいちシーツや毛布を変えたりはしない。
(顔にかけるタオルなどは別だけれども)

なのにその方・・・に関してだけは、
その人が触れたもの、すべてを熱湯消毒するような勢いで、
すべて洗わずにはいられなかった。
もちろん、私自身の手も、何度も何度も念入りに洗った。

本来、それほど潔癖症ではなく、
客商売だから整理整頓、清潔は心がけるものの、
そこまで徹底して、神経質になることはないというのに。

別にその人が不潔ということはない。
独特の体臭はあるが、臭いというのではないし、
衣類や身体上にも問題はない。

そして、その人が私にと気配りで持ってきてくれる、
ブログで私が好きだと書いた果物を
私はどうしても食することができなかった。
本当に好きなものだし、昭和の「もったいない」教育から、
食べ物を無駄にし、捨てることに何よりも罪悪感がある私だが、
せっかくの気持ちもあるし、「食べなければ」と思いつつ、
何故か激しい拒絶反応が出てしまい、
冷蔵庫に入れたまま、触ることも出来ず、
何度も食べよう、食べようとするものの、
どうしても食べることが出来ず、そのまま腐らせてしまう。
このこともどうしてもしんどくて、辛かった。
他の人が持ってきてくれたものは平気なのに、
その人が持ってきてくれたというだけで、
その食べ物を見ると苦しくて、苦しくて、どうにもダメで。


最初は自分のこの抑えきれない衝動的な反応、
無意識でしてしまう行動の意味が、分からなかった。

もしかして、これは私の中にある、
「差別意識」なのだろうか・・・?

当初はそのことで随分悩んだし、自分を責めた。

でも、自分には障害を持ついとこ達がいて、
彼らに対してそのような気持ちを持ったことはないし、
むしろ自分はたまたまそうではなかっただけで、
自分もそうなる可能性があった側だという自覚もあった。


では、自分のこの反応は何なのだろう?
この無意識的な行動は
いったい何処からきているのだろう?


玄関先に敷いたマットは、
東急ハンズで見かけたとき、気に入って購入したものだ。
自分が憧れている、理想の家を思い起こさせるので。
けれど、それが
その人の○椅○によって傷がつけられてしまったとき、
自分の「夢」や「憧れの未来」まで、
同時に踏みにじられてしまったように感じて、泣いた。
怒りと悲しみがたくさん出てきて、どうしようもなかった。



そんな風に、考えよりも先に自分の体が、
そして心が色んな意味で反応していた。
それをよく理解して、思い出さないうちに。

それだけのことだった。


理由のない感情的反応も怒りもないのだと、それだけだ。

たぶん、その反応こそがすべての理由だった。




自分が何をされたのか・・・

過去にどんなことが起きたのか、

思い出したら、すべて合点がいく。


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でも、その人はそのことを思い出しているわけではない。

私に会う前に、
自分にとって汚点だと考えられる過去のひとつを
自ら思い出してはいるものの、その過去の中に私の存在はない。


自分を過去において、裏切ったり、殺したり、
理不尽かつ非道な目に遭わせた相手に出会った時、
どうしたらいいというのか・・・。

どう感情を処理すべきなのか・・・


答えは今も見つからない。

例えば犯罪被害者でもある、
心理カウンセラーやセラピストが、
ある日、加害者もしくは加害者家族が
被験者として現れたとき、どう対応すべきか、
そんな問題に近いかもしれない。
いやさ、その場合は自分は適合者ではないとして、
別のカウンセラーを紹介して、断ればよしという話だろう。



それに問題は、今の人生で起きたことではない。

前世など、夢物語、妄想と片づければそれまで。
狂人のたわごとのようなものだ。
言いがかりでしかなく、科学的に証明することも出来ない。

当たり前の話だが、
法的な拘束力なぞ、制裁など出来ようもない。

それに誰よりも私自身が、
この記憶が真実なのか、自分のものであるのか、
勝手に頭の中で自作自演で作られた創作物語なのか、
何がなんだか未だに分からない。
立証なんて何一つ出来る手立ては持っていない。


本当に、「だからどうした?」という話である。

互いに生まれ変わって、きれいさっぱり忘れて、
新しい肉体、別の性別を持っていたりもする。

でも、激しい「怒り」と「憎悪」と、恐怖の感情、
相手に仕返ししてやりたいと、その想いだけは残ってる。




それでも相手がきれいさっぱり忘れている時には、
まったく何も思い出さないでいる時分には、
直前の人生(前世)を自主的に思い出し、
深い悔恨と懺悔の気持ちを抱いているように話すその人のことを、
「人に謝罪し、反省する気持ち」があるのならと、
あくまで一人のクライアントとして、
生き方を改めて、自分を変えていくサポートを全力でしようと、
そうも思えたのだけれども・・・

もちろん、私に対して自分が何をしてきたのか、
私が伝えたわけでなく、思い出してくれた時も、
その涙の中に、反省や後悔や色々なものがあるのだと、
信じたかったし、大切なのは今の人生であり、
これからその人がどんな人になっていくかなので、
そこはそれ、切り離していくべきだし、
そうしてきたつもりでもあった。

でも、ふと・・・

私自身の過去の修羅のような想いや、
他の被害者たちの意識にリンクして引きずられてしまい、
普段は抑えていられるものの、
ふとした時に、ドス黒い染みのような感情が広がって、
首を絞めたくなってしまったり、
冷淡でイジワルな考えが頭に浮かんでしまうことはある。



なんで
あなたはのうのうと生きているの?

あなたに殺された人たち、
幸せを壊されて、
人生を、命を奪われて、
愛するものを奪われて、
その哀しみ、傷や痛手をみんな引き摺って、
その後の人生も狂わされて、
あの苦しみから、悪夢から逃れられずに、
人生を狂わされ続けている人が多いというのに

なんであなたは笑ってるの?
笑ってられるの?

男性恐怖症になったり、
Sexの問題でパートナーを傷つけてしまったり、
自分のせいで相手が不幸になってしまうと、
本当に好きな人からは逃げてしまう人とか・・・
たくさんたくさんいるのに・・・

どうして国からお金もらって、
あちこちで優遇されて、
働かずに生きていけて、
好きなところ行きたいところにも行けて、
人生楽しんで生きてるの?

みんなまだ苦しんでいるのに

何が○○者の権利? 人並みに生きる?
笑わせないでよ

自分たちを差別するな、人並みに扱えっていうけど、
単なるクレーマーじゃない

自分がしたことを思い出してなお、
どうしてそんなこと言えるの?

自分の犯した罪のことなんて、全然判ってないじゃない

あなたのせいでどれだけの人が命を落としたのか、
本当にわかってるの?

自分が助かりたいからって、命が惜しいからって、
同じユダヤ人の仲間を、ドイツ人に媚びへつらって、
売り渡して、何人の人をガス室送りにしたの?
同じ仲間を・・・友人を、隣人を!

その罪だけじゃないでしょう?
それだけなら人は弱いものだから致し方ないけれども・・・
何度同じこと繰り返してるの?

欲望のままに奪って、殺して、人の命をゴミみたいに。


あなた当時は刑務所にさえ服役してないじゃない?

何も罪を償ってないし、反省なんか
まったくしてないじゃないの!!



・・・って、

そんな風に怒りがわいてきて、

階段から突き落として、ヒールで顔を踏みつけて、
金属バットで何回でも殴打し、爪という爪の中に針を指し、
意識があるまま、全身を細切れになるまで、
それこそ細胞単位になるまで細かく刻みたくなる。

横蹴りくらわして、エルボークラッシュ入れて、
ローリングサンダーでぶっとばし、
ギャラクティカマグナムぶっこむとか、

口の中にゴキブリ入れて、なおかつ、
虫という虫、あらゆる気色の悪い虫を入れた穴に
閉じ込めてやりたいとか、

ヤツメウナギやお尻の穴から入って身体を食い荒らす
アマゾンの海にいるナントカって生き物のいる水槽に
突き落としたくなったり、

いくらでも酷い拷問の方法が思い浮かんでしまう。


そんな自分がすごいイヤだな、とも思う。
けれど認めなくてはいけないこと。
それほどの怒りを憎しみを抱えて、
いくつもの夜を乗り越え、今生に至るまでの人生を生きてきたし、
また、この憤怒の感情は、私だけのものではないのだと。
霊媒としての私が、様々な被害者と繋がって、
感応して受け止めている皆の想いでもあるのだと。


彼女に命を奪われたのは、
私だけではないし、私の関係者だけでもない。
他のクライアントさんで彼女の被害者だった人も数人いる。


古いもの、新しいもの・・・たくさんたくさんの
彼女に対して憤りを抱いているグループエレメンタルがいる。

でも、本人が罪悪感を抱かない限り、
罪が「カルマ」になることはなく、
彼女を憎むグループエレメンタルの攻撃を受けることもない。

では、因果応報ってなんだろう?

罪を犯したものが、その罰を受けず、
裁かれることもなく、すべてを忘れて、
新しい人生を謳歌できるとしたならば・・・

すべての被害者たち、人生を狂わされ、
理不尽で屈辱的な末路を味わされたものは、
この沸々として煮えくり返る腸を、おさまらぬ怒りを、
どうすればいいというのだろう?

何故自分たちはこんな目にあったというのに、
こんな目に遭わされたほうは
幾世にもわたって、その苦しみから逃れられのに、
こんな目に遭わせた当の本人は、
相変わらず我儘で、他人のことなど考えず、
自分の意見や気持ちばかり周囲に押し付けて、
何一つ顧みらず、好き放題に生きている。

これをどう納得すればいいというのか?

これでは、失われた命、
被害者となった人々の想いは報われないではないか。


まして、
死んだ人々が、自分のために犠牲になって下さった、
みたいな・・・
スピリチュアリズムの、グノーシスの教義を曲解して、
自分に都合のよいように解釈していて、
相変わらず、他人の命や人生を軽んじて、
自分本位な考え方が一切改まっていないことを
知ってしまった日には・・・



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その昔いらしたクライアントさんで、
猟奇的な連続殺人事件の被害者の一人だったのだな、
という過去を持つ人がいた。

たぶん、国はアメリカ。
深夜の山か森の中、明かりの無いところ、
恐怖でひきつった顔の若い白人女性、
身体を傷だらけになりながら身を隠れるところを探し、
犯人から何とか逃げようとするも結局・・・

というまるで人間狩りのシーンを見させられたかな。


もちろん、言わなかった。
受け止めるにはちょっとキツイし、
何よりも知るべき時期でも必要な情報でもなかった。
今が幸せなら、そんな情報いらないし。

ただ、その人生での親御さんや関係者は
今でも苦しんでいるのだろう。

ちゃんと日本に生まれ変わって、
幸せな人生を今度は生きてますよ、
と伝えてあげたいけど。


うん。子供を亡くした親の気持ちはイヤというほどわかる。
今の人生では子供はいないけど。

変わり果てた我が子の姿を見させられるほど、
親に取っての悪夢もそれ以上の地獄もない。

我がことならいざ知らず、
愛するもの、子供を奪われた親の悲しみは計り知れない。

病気や事故やケガなど、そのような事由での死も
受け入れがたく、同じ哀しみには違いないけど、

人に殺されるがために
我が子を産み育てる親がどこにいようか。

なんでこのような、惨い殺し方をされねばならぬのか、
こんな酷い目に、酷い姿にするために、
慈しんで、今まで育ててきたわけではないというのに。


愛し子の、「人でない」原型を留めぬ姿を見たとき、
声にならない叫びと嗚咽と、これは夢に違いないと、
息を吸うことさえも拒絶したくなるような、
耐えがたい苦しみにただもう、崩れ落ちるしかない。



だから。。。


FBI捜査官シリーズやプロファイリングものが好きで、
せっかく多少なりとも、サイキカルな能力があるのなら、
今生では無理でも、それを伸ばすことが出来たら、
サイコメトラーになって、行方不明者の捜索や
犯人逮捕や未解決事件の解決に尽力したいなあ。。。
そして遺族のものに見つからない遺体を返してあげたいと、
ずっと思ってた。


そして、同時になぜ人は人を殺すのか?

猟奇的殺人者などのサイコパスの心理、
なぜ彼彼女らのような人間が、この世に存在するのか、
どうしてこのような悪魔が生まれてしまうのか・・・

ずっと疑問に思ってた。


私自身が、何百回、何百万回も殺しても飽きたらない、
地獄の果てまでも追いかけて、何度でも殺してやるって、
私自身もそして愛する人々をも酷い目にあわされた、
そんな憎い相手がいて、


たぶんその尽き果てぬ憎しみが今生に縁を創ったのだと思う。



あれほどまでに憎んだ、
私の命を何度となく奪い、娘の命をも奪った相手が、
私の前で自主的に自分の過去を思い出して語ったとき・・・

「ああ、この人は
あの時の恐ろしい大男ではなくて、
今は小柄な女性で、身体の自由もきかなくて、
何の力もない、小さき人なんだ。
恐れる必要はない。
一緒にいたって、何かされることもない」

そんな虚脱感を覚えた。


10年前の自分だったら、
「復讐」をしたくてたまらなかったろう。


でも、この人を・・・生まれ変わった相手を殺しても、
私の人生が取り戻せるわけではないし、
死んでいった人々がすべて生き返るわけではない。
私が失ったもの、当時の自分、愛する人、人生、
大切だったもの、宝物のような時間、
幸せが戻ってくるわけじゃない。

何も取り戻せないし、取り返せない。

あの時間はもう二度と帰ってこない。


失ったものは何一つ、帰ってこないのだ。


人生は取り戻せないし、時間も戻らない。

終わった人生は終わった人生でしかない。

報われるものなど何もない。


よしんば、仕返しをしたり、殺すことが出来たとしても、
なんでこの人のために今度は私が
「人殺し」という咎を背負わねばならぬのか。
相手と同じところに堕ちたくないし、
そんなことをした自分が私は私でとても許せないだろう。


少なくとも、あの苦しい経験を、人生を味わってきたから、
私は人の痛みや苦しみが分かる人間になってきたろうし、
今の人生では経験していないことも想像できる。

他人の過去生の中にある、
深い哀しみや憤りや、恐ろしい体験も
受け止める土台にはなっているとも思う。


多少なりとも、その経験や感情が、
今の仕事には役に立っているわけで。


そんな風に考えないと自分が救われないのだが。


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そんなに辛いのに、
自分がしんどいだけなのに、どうして断らないのか?

自分でも何故?とそう思う。

受け入れていること自体が偽善なのだと思う。

もしかしたら、
相手を寛容に受け入れている私ってエライ、
みたいなスピリチュアルナルシズム、エゴイズムに
酔っているだけなのかも知れない。


でも、相手を赦しているか?

