2017/01/31

感想「チャクラヒーリングを受けて気づいたこと」

クライアントさんでGレッスンの生徒さんでもある方が、
チャクラヒーリングのセット(二回目)を
受けた感想を下さいましたので掲載します。



昨年のチャクラヒーリングで気づいたことをまとめてみました。
箇条書きのようになってしまいましたが、
この経験を踏まえて、自分と向き合って生きたいと思います。


【第一チャクラ】

この時はまだ混乱した部分が多く、
心は未整理な部分ばかりが表に出ていました。
アドバイスや指摘のひとつひとつが心の奥まで行かず、
表面的に理解しようとしている感じでした。
そのなかで印象的な体験をしました。


●友人を事故で亡くした経験の時の感情

古い過去生の記憶の中に、
事故で助けられなかった友人のために悲しむものがありました。
その感情を体験した時、
自分の中にこのような心があったということに驚き、
その悲しみの中でしばらくとどまっている自分を体験しました。
自分の中に、無情でない部分を発見したひと時でした。
このことは後から考えると、
決して育たない心を持ち合わせたわけではなく、
自分が経験を理解しようとしなかった
ということをあらわしているように思いました。


●荒い波動に細かい波動は伝わりにくい

第一チャクラのヒーリングを受けた時、
自分の中にあるエレメンタルを
全て綺麗にした後にエネルギーを入れると、
とても入りにくく感じました。
私の中には細かい波動と荒い波動が混在していて、
荒い波動の方が割りを占めているように思いました。

荒い波動の多い中に細かい波動を広げていくには
とても時間がかかり、伝わりにくいものなんだと思いました。

この経験から推測したことは、
低い波動の人は高い波動の人のものは伝わりにくく、
高い波動を持つ人には、
低い波動はひどく疲れるのではないか、ということでした。

低い波動はネガティブなものが多いように感じました。
それがすべて欲望志向型のエレメンタルだとしたら、
欲望志向型エレメンタルを多く持つ人は
他者にとってエネルギー的にも
痛みを与えやすい存在になるのではないかと思いました。

私は人に痛みを与えやすい人間だったんだと思います。
ネガティブなものを心からなくしていくことは、
自分だけの解放ではなく、
周りへの影響に変化があることにつながると感じました。


【第2チャクラ】

この日は対話の中から
自分のありようを見つめたという感じが残りました。
この頃起きた事件などで
自分の身に起こったとしたらどうなのか、
では過去の記憶を持ち合わせながら、
その人に拘らなければならなくなった時どう感じると思うのか。
対話の中から
自分の感覚を確かめていく時間のように思いました。

実際第2チャクラを見ても、
全てを口にできていない自分がいました。
どこまで話していいのかがわからないという感じです。
見たもの全て、感じたこと全てを言った方がいいのに、
なぜか言わないでいる自分がいました。
どこまで本当に感じているのか、
自分に対して疑問を持っていました。
見たものをすべて話せなかったのは、
恐怖に勝つことができなかったからだろうと、今は感じています。

自分が過去に行なったことは、
二度と消えることはないということを実感し、
エレメンタルをすべて取ったとしても
自分が変わらなければ意味がないということが心に響きました。

ヒーリングの間涙が止まらず、後味が悪く、
もう二度と過去のような行いはしたくないと感じていました。

ヒーリング後、相手のことを考えること、
相手の幸せを考えることは、
すぐにうまくできることではないけれど、
できないことではないのかもしれないと感じ、
また、無意識のエレメンタルに
気が付けるようになりたいという気持ちにもなりました。


【第3チャクラ】

この回に気づいたことは、自分の視野の狭さでした。
それは今も昔も変わっていなくて、
誰かのアドバイスがなければ周りが極端に見えてなく、
気づかないのでした。
また、一つの過去生から気づいたことがありました。

それは、3000年前の奴隷の人生だった頃です。
彼は体が小さく、できる仕事は少なかったようでした。
仲間は多く、色々助けてもらったのに、
そのことと人生観とは別で、
もう自分はこんな身分には二度と生まれない、と思っていました。

彼はこの人生で、どんな人生にも人を愛し、学びはあり、
変えなければいけないのは社会のシステムだけで、
どんな人生にも意味があるということを
学ばなくてはならなかったのです。なのに学べませんでした。

それは物事を悲観的に、
他者を排除して考える傾向がこの頃にもあったということです。
物事をとても狭い視野からとらえ、その考えを広げられない、
その傾向は今の私の性格につながっていました。

また、この人生は、
この後の人生に大きな影響を及ぼしているように思いました。
この後の道を踏み外した人生に進んでしまうきっかけの人生が、
奴隷だったとは思いませんでした。
ネガティブなものは本当に怖いことになることを知りました。

アドバイスをいただいて、この過去生の彼の生き方について、
私が提案を考えることになりました。
私は、過去生の彼に対して、小さなことにも喜びを見出し、
仲間が助けてくれることに感謝し、
日々のたわいないことに気を向けて、
1日1日積み重ねるというようなことを提案しました。

エレメンタルに向き合った時のアドバイスを大事にして、
自分で考える癖をつけていこうと思いました。
少しでも視野を広げるためには、努力するしかないと思いました。


【第4チャクラ】

●目標を自分で決めて生きることは、とても大切なこと

この回のヒーリングの前に、心に決めたことがありました。
自分の生きる目標をしっかり持つということです。
たとえ間違っていても、
自分で決めた大きな目標に向かって生きるということは、
自分の人生を人任せにしない姿勢であるというように思いました。

今までもそうして生きてきたように思うのだけれど、
なにが違うのか考えた時に、
もしかしたらたて方の方向が違うというか、
根本の考え方が違うものだったのではないかと思いました。

今までは、私欲(エゴイズム)に基づいた、
生きる目標たったように思います。
人並みになりたい、認められたい、
人として対等に扱われたい、などなど。
そのためにどう生きればいいかという目標だったように思います。

目標とはそういうものではなくて、
自分が成長するためにはどうあるべきか、
という視点が重要だったのだと思いました。

この項の最初に書いた、
「たとえ間違っていても」という言葉の意味は、
「(成長するという観点ならば)たとえ間違っていても…」
という書き方が正しいのでしょう。
いつか本当の生きる目標にたどり着くために、
今感じている生きる目標を
しっかり心に据えて生きていこうと思いました。
その気持ちを持ってヒーリングを受けました。

第4チャクラにあったものはさまざまなものの残骸で、
それぞれの品物に詰まった、作ってくださった人の気持ち、
丁寧に管理してくれた人の気持ち、
壊した人の気持ちが伝わってくるものでした。
そのひとつひとつは哀しく寂しく、切ないものでした。
何も分かろうとせずに邪険に扱っていた過去生の自分は、
一つ一つのものに込められていた
気持ちのひとつも気が付かず生きていました。

「壊した人の罪を無くしなさい。
元どおりに一つ一つ自分で直しなさい」
とアドバイスされたことで、
人の罪をなくしていくことも大事なことなんだと感じ、
原因を作ったのは自分であることを再認識しました。

この回は他者の様々な感情を追体験し、
ただただ悲しくて涙が止まらず、人を大切にしたい、
もう二度と悲しませたくない、と思いました。
そのために成長したいと思いました。

「羨ましいと思った時、自分にないものを人に見た時は、
そのまま認めてあげればいい。
素敵だなって思うこと。それが愛すること。
そのことを見られたことに感謝すること。
それが愛すること。じぶんにないものをみられたことを、
見せてもらえたことを、その人の美徳を、感謝すること。
それが愛すること」

愛について教えていただいた言葉です。

終わってみて、気持ちはとてもハードだったけれど、
愛する方法、悲しみの実感、
寂しさの本質が少しでも感じられたことが印象的でした。
私の過去の行いは消えることはないけれど、
向き合いたいと思いました。


【第5チャクラ】

前回の後、
「やらなくてはいけないと思っていたことが、
実はやりたいことだった」
ということに気がついた日がありました。
今まで、やらなくてはいけないと思って生活を律してきたけれど、
そのほとんどが実はやりたいことでした。
ちゃんと生活したかったし、さぼりたくなかったということは、
いろんなことを覚えたかったし、
できるようになりたかったんだと思います。

また、人としてどう生きたいかを考えた時に、
例えば一番身近な介助の方との関係について頭な浮かび、
介助を通しての関係性をビジネスライクに考えて
我が道を行く生き方よりも、いろんなことを考えながら
ベストを尽くす生き方をしたいと感じました。

