2016/02/20

お金とスピリチュアル(中)

占い師やヒーラー、セラピスト、チャネラー、霊能者など、
スピリチュアリティを生業にする人の中には、
その職業を通して稼ぎを得ること、
お金を頂くことに抵抗を感じるという人が実に多い。

もちろん、専門職と割り切り、
専門的な知識や技術提供の代金として、
商売繁盛に余念のない人もいる。

「困っている人が多いしね」
「相手の弱みにつけこんでいるみたいで・・・」

ということを口にする人は多く、

人の悩みをネタにお金儲けしているんじゃないかなって
罪悪感にさいなまれる人も少なくないのデス。


私も占い師をしているときはそうだった。

街中の占い館にお客さんとして来る人は、
たいてい人生が上手くいってない人で、
失業していたり病気をしていたり、
つまるところカネコマ(どうにも2ch脳だ)ばかりだし。

こちらも仕事なんで定められた代金は頂くものの、
なんとなーく「うーん」みたいな気持ちは日々残るわけ。

この辺りの葛藤を今も抱えている人は多いだろうし、
色んな人が通ってきた道でもあるだろう。

同業同種の人の多くは、
自分の仕事に値段を設定するのが苦手とよく言う。


で、それは妥当な金額というか、
「ただ」というのは施しであって、
相手を甘やかすばかりの良くない行為なのだと、
随分長い年月をかけて気が付いたかな。
痛い勉強をしながらになったけれども。

お金を支払らうということは、覚悟料でもあるし、
自分の行動に自ら責任を取るという行為でもある。
頭を下げて「教えて下さい」という姿勢でもあるし・・・

この手のスピリチュアルなサービスを受ける場合において、
無料に甘えるのは、相手に問題を丸投げするってことで、
相手のカルマを背負っちゃうことになるんだよね。

で、このあたりの説明をする前に・・・


さて、西洋ではドネーション制度っていうのがあって、
相手が自分にしてくれたサービスに、
してもらった側が価格をつけて支払うっていうものなんだども、
(もしくは自分がしてもらったことと同等の対価を
別の必要としている人にしてあげることで相殺する)
それが根付いてたりする。キリスト教の国なんかは・・・。

そして、スピリットの力を用いてヒーリングをするヒーラーは、
もともと無料のエネルギー(氣、エーテルバイタリティー)を用いて、
スピリットの代わりに、見えない存在に手伝ってもらって
ヒーリングという行為を慈愛で行うのだから、
お金を頂くのはおかしいって・・・そういうのがあったりする。

グノーシスの教義もそうなんだけど。

だから、お金を頂く事は、この「教え」に反することだから、
他人にヒーリングやスピリットのメッセージを伝えることは
無償の行為たるボランティアとして行われるべきであると・・・。

そこで、みんな悩むわけです。

お金を頂いて、プロとして、
人の悩み相談に乗ったり、ヒーリングやセラピーを行うのは、
やってはいけないことではないのか・・・

罪悪感を抱いたり、自分を責めたり、
お金を稼ぐことに抵抗を感じてしまったり、とかとか。

苦しんでしまうの。



でも、実はここにトラップがあったりする。


だって、それを言うなら、どんな商売も慈愛の行為として、
同胞に無償のサービスをするべきで、
対価を頂いて行うべきではない・・・になってしまう。

すべてのものは、もとは無料なのだから。
植物の種も魚も動物たちも、本来は無料のもの。
水も太陽も酸素も、土地もそう。


サービスっていうよりも、お金とお金の取引なわけで、
商売の基本に立ち返って考えればいい。

物々交換だった頃を思い出せばいい。

そもそもお金は何のためにあるのか?

欲しいものを、必要なものを入手するために、
自分の持っているものとそれを確実に取引するためのもの。

もし、他人に対価としてのお金を払いたくなければ、
すべてを自分で賄えばいいだけのこと。
魚が食べたければ、自分で釣りに行けばいいし、
お肉を食べたければ、自分でイノシシ撃ちに行って、
解体して保存して、食べればいいわけです。
もしくは牛でも鳥でも飼えばいい。
お米も自分で作ればいい。井戸も掘ればいい。
電気も自家発電すればいい。


それが出来ないから、
生きるのに必要なもの全てを自分一人で賄えないから、
自分の出来ること、能力を用いて
人は「奉仕」という形の労働をして、金銭に換え、
自分が創りだせない必要なものと取引する。

マグロを釣りに行けないから、
他の人が釣ってきてくれたマグロにお金を払って、
それを食べるわけです。
そのマグロがお寿司になったものに
お金を払うことの価値を見出すわけです。

365日、畑で野菜やお米を育てたり、牧畜したり、
パンを焼いたり、食品を加工してくれたりって、
そういうのにお金を払うわけです。
自分が出来ないこと、しないことを人がやってくれたことに、
「お金」を払うことをしているわけです。

自分がすればほぼタダになること、だけど。


思うに、それが相場として妥当であるかどうか、でしょうね。
法外でなければ、といいますか、
提供する内容(サービス)や商品が金額に見合っているか否か、
が全てではないかと。