と言われると、そうではない。

はっきりいって、「赦してはいない」

ていうか、
相手を赦すことができない自分を、赦すことが最近ようやくできた。

「ああ、別に赦さなくてもいいんだ」と思ったら楽になった。

相手を受け入れられない、赦すことのできない自分を
ずっとずっと責め続けてきたので。

赦せなくても仕方ない。過去の自分はまだ怒っている。
それはそれで仕方ない。
今の私とは別人格であり、別の人生なのだから。


私の背中には、彼女に対して未だに憤りを解いてはいない、
被害者たちの意識(グループエレメンタル)があるわけだが、

だからと言って、被害者の会代表として、
その人の見張りだとも、裁く権利がある側だとも思ってはいない。


ただ・・・

もう二度と、私のような思いをする人を増やしたくない。

二度とあんな目に遭う人を作りたくない。

誰にも、あのような辛い思い、
地獄を這いずるような苦しみを与えたくない。


それだけだ。

相手に罪を犯させくない・・・というのではない。

自分が流した血の涙を、
もう二度と誰にも、流して欲しくはない。
あんな思いをさせたくない。

二度と自分と同じような目に遭う被害者を出したくない。


そんな想いしかない。

まぁ。。。毒親に育てられてあれやこれや修羅場を経験して、
その問題を乗り越えるために随分と長い年月を費やして、
自分と向き合って、親のことを可哀想な人たちだと、
そう思える着地点に行きつけたからこそ、なんだとも思う。
その経験が、感情的経緯がなければ、
過去生の感情に怨念とも言えるべき、増悪の心に、
どっぷり浸かって、支配されてしまっていたかも知れない。

それでも時々、二年前に切り離すことが出来た、
般若のような・・・鬼の心の塊が顔を覗かせることがあるよ。

相手の中に過去を反省する心や態度が、
まったく見られないときとか、
人として成長していないというか・・・
過去の・・・罪を犯したときの当時の人格を彷彿とさせる
発言や行動をとられたときなんかは、どうしても。



最初は相手を変えたいと・・・
人の「こころ」を信じていたけれども。

やはり「変えたい」とか「更生させたい」とかは、
個人のエゴイズムで、傲慢な目線。
人はなかなか変わらないし、
変えようと思うのがそもそも無理。

人を変えることなんて出来ないんだよね。



どんなに真摯に向き合って、何千回言葉を使っても、
「こころ」を伝えようとしても、
理解できないものは理解できないわけで、
理解してくれることを期待しても無駄なだけ。
今更ながら、思い知らされる。

いやさ、「教えよう」なんてのが、そもそも
おのれの自惚れで傲慢さなのだと、
気づかされたというのが結果なのかな。

たぶん私も最初から「愛」がないというのに、
それを妙な「正義感」と「義務感」にすり替えていたのかも知れない。

やっぱ「愛」がそこにないと、双方のためにはならないし。



だから本当に過去生は忘れていたほうがいいもので、
別に思い出さなくてもいいこと。

忘れているのっていうのは、思い出せないっていうのは、
慈悲なんですよ、って改めて声を大にしていいたい。


例えば、自分が生んだ子が、
過去生で連続殺人犯だとかレイプ魔だったとか、
そんなのの生まれ変わりだって知ったら、
どんな母親だってお乳を吸われたくもないし、
育てるのが怖くなってしまうだろう。

そうした事実を受け止めて、
過去の感情に流されないで出会えるほどのレベルに、
精神の成熟度が到達していたなら、問題はないけれど。

私だって、精神はちいとも成熟してないのにね。

だから、すごーく重荷でとてもしんどいことなんですよ。


2016/02/26

お金とスピリチュアル(下)

さてどうして日本では、スピな仕事の対価として
「無償奉仕」は難しく「お金」が発生せざるを得ないのか。

それは太古の昔に遡って、
占いにしても呪法にしてもお祓い祈願その他モロモロ、
「お金」で請け負うという"決まり事"が創られてきたから。

報酬をもらって契約成立みたいなね、
暗黙のルールが見える世界だけでなくて、
見えない世界にも形作られている。

この禁を破るとどうなるか・・・

"かぶる"ことになる。障りが出るともいうか。

仕事(無償奉仕)をしてくれた人の
(この場合カルマとは異なって災厄みたいなもの)
お願いしたほうが、もらっちゃうことにもなる。

たぶんキリスト教圏や他国のやり方は
この日本という国、民族が創り出してきた
見えない世界(集合体無意識というかサイキカル界)の
ルールに属してないと思うから、問題ないように思う。


これは土着の宗教だったり、いろんなのが入り混じって、
複雑に創ってきた先住者ルールのようなものだから、
日本という土地に住んでいて、民族の和に属している以上、
無視できないものもあったりする。

それがどういうようなものなのかっていうのは、
ちょっとブログではこれ以上、書くことができない。
中途半端な説明で申し訳ないけど。

それが日本て国なんだよ・・・としかいいようがない。
日本とかアジア圏の霊界ルールみたいな(笑)

それはもちろん、
アドバイス程度の軽いものと、
霊的な障りみたいな重いものとでは、
かぶる、かぶらないの範囲にも幅があるんですけどね。

ある意味では、「お金」を支払うことで、
相手に「問題」を投げている(言い方悪いけど)っていう
そういう境界線にもなっているらしい。

かといって、たくさん払えば・・・高い金額を出せば出すほど、
絶対にかぶらないとか、そういうのとも違う。
金額の問題でもない(気持ちや誠意、覚悟の部分もあるので)
絶対こうだ、というのはないのだけども。

どういう相手に依頼するか、
どのような見えない力(形態)に頼るか、
それにもよるので一概には言えないようです。






別の角度からの言い方というか、こう考えるのも手だという
納得の仕方なんだけども。

本来は自分で頑張って解消しなければいけないこと
(向き合わなくてはいけないこと)だったり、
悩んで考えて迷って、あれこれ苦しんで、
自分で答えを見つけていかなければいけないこととかを、
他人の力や見えない世界の力を借りて、
ズルするというのか、楽をするほうを選んでいるので、
その「楽」をしている部分、自分ではやらないところを
「お金」にして世の中に流通・還元させていくことを
しないといけない・・って感じ。

だから、報酬としてのお金をもらった方も、
そのお金を私利私欲のために使ってはいけないわけ。

宵越しの金は持たない・・・ではないですが、

その(スピな)仕事をして得た報酬は、
己の能力や技術の向上のために投資したり、
生きていくための、生活していくためのお金として、
大切に使って、社会に還元していくべき、なのです。
つまりは自分が生きていくための必要最低限以外は、
他者を潤すため、社会を潤すために使えってこと。

儲けていけないわけではない。
けど、ガメてはいけない、すなわち執着して
守銭奴になってはいけないって話。
自分のために使っていけないわけではないし、
貯金だとか老後の蓄えをしてはいけないとか、
そういうことではなく、
自分のところで留めてないで、
ちゃんと回していきなさいねって話。



そう・・・
報酬は、もらわなくてもダメだし、もらいすぎてもダメ。

その塩梅がとても難しいところではある。

たまにバックについている存在たちによっては、
見習い中はお金を頂いてはいけない場合もある。

そういう人には支払わなくても、「かぶる」ことはない。

それは、「ご縁」でその人と会えたので。
支払わなくてもいい相手に会えたってこと自体に
意味があって、誰かの「徳」が働いていたり、
まあ、裏ルールによって仕向けられただけだから。

でも、その人にお金を払わなくてもいいけど、
見えない存在から助けてもらったことに対し、
感謝して、他の人に親切にして、
やっぱり社会に恩恵を還元していかないとだけど。


なんていうか、
「お金」ルールは、その人のうしろにいるもの次第というのかな、
その人がどこから見えない力を使っているのか、
サポートを受けている存在たちの「決まり事」に左右される。

だから、すべての人が同じルールで
「金銭受領」「価格設定」をしているわけでないのがミソ。



でもまー 困ったことにブラックなトコ(動物霊系)になると、
カネダイスキーな金儲け物欲主義に走っちゃってるのはいる。
ブラックなとこは毒そのもので業だらけなので、
毒は毒で太るんである(謎)。
ていうか、こういう人たちは自分がかぶる前に、
誰かをスケープゴートにして、逃れることをしていたりする。


正当なことをやっている人でも、
こりゃヤバイってことにはそれなりのお代を頂かないことには、
神様仏様のお力を借りれないし、
その人が「金銭」を出し渋ったツケが
さらなる大きな負債になって、先々の不幸の種になる場合、
お高い料金を請求する場合もあるから。


てなわけで、この商売、見えない世界で胡散臭いし、
モノみたいな明確な何かを取り扱っているわけでなく、
真偽を見分けるのはとても難しい。

「無料」「安い」から、誠実なわけでもなく、
「有料」「高い」から、詐欺でぼったくりなわけでもない。

適正価格だから、良心的というのともちょっと違うし。

すべてはその人の「うしろ」についているのが何か、
どこから力を、サポートを得ているのかってだけ。

でも、ふつー 
そこは見分けがつかないっていう問題がっっ
あるんですよね、むむむ。


私が思うに、
ちょっと実力不足だけど、人間らしい感情があって、
クライアントの立場や気持ちに寄り添って考えることも出来、
常識があって、現実的でマナーのある人で、
仕事に対してプロとしての自覚や意識があって、
「うしろ」にヘンなものが憑いていなければよし!って思う。

そこそこ実力や霊的なスキルがあって、
当てものが得意で、なんか出来ちゃったりする人でも、
「うしろ」にヘンなものが憑いていたならば、
その場は一件落着でも、そんな人に助けてもらったことが
黒歴史というか関わってしまったことがケガレって思うから、
後から忘れてた借金のようなツケが回ってきそうだし、
そういう人は避けマス。


・・・って、まあ そうね。

前者はお金のこと、はっきりしてるハズ。
後者はお金のことに関しては曖昧で、
終わってから請求されてビックリなことになりやすいかもな。

良くも悪くも、お金のことって
その人の本性が一番出る部分だし。暴かれる部分でもある。


だから、その人が「お金」とどのように付き合っているか、
お金に対してどのように考えていて、
どういう使い方をしているのか、大切にしているのか・・・
「お金」のことをきちんと明確にしていて、
納得いく説明がそこにあるのか、明朗会計なのか、
ケチなのか気前がいいのか・・・

「お金(感謝料)」を前にしたとき、
その人の霊性も同時に垣間見れるのかも知れない。


スピリチュアルにお金を使うとき、いずれにしても、
サービスをしてくれる相手に強要されて支払うのではなく、
自らそのサービスに投資をしたいと望み、支払うべきで、
後は気持ちよく支払うことの出来る「お金」であるか否か、
かも知れない。

結果も大事だけど、
内容に満足がいき、その時間、空間を過ごしたこと、
そのサービスを受けたこと、「支払ったこと」で
気分の良さがそこにあれば、きっとそれは
「生きたお金」になるのだと思う。




で、私は「お金」についてどう思ってるかって?


大好きですよ、マネーちゃん

欲しいですよ、お金

一攫千金大歓迎!!

ウエルカム ビッグマネー!

マネー、マネー、マネー

大好きよ、うっふん、
カモォン ベイビ~
私のところにいらっしゃい!

天から降ってこないかなって、毎日思ってます。

宝くじ、BIGに目がランランです。

夢託してます!

当たったら・・・の妄想はしょっちゅうしています。


でも、残念ながらご縁はあんまりアリマセンっっっ

かなりの他力本願ドリーマーっっっ汗




そうさねぇ・・・

今は「儲けましょう」って言葉に以前ほどは
アレルギーはないかなあ・・・とは思う。

とはいうものの、

実のところ最近ようやっと、お代をお客さんから頂いたときに、

「ああ、このお金は
私がクライアントさんを幸せにするお手伝いをして頂いた報酬なんだ」

って、実感できるようになりました。

ほんとっっっ今さらながらのつい最近のこと。

ええ、ようやくそこに辿りつけた。

この仕事をして報酬を頂く事の罪悪感からは
解放されたかなあ・・・今更過ぎますが。


大切なのは、頂いた金額分の、
あるいはそれ以上の仕事をすることであって、
クライアントさんが「いま」この金額を支払って、
私が提供するサービスを受けてくれたことで、
その金額の何倍あるいは何十倍もの結果を
先々の人生で受け取ることになって、
多くの実りある未来を結実させて、
周囲の人共々豊かになってくれれば・・・と


そう思えるようになったし。



でも、まあ 頭の中は煩悩の塊ですけどね。

うん・・・物質社会万歳!!

拝金主義でも営利主義でもないけど、


俗物で行こう!  ・・・かなあ。

2016/02/20

お金とスピリチュアル(中)

占い師やヒーラー、セラピスト、チャネラー、霊能者など、
スピリチュアリティを生業にする人の中には、
その職業を通して稼ぎを得ること、
お金を頂くことに抵抗を感じるという人が実に多い。

もちろん、専門職と割り切り、
専門的な知識や技術提供の代金として、
商売繁盛に余念のない人もいる。

「困っている人が多いしね」
「相手の弱みにつけこんでいるみたいで・・・」

ということを口にする人は多く、

人の悩みをネタにお金儲けしているんじゃないかなって
罪悪感にさいなまれる人も少なくないのデス。


私も占い師をしているときはそうだった。

街中の占い館にお客さんとして来る人は、
たいてい人生が上手くいってない人で、
失業していたり病気をしていたり、
つまるところカネコマ(どうにも2ch脳だ)ばかりだし。

こちらも仕事なんで定められた代金は頂くものの、
なんとなーく「うーん」みたいな気持ちは日々残るわけ。

この辺りの葛藤を今も抱えている人は多いだろうし、
色んな人が通ってきた道でもあるだろう。

同業同種の人の多くは、
自分の仕事に値段を設定するのが苦手とよく言う。


で、それは妥当な金額というか、
「ただ」というのは施しであって、
相手を甘やかすばかりの良くない行為なのだと、
随分長い年月をかけて気が付いたかな。
痛い勉強をしながらになったけれども。

お金を支払らうということは、覚悟料でもあるし、
自分の行動に自ら責任を取るという行為でもある。
頭を下げて「教えて下さい」という姿勢でもあるし・・・

この手のスピリチュアルなサービスを受ける場合において、
無料に甘えるのは、相手に問題を丸投げするってことで、
相手のカルマを背負っちゃうことになるんだよね。

で、このあたりの説明をする前に・・・


さて、西洋ではドネーション制度っていうのがあって、
相手が自分にしてくれたサービスに、
してもらった側が価格をつけて支払うっていうものなんだども、
(もしくは自分がしてもらったことと同等の対価を
別の必要としている人にしてあげることで相殺する)
それが根付いてたりする。キリスト教の国なんかは・・・。

そして、スピリットの力を用いてヒーリングをするヒーラーは、
もともと無料のエネルギー(氣、エーテルバイタリティー)を用いて、
スピリットの代わりに、見えない存在に手伝ってもらって
ヒーリングという行為を慈愛で行うのだから、
お金を頂くのはおかしいって・・・そういうのがあったりする。

グノーシスの教義もそうなんだけど。

だから、お金を頂く事は、この「教え」に反することだから、
他人にヒーリングやスピリットのメッセージを伝えることは
無償の行為たるボランティアとして行われるべきであると・・・。

そこで、みんな悩むわけです。

お金を頂いて、プロとして、
人の悩み相談に乗ったり、ヒーリングやセラピーを行うのは、
やってはいけないことではないのか・・・

罪悪感を抱いたり、自分を責めたり、
お金を稼ぐことに抵抗を感じてしまったり、とかとか。

苦しんでしまうの。



でも、実はここにトラップがあったりする。


だって、それを言うなら、どんな商売も慈愛の行為として、
同胞に無償のサービスをするべきで、
対価を頂いて行うべきではない・・・になってしまう。

すべてのものは、もとは無料なのだから。
植物の種も魚も動物たちも、本来は無料のもの。
水も太陽も酸素も、土地もそう。


サービスっていうよりも、お金とお金の取引なわけで、
商売の基本に立ち返って考えればいい。

物々交換だった頃を思い出せばいい。

そもそもお金は何のためにあるのか?