今回のヒーリングは、私の中にある
「見栄」「誤解」「間違った解釈」に向き合う回になりました。
寂しさばかりで、
そこに愛のない赤ん坊のような心から起こした私の行動は
、多くのひとを傷つけ、悲しみを残しました。

とても悲しく、ただ悲しく、
もう二度とこんなことはしないと思いました。
ヒーリングの最中に見えたたくさんのガラスの破片は、
私が壊したひとの心だと教えていただきました。
「おもちゃのようにひとの心を欲しがったけれど、
心は得ることはできなかった」

この日は立ち直れないほどの悲しいきもちで終わりました。
この悲しみは、私のものではありませんでした。
多くの人が感じていたものでした。


【第6チャクラ】

毎回毎回がとても大事なひとときになりますが、
この回は特に私にとって大切な時間になりました。

●人の幸せを願うことをしてもいいということ

私は、人の幸せを願うということが、
何か特別なことをしなくてはいけないことなんだと
思い込んでいたようです。
私にはできそうもないことなんだと、
心の何処かで思っていました。
それは、自分と他者を差別していたということかもしれません。

ある過去生と向き合った時に、
私も人の幸せを願っていいということに気づきました。
今生で私と接してくれる人のなかには、
(障害を持つ人と)どう接していいかわからない、
何か特別なことが必要なのかもしれないという気持ちを
教えてくれる人たちがいます。

そのような経験の中で、実は私自身の中にある気持ちを
見せてもらっていたのかもしれないと思いました。
また、今生で障害を持つ私に足らなかったことは
「他者の幸せを願うこと、祈ること」だったんだと感じました。

感謝だけではダメなんだと思いました。
人の視点に立つということは、
その人の幸せになる視点に立つということなのかも知れません。

どうすればいいかメタトロンに聞くと、
心からしあわせを願えばそれでいいと教えてくれました。
なにも難しいことではなく、心から幸せを願えるならば、
その時にその人に対して
自分のできることがわかるように思いました。
自分がなにもできないとか、
なにをすればいいのだろうと焦る前に、
その人が幸せであるように願ってみようと思いました。

また、メタトロンのいるべき場所が
エレメンタルでいっぱいだったことにはじめて気づかされました。
ネガティブな自分のエレメンタルと向き合えるよう、
鍛えたいと思いました。


【第7 チャクラ】
第7チャクラのヒーリングを受ける前に気がついたことは、
「提供する方の人生を選ぶということ」です。

自分の人生は求めることばかりだったと気づきました。
人生で選べる道が二つにひとつならば、求める人生ではなく、
提供する方の人生をこれからは生きてみたいと思いました。
なぜならば、求め続けるときりがなく、
不安になり、得られないことに不満が募り、
エゴイズムが大きくなるだけだとわかったからです。

私はそういう人生を生きてきたのだと思いました。
これからはできれば、一つ一つに学びを見いだせるような
豊かな人生を生きたいと思いました。
そして、頭で考える、と言っていたことは
エレメンタルが考えていたんだということを、
なんとなく感じるようになりました。

サイキカル体とノエティカル体を使って、
感じたり考えたりすることが必要だということを実感しました。
好きな人たちを幸せにしたいという最初の思いに戻って
(自分のことしか人は幸せにできないということを胸に留めて)、
自分のやりたかったことをぶれないようにすること、
間違ってしまったことで
取り返しのつかないことがたくさんあるけれど、
二度とその道は行かないということを誓い、
幸せを願おうと思いました。

第7 チャクラのヒーリングを受けて感じたことは、
思い込みや恐れなど、
自分で作ったネガティブなものはとても手強く、
深く大きなものになってチャクラに宿っているということでした。
幾つ振り返っても新たなものがあり、
不安になればまたできていくような感じを受けました。

また、恐怖は本当に怖いものだと思いました。
いつも雲のない空を保つためには、
気持ちを強く持たないとと思いました。
自分の現実を知り、
一歩一歩確実に歩くことが大事なのだと思いました。


【トータルのチャクラヒーリングを受けて】

実はまだまだヒーリングは続いております。
私の中で自分と向き合うことに終わりはなく、
今回は納得のいくまで向き合ってみたいと思っております。
昨年中に自分の中で納得のいった、
上記以外のことを記させていただきます。


【障害についての理解が深まったこと】

私が持って生まれた障害は、
私に必要な経験を与えてくれるものであり、
私が人に与えてきたものを理解するためのものでした。
今までの人生の結果であり、
一つひとつの行いの重さに気づかないまま
過ごしてしまったツケであり、蒔いた種であるということです。
私が今回できないこと、
制限のあることひとつひとつには意味があり、
その状態を体験しなければならなかった理由があります。

障害のことにすべて向き合うには
まだまだ長い道だとは思いますが、
本気で受け入れて、生きてみようと思いました。


【エゴイズムと自分の区別がついたこと】

第4チャクラの2回目のヒーリングを受けた時に、
エゴイズムというものは怒るばかりで反省もしないし、
自らも振り返らないということを見ることができました。
ただ自分の気持ちを押し通すだけで、
人のことを考えることもしないエゴイズム。

これは自分とは違うものなんだと気づきました。

振り返らないのがエゴイズムならば、ああそうか、と思う心は
私自身なのかもしれないという仮説が生まれました。

明らかにエゴイズムと違う行動なのだと思いました。

自分の姿を見つけた時、
こちらの方を大切にしていこうと思いました。
エゴイズムと自分を切り離して、
日々自分を見つけようと思いました。


【自分の中にも愛を感じたこと】
第4チャクラの2回目のヒーリングの時に、
エレメンタルを綺麗にした後、湧き出るようなものを感じました。
言葉にならないものでした。
それが「愛」なんだと説明していただきました。
胸の奥に湧き出るものは熱くなく、
硬くもなく、暖かいとかそういう言い方では言い表せない、
表現しようとすると涙が出てきてしまうものでした。

私の中にもあったということが驚きでもありました。
今でも思い出すと涙がが出てきます。
日々思い出して記憶を留めておきたいものです。

「愛は愛である」この時に心に聞こえてきた言葉です。
「愛は許しではない。愛は愛である」
この言葉を聞きながら、脳裏に浮かんだことがあります。
愛は許しではない、愛は愛である。そのことを肝に命じました。
ことあることに、この時のイメージを思い出している自分がいます。


【傲慢でしかなかった】

私はいつの日も自分のことしか考えず、
傲慢でしかありませんでした。
そのことに気がつくこともありませんでした。

傲慢さに気づいた時、
私の選択のほとんどが間違えていたことを知りました。
自分の世界しかないということはとても怖いことだと思いました。

自分の殻の中に入らず、学ぼういう姿勢をいつも持つことは、
知らなかった世界を知ることになるのではないかと思います。

毎日を大切にして、一つでも多く知り、
謙虚さとは何かをいつも胸にといながら、
人として生きることを身につけていこうと思いました。


【自分なりに物事を考えるということ】

私は今まで、いただくアドバイスや意見に対して、
そのまま受け取って、直さなくてはと思うばかり、
その方向でひたすら考えるばかりでした。
今回のヒーリングの中での対話などの体験を通して、
アドバイスなどいただいた言葉は、
もう一度自分で検証し内省して、自分なりの結論という、
見解を出していくことが必要なのではないかと思えました。


【人の気持ちを感じることができるという実感】

今回のヒーリングを受けるまで、
自分には人の心を感じられるような心はないと思っていました。
いくら努力をしてもできなかったことでした。
今回のことで、感じることは努力してできることではなく、
感じたい、理解したい、その人の心をわかりたい、
とまず思うことと、
自分の中のエゴイズムを捨てていこくとを
日々やっていくことが大事なことなんだと思いました。
人を大切に思う姿勢を持ち、
経験を積んでいけばできるようになるのだと思いました。


【エゴイズムの奴隷に二度とならないということ。
そのためにどう生きるか】

私は、長い間、エゴイズムの中で生きてきました。
スクールで様々な知識を学んでいる時でも、
そこからなにも気づけずに日々を重ねていました。

習ったことを復習しても、実践していても、
そこに自分の生きる目的を持ち、自分が成長する観点から、
美徳の観点から
「どういう自分になりたいか」という思いがなければ、
成長は決してしないということを知りました。
エゴイズムの観点から生きる目標を持っても、
エゴイズムを育ててしまうだけで自分自身は成長せず、
エゴイズムの強さの中で溺れてしまうのだと思いました。