サービスと金額に価値を見出す人がいて、
受け取る側が満足出来ていれば、相応かと思うのです。




で・・・確かに、経済的基盤がしっかりあって、
生活に余裕があり、精神的にもゆとりがあって、
他人のために使える時間がたっぷりある人ならば・・・

自分がしたことに感謝もしない人に対して腹も立てず、
いきなり夜中訪ねてくるような人でもにっこりと笑って
根気よく対応できるほどの懐広い人であるならば・・・

無料で他人の相談に乗ったり、ヒーリングをしたり、
霊的な仕事をすることも出来るでしょう。

そういう人なら、「無償」で施しをしても、
その行為が自分への虐待や差別になることはないから。


お金を頂く事って、ある意味、自分を守るためのもの。
ある種の人たちから自分を保護するボーダーラインにもなる。
自分が提供するサービスや商品を買って頂くお客様を
選ぶ基準になるんですよね。
つまり自分とこの商品を渡す相手を
こっちでも選びたいって、意思表示。

誰にでもってわけじゃない、
中には自分とこのモノを買って欲しくない相手もいる。
自分のとこで提供するサービスや商品に、
この金額の価値を見出してくれない人には売りたくないって、
振り分けているというのかなあ。

お客さんの生活水準うんぬんを秤にかけるというより、
他人が自分のためにしてくれることに対して
その金額と同等の「ありがたみ」を感じることの出来る人かどうか。
そこを見たいというか、秤にかけるとこも大きいかと。

価格で明確に振り分けることができるものではないけれど、
それが一定のボーダーになっているのは事実のような気がする。


現実において、対価を払わず、
タダで他人に何かをしてもらおう・・・と
考える人たちは、確かにモンスターばかりだから。

本当に生活が苦しくて、無料の恩恵に預かるべき人は、
たいてい遠慮しいで、何とかしてお金を払おうとするものだし。
して残念なことにモンスターのせいで弾かれてしまうことが多いな。

そうさねぇ・・・
お金を払わないで得をしよう、という人たちが増えてるのは事実。
クレクレというか、なんというか、
厚かましい人たちが増殖してたりするのです。



でね、先のドネーション制度。
キリスト教圏では根付いていて、しっかり機能しているんだけど、
日本ではダメなの。まったく機能しないの。
たいてい、五円玉とか10円とか、100円とか
お賽銭の感覚で小銭投げて終わりな人が多い。
裕福な人でもね。自分で金額決めろって言われたとき、
やれ、払わずに済むとばかり、小銭入れてしめしめな人ばかり。
してもらったことを金額に換算して支払うことの出来ない人が、
実に多いんですよ、日本人。払えない生活をしてなくても。

日本人は誠実だと、海外の人はそう言ってくれるけど、Non-non!
決してそんなことない。

もちろん、ちゃんと支払う人もいますけどね。
(うちでもたまに、
所定の金額以上の料金を支払おうとして下さる人いたりします)


なんていうのかな、価格が決まっていれば払うことはするけれど、

(高いものにありがたみを感じて、高価なものを買える自分に
酔うような面もあるし、見栄っ張りな意識から、
高級品を入手し、それを利用する自分スゴイでしょって、
ステイタスほこりーので、それやりたいがための人もいますが)

価格を自分で決めて下さいって言われたとき、
高いものをなるべく安く、お金を出さないで済むなら
払わずにゲットして「得」したって、
そうした満足感に浸りたい人は多いのね、実に東洋人は。

中国の人はそうした人が顕著だけれども、日本人だってそうよ。
そういうところをモロに人前で見せないだけで、
見えないところでは出し渋るわ、出し惜しみするわ、結構シビア。

値切りが悪いってわけではないけどもさ。
何ていうかいやらしいというか、
卑しい人もまだまだたくさんいるわけです。
きっぷのいい、気前のいい人は、少ないもので。

(出し惜しみする人、安く済むなら・・・って考えがちな人は、
結局、それだけの価値のものしか出会えず、
それ相応の人生しか生きられてない人なんだけどね)


お金に関してはそういうのが出やすいからね。
実にお金っていうのは、
その人の本質が一番垣間見える部分でもある。

なんとなく日本人は、たぶんモノの価値を決めるのが
苦手な人が多いのではないかなって気がする。
それは自己評価の低さに通じるもので、
他人が自分にしてくれたことに対しても、
その「感謝」の気持ちを対価として表すことに
慣れてないというか、上手くないってそんな感じ。

お礼やお返し、ご祝儀や見舞金、土産等の文化があるわりには、
現代では既にそれは互いの負担となってしまっていて、
本当に相手が喜ぶものを返礼できていないことからも
容易に推察できる。



だから、日本では・・・しっかりと金額は決めておいたほうがいい。

価格設定は、互いの人間関係の境界線をきっかりと引いて、
自分が与えたいと(仕事で相手にしたいと)思う人を
ある程度決める、マーケティングの一環にもなるから。


安くて誰でも気軽に利用できるっていうモノを提供しようというのと、
ボランティアでわけ隔てなくサービスを提供するっていうのは、
本質も結果も全く違ってくる。
後者は下僕になるのと同じくらいの覚悟が必要になるもの。

無償で、無料で相手がしてくれることに感謝できる人って、
本当に少なくて・・・むしろ、タダなものだからって、
してもらったことや与えてもらったモノを大事にせず、
いつ捨ててもいいようなものとして、ぞんざいに扱い、
アドバイスにしても軽視する人のほうが圧倒的なので。



でもって、日本でスピリチュアルなことをするのに、
お金という対価が必要であるって理由については次回の講釈。

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