欲しいものを、必要なものを入手するために、
自分の持っているものとそれを確実に取引するためのもの。

もし、他人に対価としてのお金を払いたくなければ、
すべてを自分で賄えばいいだけのこと。
魚が食べたければ、自分で釣りに行けばいいし、
お肉を食べたければ、自分でイノシシ撃ちに行って、
解体して保存して、食べればいいわけです。
もしくは牛でも鳥でも飼えばいい。
お米も自分で作ればいい。井戸も掘ればいい。
電気も自家発電すればいい。


それが出来ないから、
生きるのに必要なもの全てを自分一人で賄えないから、
自分の出来ること、能力を用いて
人は「奉仕」という形の労働をして、金銭に換え、
自分が創りだせない必要なものと取引する。

マグロを釣りに行けないから、
他の人が釣ってきてくれたマグロにお金を払って、
それを食べるわけです。
そのマグロがお寿司になったものに
お金を払うことの価値を見出すわけです。

365日、畑で野菜やお米を育てたり、牧畜したり、
パンを焼いたり、食品を加工してくれたりって、
そういうのにお金を払うわけです。
自分が出来ないこと、しないことを人がやってくれたことに、
「お金」を払うことをしているわけです。

自分がすればほぼタダになること、だけど。


思うに、それが相場として妥当であるかどうか、でしょうね。
法外でなければ、といいますか、
提供する内容(サービス)や商品が金額に見合っているか否か、
が全てではないかと。

サービスと金額に価値を見出す人がいて、
受け取る側が満足出来ていれば、相応かと思うのです。




で・・・確かに、経済的基盤がしっかりあって、
生活に余裕があり、精神的にもゆとりがあって、
他人のために使える時間がたっぷりある人ならば・・・

自分がしたことに感謝もしない人に対して腹も立てず、
いきなり夜中訪ねてくるような人でもにっこりと笑って
根気よく対応できるほどの懐広い人であるならば・・・

無料で他人の相談に乗ったり、ヒーリングをしたり、
霊的な仕事をすることも出来るでしょう。

そういう人なら、「無償」で施しをしても、
その行為が自分への虐待や差別になることはないから。


お金を頂く事って、ある意味、自分を守るためのもの。
ある種の人たちから自分を保護するボーダーラインにもなる。
自分が提供するサービスや商品を買って頂くお客様を
選ぶ基準になるんですよね。
つまり自分とこの商品を渡す相手を
こっちでも選びたいって、意思表示。

誰にでもってわけじゃない、
中には自分とこのモノを買って欲しくない相手もいる。
自分のとこで提供するサービスや商品に、
この金額の価値を見出してくれない人には売りたくないって、
振り分けているというのかなあ。

お客さんの生活水準うんぬんを秤にかけるというより、
他人が自分のためにしてくれることに対して
その金額と同等の「ありがたみ」を感じることの出来る人かどうか。
そこを見たいというか、秤にかけるとこも大きいかと。

価格で明確に振り分けることができるものではないけれど、
それが一定のボーダーになっているのは事実のような気がする。


現実において、対価を払わず、
タダで他人に何かをしてもらおう・・・と
考える人たちは、確かにモンスターばかりだから。

本当に生活が苦しくて、無料の恩恵に預かるべき人は、
たいてい遠慮しいで、何とかしてお金を払おうとするものだし。
して残念なことにモンスターのせいで弾かれてしまうことが多いな。

そうさねぇ・・・
お金を払わないで得をしよう、という人たちが増えてるのは事実。
クレクレというか、なんというか、
厚かましい人たちが増殖してたりするのです。



でね、先のドネーション制度。
キリスト教圏では根付いていて、しっかり機能しているんだけど、
日本ではダメなの。まったく機能しないの。
たいてい、五円玉とか10円とか、100円とか
お賽銭の感覚で小銭投げて終わりな人が多い。
裕福な人でもね。自分で金額決めろって言われたとき、
やれ、払わずに済むとばかり、小銭入れてしめしめな人ばかり。
してもらったことを金額に換算して支払うことの出来ない人が、
実に多いんですよ、日本人。払えない生活をしてなくても。

日本人は誠実だと、海外の人はそう言ってくれるけど、Non-non!
決してそんなことない。

もちろん、ちゃんと支払う人もいますけどね。
(うちでもたまに、
所定の金額以上の料金を支払おうとして下さる人いたりします)


なんていうのかな、価格が決まっていれば払うことはするけれど、

(高いものにありがたみを感じて、高価なものを買える自分に
酔うような面もあるし、見栄っ張りな意識から、
高級品を入手し、それを利用する自分スゴイでしょって、
ステイタスほこりーので、それやりたいがための人もいますが)

価格を自分で決めて下さいって言われたとき、
高いものをなるべく安く、お金を出さないで済むなら
払わずにゲットして「得」したって、
そうした満足感に浸りたい人は多いのね、実に東洋人は。

中国の人はそうした人が顕著だけれども、日本人だってそうよ。
そういうところをモロに人前で見せないだけで、
見えないところでは出し渋るわ、出し惜しみするわ、結構シビア。

値切りが悪いってわけではないけどもさ。
何ていうかいやらしいというか、
卑しい人もまだまだたくさんいるわけです。
きっぷのいい、気前のいい人は、少ないもので。

(出し惜しみする人、安く済むなら・・・って考えがちな人は、
結局、それだけの価値のものしか出会えず、
それ相応の人生しか生きられてない人なんだけどね)


お金に関してはそういうのが出やすいからね。
実にお金っていうのは、
その人の本質が一番垣間見える部分でもある。

なんとなく日本人は、たぶんモノの価値を決めるのが
苦手な人が多いのではないかなって気がする。
それは自己評価の低さに通じるもので、
他人が自分にしてくれたことに対しても、
その「感謝」の気持ちを対価として表すことに
慣れてないというか、上手くないってそんな感じ。

お礼やお返し、ご祝儀や見舞金、土産等の文化があるわりには、
現代では既にそれは互いの負担となってしまっていて、
本当に相手が喜ぶものを返礼できていないことからも
容易に推察できる。



だから、日本では・・・しっかりと金額は決めておいたほうがいい。

価格設定は、互いの人間関係の境界線をきっかりと引いて、
自分が与えたいと(仕事で相手にしたいと)思う人を
ある程度決める、マーケティングの一環にもなるから。


安くて誰でも気軽に利用できるっていうモノを提供しようというのと、
ボランティアでわけ隔てなくサービスを提供するっていうのは、
本質も結果も全く違ってくる。
後者は下僕になるのと同じくらいの覚悟が必要になるもの。

無償で、無料で相手がしてくれることに感謝できる人って、
本当に少なくて・・・むしろ、タダなものだからって、
してもらったことや与えてもらったモノを大事にせず、
いつ捨ててもいいようなものとして、ぞんざいに扱い、
アドバイスにしても軽視する人のほうが圧倒的なので。



でもって、日本でスピリチュアルなことをするのに、
お金という対価が必要であるって理由については次回の講釈。

2016/02/19

お金とスピリチュアル(上)

10年位前だったと思うけど、

最初体調が良くないので・・・って
奥さんの紹介でいらっしゃった
誰でも知ってる某企業勤務のクライアントさんが、

何度か訪れて下さるうち、

「海外のこの会社と提携して、
これこれこういったビジネスに
投資してもいいものでしょうか?」

・・・みたいな、聞くと億は軽く動くビジネス。

どっしゃあ~!

こちらを信頼して下さったのはありがたいのだけど、
勘弁してつかーさいっっっ(T-T)涙

一度だけアドバイスすることはしたけれど、
それが誤りの元。


以降、何度か依頼の連絡をもらったものの、

「その手の相談はお受けしませんので・・・」

と固く断らせて頂いた(逃げた)。





まあ、S●NYの命名を藤田小乙女さんがされたのは
有名な話だし、企業の上つ方たちが、
ゲン担ぎをしたり、霊能者や占いに頼ったりはよくある話。

有名になりたいとか、ビジネスチャンスを狙ってる
占い師やスピリチュアリストさんたちなら、
この手の依頼は美味しい話に映るんだろう。

「ウマーっ! 上客きたっー!」

となったりするのがフツーなのかも。


だけど、私はダメなんです。

何ていうか、「儲ける」という言葉を聞くと
その言葉がトリガーになって、パニックになり、
何もかもイヤになって耳を塞ぎ、逃げだしたくなってしまう。

以前魔術関係の友人(ショップ経営者)と
何か企画出してやるー?みたいな話になったときも、
「一緒に儲けましょうよ」という言葉を聞いたとたん、
もう拒否反応出てしまって、逃げ腰フェードアウト。
(ごめんなさい)


やっぱり数年前に、
最初は気鬱の問題で来られてた経営者の方で、
(レイキの)ボディヒーリングだけだったんだけど、
気分転換に愚痴聞いたりプチ相談にも乗ってるうちに、

「不動産投資をするのに
この物件はどうでしょう? 利益は出ますかねぇ?」

みたいな真剣な相談を持ち込まれてしまい、硬直。

顔ではポーカーフェイス気取りましたけど、脳内では、

「いっ、
いやあああああぁぁぁあ!」


な、泣きたかった。

そういう相談を受けるのが嫌いというか、
トラウマ刺激されまくり、なもんで・・・

その場はとりあえず答えたけれども、
これまたその後はもうひたすらに逃げまくりました。

「来ないでっ! 
来ないでぇぇええええ!」

みたいな勢いで。

体調が完全に治ってないというのに、
途中で放り出すみたいな悪いことしてしまったけれども、
でも、そういう「儲け」に関することに絡んだ相談は
まっぴらごめんだし、二度と耳にしたくなくて。

責任が重いっていうのもあるんですけどね。
金額が金額なだけに。
だからこそ、ご神託みたいなのに頼りたくなる気持ちも
分からないでもないんですが・・・



なんで、「儲け」に関した・・・
とくにビジネス分野での儲け話に
アレルギー反応、拒絶反応が出てしまい、
頑なに逃げ回ってしまうのかっていう理由は
自分でも判ってはいるのです。


それは過去生で、「ご宣託」とやらを生業としていたとき、
儲けと権力のために上つ方たちに利用されたことがあるから。
そこには「呪」も関わっていて、まぁ・・・
金権まみれの醜く引き攣れた、爛れた世界だったわけです。

ライバルに対して呪術合戦は当たり前。
自分が出世して成り上がって権力固めて誇示して、
利権を欲しいままにして独占してひたすら金を掴む・・・

もーそーゆー欲に汚染された世界はまっぴらごめんだし、
二度と関わりあいたくないの~
イヤなの! 冗談じゃないよ~なのね。


でも確かに中には、傾いた経営を立て直したいという、
従業員に給料払って、あとは自分たちの生活が出来ればって、
普通に会社を回して利益を出したいだけの、
しごくまっとうな相談もあるのでしょうけど・・・

私にはどうにもトラウマ刺激されて、NG。

なんでよりにもよって、
そんな相談を私に持ち込むのよぉおおお!

という風にパニック起こしてがるがるしちゃう。

(あと、借金で首が回らず、いよいよの最後通告つーか、
どうにもならなくて明日にも一家心中みたいな
追い詰められてギリギリの人たちのためなら、
そういうズルして未来を覗き見て・・・ってのなら、
例外ということでお許しは出るんでしょうって思う)


お金が欲しいという欲求は物質社会を生きる上で
人としては当たり前の欲望で、
別にそれ自体に問題があるわけではないのだけども。
うん。決して悪いわけではない。

だけど、占いやサイキカルな能力を用いて、
相場を見たり、ギャンブルの確立を探るのは、
タブーの領域を侵すことでもあるし、
もち良心も咎めるところ。

競馬で試して3連単を一度だけ当てたことあるけど、
消耗感ハンパなかった。
罪悪感というよりは、「二度とやるもんか」と思った。
儲けても気持ちいいお金ではないので、
あぶく銭ってホントにこういうものかと痛感。

そうでければ、ギャンブルで随分儲けられたと思うよ。
割り切れていたならば今頃きっと金持ちになれてたかも。

けど、そんなことで「未来」を読むのは
タブーを犯すことなんだとつくづく身に染みた。


基本的には私は未来を見るのは嫌いだし、予知はやらない。
難しいというのもある。
当たる当たらないというところだけ問題視されるのも不満。

当事者に希望の光を与える必要性があるなら別だが。
基本的に未来は三日先までしか決まっていないし、
いくらでも変更可能ではあって、
人には選択肢も与えられているから。

だから、未来は絶対こうなる・・・と、
限定的な未来ビジョンを植え付けたくはないし、
(時に洗脳になって、選択する道を決めつけてしまう)
先を垣間見ることで努力することをやめ、
自分で考えて行動することをサボらせてしまうことも
避けたいから。

もちろん、失敗や危険を避けるために
命を守るために・・・予知が可能なら、
未来の情報も必要なときはるのだけども。

未来は、自分で創り、選んでいくのが一番だと思っている。




今は・・・そう。

そのビジネスで得られる利益が、
本当に世の中のため、社会のため、従業員含めて
会社の発展のため(その会社が社会の益になるか)
その金銭と金額が必要で妥当なものであるのか否かって、
ところで見ていくべきなのだと・・・
そのような実のある、必要性のあるビジネスならば、
以前ほどにはアレルギー反応は出ないだろうし、
タブーには触れないのだとも思っている。

けど、そういう「占い」はすでにしていないので。
やっぱ、基本的にはイヤなんだろうなぁ・・・と我ながら思う。

2016/02/13

己に如かざる者を友とするなかれ

 友とするに悪き物、七つあり。
 一には、高くやむごとなき人。
 二には、若き人。
 三には、病なく身強き人。
 四には、酒を好む人。
 五には、猛く勇める兵。
 六には、空言(そらごと)する人。
 七には、欲深き人。

 良き友、三あり。
 一には、物くるヽ友。
 二には、医者。
 三には、智恵ある友。

             by徒然草百十七段


ちなみにタイトル・・・は、
自分をより向上させるためには、
自分より劣った者を友にすべきではないという教え。




8年前、とある大量採用の派遣先で、
その数年前にケンカ別れをしてしまった友人と、
バッタリ再会してしまったことがある。

彼女のほうが1か月早く入社しており、
グループが異なるので、席は離れていたんだけど、
昼に一階へ降りるのに、
たまたまエレペーターで一緒になってしまい、
何度か私の顔をチラリチラリと眺めてきて、
その度に侮蔑したように、クスクスッと手を添えて笑って、
降り際には「ふんっ」と一瞥したかのように降りて行った。

そんな彼女を見て、思わず、

「私は今、過去において、
 一時期でもあなたと親しかったこと
 あなたと友達だったことを、とても恥ずかしく思う」

・・・と、思わず心の中で呟いてしまった。

相手に言うには間に合わなくて。
次にされたときには言うかな~なんて考えていたけど、
人がとにかく多い職場だったから、
偶然バッタリというのは以降なくて。


知り合ったのは初めて派遣の仕事をした現場だった。
彼女のほうが年上だったけれど、とても陽気で楽しい人で、
よく一緒にお酒を飲んで騒いだものだ。
ケンカをしたのはお酒の席で、
彼女の絡み酒からの些細な言い合いが発端だった。

それきりのご縁になってしまったけれど、
たくさん良くもしてもらったし、
楽しい思い出もそれなりにあった。

だから、ショックというか、悲しかったよね。
そして、あれ・・・こういう残念な人だったんだ・・・
私が知らなかっただけで、
最初からこういう人だったんだろうか?