20回あまりの過去生の中で同じ道を歩んでしまった私は、
やはり性格に欠点があったように思います。
まず傲慢なこと。
自分が正しいという観点から離れられませんでした。
差別意識が強いこと。
自分は人と違うとどこかでいつも思いたいという欲望がありました。

これらのエゴイズムは、感情が強すぎること、
理性を働かせる経験が少ないこと、
思い込みに対して執着が激しいこと、
そのような傾向が引き寄せたものではないかと思います。

そして、
他者に対しての愛を育むことを忘れてしまったということが、
転落の大きな原因でした。

自分の弱さ、臆病さがそこにあり、
その性格と向き合えないために、他の理由をいつも探して、
ひねくれた嘘の正しさ、嘘の正義感の中にいました。

なにかと自分は孤独だと思いがちなのも
その傾向があるからだと思います。
弱さのために、人との関係を作ることを
怠けてきたということに行き着きます。

感じている恐怖や不安の根本に向き合わず、
ただ逃げるだけだったということです。
そして自分が一番楽な理屈に逃げてしまったのです。

その結果、エゴイズムに囚われてしまいました。
本来絶対に手放してはいけない、愛も見失いました。

辛くてもその場にいて、
物事を見る目を謙虚な気持ちで養っていけば、
自分がその場しのぎの楽な方に逃げなければ、
もっと早く道は拓けたかも知れません。
多くの人を悲しませることにはならなかったかも知れません。

自分の弱さを変えていくには、忍耐を身につけること、
どんなことからも学んでいこうとする謙虚さを育てることだと、
今は思っています。
日常の様々なことから教えていただけることに感謝して、
傲慢の自分を手放し、
胸の中に感じた愛情を増やせるような人間を目指そうと思います。

人は望めば限りなく成長できるという言葉を信じて、
わかったと安心しない生き方を身に付けたいと思っています。
心から納得のいく人生を探し続けたいと思います。


この機会に、本当に、感謝しています。
ありがとうございました。

論語読みの論語知らず(後半)

勉学は光であり、無学は闇である


魂の探求の無い生活は、
人間にとって、生きがいの無いものである


唯一の真の英知とは、
自分が無知であることを知ることにある


我々が唯一知っていることは、
何も知らない、ということだけである


私が知っているのは、
自分が何も知らないということだけだ


汝、自らを知れ


                 byソクラテス

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少し前に書いた「裏切りの報酬」の中で、
私自身の金銭に対する不信感や嫌悪感といった、
お金とそれにまつわるトラウマが生まれることになった原因、
最初の核が出来た源流たる過去生に触れましたが、

この時できた、お金に対するマイナスイメージは、
お金に対する怒りや憎悪があるという単純なものでなく、
人や恩を裏切るもの、欲深な人々への憎しみと復讐心、
精神的かつ霊的な道(宗教等)を探究する人々への強い不信感、
そのようなものと複雑に絡み合って、
私自身の自惚れや偏見、高飛車で生意気な傲慢さといった、
スピリチュアルナルシズムを産み出していました。

今更ながら、そのような事実に気づき、愕然とさせられました。


たかだか、主役と
その他大勢のエキストラ的出会いにしか過ぎないというのに、
「彼その人」を知っている、同時代に生きていた、
会ったことがあるというだけで、どこをどう勘違いしたものか、

「教え」だって、子供で理解なぞしていなかったであろうに、
説話をしているのを聞いたことがあると・・・
(もちろん、それ以前の人生において学び、教えたこともあるが、
それは長らく伝言ゲームのように伝えられたことで、
徐々に意味が誤って伝えられ、解釈の間違いもあった教えのこと。
「彼」により、修正される前の不完全な内容です)


そして、
恩人、師を裏切り、見捨てた12人の弟子に対する怒りが、

「自分のほうがあなたたちより、本当の意味を知っている」
とばかりの高慢な自惚れを生み出していたのですね。


どこかで、無意識の中に、
「自分のほうが分かっている。知っている」
自分はなんでも知っている・・・みたいな、
勘違いした、知ったかぶりなエゴイズムが潜んでいるな、と。

そして、あらゆる人をジャッジするクセが
習慣みたいに身に付いていたわけです。

自分こそが正義で、真理を知っているもの、とばかりに。


なんとまあ、お恥ずかしい限りです。

気づいていないだけにたちが悪い。

本当に、エゴイズムには巧妙に騙されるものだと痛感しました。
2000年もこんな考えを自分の中に保有して、
知らずと、そんな醜悪さを振りまいていたんですから。

もっと、早く気づけよ、って感じです。

情けない。


さて、そんな風に私はまだまだです。

人としても、スピリチュアリストとしても未熟も未熟。
全然実践なんて出来てません。

知ったかぶりばかりで、偉そうに講釈を垂れていても、
本当に口先だけで、行動が伴っていないのです。

でも、言い訳ばかりしているわけにはいかないのです。

自分の撒いた種は自分自身で刈り取らなければいけません。

もう寄り道をして、
同じ過ちを無限ループで繰り返しているわけにもいきません。
やらなければいけない仕事がたくさんあるのですから。

本来取り掛かるべきだったことに、そろそろ、ですね。

いつだって、言い訳をして、
向き合うべきことから逃げてきた気がします。

クライアントさんや生徒さんたちに
上から目線でお説教をしたり、
突っ込みを入れている私がこれでは、
まったくもって示しがつかないなんてものじゃありません。

本当に私には他人の手本になれるような、
周囲からの尊敬を頂けるような人徳はひとかけらもなく、
慈悲も慈愛も、懐の広さも、全くないというのに、
よくもこの仕事をさせて頂けているものだと思います。

この分ですと、
生涯見習い中といった、三流のまま、
この人生を終えることになりそうです(笑)


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私がどんなにダメなヤツかのエピソードです。

その昔、実家でのことで色々あった当時、
事情を知っていて、とても力になって下さった方がいました。

その方は占い師の先輩で一回り以上年上の人でした。
彼女自身がご実家を乗っ取られるという経験をしていて、
親戚との間でとても大変な苦労をなさった方なので、
私の事情を察して下さり、あれやこれやと
親身になって下さいました。

精神的に辛く、参っている時に、
彼女の労りの言葉や親切は骨身に沁みたものです。

仕事(ゴーストライター)を紹介して下さったり、
住居を探すとき、私ひとりだと舐められるでしょうからと、
不動産屋巡りに着いてきて下さったりと心強くもあり、
とても面倒見のよい方でした。

ですが、付き合いが長く、深くなってきたとき、
彼女のその情の厚さ、面倒見の良さが、
段々としんどくなってきてしまったのです。

彼女はよかれと思って、
あくまで親切に言ってくれてただけなんですが、
それはとてもよく分かってはいたのですけれど・・・

「ああしなさい」「こうしなさい」「こうするべき」
「だから私が言ったでしょう」「こうしないと駄目ですよ」と、
ちょっと過干渉的な物の言い方が多くなってきて、
そこに押しつけがましさとプレッシャーを感じて、
重たいというか、苦しくなってしまったんですね。
そのような言い方をされるのが、辛くて、
段々と会うにも、電話で仕事の連絡を取ることさえも、
ストレスを感じてしまって、しんどくなってしまったんです。

彼女にはそのような事由で精神的に辛いとき、
親切にしてもらい、よくしてもらった恩があります。
悪気があるわけでなく、こちらのことを思って、
色々と言ってくれているのもよく分かっていました。

今思えば、
少しずつ距離をおいて、適当に言われたことは流して、
ただ離れれば良かっただけだと、そう思います。
仕事も何か理由を作って断るとか、
そうすればよかっただけで。

けれども、当時の私はまだ甘ちゃんというか未熟で、
彼女に、私がストレスを感じてしまう物の言い方を
止めて下さいって言っちゃったんですね。
話せばわかってもらえる・・・そう考えていたみたいです。

でも、そこには、

「他人に対して威圧的な態度を取ったり、
自分の考え方や価値観を押し付けて、
相手をコントロールしようとするのは彼女の欠点で、
直したほうが彼女自身のためになるわけだから、
自分がその言い方で傷ついていると伝えて、
指摘するのも彼女のためだ」

っていう、上から目線な奢りがあったわけです。
これこそ押し付け以外のナニモノでもない。
他人を変えることなど出来ようはずはないのに、
他人を変えるなどおこがましいというか、
傲慢な自惚れでしかないのに。
(交流原則の基本は、
過去と他人は変えられない。
変えられるのは未来と自分だけ、ですから)


ああしろこうしろいうのをやめてくれ、みたいな・・・
かなり直接的な言い方をしちっいましたね。
相手の性格も考えずに。

結果として彼女は激怒し、物別れになりました。

まぁ、あちこちで私のことを怒っているというのも聞きました。
恩知らず、飼い犬に手を噛まれるとは的なこととか。


それから、10数年経って、
たまたま、彼女がネット上に書いた商業誌のエッセイに
私とのことが書いてありました。

色々と親切にして面倒を見たのに、
その恩を踏みにじられたことがあると。
けれど、その人と縁が切れた途端、
ツキが回ってきて、次か次へと仕事が回り、
よいことばかりが巡ってきたとも。
そして、結果的にその人は疫病神のような人で、
縁が切れて良かった相手なのだとありました。


はい。私は疫病神だったようです。


その文を読ませて頂いた時、ショックというより、
「ああ、この方とは多分どう話しても、
分かり合えなかったんだろうなあ」と思いました。

「『ああしなさい、こうしなさい』っていう、
その言い方は止めて頂けませんか?」
って話したわけですけど(伝えたつもり)、
彼女は、自分の抑圧的な物言いに
私がストレスを感じているということに対して、
悪いことしたな、なんてのは
残念ながら少しも思ってくれる人ではなくて、

こちらが親切で色々言ってあげたり、
してあげたりしているというのに、
不愉快なことを言ってきて、恩をあだで返すなんて!

と、自分のプライドを傷つけられたこと、
自分を否定された、自分の傷だけがすべてなんだと。

そういうことを伝えるまでに追い詰められた「私」の気持ちとか、
私という個の人間としての人格とか尊厳とか、
そこを考えたり、尊重してくれてたことはなかったんだ、
施しとか慈善事業をする対象のようなものとしてしか、
見られてなかったのかも知れないな、と。


とても残念に哀しく思いましたが・・・。
でも、たくさんよくしてもらったこと、
お世話になったのは事実で、そのことには今も感謝しています。
助けてもらったこと、親切に、優しくしてもらったこと、
想い出も大切なもので、それは忘れません。
もう二度と今生では会うこともないけれど、
彼女が心安らかに幸せであるようにと、祈るばかりです。



それに私のやり方が悪かったのは事実で、
とくに何も言わず、ただ距離を置いて、
仕事の関りを絶って、プライベートでも会わないようにして、
季節の便りをするくらいの関係にまで、
その程度のところまで、
徐々に静かにFOすればよかっただけのこと。


賢く、上手くやれなかった私のせいなのです。

伝えて相手がどう思うか、どう反応するかってことを、
考えられなかったし、予測するのを無視してた。

それもこれも、無駄なエゴイズム、
「欠点を伝えてあげるのも、相手のため」っていう、
へんな正義感ぶった、自己欺瞞な傲慢さ故の過ちでした。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


そんな過ち、若さゆえの愚かな選択、たくさんあります。

失敗も数えきれないくらい。

後悔してもしきれないこともたくさんたくさんてんこもり。

ちいとも、上手く世渡りなんて出来ていないのです。

反省、反省、また反省。

永遠に反省して反省して、後悔し続けるのかも知れません。

「後悔ばかりが人生さ」とは何かの映画であつたセリフだけど、
それはそれで困ったもので、そうはなりたくないものです。

せめて、今からは・・・これからは、
もっとまともな判断が出来る、理性的な大人にならないとネ。

てなわけで、永遠に修行中。

半熟な、三流セラピスト(ヒーラー)としての
みっともない、へっぽこ人生はまだまだ続くようです。



みっともない醜悪な姿を晒して、
みっともない恥ずかしい人生を生きてるって自覚はあります。

我ながら、本当にヘタレな人生で、
過去生にしても、今生にしても、
後退してばかりの、成長のない愚かしい人生ばかり生きてて。
胸張って生きて、自慢も出来るような人生なんて、
全然生きること出来ていませんし。
これといって人に誇れること何もないです。


さて、この人生に痛みをもたらしてくれた人たち、
私自身に苦しみを与えてくれた人って、
結局、過去の自分だったりするのです。
ディフォルメ化された、私の欠点を誇張して教えてくれただけで。
自分が引き寄せたトラブルや事象、
それは本当に私自身の内面にある問題が具象化されたもの。
内面の醜さや攻撃的な考え、否定的な想念が創り出したもの。

他者への批判は自己の正当化で、妬みや嫉みがあるから。

この人生で出会った、たくさんの人たちが、
私の映し鏡となって、苦痛を教える教師となって、
私の中にある色んな「エゴイズム」を教えてくれました。

そうした人々との出会いが私を成長させてくれました。

クライアントさんやレッスンの参加者たちの中に見つける、
その人の解消すべき問題は、かつての私自身の姿です。

私もまた、クライアントさんや生徒さんの映し鏡となって、
その人の内側にある、醜い姿、エゴイズムの在りかを
人としての姿を持って、知らしめ、教える存在でもあります。

そうやって私たちはお互いに学び合っていきます。

クライアントさん、生徒さんもまた私にとって、
教師であり、私に課題を提供してくれ、
私にたくさんの成長と内省の機会を与えてくれる人々です。


自分が感じている痛みは、
過去に自分が他人に与えた痛みなんですよね。

私たちはカルマのレッスンを、
人に与えたり、与えられたりして、生きている。
それがお互い様、でもありますし、因果応報とも言います。

人間は本当に弱くて強いものであり、
愚かでありながら美しくけなげでもある。

そして痛い思いをしても、人というのは、
なかなか経験から学習する事が出来ない生き物でもありまして・・・

その都度、反省したり、後悔しても、
また同じところで躓いて、何度でも過ちを繰り返してしまう。
自分でもうんざりするほどに。

その位、自分自身や人生を変えることは難しい。
一度の人生で、すべてを理解して、過去を清算して、
生まれ変わって一から、
別人のように理想的な人間に成長することは難しい。



ほんの10数年前まで、
私は本当にどうしようもない人間でした。
傲慢で、生意気で、何様な占い師で、
派遣の仕事をしていた際も、
対して仕えないクセに態度だけはデカくて、
愚痴と文句は一人前で社会性も欠けていて。
謙虚さのかけらもありませんでした。

感謝するって気持ちがなかったのです。

ヒーリングの仕事を始めてから、
エゴイズムの種が膨らんで、
スピリチュアルナルシズムがムクムクと成長し、
勘違いから鼻が伸びきってたなあ、と思います。

真理の勉強を始めてからも、
すべてを知った気になって、自惚れていました。
自分のスピリチュアルナルシズムの何たるかを知らず、
自分は浄化と解放と、気づきの日々を送っていると、
まったくの誤解をしていたのです。

それでも、少しの光明の中、
内省と挫折を繰り返し、今自分を冷静に見れていること、
ようやっとのこの地点に到達できたことを思うと、
一進一退の学び、エゴイズムのそぎ落としの日々は
無駄ではなかったと思いますし、

幼少期の体験からのPTSDを始めとして
自らの諸問題(性格の歪みや心の弱さ、憑依体質)を克服すべく、
スピリチュアルなワークやセッションを受けたり、
ヒーリングを学んで自分で取り組んだり、
真理の教えと出会って、学びに取り組んだことで、

時間とお金はかかったけれども、
自分はとても変われたと思うのです。

まだまだでトホホなところはいっぱいありますが、
スピリチュアルなワークや道において、
こうした自分を見つめ直す機会を持たなかったなら、
どうしようもない、自己顕示欲と自己承認欲求、
そして自己欺瞞と高飛車で自惚れでいっぱいの、
エゴイズムの塊な自分のままで老害をまき散らし、
昔以上に周囲に迷惑をかけまくっていたに違いありません。