という風にも思った。


類は友を呼ぶ・・・とは、その昔から言われること。


もし、彼女のことを
"そういう人"だったのだと判断するのなら、
彼女と気が合って、親しく交流を持った、
当時の私も"そういう人"だったのだろう。

過去の友達への失望は、そのまま過去の自分への失望になる。

彼女と友達であった頃の私は、
彼女と同じところにいる同種の人間で、
かつて親しかった人に対して、
今はもう親しくはないからといって、
唾を吐きかけるような態度をとる人間だったのだ。



そして、友を見れば、その人自身が判るとも人の言う。

付き合う人、関わる人はよく選んだほうがいいというのは、
まったくそういう意味で、その通りで・・・。

私が選んで、付き合った友達だ。
いやさ、
向こうは友達とは思ってくれてはいなかったかも知れない。
誰に押し付けられたわけではない。
自然と親しくなり、契約期間が終わってからも、
連絡を取り、交流を持ち続けた友人。

いずれにしても、私が望んだ交友関係。

それは私の映し鏡。
彼女は私という人間のレベルを表していたに過ぎない。

彼女にがっかりさせられるならば、
私もたくさんの人にがっかりされる人間だったということだし、
事実、がっかりされる、その程度の人だったのだ。


対人関係はその人を表すというがごとく・・・

過去に関わった人、築き上げた人間関係は、
すべてその時の自分自身を表している。


彼女は昔の私で、
その当時の人としての本質を表していた。
私も実に、くだらない人間で、
他人との関わりあいを大切にせず、
相手を尊重せず、他人の悪いところばかり見て、
一期一会の出会いに感謝をすることもなく、
親しくなった人たちとのご縁を大事にしていなかった。

それは友であっても、お客様であっても、
職場の人間関係も、すべてにおいてそうだったと思う。



今はそう。
過去のすべての出会いに感謝している。
これまでの人生で出会ったすべての人が、
私に様々な経験と感じる機会、考える機会を与えてくれ、
鉄が叩かれるがごとく、弱い部分を鍛えてくれ、
色々なことを教えて、成長させてくれた。

好きになれなかった人、嫌いだと思った人もいたし、
腹を立ててしまった人もいるが、
今となっては私の未熟さ、不徳の致すところも大きかったし、
痛い経験から学んだことは大きい。


良い関係性を築けず、良い別れ方を出来なかった人も、
縁が切れてしまってもう二度と会うことのない人にしても、
すべての人の健康と実りある人生をただ祈っている。


そして、今も私とお付き合いしてくれる人、
たまたまのご縁から、気が付けば長いご縁になっている人など、
私と親しくしてくれること、友であってくれること、
関わってくれることにも深く感謝している。




さて、遡ってこの一か月、
あなたはどんな人と、誰と直接会ったろうか?

少なくとも七人の人物を上げて欲しい。

その人物は、未来のあなたを表している。


親しくしている人、会って言葉を交わす友は、
あなた自身の一部であり、あなたがなろうとしている姿である。

どんな人とどんな話をしたろう?
その人は明るい人だろうか、落ち着いた人だろうか、
未来に展望を持ち、積極的に人生を生きている人だろうか?
それとも現実に押しつぶされ、不安と焦燥感でいっぱいの人?

周囲を笑わせ、皆が楽しく過ごせるように気配りの出来る人?
愚痴や不満ばかりで否定的で批判ばかり口にする人?

あなたはどんな人になりたいんだろう?

その友達のようになりたいと思う?

もし・・・その人の事を尊敬したり、憧れたり、
手本とし見習いたいところがあるとは思えないのならば、
付き合い方を変えるとか、距離感や関係性を見直すべきだろう。

そして、自分もまた相手が表している欠点や
自分が相手から与えられている不快感を
他の人にも見せていて、周囲からは「同じ穴の貉」として
同格に見られていることを忘れてはならない。

相手の「資質」はまさに自分の「資質」であり、
相手の「評価」は自分が周囲から受けている「評価」であり、
本質なので。

だから友達は選ばなければならない。


そして、
「こんな人と親しかった自分が恥ずかしい」
と・・・言われないように、

あなたと関わったこと、知人であり友であったことが
その人の人生の汚点だと言われない人間であるように、

自分と友でいてくれる人、関わってくれる人に対して、

かくありき・・・な人であらんことを心がけるべきである。





2016/02/11

グノーシス教義と私のお役目

グノーシスの教義・・・「神聖なる計画」に関しては、
いまの人々には理解するのが難しいというより、
その人のエゴイズムが
教義の真意を正しく理解することを邪魔してしまい、
自分本位で自分勝手な解釈をしてしまうことのほうが多いので、
段階的にその人のレベルに合わせて知識を開示(伝授)して、
同時にエゴイズムをそぎ落としていくための
エクササイズを地道に続けていくしかない。

だからどうしても導き手が必要になる。

同時にそれは、本来人類が進むべき
霊的進化の道へと至るための案内役のことでもあるのだけど。

何故なら、一人では難しいから。

もし、単独でその道を迷いなく、まっすぐに進めるのなら、
人類はとっくに皆、この地球を卒業していたはずだろう。

(とはいっても、集団が道を誤るとまた大変なことになる。
なのでリーダーたる師匠に頼りすぎず、盲信しないことも大切)


例えば仏教でいうところの解脱、悟りの道。
(煩悩はまさにエゴイズムのこと)

「神聖なる計画」において、それは今のところ、
人類の輪廻転生の旅のゴールであり最終目標。

人として私たちがこの地上、三次元に
「かたち」としての実体を所有して存在するようになったとき、
私たちは万能者である立場から
「無から有は決して生み出せないもの」
になったのだけれど、
同時に自己意識を得、あるものを使って想像=創造し、
自らの運命をクリエートしていく力を手に入れた。

そして、一番下の階層から、
再び元居た場所(ワンネスとも言える)に戻るために
三つの身体を用いて・・・その身体を育てていくことで、
自己意識(個別意識)を持ったままに存在するための
第四の身体(神道でいうところの"なおひ")を育て、
万能者であった自身へと回帰していく。

三つの身体を育てて、第四の身体を育成するためには、
知識を身につけ、愛を育て、
なおかつ行動していくことを実践しなければならない。

そのためにはたくさんの経験をして、
喜怒哀楽を学ぶ必要がある。

ものすごく簡単に、かいつまんでいくとそんな感じ。


ブループリントは、
その人が個別の自己意識を所有したとき、
この地上において長い旅をしていく中で、
どんなことを主に経験して、実現させたいか等の計画。
どうせ旅をするのなら、様々な人生を生きねばならないのなら、
ここに戻ってくるまでに、このようなことを地上で成し遂げたいと、
当初自分で決めて、それをしたいと望み、自らに与えたノルマ。

魂のMapとも言っていいかな。

カルマのレッスンは、
本来の自分から大きく外れた行動をしたときや
愛の無い、エゴイズムに満ちた考えや行動に対して
その考え方や行動の誤りを正すために生じる。
時にブループリントから逸れ過ぎてるときにも創られる。


人生をロードムービーに例えたとき、

ゴールたる解脱、第四の身体の成長が
旅の目的地であり、終わりになる。

ブループリントはその旅で「何をするか」。

その目的地に行くまでに生じる様々な出来事に対して、
その人が反応したこと・・・がその人の人生を作り出す。
色んなものを引き寄せ、カルマのレッスンを作り、
それに対処しつつ、向き合いつつ、足踏みしつつ・・・
ぶっちゃけ、カルマのレッスンは「寄り道」だったり。

その旅における経験によって、
三つの身体が育っったり、育たなかったり・・・

しかし、第四の身体が育たないことには、
目的地にはたどり着けない。

まあ、そんなダンジョンですね。

実際には目的地に行くまで、何回も死んで生まれて、
いろんな肉体で色んな人格として生きるわけですけど。



で、多くの宗教では精神的なものと物質的なものを
造反させるかのように、精神的なものを得るためには、
物質的なものを捨て去るべきで、持つべきではない、
みたいに言ってるけれど、

グノーシスではそうは考えてない。

物質的なものに振り回されないことが大事であって、
物質的な豊かさは享受すべきだし、
物質的な価値観やそれらに執着して支配されないことが
肝心であると、物質は利用すべきものであるって、
そんな考えだったりする。





さて、

私の仕事の一つとしては、
グノーシスにおけるサイコセラピーの立場から、
クライアントさんの悩み相談をすることで、

その人のエネルギーフィールドの状態をリーディングして、
その結果を踏まえた上で、状態を立て直して改善するべく、
氣を補充したり、氣の流れをよくするなどヒーリングの手法で、
エネルギーフィールドを整える働きかけをしているのであって、
(オーラとかチャクラとかエレメンタルの話はするけど)

予言者でも占い師でも、まして霊能者でもないのです。
マントラ使ったり、シャーマンの手法を用いたりはするけど、
それはヒーリングの手法ということで。

なので、ヒーラーかと言われればそうでもあるけど、
とりあえずウィッチドクターが適切なような気がするし、
まあ、スピリチュアルセラピストとも名乗っていますが。


そして、もう一つの仕事としては・・・
こっちが本命というか、天命たるお役目でもありますが、

その人の今の人生がブループリントからどんだけ離れて、
当初の予定から狂ってしまって、道が逸れてしまっているか、
本来のとこから今いる場所とどれだけ離れているのか・・・
創らなくてもよかった余計に増やしたカルマのレッスンを含めて、
サボタージュしている経験や取り組んでいないカルマのレッスン、
そんな風にやらなくてはいけないのにやっていないこと等など、

そういうのを踏まえた上で、その人の今いるレベルに合わせて
少なくとも今の人生で最低でもやっとくべきことや
とりあえず道の矯正をするためにまずコレ・・・ってことを

伝えるメッセンジャーでナビゲーターかな。


例えば・・・実例出すと

地上にて「皆が住みやすいより良い社会、コミニティを創っていく」
ことがプルプリの目標というか、地上に人という実体となったとき、
そう強く願った人がいました。
途中までは統治者となったり、政治家になったり、
その方向性に行くための勉強が出来ていなくもなかったんだけど、
孔子のところで学ぶことができたとき、
すごーい人を目の当たりにして
「あんな風に(スゴイ人に)なりたい」と思ったものの、
エゴイズムをこじらせて、嫉妬が生まれてしまったのね。
ここがまず歪みの躓き。

間の諸々の人生は省略して・・・

ジョシュア・エマニエル・・・キリストとして知られる
人物が生まれたとき、その人はユダヤの執政官だったの。

最初は大したことないやー 
民衆を惑わすヘンなヤツ程度に思ってた。

けど、会った時、「こいつただもんじゃねぇ!」

人気者だし、いいこというし・・・ ビビった(らしい)。
このとき、恐怖と共にジェラシーに火がついちゃったりした。

まあ、その人の意見だけでキリストが有罪になったわけでないけど、
処刑したあと、とんでもないことをしてもーた・・・
すごい人を殺してしまったかも、という罪悪感も抱いてしまった。

で、間の人生も省略・・・

ある時、その人は日本に生まれた。
良い国造りをしたいという本来のブルプリに近づくべくか、
権力者一族の一人に生まれた。

過去、孔子の元で儒教を勉強したり、
ソクラテスのとこでも学んだことのあるその人。

「仏教は今の日本に必要やでー」という思想に共感した。
だから、仏教を取り入れようと頑張った。

けど、○○太子はちょっとだけジョシュアを思い出させる。
(似てなくもないけど全然タイプが違う。魂も違うよ)

「いやん、過去の自分の罪を思い出させるから嫌い」だった。
(本人、なんで彼が苦手なのか気づいてなかったが)

その人生の後もすぐ日本に生まれた。
戦で死んでしまったから、やり残したことやるために。

でも、結果 創らなくていいトラウマが出来てしまった。
余計なカルマのレッスンがたくさん出来るばかりで。

「良い国造り、よりよい社会を作っていく」ためには、
政治もそうだけど、何よりも「民百姓の立場」そして
「本当に人を幸せにするものは何か」を
その人は学ばなくてはいけなかった。
けれど、せっかくその学びを得られるような、
人生やポジションに生まれることができたのに、
権力争いに対するトラウマやあれやこれやをこじらせて、
肝心なことを学べず、どんどん違う方向に行ってしまった。

ノストラダムスの本を写本したとき、面白くて、
オカルト方向の知識に関心が行ってしまったり、
本そのものに興味が行ってしまったり、

魂が望んでいたことを実現できる人生から、
とぉーく離れてあさっての方向に行ってしまっていたり。


そんな人に、どんだけ元の目的と離れてしまったのか、
どれほど余計なエレメンタルを大量に作ってしまって、
しなくていい経験をしたり、するべきことから逃げてたり、
こんだけ「カルマのレッスン」がありまっせ!と、

そういうのを教えたり、気づかせたりするのが
私の本来のお仕事。そのために生まれてきた。
呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!と人として出てきた。
それが私のブルプリつかー使命になるのかな。

「いつまで、寄り道して道草くっとんのや、
 いい加減目ぇ覚まして作った借金返して、
 はよ先進めやぁ~
 もともとやると決めた事、始めんかい! うりゃ!」

と、お尻ペシペシ叩いて、ドツクことをするの・・・


(いきなり一方的には伝えない。とにかく段階があるから。
基本は当人が答えにたどり着けるよう見守って誘導するだけ。
準備が整って、受け止める段階が来たら本人が思い出す
サポートをして、情報の整理整頓を手伝うくらい。
でも目を背けてきたことには皆後ろ暗いから、痛いコトとして
なかなか思い出さんのよ。だからツツクことになるのよ。
キツツキみたいに、おらおらおらおらおら~って)