そういう意味でこうして変われたことは大きいです。

完全に変われているかどうか、は判りません。
相変わらずだね、と・・・
以前の私を知る人は言うかも知れませんし。

それでも、自分を振り返ったとき、

「人は変わろうと思えば、
過去と決別して、変われるものだ」と思います。

もちろん時間は掛かります。簡単ではないです。
一日で欠点や問題とおさらば出来ることはなく、
年月をかけて、じっくりと取り組む必要があります。

人生そのものが癒しのプロセスで、
人と人の出会いとか、経験が、学びが、
その人を育てていくことになるのですから。

スピリチュアルなワークを受けたり、
そうした教えを学ぶだけで、変われるわけでもありません。

スピリチュアルなワークや学びを受けつつ、
日常のこと、人間関係のこと、
人生そのものに取り組むことが肝心だと思うのです。

ワークやセッションを受けること、
スピリチュアルな知識を学ぶことは、
現実生活(物質的次元)に現れている自分の内面の問題、
それらの事象との関連性や対処法としての取り組み方、
その問題が何故起こったのか、どう考えるべきなのか、
そうした現実との付き合い方や
物の見方(考えや感情の落としどころ)の手助けになるだけです。

別に知らなくても生きていけますが、
知ることで、新しい視野や着眼点を得ることが出来ます。

少なくとも私は、
このような角度から自分の問題と向き合うことで、
発狂することなく、この11年を乗り越える事が出来てきたかな、
と感じています。

すべての人が同じように益を見つけられるとは限りませんけど。
また、生徒さんたちが同じように感じてくれているとも、
そこはそれ、判りませんけれど(笑)

そもそもきちんと教えることが出来ていたり、
的確なアドバイスを与えられているとも、
その人が抱える問題を乗り越えるための
適切で効果的なレッスンを提供できているとも、
言えないのですけれどもね。

何しろ、三流の先生ですのでっっ


なんていいますか、親がだらしなく、
頼りないほうが、子供はしっかりするといいますから、
私があまり先生してないで、あくまで同等の仲間、
むしろ皆さんに世話を焼いてもらって
助けてもらうばかりのダメな反面教師ってほうが、
生徒さんはしっかりして、自発的になるかも知れませんね。
実際そうか。


確かに、自分と向き合うのは辛いし、しんどいことです。
自分の中の「恐れ」を知って、
心とか精神を鍛えるために、弱い部分をそぎ落とし、
ひたすら己が欠点で人生の障壁、問題として現れている、
周囲に痛みをもたらしているエゴイズムを捨てていく作業は。

霊的成長と一口に言っても、
自分の闇の部分に光を当てて、
心のデトックス、醜い心のお掃除をしていくことですから。
見たくないものをいっぱい見ることになる。

でも、それをしないと、人生を変えることは出来ない。
自分自身が変わらないことには、
過去を乗り越えて、新しい人生を生まれ変わって
生きることは出来ないので、「生みの痛み」は必須で・・・

でも、そこを抜けたら、生きることがラクにはなるのです。


自分を知ること。

本当の自分の姿を知って、本当の望みを知ること。

そこがすべての始まりであり、帰結する場所でもあります。


変わろうと思ったら、勇気が必要だけれども・・・
変わらないことには、何も始まらないのです。

自分が変わればすべてが変わる。

これは本当です。

何よりも私自身が実感しています。

それを知った11年でした。

2017/01/29

論語読みの論語知らず(前半)

はっきり言って私は、たいした人間ではありません。

こんな仕事をしてはいますが、
だからといって、特別な人間なのではなく、
平凡な何のチカラもないただのオバサンです。

たいした才能もスキルも持っていません。

占いがちょっと出来るとか、
人の氣をちょっと読むことが出来るとか、
ヒーリングが多少出来たりもするし、
時に過去生を見たりすることもあるけれど、

その程度です。

霊能力者でも透視能力者でもなく、
すべて何もかもが見通せるような、何でもわかる人ではありません。

判らないことだらけだし、出来ないことだらけです。

評論家がうんちくを垂れて、あれやこれや解説は出来ても、
実際の現場では役立たずだったり、
プレーヤーとしては無能だったりするのと同じで、
知識は持っていても、解説は出来ても、そこ止まりで、
判るから解決出来る能力と技術を持っているわけではないのです。

これは謙遜ではなく、自己卑下でもなく、事実です。

たまにまぐれで実力以上の結果を出せることもあるけれど、
残念ながら私には、多くの人の力になれるほどの、
素晴らしい能力やパワーは備わっていないのです。

奇跡なんか起こせません。
霊だって見えません。呪詛返しも除霊も浄霊も出来ません。
病気を治したり、失くし物を見つけたり、
人の心を読んだり、未来予知とかも出来ません。

大したことは出来ないんです。
ちょっとしたことが出来る程度で。
ほんの少しばかり、判ることがある程度で。


けれど、どうしてそんな三流のセラピスト(ヒーラー)で、
三流のスピリチュアリストが仕事をしているかっていうと、

それはそれ、
私みたいな三流にも三流なりに出来ることがあるからです。

ヘタレなへっぽこはヘタレなへっぽこなりに、
それでも人の役に立っていることもあるようなのです。

何故なら、
一流じゃない二流でもない、
人としても不出来でダメなとこだらけの三流ですが、
三流には三流にしかできない事があったりしますから。



このブログを書き始めたとき、そして今でも、
私にはたくさんのスピリチュアルナルシズムやエゴイズムがあり、
ここに書いてある記事の文章や内容からも、
その臭いがプンプンしています。

少しして振り返って、読み返すなどしたとき、
書かれていることの中に自分のエゴイズムや自惚れを見つけて、
吐き気がするほど気分が悪くなるときがあります。
我ながら情けないというか、自分にがっかりしてへこむことも多いです。

それでも削除しないで、生き恥をさらすことをし続けているのは、
自己欺瞞や自惚れや高慢ちきな目線に満ち溢れた、
そんなスピリチュアルナルシズムとエゴイズムまみれの
文章であったとしても、誰かの役に立つことがあるからです。


怒りと醜い、どす黒い感情から吐き出したような、
そんな書きなぐった文章であっても・・・

それを読んで、目が醒めたとか、溜飲が下がったとか、
自分が抱いている感情や違和感が何なのか分かったとか、
そんな風に、その人が必要としている情報を、
駄文から見つけて下さる人もいるので、

波動が低い言葉(言霊)の羅列であったとしても、
そこに感じるものがある人がいる限りは、
過去に私がそれを書いたことも意味のあるものなのだろうって、
イイワケでしょうが、開き直っていたりもするのです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


思えば、この仕事を通して、つくづく私は、
自分の成長の機会をさせて頂いてるなあと実感します。


この世は学校で、人生とは学びであり、
生きることは日々楽しみながら、自分を完成させること。

それを別の言い方で修行とも申します。


お客さんの問題と向き合うことは、
自分の問題と向き合うことだなぁと本当に思います。

とくにレッスンの生徒さんに関してはそうです。
個人セッションのお客さんはその場限りの相談がメインなんで、
全体的なサポートはしないし、そこまで深く関わることもしません。
けれども、レッスンの生徒さんは、
年単位での長期的な関わりなんで(長い付き合いというか)、
その人固有のあるいは家族も含めての、
大きな人生の流れ、全体的なサポートをすることになります。

そうすると、必然的にその人が私の映し鏡の存在になり、
その人にとっては私が自身の映し鏡(反面教師)となり、
生徒さんの問題に取り組むことは、
私自身の問題に取り組むことになってきます。

引き寄せられて出会った存在でもありますから。


これまで、私の人生に痛みをもたらした人は、
私自身の内なる問題(ネガティブな思考)を具現化し、
外側の存在として知らしめてくれた、「教師」に他なりません。

こういう気づきを得られるようになったのも、
この道に進んで、この仕事を通して、知識を理論と実践から、
多くを学ぶことが出来たからだとも思います。


私が占いの道に進んだのは、
私からすると単なる成り行きであり、
成りたくて成った職業ではありませんでした。

そのあたりの事は他の記事の何処かに書いたと思うから、
深くは触れませんが・・・

たまたまレイキのアチューンメントを受けて、
それをきっかけとして、ヒーリングをするようになってから、
そしてそのセッションを通して体験した、
様々な不思議な出来事があり、
幼少期から疑問に思っていたことも含めて、
自分の身に起きていることを知りたいと、
これはいったいどういうことなのか?・・・と。

そんな風に思っていたとき、
当時の友人から、ダスカロスの本を教えてもらいました。

それを読んで、すべての疑問が解けてから、
私は彼の教えを学び始めました。

それはちょうど11年前のことでした。

学び始めると同時に、
たくさんの「お試し」が起きたように思います。

自分の中のエゴイズムの掃除が始まったかのように、
自分の内側でも外側でも色んな事が起こりました。

気づきも起こったけど、同時に罠もあり、
スピリチュアルナルシズムに囚われたり、
ひとつ気づいては後退して、また膿が出て、
そしてまた、エゴイズムに囚われている自分に気づかず、
何もかも知ったような錯覚に陥って、
誤った考え方に囚われて、上から目線でいたり、
下手な自己擁護をして、自分が正しいと思いんでいたり、

まぁ、色々です。

今考えると恥ずかしいもので。

何度も、はっとして、気づかされて、
ひとつステップアップしたような気になって、
でも、数年経って振り替えると、
その気づいたと思ってた自分がまた、
全然気づいてないじゃんって状態だったと気づかされ。

その繰り返しですねー

クライアントさんのセッションや
そのセッションでの仕えない無能な自分。
勘違いして何か出来たようになっている自分。

スクールを主催していて、あれやこれや起きるトラブル、
生徒さんの抱える問題に自分の問題を見つけて、
エゴイズムが騒ぎ出したり。

仕事もそうだし、プライベートでも。

様々な感情の問題、私がもともと抱える弱さ、
人間としてのダメダメさ、何かあると逃げるところとか、
繰り返し対峙させられました。


ついこの間も、ワークショップのレジュメを作ろうと、
その参考にするべく、昔作った古いテキストを開いたなら、
テキストのあまりの不親切な出来に、唖然とさせられたり。
(情報が詰め込み過ぎで、初心者に分かりづらい)
そんなところに自分のエゴイズム・・・
自己満足に浸り、自分本位な目線から、
とても良い、分かり易いテキストを作っているという自惚れ、
そんなのを見つけて、吐き気を覚えたりしました。

なんて傲慢だったんだろうって。

優しくなかったなあ、と・・・

色々と反省しました。

気づいたことはそれだけでは無く、
ひとつ気づくと雪崩のように、あれやこれやと
過去の情けない自分、高慢ちきな勘違い女だった、
過去の自分のアラがたくさん見えてきて、

自己嫌悪でしばらく立ち直りませんでした。


本当に、過去の自分から長所を見つけるのは難しいです。

恥ずかしくて穴が入りたいと思うこともしばしば。

だからと言って、今の自分はどうか・・・と言われれば、
たいして進歩しているようには思えません。

それでも、こうした過去の生意気な自分を「恥」と
思えるようになっただけ、マシと言えるのかも知れませんが。

それも、なんだかんだ、真理のお勉強を続けて来れたから。
「スピリチュアリズム」たる、真理の教えを、
ダスカレの教えに沿って、日々のエクササイズや学びを
何とかやれてこれたからでしょうか。

また、その本流たる教えを核にして、
グループレッスンやスピリチュアリズムの講座を
生徒さんたち、参加者の人たちに教える機会を
こうして持ち、何年も続けて来られたお陰だと思います。

この霊的知識ありきで、
自分の人生の問題に取り組んだり、
自分自身と向き合う機会を持ち続けられたからこそ、
ようやっとの今の心境、
自分の成長を感じられる場所に来れたのでしょう。

でなければ、変わることは出来ず、
昔のまま、高慢ちきで、自惚れた、生意気なヤツのまま、
年を取って、色んな人に嫌われて、憎まれて、
エラソーな態度で上から目線のことを言い続け、
自分の醜悪さに気づかず、老害となって、
キチな姿をさらして生きていたに違いありません。

もしくは勘違いして、邪悪な霊に取り込まれ、
精神を病むことになっていた可能性も高いです。


それでもまだ、気づいていないエゴイズムはたくさんあるし、
怠けていたこと、さぼっていたこと、たくさんありすぎで、
人としての力が付いているとは言えず、
まっとうな人間になれているかというと、自信はありません。

ようやっとまっさらなスタートライン立てた、

その程度でしょうか。


この年になってようやく、というのが情けないけれども。

そしてこれからも、学びの日々は続くし、道のりは果てしなく、
先は長いなあって思います。

それでも自分を育てていく作業には終わりはなく、
日々精進して、心の澱を掃除して、
人様のお役に立てるような人間になるべく、
成りたい自分になるために・・・
このダメダメな自分と付き合っていくのであります。

もちろん、人生を楽しむことも忘れてはいません。


思うに、謙虚さと感謝。

これをいつも忘れたらいけないのだと痛感します。

謙虚になるのって本当に難しい。

自分にはこの謙虚さが足りず、
謙虚さと感謝が足りないことから、
数々の問題がいつだって起こっていたんだよなあ、と改めて。


まぁ、11年もかかって、ようやっとここまで来れたかなあ・・・

ていうか、11年でこれだけの進歩かよって、情けないですね。

トホホホホ


で、後半に続く

2017/01/28

自立のための利用は依存にあらず

最近、「日本の神託カード」というのを買いました。
「神様カード」ではなく、「神託カード」のほう。

タロットカードは仕事道具でもあるので、
コレクションしていたこともありますし、
今も複数のデッキを所有しています。

確かに以前にも、
この手のメッセージカードを所有していたことはありますが、
実用的でないと思い、手放したことがあります。


でも、今回たまたまよく行くショップに置いてあり、
このような、御御籤的に引く、ポジティブッメッセージも、
時に人には必要かも知れないと思ったりして、
ひとつくらい手元にあってもいいかなと考えたのでした。

そうですね、友人が集まったときに余興になるし、
クライアントさんやGレッスンの参加者とか、
ワークショップとかそういう時になんか、楽しいかなって。

日本に住んでいるし、身近な日本の八百万の神様なので、
日々の暮らしを見直したり、
瞑想したときに内省や振り返りのヒントを得るのにもいいかなーと。

書いてあることが現実の自分の身に「起こる」ことだと、
そう信じ込むような未来予知的な使い方ではなくて、
一日一枚引いてみて、
そこに書いてあるメッセージやアドバイスを元に、

ちょっと自分の日常や行い、考えを振り返ってみる。
書いてある事柄について、瞑想して、考えてみる。

私の場合、そういった使い方をしています。


書いてあることが、真実であるか否か、
自分の身にこれから起きる「吉兆」であるか否か、

たぶん書かれている「いいこと」を拾い集めてたくて、
書かれている「いいこと」が自分の現実に現れる・・・と、
そう期待してしまうと、
人は自分が現実化したいことが書かれているカードなど、
望む答えが得られるまで何枚も引いてしまうのでしょう。

そんな風に予言めいた占いを期待してしまうと、
依存になりやすいのかも知れません。

引いたカードに「いいこと」が書かれていたら、
それで気分を良くして、その「良い気持ち」で
明るく日常を過ごせれば、たぶん運気もよくなるけど、
何か突然の棚ぼたがやってくる「吉兆」と信じて、
訪れる幸福に過剰な期待を抱くのがよくないのかなー。
それだと他力本願で。

だから、まあ こういうのは、
モノは使いようというか、付き合い方ひとつだなあ、と思います。

上手く付き合って、楽しく活用すればいいだけのこと。

書いてある内容に振り回されて消耗するか、
書いてあることについて考えて、我が身を振り返る時間にするか、

どう利用するか、だけなのだと思います。

所詮、使うのは人であり、
起きている出来事に意味付けをするのは、
いつだってその人の心の在り方次第なのですから。



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心理学にしても、占いにしても、
民間のボディヒーリングやワークにしても、
エネルギーヒーリングや、
スピリチュアルなワークやセッションにしてもそうです。
(学ぶことも含めて)

他力本願で、相手に頼って依存してしまうのと、
自分主体で利用するのとでは結果も異なります。

占い師やチャネラー、セラピスト、施療家が
自分の問題を解決してくれる・・・
この人にお願いすれば、奇跡が起きるとばかりに、
相手の能力にすがりついてしまうことから、
誤解や間違いが起こりやすいのだと思います。

「レイキのアチューンメントを受けたけど、
それで別に人生がよくなったわけではない」とか、
「○○さんに観てもらったけど、
言われたアドバイスは今の私には難しいし、無理。
結局、お金と時間の無駄だった」