して、「神聖なる計画」に添って、
その人が三つの身体を鍛えて、第四の身体を育てて、
霊的に進化していってもらうために、
知識を教えて、霊的エクササイズを指導していくのもその一環。
(スピリチュアリズム講座とグループレッスンとか)

基礎講座は個人レッスンとかネット(スカイプ)でも出来るけど、
グループレッスンだけは直接じゃないと、ですが。



そうさねぇ・・・
でも、個人セッションで来た人に、
「私の過去生は誰で何処で何をしてたのでしょう?」
「私のアカシックレコードを読んでください」

と言われても、必要のない情報は伝えません。
意味ないから。

その人の好奇心を満足させるためだけに
過去生リーディングはしていません。
アカシックもまず閲覧許可降りないし。

ブループリントも同じ。
知る必要性のある段階(レベル)の人なら、話すと思うけど、
そうでない人に話したって、立て板に水になってしまう。
それ以前に取り組むこと、知るべきことのほうがあるでしょうし。

というか、まず何も情報出てこないと思いますけどね。
エゴイズムのエレメンタルが汚部屋状態でてんこもりで、
それ片づけないと、探し物は見つかりません・・・(ホントです)



で、前にスクールやってたとき、
エレメンタルやサイキカル界の仕組みのことを
ビジュアル的に理解するのに良いなあ・・・と
寺尾玲子さんを描いたのとかそのあたりのコミックを
生徒さんに貸したことがあったのね。

するとある日突然、数珠もってきた人がいた。
コミックに描かれてたのとそっくりの。

お葬式や法事で持参するのは普通ですが、
そうでない場面での数珠は使い方があるわけだから、
僧侶や行者さんになる修行をしたこともないのに、
どうして数珠がレッスンに必要だと思ったのか・・・

いやさ、うちで教えているのはヒーリングだし、
エレメンタルの話、霊的な話も教義の中にあるし、
サイキカルヒーリングも教えてはいるけど、
そういうトコじゃないんですが。

霊能者さんになって、コミックに出てくるようなことを
出来るようになりたいのなら、
本職の霊能者さんや密教系の修行の道を辿れば?
なんですよね。


うん。
その手の実在の霊能者さんの体験的コミックは、
面白いし、ためになるというか勉強になりますから、
ほどほどによさそうなもの選んで読んでますよ。
だけど、職業が違うから、異業種だから、ホント。

私の分野ではないから。

だから、そういうことができるようになりたいと
望んでいる人には、私のスクールは違うんです。


(どうしてもね、ちょっとばかり知識を得て、
何かちょっとだけ・・・
そうヒーリングやらリーディングとか出来るようになって、
過去生とかほんのちょっと障り程度でも思い出したりすると、
それだけですべてを判ったような気持ちになっちゃう人って、
いたりするのね。
大体そのあたりが、スピリチュアルナルシズムに
一番近いトコで、引っかかりやすい第一の罠なんだけど。

気持ちが大きくなっちゃうっていうのかなあ・・・

まだ入り口の入口、その手前くらいにしか来てないのに、
知識を得て出来るようになったというだけで、
漫画で描かれているようなすごいことが自分でも出来るって、
過信しちゃうのね。ここで堕落する人はヒジョーに多い。

そしてわかった気になっちゃってるから、
自分はエライんだとばかりに、天狗になって、
人を見下したり、状況や人をコントロールしようとして、
おかしくなってしまう。

だから師匠ってのが必要なんだけど、
その師匠をバカにして、言うこと聞かなくなる人も
少なくないのよね。何様的態度になっちゃって。
そうやって破門したり、自ら立ち去る人は多い)




私は、三つの身体を鍛えて、第四の身体を育てたい、
早く人間になりたい・・・ぢゃなかった、
早く霊的に成長して輪廻転生の輪から脱出したい!
来世もまたこんな酷い状況に生まれるの、イヤ~!

・・・という人や、

果てしなくエンドレスに繰り返すこのドグマのような、
カルマのどつぼにはまったパターンや
ネガティブ人生をどうにかしたい、自分を変えたい!
自分の人生、パワーを取り戻したい~

マイナスの考えによって、マイナスの氣を作り出し、
それによってネガティブな霊的存在やエレメンタルを
いっぱい引き寄せてる状態を改善したい~!

・・・という人のために開いてるんです。

だから、スクールというより道場のようなものかなあ。

戸塚ヨットスクールのように厳しいトコもあるよ。
(いや殴ったり蹴ったり暴力はないです。キツイことは言うけど)

やってるのは、とっても地味なことなんです。

だから、スピリチュアルが好き!なんて人には向かない。
スピリチュアルにキレイな世界を求める人、
幻想や憧れを抱いてる人はまず離脱しちゃいますね。

特別な人になりたがってる人、サイキックな能力を求める人もね。
地球や人類を救うヒーローヒロインになりたい人も。
他人を救うとか、癒したいなんて、戯言いってる人も無理。


自分を見つめ直したり、
問題と向き合ったりするのが嫌で、
自分が変わることを望んでない人、
成長したくない人は、向かない。


そういう人の過去生から今生、そして来世に至るまでの
ライフプランの立て直しに、時間かけてサポート、が
うちの信条だったりします。



なので、万民向けでないというか、ちょっとコアな感じ。
門戸は狭く感じるとこかも知れない。

「真理の探究者」というスタンスになるので、
ビジネスとしては成り立たないですね。


2016/02/10

スピリチュアリズムはスピリチュアルにあらず

日本語にすると、スピリチュアリズムは「心霊主義」
スピリチュアルは「霊性」のこと。

何かというとスピリチュアル「霊性」を口にするものの、
肝心要の「心霊主義」を知らない人は多いかもしれない。

ちなみに皆がスピリチュアルと言っているものは、
正しくは「スピリチュアリティ」のことだったりする。
使い方が間違って広まったというべきか。

で、スピリチュアル(スピリチュアリティ)と
スピリチュアリズムはまったく違う。

なので、
私が教えていることや実践していることは、
スピリチュアリティを含んでいても、スピリチュアルにあらず。

バックボーンにあるのは、スピリチュアリズムなので。

何がなんだか、違いがわからん。。。て人、多いだろうな。



スピリチュアリズムが発生したのは、19世紀ではあるけれど、
実のところ、このムーブメントは
グノーシスの教義の復活が目的だったりする。

誤って広まってしまった霊的教義を正すこと、
そして宗教が社会において道徳的規範の模範とならず、
もはや意味をなさなくなってしまったことから、
どんどん唯物主義に染まっていくことに危機感を覚えた
透明なヘルパーさんたちが(すでに解脱した人々ネ)

「地上をどげんとせんとかアカン!」

と立ち上がって、
いろいろと準備をして(それこそ100年位)、
アメリカとイギリスという、影響力の強い国において、
それを興すことを始めたわけです。

だって、肉体を持っていない人々はさ、
肉体を持っている人々に対して働きかけるの大変なの。
ものすごいパワーが必要なの。
肉体を持った、生きている人間の意志だけでは無理だし、
肉体を持っていない存在の意志だけでも無理。
双方向からの働きかけというか、一致がないとネ。

地上に生まれてメッセージを伝える役をする人が
ちょうどいい場所に生まれないとか、
あれやこれや打ち合わせと「調整」が必要だったわけです。

解脱した人々はあくまで中心部にいる人たちのことで、
英語で言うとアセンデッドマスター。
何しろ人手不足だから、解脱してない人もメンバーにいたりする。
これはグループで自主的に活動してて、
何個か目的別にあったりする。日本語だと霊団というね。
無給のボランティア的活動でNGOとかNPOみたいなもの。
有名なのは神智学にも良く出てくる白色同胞団。
ここが一番スケールがでかいことをしてて、
規模も大きく人数も多い、赤十字やユニセフみたいなもん。
白色同胞団以外にも、そこから枝分かれした、
ちんまりした団体だとか、それなりにある。
みんなそれぞれ得意分野があって、協力しあって働いてる。


この辺りは置いておいて・・・


そもそも、私たちが何故この地球において、
人という器を持って存在することになったのか・・・
人間が人間として生まれてきた目的とは?
最終的な目標、究極のゴールとは?とか・・・

そういうことを最初、人間はなんとなく覚えてたわけです。
なんとなくってこともなく、ちゃんと理解してた人々がいた。
転生を重ねて人間としての人生経験が増えていくたび、
そういう記憶としての「知識」を忘れてしまうんものだから、
その中でもちょっと意識高い系の人たち(笑)

つまりは神官とかそういった役職の人たちなんかが、
口伝とか書物に表したりなんかして、残すことをしたわけ。

でも、「文字」がなかった時代なんか、
正しく伝わらず、伝言ゲームよろしくどんどん
話が歪んでおかしくなっていっちゃった。

(マヤやアステカで黄金の心臓って言われてるのは、
生きた心臓のことではないのよ。
彼らは伝えられた知識を間違って解釈してしまった。
黄金の心臓とは肉体の心臓のことではなく、
サイコノエティカル体の中心部であり、育てる前の最初の形。
神道でいうところの直霊のことで神体のこと。仏教だと宝珠ネ。
そんな風に本当の意味を解釈できる人がいなくなってしまった)


神話や伝説はその名残でしょうね。

色んな大陸、文明にて、それは記録されていたものの、

かなり原本(オリジナル)というか真実に近い形で、
伝承されていたのは、エジプト文明だったかしら。

その頃には地上というか人間はかなり堕落していて、
霊性は低いものになりつつあり・・・
だから、一般の人々にその知識を伝えても、
エゴイズム的解釈をされてしまうのがオチなので、
アトン神殿の神官と一部の王族たちだけに伝えられてたよね。

エジプトではその「教義」は神殿の壁に絵で描かれてた。

モーゼがエジプトを出る時、それを模写して持ち出した人がいて

それが「カバラ」となり、ユダヤの教義になった。

モーゼはまあ、ちょっとはその絵の意味を理解できた人だけども、
ほとんどの人はちゃんとした意味を理解できてなかった。
だから誤った解釈、意味がここでも伝承されることになっちゃった。

例えば、カバラでは「人は神になるために生きている」とされてる。
でも、そこは合ってるけど、肝心なとこが抜けてるし、
かなーり誤解釈されてる。生命の樹の絵も間違って模写されてる。
オリジナルと違ってるし・・・まあ、慌ててたんだろうね。
逃避行の直前だったし。

だから、このカバラ・・・
もともとの教えが正しく伝わってないものだから、
この教えを探究した現代魔術はどうなってしまったのか?

間違いだらけだ。

ちなみに賢者の石は人間の身体の中にあって、
私たち人間が育てていくもの、だったりする。
身体の外にあるものではないんだよね。

ああ、大天使たちは自由自在に使えたりする。
けど、彼らはそれを持っていないし必要ともしない。



エジプトの壁画から写し取った「教義」を
バイブルのように持ち歩くためにタロットの
もとになったものが創られたわけだけれども・・


タロットが何故78枚なんだと思う?

本当は足りない部分がある。
写し忘れている部分があったってこと。

サイキカル界の49層とノエティカル界の49層、
そしてマテリアル界の1層。サイコノエティカル界の1層。
この数自体も教義なんだけども。


アトン信仰が滅び、アメン信仰が優勢を誇ったとき、
それまでかろうじて、かなり真実に近い形で
地上に伝わっていた教えは滅びてしまった。

「教義」の正当な継承者でないものたち・・・
ユダヤ人たちが持ち出した「写し」は不完全で、
きちんとした教えを受けてないものだから、
間違って、勘違いして解釈されるままに、
そのまま定着してしまい、広まってもしまった。


ちなみに代々のアトン神殿の神官たちの中には、
後にエドガー・ケイシーという名で生まれたものもいる。
アトン信仰への弾圧が始まったころの神官には、
後にプラトンそしてレオナルド・ダ・ヴィンチとして生まれるものもいた。
彼はキリストが誕生したときにも、その地にいた。




キリスト・・・ジョシュアはユダヤ人が犯した過ち、
間違って広めてしまった「神聖なる計画」を
正しく伝え、間違いを正すために、
ユダヤ人として生まれてきた。
(意味取り違えてまんがな~違いまっせ~
そうじゃおまへんのや・・・と言ったかどうか知らんが)

ヨハネはジョシュアをサポートするために
これまた生まれてきた。



しかし、ここでもまたジョシュアの教えは、
正しく広められることはなかった。

時の権力者たち、人間のエゴイズムに利用され、
肝心な部分が削られて、歪められて・・・


そして、スピリチュアリズムという、ムーブメントが計画された。

「神聖なる計画」を
もう一度きちんと教えて理解させるためというよりも、
それ以前の問題というか、
人類のグタグダ、霊性の堕落に対して、
とりあえず、「見えない世界」に関心を持たせ、
興味を持ってもらい、今一度霊性に対して、
人類の目を開かせるために。

いきなり「神聖なる計画」を教えるには、
人類の霊性は低くなりすぎてて、退化してるっていうのかな。

例えば、キリストは12人の弟子たちにしか
「神聖なる計画」についてきちんと教えてないわけだけど、
それって大学院レベルの話(勉強)として考えたほうがいい。

で19世紀の人々には、
とにかく幼稚園生レベルのお勉強から始めないと、だった。

シルバー・バーチの霊訓はそのレベルの話なのよ。
ものすごぉく分かり易い道徳のお勉強からしてくれてた。
まずは初心者マークの優しいお話しからっっっという具合に。

日本のスピリチュアリズムムーブメントは
皆が知っているように映画「リング」のモデルになった事件、
福来博士のときに起きたわけだけど、失敗しちゃったのね。

で、近年ようやっと。
美輪さんも江原さんもその前の丹波さんも、
同じ霊的グループの人たちで、
ちゃんと後ろのバックアップを受けて、お役目背負ってる。

これもまた、初心者向けの優しい話から・・・
だからどうしても、「矛盾」のある話になってしまう。


難しい真理の話を理解できる(というかしてもいい人)
霊性に達した人は少ないからね、今の世の中。残念ながら。




さて、
霊界と呼ばれる場所、つまりサイキカル界とノエティカル界
で中間生(転生の合間)でこういう勉強は出来るんですよ。
学校があるから。





ちなみに20世紀になって、「神聖なる計画」のことを、
ジョシュアが教えていた本当のグノーシスの教えについて、
ちゃんとまとめてくれた人はいます。

でもこういう地味な話は、
キメイ目スピリチュアルが好きな人は興味ないのよね(笑)


てなわけで、
私が教えているのはスピリチュアリズムであり、
あの偉大なる先輩たちが一生懸命守ってきた知識であり、
ジョシュアとヨハネが再度編集してくれた内容ですかね。