みたいな。


でも、どんなスピリチュアルなセッションも、
クライアントさんが積極的に参加してくれないことには、
何も始まらないんですよね。

セッションというくらいですから、
クライアントさんとの二人三脚なので。

主役は、あくまでクライアントさんであって、
セラピーを提供するほうはナビゲーターであり脇役。
状況を説明する解説者にしかすぎません。

ヒーリングにおいて、
ヒーリングが成功するか否かというのは、
ヒーラーの能力というより、
クライアントさん側の問題が90%だと言われています。

セラピーとかもそうですね。

確かに心理療法やカウンセリングなんかでは、
話の誘導や質問の仕方、話を上手に聞けるか、
そうしたことも大きいんですけども。

でも、クライアントさんが自分の問題を丸投げで、
ただここに来れば何とかしてくれる・・・
といった他力本願的なスタンスでは、
どんな名人でも、その人の力になってあげられません。


クライアントさんの方で、
その方法、その相手のやり方が有益であると判断した上で、
自分が抱えている問題を解決するために、
その人の提供しているサービスを「使う」のだという意識で、
あくまで利用する側がきちんと自らの問題意識を持ち、
サービス提供者に歩み寄り、積極的な姿勢て取り組まないと。
そうじゃないとセッションの結果は出せないし、
その試みは成功しません。

こちらから何か言わなくても
相手が自分に必要なことは全部言ってくれるだろう・・・
と座っているだけだったり、

してもらえることを受け身にされるがままになっているだけで、
それだけで現実が変わることを期待するだけだったり、

このセッションを受ければ、すべての問題が解決するかも、
この人なら、自分の人生に奇跡の癒しをもたらしてくれるかも、
と・・・

結果だけを望んで、
奇跡や魔法の一振りやクスリを期待しても、

自分の人生に一発で利く、特効薬のような方法はないのです。

占いやスピリチュアルなワークやセラピーだけが、
世の現れた人生の問題、目には見えない問題を解決し、
その人を変え、見方を変え、生き方を変えるための、
すべての方法であり、唯一無二の、
たった一つの道というのではないように。

逆を言えば、これらは付き合い方、
どのように使うかといった利用の方法次第で、
自分を変え、視点を変え、人生を・・・そして運命(未来)を、
変えることの出来る道具であり方法となりうるのです。


自分が何を解決したいのか、どうしたいのか、
何をどうなりたいのか、ちゃんとそこが分かっていて、
そのためのアプローチの方法として、
どのやり方を選んで、そのやり方でどの範囲のこと、
どこまでのことを自分にしてあげようと思うか、
そのための自己投資(予算)をどうとらえるか、

各自の価値観で判断すればいいと思うのです。

自分の人生を変えるために、
人生上の問題を解決するために、
トラブルを引き寄せたり、人生を邪魔するものを
問題を引き起こす性格的な問題に取り組むために、

心理学や啓発セミナーにしたって、
スピリチュアルなことにせよ、
そうした場や方法を利用することを有益と思うか否か、

スピリチュアルなサービスに対して今お金を使うことが、
自分のこれからの人生にとって価値のあることと思うか否か、

自分でそれが信じられるかどうかだと思うのです。

もちろん、胡散臭い詐欺まがいなものもありますから、
情報収集も下調べも大切だと思います。
相手を信頼できるか、相性も図るべきですし。
誰かにとって、名医だったり、
素晴らしい人だと知り合いが推薦してくれたとしても、
自分にとってどうか、で判断するべきですから。


提供するサービス側の技量というよりは、
やはりクライアントさんのスタンスや心持ち、意志の在り方が、
そのセッションを成功させるか否か、
90割方決めているっていうのは、責任逃れと言われても、
実際のところ、そうなのは否めなかったりします。

自分で何かを見つけよう、相手から答えをもらおう、

そういう気づこうとする・・・
何かヒントを見つけよう、もらって帰ろうっていう、
貪欲な積極性がないと、
たいていクライアントさんは消化不良で返ることになるから。
(言ってもらいたい言葉を相手から聞き出すというのでなく)

だから、払ったお金が無駄になるか、
後でその人の人生に豊かさとして戻ってくるか否か、
それもまた、受けたクライアントさんが決めることになりますね。


もちろん、どんなセラピーもセッションも、
ヒーリングも何もかも、万能なものはありません。

だからこそ、自分の人生に責任を持ち、
自分の人生に積極的に参加していく姿勢が大事なのです。

その態度が結果を作ることになり、
受けたセッションが実になるかどうかを決めるのです。

というわけで、
自分がスピリチュアルなワークやセッションに頼ろうと思った時、
それが依存なのか自分の弱さなのかどうか迷いを感じたなら、

自分は自分が抱えるこの問題(悩み)を解決することに対して、
積極的に参加したいと思っているのか、
誰かに丸投げして救って欲しいと思っているだけなのか、

どうかそのあたりを考えてみて下さい。

自分が自立して、心身ともに健康になるために、
建設的な人生を生き、自分の人生や力を取り戻すために、
その方法の助けを得ようと思っているのであれば、

それは依存ではないでしょう。

病気になった人、怪我をした人が、
健康で自立した生活を営むために、
医療やヘルスケアのサービスやサポートを受けるのと、
何ら変わりがないのですから。

でもそうではなく、
その方法、サービスを提供してくれる人が、
自分の人生を良いものに換えてくれる、
そこに行けば、何かいいことがある、
お金を払ってサービスを受ければ、
自分の問題の大半が解決するに違いない

そんな風に思って受けようというのなら、
それは依存であり、中毒のようなものですから、
不健康な関わり合い方になり、
百害あって一利なしな結果になりやすいので、

そのサービスは受けるべきではありません。


自立して生きていく力を得るために、
自分で自分の問題を解決できるようになるために、
自分の問題を一人で解決できる自分になっていくために、
そのために意識を持って、利用するかどうかの違いです。




























2017/01/24

【イベント告知】初心者からのプチ・スピリチュアリズム入門①

そしてまたイベントのお知らせです。
2/3のイベントもまだまだ参加者募集中です。


2017年2月25日 13:30 - 17:00
場所:当サロン(新宿区山吹町/有楽町線江戸川橋駅下車徒歩3分)
場所は参加申し込み後にお知らせします
参加費:5000円 茶&茶菓子付
最小開催人数:2名より 定員6名


オーラやチャクラ、エーテルバイタリティ(氣)やエネルギーボディ(エーテル体)とその健康やエネルギーヒーリングのこと。また、人の健康を損ない、運命をも形作っていく「エレメンタル(想念体)」の話と引き寄せの法則の本当の仕組みについて。
本格的にみっちりお勉強する半年間の講座ではなく、まずはさわり程度の入門編からといった、受けやすいショートスタイルでのちょっと軽めのプチ講座。とりあえずやってトライ(その先は判りませんがっっ)

第一回目は基本中の基本、私たちの物理的な身体以外の、目には見えない身体やその身体が必要としているエネルギーについて。心や思考の身体によって創られる想念体についてなど。その他、オーラやチャクラがどのようなもので、どのような役割をしているのか、など。その健康を維持するために、どのようなことに注意を払えばいいのか、などなど・・・です。あとはエネルギーヒーリングとは何なのか、ヒーリングとは何をすることでそれによって何が変化するのか等も。時間があれば質疑応答の時間なども儲けたいとは思っています。

オーラやチャクラって何? エネルギーって? という用語自体がよく分からないレベルの人から、興味はあるし知りたくはあるけど、いきなり本格的に勉強を始めるほどの気合はなく、お試し程度にお話しを聞いてみたいという方から、ヒーリングやボディワークをしてるけど知識のほうはさっぱりという人まで。


申し込み、問い合わせはフェイスブック、あるいはホームページのメールフォームにて。

締め切りは2/15 
※最小開催人数に満たない場合は中止または延期になる場合があります。また平日や夜間開催を希望される方はお気軽に問い合わせ下さい。

戦士の休息

「三時方向に敵の狙撃手発見。伏せろ!伏せろ!」

銃弾が壁を貫く。誰かが叫ぶ。
別の誰かは神に懇願している。殺してくれと。

クィンは戸口へ這い寄った。
銃を構えて狙いを定めようとしたその時、世界が炸裂した。
どういうわけか自分はイラクに舞い戻り、
仲間の頭が吹き飛ぶのをまた見ている。

と思った瞬間、
クィン・ウォーカーはベッドの上に跳ね起きた。
心臓が高鳴り、全身汗びっしょりだった。
上掛けを剥いでふらふらと窓辺まで歩き、
山に広がる草地を眺めた。
夜明けまで一時間足らず。
すでに空の色は、新しい一日の始まりを告げている。