そして、ハンドヒーリングでよく出てくる霊授という方法、
このアチューンメントは、霊的エクササイズの一つとして、
アトン(太陽)メン(人間)になるために、
エジプトでは秘儀としてよく行われていた方法だったりする。
まあ、霊格を高めていくために、ちょっとズルする方法?
だったりするわけです。

もちろん、エジプト以前の大昔から存在していた
霊的エクササイズで、古典的かつ原始的な方法なのでした。


まあ、信じなくてもいいです。


てなわけで、私がやってることは、
スピリチュアルちゃうねん、スピリチュアリズムやねん。

で、こういうことを教えることになったのは、
過去生でも学んでいた知識だったりするので。
昔習った知識だから、馴染みやすく理解しやすいというだけ。

2016/02/09

スピリチュアル・アレルギー

まぁ、正確には
スピリチュアルって言葉についてしまった手垢や
その手垢としてくっついてしまった言葉の響きに、
群がってくる人々やいわゆるスピリチュアルビジネスという名の、
ファッション化した小洒落た世界が苦手なだけですけどね。




新年に友人が主催している瞑想会に参加して、
その時に見たビジョンから、

「ああ、もう自分を偽ったり、隠れたり、
 らしくなく、ごまかしたりするのはやめよう」

なんて風に新年の誓いを立てたりもしたのだけども。

でも、やっぱり普通が一番だな~と思ったり。


というのも、
やはり私はスピスピしている?のがキライなんですよね。

正直、やってることはそういうことだから、
肩書き及びやってることから名称を削除しようにも無理なのですが、
スピ臭というのにどうにもアレルギー反応が出てしまう。

たぶんスピリチュアルな世界というより、スピリチュアル業界が苦手。
(宗教も実のところ嫌いですけど)
そこに集まる人たちとは合わん! これはもうしょうがないこと。



スピリチュアル探究も神秘学や魔術や魔女術への興味も、
もともと自分の体験から始まったもので、
自分の身に起きていることは何だろう?と、
自分が感じていたり、視ているものの正体を知りたくて、
心霊的な分野に興味をもち、
人の運命の不可思議さの秘密を知りたくて占いにも導かれ、

道の探究や勉強はそれなりに楽しかったし、
なかなか納得できる「答え」が見つからないところ、
ようやっと「ああ、これだ」って自分が感じてる世界、
幼い頃から疑問に思ってたことの
「すべて」が書いてある教えにようやく出会えて・・・
後はもう、自分の人間としての修養をするのみ、かなあ。



いわゆるスピリチュアルなことをしている人はたくさんいて、
でも、みなバックボーンにある考え方、価値観は
当然違うわけで、それはそれで尊重すべきものだけど・・・
なんかやっぱり私は、そっち系とは馴染めない
一匹狼の変人なんだと、そう思ったりします。

なんだかんだ、自分も電波で、
頭おかしい非社会的な非常識人間と言われれば
返す言葉なく、まったくその通りなんだけれども。

まあ、過去生がどーのとか、エレメンタルがどうのだの、
そんなことをお商売にしている胡散臭いヤツですし。




「天使が大好きで~」

なんていう人には、

「ああ、天使・・・元素がお好きなんですね。
ミカエル?
なるほど、火がお好きなんですね。火傷しないように。
ラファエルですか? 空気ですね。この辺り全部彼ですね。
空気を読むってことはまさにラファエルを読むってことですね、
アッハッハ~♪」

になってしまう。


宇宙人がどうこうの、UFOを呼んだんだーなんて言ってる人には、

「想念で作っちゃったか~ 
さぞかし生霊作るのもお上手でしょう」・・・と思っちゃうし。

(いやさ、宇宙人はいるし、UFOの本物もあるでしょうが)


「フラワーエッセンス? 水じゃないですか?
こんな微細な波動では同じ植物や小動物はともかくとして
人間みたいに邪悪を抱えた物体に影響は与えられませんね
わざわざ花のエネルギーを転写するより、
花そのものを育てて親しんだほうが早いのでは?
つか、その花の自生している場所にピクニックに行ったり、
山に登ったり、自然の中を散策したほうが効果ありますよ」


「オーラソーマ? 斬新なカラーセラピーですね」


「エンジェルカード? 
解説書がついているおみくじ的カードを、
どうしてお金出してまで習う必要が?
まして、それで人からお金取れるようなアドバイスが??」


まあ、みんなそれで楽しくしているのなら、
他人があーだこーだ否定していいことではありませんが。


だから、
いわゆるスピリチュアルビジネスと言われる場所には、
あまり関わらないでいるのが一番いいように思ってます。
私には理解できない、分からない世界なので。


スピリチュアルにどっぷりはまってる人と話すより、
現実的な人と話すほうが楽しいし、
まとめサイト読んでるほうが面白いしなー
好きなバンドのミュージックビデオ見たり、
カラオケ行って騒いでるほうがいいや。


そして私の憧れの人は、
スピリチュアルやオカルト嫌いの
カール・セーガン博士なのであった。

2016/02/06

権利は主張するが義務を果たさない人たち

持統天皇 「お水を・・・一合きっかり」
 
氷高皇女 「お試しですか?
       ちゃんと新しい『量』にかなった器はありましてよ。
       皇族ですから 
       新しい基準に早く慣れなくては
       民のお手本になれません」

持統天皇 「民は・・・・・・なじむまでにどれくらいかかるかしら」



 「度・量・衡、の標準器が都から届いて」

 「なんだ? それ」

 「度(長さ)と量(体積)と衡(重さ)が
 地方によってバラつきが出ないように
 国が決めた基準に合わせるため、
 統一の道具できちんと測れ・・・・・・
 そういうことだ」

 「ものさしと、枡・・・・・と、おもり・・・」

 「こんなものなくても おれたちは昔からちゃんとやってきた」

 「家も畑も橋も船も 俺たちの力で作ってきた」

 「そうだ!」

 「なのに・・・・・
 なんでいちいち こんな細かいことを押し付けてくるんだ」

 「それは・・・・・ほら 『律令』とかのせいじゃないのか」

 「ああ・・・あれか」

 「去年あたりから 山ほど書類が回ってきている・・・
 やたらと細かく税だの刑罰だの
 自分や立場の仕組みが決められて・・・

 もうすぐ その『律令』が正式施行されるから
 その前に準備を整えておけ・・・と しつこく言ってくる

 統一された国家として
 すみずみまで同じ規制をあてはめる・・・と」

 「よけいなお世話だ
 ここは『都』じゃない 俺たちのクニだ」

 「俺たちの暮らしに口出しするな!」

 「そうだ!」

 「『令』が施行されたら がんじがらめだ
 その前に立ち上がるべきだ!」



 持統天皇 「全国どこにいても 一合は一号
        一寸は一寸 一貫は一貫
        変わらない基準があってこそ
        公平なやり取りが可能・・・
 
        度・量・衡の統一は、
        近代国家の条件・・・・・よ。

        民が混乱しないように
        十分 準備の期間はとったわ

        「令」も「律」も
        いきなりの施行では地方の役人も困る・・・

        「律」(刑法)の施行が
        今年2月に開始されるまで
        十分な告知期間を設けた

        「令」(政治・経済・行政)を
        あまねく全国に告知済み・・・・・
     
        あとは 来月に迫った施行を待つばかり」



        「申し上げます! たった今知らせが・・・・・
        多禰(種子島と屋久島)が反乱を起こした
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と!」

            里中満知子著「天上の虹」より
            大宝律令の施行に際しての場面


****************************************************


派遣なんかやっていると、
国のお仕事・・・に従事する機会もあったりするんですが、

(派遣の面白さって、大学に行ってなくて学歴のない私でも、
社員としては絶対に入社することはありえない、
大手企業とか官公庁とか外資とか財団その他モロモロ
様々な業種の有名どころに勤務できることでしょうか。
まあ、臨時雇いの短期だから、先方はバイト雇用感覚かな。

そのような状況下で知ったこととしては、
お勉強の出来る高学歴の人だからって、
必ずしも実務能力も人間力も高いわけでなく、
コミュニケーション能力も優れているというわけではないということ。
むしろ学歴や専門性の高い人ほど、能力が偏っていて、
発達障害っぽいコミュ障率は高くなる気が・・・

(まあ、私も社会性の欠けた組織向きでない人間なので、
他人のことはまったく言えませんのですがっっっ)


で、そうですね。
派遣の仕事を通じて様々な業種、業界に行くのは、
新しいこと、知らなかったことを知る良い機会でもあります。
その組織、内部で働いてみないと分からないこともあるので。
お役所での仕事なんかでも、
おかげさまで年金や保険についての知識がつきましたし。
今回もたくさん、考えさせられたことがありました。


他の記事や別ブログでも少し愚痴りましたが、
今回のお仕事は全国規模の調査であり、
ほとんどすべての個人事業主から大手企業まで、
電話にて提出書類の確認を取るというもの。

十数年前にも派遣で、今回とは別の省庁で、
類似の仕事をしたことがあったんですけれど、
その当時と比較して、
企業の対応の質がはるかに下がっていると痛感させられました。

5000人規模以上の大手企業でも、
社員のレベルがね。。。ありえなくなっているんです。
役職ついている人であっても、お粗末様な人が増えている。
敬語や丁寧語や謙譲語がごちゃまぜだとか、
使えないとか、そういうことではなくて・・・
電話マナーがね、なってないし、粗雑だし。

それだけならいいんですが、
クレームや暴言吐いたり、恫喝してくるような人とか、
八つ当たりとかとか・・・
自社のネーミング、ブランドを背負っているということ、
そーいうのもう、ないのですね、昨今は。
自分が会社の「顔」であること、
自分の行いが会社のイメージそのものになるってこと、
たぶんどうでもいい人ばかりなんでしょう。
(お国の仕事として電話架けてる私たちも、
エンドユーザーであり、消費者なんですけどね)

そういうこともビックリしましたけれど、
義務を怠る人、この場合、企業ですけれど、
そういうのが非常に多くて。

任意なら仕方ないんですが、
法律で定められた義務でも、やらなかったり、無視したり。

思わず、

「それがあなたの会社の総意であり、社訓なのですね?
国から課せられた、事業者としての義務を拒否するのが、
代表取締役の方のポリシーであり、ご意向なのですね?」

と、言いたくなること多々。


確かにね。
担当者からしたら、決算やら年末調整なんかで多忙な時期。
人手不足だったり、激務で、それどころじゃない、
あっちこっちから、色んな郵便物が届いて、
あちこちの省庁から、あれをやれこれを出せって来るから、
それ全部に対応してたら、
本来の業務に支障が出てしまうってのも・・・

それも判ります。
けど、それは内部事情ってもの。
国が企業に、義務として提出することを求めるものに対して、
それを処理することで業務に支障が出るなら、
上司に相談するなり、他の人に割り当てたり、
内部でクレームつけて、会社として改善を求めるべきこと。


日本国に席をおいて、ビジネスを展開している以上、
「日本」という国に属している国民である以上・・・
果たさなければならない義務というものがある。

それがイヤなら、
日本という国でビジネスをしなければいいだけのこと。
別の国に本社や本拠地を移して、
他国でビジネスを展開すればいい。

確かに、不平不満はあるでしょう。
私たちにとって住みやすい、
生きやすいとは言いがたいとこもある。

私も官公庁やお役所でちょっとばかし労働させて頂いて、
あれやこれや思うことあるし、
日本国民として、安倍さんや政治家さんたちに
ぶーぶー言いたいこともある。

けど、そのやり方におおむね同意できなくても、
彼らが働いてくれないことには、
私たちの日常が成り立たないのが現実。

文句言うなら、お前がやれ!っていうのは真理だ。
口ばっかりで、何かといちゃもんばかりつけて、
代替案を出さず、歩み寄りもせず、
叩くばかりでは能がなさすぎる。

(原発は私も反対派ですし、憲法第九条も守りたいし、
沖縄頑張れ~と思うし、辺野古の海も守りたいけど・・・)

独裁的で強引なやり方をしているけれども、
私たち国民のあずかり知らぬ水面下で、
(国民に不安を煽らないため公に出来ないことがたくさんある)
各国とのせめぎあい、密約的な取引があったり、
日本という国を守るために、それでも頑張ってくれてるのだから。

隣の国やその隣の国、アジア諸国すべてと仲良しこよしで、
戦争に至るような危機がなければいざ知らず、
とち狂った馬鹿一族が政権を握ってるクレイジーな国がいるし、
日本の水源やら土地やら海洋資源を狙ってる人口大国はいるし、

現行の法律では海外に自衛隊がPKOなんかに行った時、
自分たちの身や自国民を守るために武器を使うこと出来ないし、
それこそ、ルワンダの悲劇の時に国連がそうしたように、
自分たちが去ったあとで、大量虐殺が起きると分かってはいても、
武力で彼らを守ることも出来ず、冷徹に退去するしかないわけで。

武力放棄と平和憲法はとても素晴らしいと思う。
けれども、それなら米軍が去って、日本が丸裸になったとき、
いきなりミサイル撃ち込まれて、再び攻め込まれても、
「私たちは戦争はしませんから。これもまた運命です」って、
ガンジーのように誇り高く非暴力を選択して、
抵抗もせず、反撃もせず、すべて受け入れて、
そうして潔くみんな死ねるんですか?って問いたい。

日本が焦土となり、自分たちが殺されることに
何一つ文句を言わず、

「これが私たち日本人の選んだ道です」

と笑って、
落ちてきた爆弾に焼かれていくことができるんだろうか??

その時になって、政府に国民を「守ってくれない」とか
アメリカや国連に「何とかしてくれ」とは一切恨み後も言わず、

自分が反対しつづけた結果起きたことに・・・
自分の言動に責任とれる人が何人いるんだろうか?

その覚悟があるなら、ただもう政府とか、
権力者の人たちが決めたことに、
なんでもかんでも反対と声を上げ続ければいいと思う。


話し合って、妥協点を見つけて、解決できるなら、
それが一番いいけれども・・・

さて、どうすれば世の中にとって-私たち日本人にとって、
一番良い未来を選択できるのか、
日本人としてベストな高潔な選択ができるのか、
常に考えていく必要があるだろう。

話がずいぶん逸れてしまいましたが。




でも、話戻るけど、
今は昔と違って、会社と自分は別というか、
会社に帰属しているという意識、職業的プライドは
皆無になってきてて、もはや絶滅したといってもいいから、
そういう社会的意識を求めるのが無謀って感じかな。

「プロジェクトX」みたいな、団塊世代・・・
高度成長期の人たちの仕事に対する意識の高さ、
職業人としての品格、会社人間としての責任感なんか、
もはや歴史の彼方にうずもれてしまったのでしょう。


ミャンマーで医療活動をされている、
国際医療NGO ジャパンハートの代表者
小児外科医吉岡秀人さんのブログに、

ミャンマーでは数年に一度洪水が起きて、
その度に土地や家が流れるのだけど、
人々はとても逞しく、自力で復興して生きようとしている。
なのに日本人は戦争で何もかも失って、
焼け野原となって何もないところから
 這い上がってきたというのに、その経験があるというのに、
たった一日避難所で過ごすだけで、
これからのことや日常の不安を訴える事が出来るという、
 本当に安全で温い国を創ってきたんだなあ、と。

いうような事が掛かれていたのだけれども。


確かに・・・

自分たちで努力する以前に、

「国がしてくれない」「助けてくれない」とか、
起きてしまった不幸や災難を嘆いて、
あれがないこれがないとしてくれないことに不満を募らせ、
「してくれるのが当たり前」と。
なんでもかんでも行政に頼りっぱなしで、
文句ばかりな人が多いなとも。

阪神大震災のときもそうだし、東北の地震の後もそう。

もちろん、自分たちで頑張っている人たちもたくさんいる。
けれど、文句いって、努力しないで、
誰かに何とかしろって、そういう人たちもいるわけで。

そんな文句ばかり言う人たちは、
普段から国や行政に対して、
協力的な態度を取ってるんだろうか?
積極的に自治体や政治に参加しているんだろうか?
お金もケチらず、給食費も税金も払って、町内費も払って、
意見も手も出して、調査にも協力して、選挙にも行って、
地元に住む同じテリトリーの人々に対しても、
ボランティアとか町内の掃除とか必要かつ自分が出来ることを
日頃周囲の人々に対して行っているんだろうか?


みんな受け取る権利ばかり主張して、
クレクレとばかりに、要求ばかり突きつけるけど、
国民として県民として、市区町村として・・・
そして企業人として、社会人として、
果たすべき義務や役割をきちんと果てしていると?

国に対して文句ばかりで、
まるで敵のようにぎゃーぎゃーいう大企業の人たち。

一度経営者の人は自分の会社の社員が、
それが役職付きの人物であったとしても、
社外に対して・・・対外的にどんな対応をしているのか、
調査したほうがいいと思う。レベル酷すぎですよ、本当に。

会社名と部署名出して、どういう暴言吐いたり、
対応をしているのか事実を書いてしまいたい・・・
実際、ユーザーとしては二度とその商品やサービス、
利用していないですけどね。絶対買わないも~ン。


まあ、ちょっとこの・・・
お国の仕事を通してあれやこれや思ったのでした。



日本人は本当に依頼心と依存心が強くなってしまいました。
確かに、戦後意図的にそのように教育されてしまった、
というのがあるのですけれどもね。
二度と欧米諸国に刃向かわないよう、
自立心を妨げ、独創的な考え方を出来ないようにって・・・
そんな風に洗脳とも言える教育プログラムを施されて、
大和魂抜かれて腑抜けにされたったいうのかなあ・・・

プライドを粉々にするがごとく、「あの戦争は間違いだった」と、
必要以上に罪悪感と自虐的な思想を刷り込まれて、
ずいぶんと自信を失わされてきましたから。
それも国策ってやつか。マスコミもそれに乗ってきたし。

そこに反旗翻して、アジア諸国と手を組み、
中国との和平を試みた田中角栄はハメられて失脚したし。
安倍ちゃんもそういう意味で、鉄の意志で頑張ってるのですよね。
いちおうその点は評価する。

実際、多少独裁的なとこがないと、まとまらないもの。
すべてに公平な政治って、全国民を納得させ、
満足させることの出来る政策も法律もないのだから。


って私は自民党嫌いだし、政教分離派だから、
ここって支持政党もないんですけども。(無所属頑張れ?)
安倍ちゃんや今の政権がやることに賛成もしてないけど、
むやみやたらと反対も出来ないなあって、はい。

私たちを守ってくれてること、
私たちが出来ないことを代わりにやってくれていることに
感謝はしています。
ただ、もう少し国民の生活、底辺にいる人々の
現状は知ってほしいなあ・・・と思ったり。



どっかのフィクサーの人が言ってたセリフですが、

「真の政治家とは真の悪人である」と。

でないと、やれない仕事なんでしょうね。
善人では勤まらないというか、精神がもたないとも。


「ドラゴン桜」の桜木弁護士のセリフに、

この国は頭の良いヤツが権力を握り、
自分たちの都合のいいように動かすために
世の中のルールを作ってる。
貧乏人で頭の悪いヤツは、搾取されるばかりだ。
それが悔しいのなら、勉強しろ。
勉強して東大に入って、権力を握る立場になれ。

みたいなのがあったんですけど(うろ覚え)・・・

文句言うなら、彼らに成り代わるしかない。
いろんなこと勉強して、声を上げて行って、
実際的に参加して、行動していくしかない。
それはその通りなのですよね。

で、私もその義務を果たさず、
権利ばっかり主張している国民の一人なんですけどねっっ

2016/02/05

家柄自慢と差別意識

ここのところ真面目にブログを書いています。
三か月更新していなかったし、
やる気がなくなったら多分ブチッと放置してしまうので、
書けるうちに書いておかないと・・・という感じでしょうか。
さて、いつまで続くか判りませんが。


まとめサイトを閲覧するようになって、早一年半くらい。
世の中色々な出来事があると、楽しませてもらっていますが、
嫁姑問題において、家柄自慢というのかしら?
家の格式がどうのこうのとかいう人たちが未だにいるんだと。
昭和はすでに遠く、平成になってからだいぶ経つのに。

時代錯誤というか何というか・・・

まあ、でも
そういうのにしがみついていたい人は確かにいるんですよね。
けど、それって「家柄」を取ったら、自分には何もないって、
家以外自慢できることがないって言ってるようなものだけど。

学歴や会社自慢もそうかなあ・・・
親の職業なんかも勿論。


うちは、父親の職業が建具職人だったものだから、
近所の「アテクシ、東京生まれですのよ」ってのが自慢の、
気取ったオバハンから、差別されたものです。
でも、今は千葉に住んでんじゃん・・・だったけど。

なんかその人曰く、
「うちの親は学習院(で働いていた)なんですのよ」ですって。
(でも単なる警備員さんだったらしい)

子供同士でどうのこうのはなかったんだけれど、
「あんな家の子と遊ぶんじゃありません!」てよくやられた。

別にその家の子と遊ばなくても他に幼馴染とかいたし、
一部の人たちだけのことだったから、実害はなかったかな。

思うに、ヨイトマケの仕事の人たちなんか、
もっと差別されてたんだろうなって思う。
ただ、私の時代は親の職業で差別されるようなのが、
徐々に無くなっていってた昭和の良き時代だったので、
そういう意味では露骨にイヤな思いをしないで済んだ。

確かに父親は職人で、家には、
大工さん、左官さん、その他土木建設関係者などの、
むさくるしいおっさんたちがよく出入りしてたから、
そういうお鼻のお高いオバサマからしたらば、
得体のしれない野蛮人とでも思われてたのかもね。


でも、父方はなんてことない田舎の農家(けど金持ち)ざぁますが、
母方は祖父母とも南北朝まで遡れる薩摩藩の士族の家系(しかし貧乏)で、
祖父に至っては平安まで辿れる平家の子孫ですが何か?
って言ったなら、あのオバハンはどういう顔をしたんだろうか。
まーたぶん信じないだろうし、
ブルーカラーの職業に従事してるってだけでOUTなんだろう。
それに証明しようにも家系図は焼けちゃって無いしね。


あと、武士はなんだかんだ言っても、人殺しだもん。
欧米の貴族、騎士なんかもそう。
たくさん人殺して屍築いて、民百姓踏みつけて出世したのって、
自慢できることではないよなあ。
恨みいっぱい買ってるわけだし。怨念てんこもり。
そういうツケで子孫が苦労しているのが事実。
(お家騒動とか乗っ取りとかお手討ちとかあれやこれや)

それと、家が続いているからって、
血(DNA)が続いているわけではないのですよ。

昔は養子縁組多かったし、遺伝子検査もないから、
托卵されてても、誰も気づかなかったであろう(完全に2ch脳)。



そして、たまたまその「家」に生まれただけなのにねぇ。

前にも書いたけど、
その「家」に生まれて、両親を親として選んで産まれるのは、
自分が取り組むべき最適なレッスンがそこにあるから。
適切な環境があるってそれだけ。
たくさんある候補の中の、たまたまのひとつ、に
単純に偶然とタイミングだけで生まれてきただけという・・・
(そこではない他という可能性もあったわけです)

で、
たまたま生まれた家のご先祖様が立派な人だったと。

だけども、肝心の自分はどうよってのがある。
その先祖の子孫として生まれてくるのに、
ふさわしい人徳者だと錯覚するのはこれいかに。


ご立派な先祖様の子孫として生まれてくる人が、
似たような素晴らしい人物とは限らない。

逆にどうしようもない悪評高い家柄の家に、
人類の至宝みたいな徳の高い魂が生まれてくることもある。

ご先祖様自慢、家柄自慢をする人の
過去生をちらっと見やったときに・・・

「なんだ、雲助してたンぢゃん」
「差別される側だったんですね」

なんてのもよくあること。



そういえば、バブリーな頃、
ホテル関係のバイトしてたんだけども、

「アテクシたち、お客なのよ!」
「アテクシを誰だと思ってるの??」

と威張り散らす人たちに限って、成金なんですよね。

完全な成りあがり(矢沢永吉←わかる人いるかな)。

本当のセレブ、上流階級というか家柄のいい人たちは、
わりかし地味というか謙虚で慎ましく、上品。
代々のお金持ちとか、
一流を知ってる人たちは物腰柔らかいものですのよ。

とはいうものの、
由緒正しき名門に生まれた人にもヘンな人はいて、
善人悪人立派な人キチな人に、家柄も生まれもないものであります。
人格や霊格の低い高いは、貧乏人金持ちも家柄も関係ないので。
等しく生まれてくるとだけ・・・



でも、まあ・・・「自分」という素材で勝負できず、
(中身がないというか価値がないというか)
他に威張り散らす材料がないというか何というか・・・
他人との力関係において、優位に立ちたいと感じたとき、
自分を誇示するのが、「家柄」「親の肩書」しかないので、
そういう人は仕方無いっすね。

ハイハイハイハイハハイハイって感じで。


こういう人に

それではいったい、あなたは

「いままで何をやってきたの?」
「何が出来る人なの?」
「あなたは誰を幸せにしてきたの?」
「社会において、何の役に立ってきたの?」
「何を創造し、生産してきたの?」
「あなたの社会での存在意義は何?」

って聞いたとき、

たぶん答えることは出来ないだろう。


だいたい何もやってきてない人が多いから。



ちなみに、
うちのことを「小汚い職人一家」と差別していたオバハンは、
旦那さんに先立たれ、
「そんな子たちと遊ぶんじゃありません」と守っていた息子が、
自室で死んでいるのにも気づかなかったりで、
今は一人で半分呆けたように孤独に暮らしていらっしゃる。
近所づきあいもしないし、友達もいないし、
身内(親戚)ともお付き合いないんだそうで・・・。


そしてかつてバカにして見下し、蔑んでいた、
その職人の妻(うちの母親ね)が地域の民生委員なものだから、
世話を焼かれることになっちやってたりして・・・
きっと不本意で屈辱的なんだろうけど、
自分がうちにどういうことをしたかなんか忘れてて、
凸してきて愚痴をいったり、助けてくれといいにきたり、
あいも変わらずたくさん迷惑をかけてくれているらしいっっ。


なんていうか、残念な人であったけれども、
可哀想で気の毒な人だとも思ったりするのです。
心が満たされていなくて貧しくて、
愛がない、寂しい孤独な人だったのだと改めて。

2016/02/04

好きこそものの上手なれ~転生なる転職

ゆっくりまったり出来るとこでおしゃべりしたいね~♪

・・・と、よくカフェ巡りをご一緒する子と話していたものの、
約束してた日には生憎と目当ての店は休日ばかりで。
たまたま見つけたお初の紅茶専門店に行くことに。

けれども、
紅茶に対するこだわりと情熱(名付けて紅茶愛)の強い店主さん。
あろうことか紅茶セミナー受講中になってしまい、
肝心のおしゃべりがさっぱりと出来ないままに時計は進み(笑)

それもまた、ためになるお話が聞けたし、
とても楽しかったので結果オーライ、ですがっっっ(^-^)

珈琲好きのオーナーさんもこだわり強いと思うけど、
私の知ってる限りでは、千葉某所の紅茶専門店の店主さんも、
めちゃくちゃこだわりが強くて、熱かったなあ、と思いだしたり。
でも、サービスがざっくばらんなのは共通していたかな(爆)

森薫さんの「エマ」の中で、
執事を引退してハブ?カフェ?を開いている
店主さんが出てくるシーンがちらりとあったけれど、
確かにカフェとかティーハウスとか、飲食業に就く人は、
もともとその手の業界の畑出身のイメージ。
(そもそも経験ないと無理だと思うし)

でも脱サラして、夢だった趣味の道に行く人は多いよね。
どちらかというと、まったく未経験者という無謀な
ゴーイングマイウェイを貫く人も少なくなくて、
たまたま上手くいった人はいいけど、現実はそんな甘くない。


で、この道に来たということはもしかして
過去生でそういう仕事をしていたことがあったのかな?
とも思いきや・・・そういうわけではないらしい。
勝手に覗き見して申し訳ないのだけれど、
過去生でフットマンとか執事さんとか、
いわゆるお屋敷系の仕事に従事したことは皆無のようだった。
(どちらかというと卸系の「商人さん」
シルクロードの商人、物売りってトコ~笑)

たぶん、美味しい紅茶をサーブすることや
ホスピタリティをとことん追求され、
徹底して求められるような職業に(過去に)就いたが故に、
その経験値を生かすがごとく、店を開いているのではなく、
純粋に対象となる商品に惚れこんでのこの道なんだなぁ、と。

ホスピタリティの部分では突っ込みどころ満載なんだけど、
紅茶愛がある人だから、頑張って欲しいな~と思ったのでした。
実際淹れてくれたお茶は美味しかったですしね。
(リピート決定)


そうさねぇ・・・

過去の人生で培った職能スキルを活かして、
似たような職、まったく同じ職業に就いている人もいるけど、

(もちろん、ジェンダーやどの国に生まれるかにもよりますが)

必ずしもみんな前回の人生と同じ道、
似たような職業を選んでいるわけではないんですよね。


これから書くことはファンタジーというか夢物語というか、
電波なキチの寝言というか戯言というか、
作り話と思ってもらって、そう片づけてもらって十分なんですが。

うん、ホラフキーでいこう。

冗談と受け流して下さい。妄想なフィクションてことで。


モーツァルトは、モーツァルトとして生まれる直前の人生は、
単なる楽器職人だったらしいし・・・

発明家で画家であったある人物(知らない人はいないと思う)は、
その人生の後、
キリスト教の司教になったり、某有名作家に転生したり、
その後は平凡な公務員になったりしてたわけで、
(ちなみにこの人は過去生でキリストに会ってるから、
宗教画描けるわけです。だから一番当人に似てるし)

源平合戦の頃の有名な頭領(大河ドラマの主役)は、
現代において書道家やってたりするし、

ローマ帝国時代の将軍はフランス革命後も将軍だったけど、
現代では、なぜかドッグトレーナーやってるし。
(格言つか名ゼリフを言うところは何千年経っても変わらず)

大化の改新(今はそういわないのよね)の
あの有名なシーンでどの漫画家さんにもびびりーで
トホホな爺様として描かれてしまう某人物は、
政治とは関係ないフリーの自由業やってるし。
(でも自分が焼き討ちされた場所では発作が起きる)

奈良の某寺に首が埋められてて、
それが呪いのなんちゃらって言われてる当時の政治家さんは、
今は政治とはまったく関係なくて、
某経済系の出版社で編集さんしてたりっっっ
(性格は・・・あんまし変わってないようで)

その当時の彼のお父さんも出版関係のオエライさんだし。

(当人たちは全然知らないのがミソで、
まさか当時の自分の遺体・・骨が
そんな呪いのアイテムになってるとはビックリであろう)

鎌倉幕府関連のあの人はお医者さんやってるし。

坂本竜馬はアルゼンチンで農業やってたりする(らしい)。

(竜馬も竜馬のときの人生のエレメンタルを、
色々とあちこちで使われちゃってるけど、
当の本人は転生して伸び伸び生きてるわけです。
海援隊だったのに農業とはこれいかに)


こういうのも、"転職歴"ってカウントしちゃっていいんだろうか?

謎です。



まあ・・・
その人格として生きていたときの肉体のコピー(エレメンタル)は、
その場所に縛られていたり、それはそれとして「在る」ので、
霊能者の人のそれなりな人はコンタクト取れるわけ。
でも、過去その人物だった本体(魂)のほうは、
得てして、とっくに転生していたりする。

(ちなみに、うちの生徒さんのご先祖様、
銅像になってる方は、やはり当時の人物のエレメンタルで
ご本人は転生してイマス。何処で何をしているかは内緒。
もう一方の上野の某寺に埋葬されているご先祖様は、
まだ転生はされていず、いわゆる中間生ですけども。)



して、歌手だったり、女優だったからといって、
再び同じ職業につくわけでなし、
政治や経済の中心にいた人であっても、
そこから離れて、素手で魚取っているような人もいたりして。


せっかく習得したスキル、
積んできた経験や人脈や才能があるのに
あたらもったいない、と私は思うのだけども・・・。


でも、たぶん
「アレもやりたかった、コレもやってみたい」ってことを
思う存分やってるのでしょうね、みんな。

過去に経験したし、一度やったし、名声も得たから、
もういい!って人もいるでしょうし、逆に懲りてて、
二度と戻りたくないって世界もあったりするのでしょう。


ちなみにブッダの10大弟子は、
日本の仏教伝来にものすごく尽力した人たちとして転生している。
誰が誰に転生ってのは、ちっと口止めされてるので書きません。
そうですね、宗派の開祖になっている人もいる、とだけ。
(彼らはアジア担当だから・・・謎)

キリスト教の12弟子たちもそうですね。
やはり、キリスト教関係者に転生していることが多いデス。
(ヨハネはその後、人間としての転生はないけど)

そんな風に、転生してもずっと、

「この道一本でゲス!
わき見はふりませんっっ!
寄り道も絶対にしませんっっ!」

生き方を貫いて、この職業一本でいきますって人もいますけどね。

そういうのは特殊なケースのような気がする。


あと、似たような職業の例で言えば、
現在タクシーの運転手で150年前馬丁って人がいたな。
(乗り物好き?)



先に出した某有名画家さんなんて、
死んでから自分の絵が高値で取引されたり、
後の人生でも小説が映画化されたりドラマ化されたりしてて、
でも、当の本人には別人生ってだけで、
印税というか著作権を要求できないんだよな~
(生まれ変わっても絵画は描かれてて、
それは贋作と言われても仕方ないほどのプロ級の腕前)

なんて下世話なことを思ったりして。
過去生の印税とか使用料とか発明の特許料とか
それらすべてゲット出来てたら、億万長者だろうなあ・・・とかとか


モーツァルトとかゴッホもそう。
生前はほとんどもらえてないんだもんねぇ。
せめて、今の人生でリッチに生きられていることを願いつつ。

して彼らは自分の作品をどう思って眺めているのであろう。

意外と、

「この絵描き、なんて下手っぴなんだ
こんな絵がこんな高い金額で取引されてるなんて!」

と激高していたり、

「こんな眠い退屈な曲、嫌いだ」

なんて言ってるかも新米。



そしてどうでもいい呟き。
私は自分の過去生は、完全記憶としては覚えてない。
断片的に、感覚的に蘇ったり、概略としてわかる程度。
「完全記憶」をもし持っていたならば、
当然、言語も忘れていず、覚えているはずなので。

うん。せっかく、カナダ人だったり、イギリス人だったり、
ドイツだのフランスだの中国だのロシアだのギリシャだのって、
あちこちいたのなら、当時の言葉を覚えていられたならば、
今頃マルチなのにぃ~涙

どの国の言語もしゃっぱりわかりません。
(日本語ももはや怪しいレベルっっ)

確かにね。完全記憶とまで行かないまでも、
過去生で培った技術スキル、知識など、
それらがちゃんと残ってて、使えれば、
こんなに便利なことはないのですよね。

もちろん、まったく初めての人よりは、
忘れてはいるものの(ブランクあるし、技術も進化してるし)、
少しトライしてみれば、習得が早いってことはあります。
無意識的に似たような業種を選んでいる人は少なくないわけで。
過去生の苦い経験やその時の憧れから、
現在の職業を選んでいる人も多かったりしますし。

例) 当時の住んでいた村で不衛生からの感染症で、
自分の兄弟含む大勢の子供達が失明。その時の記憶、
何故だろうという疑問や思いから眼科医になった人とか。


だからまあ、必ずしも過去生に従事していた、
過去において経験を積んだ職業に就いたほうがいい、
就かねばならないってことはなく、
結局は人は自分がやりたいことをして、
成りたいものになっていく道を選ぶのです。

そんなんで色んなことにみんなチャレンジして、
一度やったことは二度とやらない人もいるし、
何回か離れて全然別のことをしてから、
以前やったことに戻って行ったり、
たくさんの経験を統合する方向にいく人もいるし、
ずっと同じ仕事を選び、研鑽して道を究めていく人もいるし、

成りたいものになっていくために、
少しずつステージアップしたり、失敗を繰り返したり、
なんですよね。

どんなことも初めてのときがあるわけだから。
でも、いつかはモノに出来るとき、
苦手で上手くなかったことが得意になっていく未来も
人は手に入れられるのです。


それも自分の魂の当初の目的が何処に向いているのか、
ってのとかと絡んでもきますけれども。

2016/02/01

再会パターンと学びの相手

Gレッスンにて、
生徒さんにアカシックレコードを読む練習をしてもらったときのことなので、
私が読み解いた情報ではないのだけれども・・・


当時ちょうど世間を騒がせていた女性同士の関係のこと。

二人は過去生において、
女性同士の双子として生まれていた人生があって、
それが今生の縁に繋がったとも言える縁。

けれども、片方は健康に生まれることが出来たけれども、
片方はそうではなく、とうも障害を持って生まれていたようで、
結果的に健康なほうの妹が、障害を持った姉の面倒を見るという、
そういうありがちな美談パターンといえばそうで。

本来ならば、自分のために手足になってくれる姉妹に対して、
申し訳ないという思いやひたすら感謝をするべきでしょうが、

この姉は違っていた。
身体だけじゃなくて、心もちょっとひねくれてしまっていて。
昼ドラ展開とか大映ドラマっぽい感じ?

そのせいで、随分と迷惑をかけて、
我儘づくしで妹の人生を翻弄してしまった・・・様子。


今生で二人は再び出会い、意気投合して親しくなったわけだけど、
そうなった背景には、今度は血が繋がっていない垢の他人として
貸し借りのないところで、対等な関係を築いていくべきでもあったし、
どちらかというと迷惑をかけ通しだったかつての姉のほうが、
姉妹としての愛情だけで自分の世話をせっせとしてくれた妹に対して、
借りを返していくという、そういう意図もあったみたい。

そして、二人の関係性以上に、
かつて姉であった人物の性格的な問題というのかな・・・
過去生で障害を持って生まれたことを受け入れず、
心を閉ざして、出来ることもしようともせず、
周囲の人に対して感謝せず八つ当たりばかりで、
妹の人生を台無しにすることになった根本的原因ともいうべき、
心の歪み、考えや行動の誤りを今生において矯正すべきだった。
そっちのほうが優先課題と言えば、そう。


だからこそ、かつての自分のような存在を身内に持って、
あれやこれや困らせられることで、
かつて自分が他者に味合わせてしまった想いや苦労を知って、
そこから色々と学ばないといけなかった。

その学びの相手・・・かつての自分の役回りを演じてくれるのは、
当時自分が迷惑をかけた妹だった人ではなく、
別の関係性にあった人であり、過去に妹だった人は
良き親友として自分を支えてくれる人となっていたんですね。

けれど、「彼女に見捨てられた」といじけて、
その感情をこじらせてしまったことが、
カルマのレッスンを見誤らせてしまい、
大騒動が起きる結果になってしまったのではないかと。


まあ、当時姉妹であったときの彼女は
自分の現状や将来に絶望したり、
普通の姉妹と違ってまったく同じ顔かたちの双子だということで、
どうしても自分と違って健康である妹と自分を比べてしまい、
心がすさんでしまってのも仕方ないとも言える。
なんで妹ではなく自分のほうだったんだと羨んでしまい、
自由に外出できる妹が憎らしくもあり、それでいて愛しくて、
いつかは置いていかれてしまうという不安もあったろうし、
なんだかんだ寂しかったんだと思う。
甘えと片づける事も出来るけど、気持ちがささくれてしまうのもわかる。

当時しがみついてしまい彼女の幸せを壊したものの、それでも
再会して仲良くなれたのは、双方に愛情があったからだと思うし、
死後そのことを後悔して、申し訳ないという気持ちもあったからだと。

どうなんだろう。

とりあえず和解は出来ているようだけれども。


まあ、でも・・・たぶん、あの二人はまた出会うことになるだろう。

その時こそ、素直に気持ちをさらけ出しあって、
本物の友情を築いて、よりよい関係性を築けると良いなあと思う。


※リアルに存在する方たちのことなので色々とぼかします。



で、別の話。
それこそ考古学レベルで誰もが知っている歴史的有名夫婦が、
時を超えて再会して今度は政略結婚ではなく
ふつーに恋愛して再び結婚したものの、
幸せカップルになれているかというと残念ながらそうではなくて。

よりによって、なんでそうなった・・?

というようなケースもある。

でも、確かに当時は相手のほうが先に死んでしまい、
未亡人となってしまった彼女が、
義務というか立場上、跡継ぎたる子供を作らねば、となり、
意に添わない相手と再婚させられて子作りを強制された・・・
しかもそれは亡き夫の子として産まなければいけないとか
ありえない話だけど昔の事だから。それが始まりだとすると、
こういう騒動に至ってしまったのは仕方ないのかな、とも。
騒動の内容からするに、この過去だけ見ても
つくづく因果だなって思いますし。

でももしかしたら現代に至るまでの間、
何度か再会してその当時の関係性から生じ、
こじらせて作ってしまったカルマなのかも知れないのですが、
残念ながらその途中のことは観ること叶わず、
あくまで想像で言うしかありません。

でも、これも学びの相手なのですよね。


他人のカルマのパターンを見て、
私もいろいろと学ばせて頂いている途中です。

他人のことはあーだこーだ言えるけれども、
自分や身内のことは・・・さっぱりですけどね。



生徒さんたちの過去生を見て行っても、

「またこの人出てきたの?」

みたいに、よく同じ登場人物が出てきます。

毎回同じ人とばかり出会ってて、よく飽きないなあ・・・とも。

まるで、お芝居みたい。
場所や時代は違うというのに役者さんはいつも同じで、
配役がちょっとたけ違っている、と言うように。

そうですね。
同じ劇団でたまーに他所から飛び入りゲストさん来る、てな具合。


ある時には、親だったり、子供だったり、
兄弟姉妹だったり、友人だったり、親戚だったり、
夫婦だったり、恋人だったり、客だったり、
はてまた親の友人や近所の知人、職場の同僚だったり、など。

不幸な出会いとしては、敵というか、
被害者と加害者的な関係なんですけれども。

新しい人間関係作ろうよ~とも思うけど

感情的な負債というか、貸し借りがあったり、
学びの相手として最適な関係性を持っていたりで、
まあ・・・会っちゃう確率は高いんですよね。
その逆で会えなくなっちゃうこともあるけど。


前にもどこかで書きましたが、
うちの両親のカルマのレッスンは、
母親は盗賊だった父親に親兄弟殺されて
自分もさらわれて飯炊き女にされ、
病気になったから役に立たないと見殺しにされた被害者で、
(今生では親同士の決めた結婚)

今生で夫婦の縁を持つことになったのは、
父が母を妻とすることで大事にし、生活の面倒を見ることで、
幸せにしないといけなかったからなんですけど(それが償い)、
重度のシスコン、ママンスキーで毒どころか糞だったので、
見事カルマの返済ならず失敗してますナ。
さて、来世この毒父はどうなってしまうのであろうか。
いやさ私は知りませんが。



そして過去生において家族だったからと言って、
必ずしも愛情に満ちた関係性を築けていて、
愛のある関係性、暖かい絆を持てるとは限らない。
それは現代においてもそうです。

親子だからうまくいかなかった、
だから他人になってやり直しの関係を結ぼうとする人たちもいる。
他人だから相手を憎んでしまった、
だから今度は親子になって、愛情や思いやりを注ごうとする、
そういう人たちもいる。

兄弟姉妹として生まれて、愛情を育み、
別の人生であかの他人として生まれて、
恋人となり、夫婦となって、
新しい絆を結び、うまくいっている人たちもいる。

かつて夫婦で、すれ違って上手くいかず、
今度は友人となり、互いを理解しあえずとも、
同性として、他人としての良い距離感をもって、
その関係性でようやく上手くいき始めた人たちもいる。


いろーんな学びの相手がいるもんです。

あれやこれや、今度は? この関係性なら?
こういうポジションなら、上手くいく?とばかりに、
相手への理解を、許容を、愛の表現方法を試すとばかりに、
手を変え、品を変え、ではないですけれど、
生まれ変わるたびに、立場や関係性を変えて出会い、
関わりあって、互いをサポートしたり、学びの相手になったり、

ホント、いろいろなんですよ。

様々なカタチの再会、貸し借りの返済の方法があるもんだと。


でも、やっぱり上手くいかない関係性も多いし、
またやってもーた!とか・・・結局繰り返してしまったり、
もしくはさらにややこしくしてしまったり、
宿題を持ち越して、段々と複雑になっていったり、
こじらせて、どうにもならない方向性に行っちゃったりとかも
あるかー・・・遠い瞳