なぜ、繰り返しあの夢を見る? なぜ、忘れられない?
クィンは窓に頭をあずけて目を閉じ、念じた。
悪夢よ、二度とよみがえるな。
しかしの恐怖が消え去る日が本に来るのだろうか。
ケンタッキーの自宅へ戻ったという現実を受け入れられる日が。

心的外傷後ストレス障害(PTSD)というやつは、
起きて欲しくないときに限って起きる、厄介なしろものだ。
同じ戦地土産でも、寄生虫のスナノミなら、
ティートリーオイルを垂らせば済むが、
PTSDには特効薬もワクチンもない。
魔法の杖をひと振りして終わり、というわけにはいかないのだ。

夜の眠りのさなかに、
あるいは思いを寄らない真っ昼間に、そいつはやってくる。
きっかけは些細なひと言、ちょっとした物音、
場合によってはかすかな匂いだったりもする。

                   シャロン・サラ「マイ・スィート・ガール」より引用


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これまでの過去記事の中でも何度か、
「死」にまつわる経緯すなわち「死」という行為たる出来事、
が強いトラウマになるということに触れてきた。

自分が死に至った事由、死に至らしめられた状況、
自分を殺した道具、死の原因になったもの、
自分を殺した相手、死んだ場所etc・・・

例えば、カミソリで首を切られた人はカミソリが苦手となり、
とある食べ物が原因で死ぬことになった人は、
その食べ物が嫌いになったり、アレルギーを引き起こしたり、
高いところから落ちて亡くなった人は高所恐怖症に、
水死で水を大量に飲んでしまった無意識の記憶のある人は、
水をごくごくと飲めず舐めるようにしか水分を取れず、
崩落事故や地震で建物や穴倉に生き埋めになっての死は、
閉所恐怖症や暗闇恐怖症を発症していたり・・・など。

人が死する状況は様々であり、
病死や事故死、殺人、餓死、自然災害に巻き込まれての死、
老衰といったもっとも少ない自然死もあれど、
戦争による戦場での死というのは、どんな状況にせよ、
強く、深い影を後の人生にも落とすことになるようだ。


戦地から戻った帰還兵の心の問題は、
今でこそ、ケアサポートプログラムがしっかりとあるようだが、
湾岸戦争以前はあまり真剣に取り組まれてなかったように思う。

というか、おそらく昔からあったのだと思うが・・・

ベトナム戦争を機に大きく注目されるようになったというか、
アメリカ人のベトナム後遺症ともいうべき、
帰還兵とそしてその周囲の人々が抱え込むことになった
数々の社会的問題、負の遺産のひとつとして、
PTSD(心的外傷後ストレス障害)が有名になったというのもある。

それは主に、ベトナム戦争を題材する映画、
帰還兵のPTSDを扱ったシリアスなハリウッド映画が、
大きなインパクトを人々の心に与えることになったからだと思う。

それまでの戦争映画というのは、
敵を敵として描き、いかに作戦を遂行するかの頭脳戦や、
戦場での駆け引きなどに焦点を置いてはいるものが多く、
人としての葛藤など人間ドラマを扱う部分はあったとしても、
人が人を殺すというジェノサイドを経験することによって負った、
帰還兵の心の傷に触れたものは皆無に近かった。

例えば、太平洋戦争、第二次世界大戦で言えば、
「史上最大の作戦」「遠すぎた橋」「大脱走」
「トラトラトラ」「バルジ大作戦」「戦場にかける橋」とか、
ちょっと娯楽的な感じで、戦勝国万歳って感じなものが多く。

まあ、「ジョニーは戦場へ行った」とか
「西部戦線異状なし」「戦争と人間」とか、
問題提起している傑作ももちろんたくさんあったけど。


「ディアハンター」「地獄の黙示録」
「プラトーン」「7月4日に生まれて」なんか、
この辺りの映画が問いかけてくることは大きかったよね。

そういう意味では映像の力、
一本の映画が与える力、影響力ってスゴイ。

たった二時間弱で、多くのことをたくさん考えさせてくれて、
たくさんの人の立場、人生を教えてくれる。
(写真もまたたった一枚で真実を伝えてくれたりする)

とはいうものの、
「精神医学の分野」「心の医学」が
発達したのが近年だっていうのも大きい。
この辺りが飛躍的に発展したのって、本当に最近で。
戦前なんてとんでも理論で妙ちきりんな治療をしてたり、
ありえない非人道的なマッドサイエンスティックな
ロボトミー手術なんてのもほんの少し前まであったし。

今でこそトラウマって、誰でも知ってる用語だけど、
PTSDも、全国区で周知になったのは、
日本でも地下鉄サリン事件以降ではなかろうか。

日本は太平洋戦争以降は戦争に参加してないから。
帰還兵のケアサポートとかの必要性はなく、
社会復帰できない彼らによって引き起こされる、
犯罪が社会問題になることもないからね。

(ただ、
湾岸戦争に派遣された自衛隊の人たちは、
あくまで後方支援的立場であり、ドンパチをしなかったとはいえ、
緊張感あふれる、いつ巻き込まれるか判らない状況下で、
様々な心理的圧迫から、精神的ストレスを引き起こし、
鬱、不眠ほか、ケアサポート要な人が多発したみたいだ。)


とはいうものの、太平洋戦争から帰還した日本兵が
肉体の障害や後遺症だけでなく、
様々な心理的問題、精神疾患を抱えることになって、
苦しんだってのはたくさん後に語られてもいるんだけど。
フラッシュバックで暴れたり、幻聴や不眠に悩まされたり、
家族に暴力をふるったり、あれやこれや・・・
※映画とかドラマとか小説とかコミックとかで描かれてる。

けど、当時はそれを問題視する世相はなく、
国も国民もそれどころではなかったというべきか。
そういう意味では、どんな時代にもどの国にも
どんな戦争においても、あった問題で、
遅まきにして今さらながらようやっとな感じなのかな。



でも、まあ・・・
生きて戻ってきて、治療を受けられる人は、
まだ救いの道が残されてると言えるのかも知れない。

自分の苦しみの理由、原因が分かるから。
何よりも当人自身が知っているし、
周囲にも説明できるし、理解もしてもらえる。

PTSDから解放されるか否か、完治するかどうかは別として。


だけれども、
戦地に行って、そのまま亡くなってしまった人は、
生まれ変わって、平和な国、平和な時代に生まれたものの、
平穏な日常の中、とくに何もない生活において、
自分が何故、そのような症状を抱えるのかが分からない。
心の中に広がる不安や得体の知れない恐怖感、
自分の中に巣食う闇の正体が・・・
自分を苦しめる見えない敵の存在が分からない。

現実には何もなく、
親も普通で、とくに問題のない家庭に育ち、
これといった心当たりもないのに、
フラッシュバックに悩まされたり、悪夢に魘される。

それ故に周囲にも、家族にも理解されず、
誰かに説明するにも、自分自身が一番理解できず、

自分は狂っているのでは? 病んでいるのでは?と悩み、
原因の分からない、根拠のない行動規範や無意識の癖、
それらは関わる人を悩まさせ、
周囲との間に軋轢や壁を生じさせもする。

深い、深い、孤独の中、
奈落の底に沈むような閉塞感をもたらして。

その人自身が、他人とは違った自分の異常に気付き、
問題に取り組めば、まだ光明が見つかる可能性もある。

が、自分の内に閉じこもり、
理解されようとも思わず、問題意識も持たない場合、
その傷や問題を手放すに相当な時間と年月が必要になるだろう。

実際、当人も気づかない「心の傷」を抱えている人はたくさんいる。

無意識の思い癖や考え方の癖に人生を支配され、
深層心理の中に植え付けられ、刷り込まれた「恐怖」がある故に、
心をこじらせ、不要なものを引き寄せ、人生で多くの寄り道をし、
望む人生を生きれずに、本来の自分を生きれずにいる人が・・・

そういう人たちは、
ほんの少し立ち止まって、自分について考え、
自分の人生を邪魔しているものが何であるのか、
それが自分の中にあるものだと、
自分の中に要らない考えや想いがあることに気づいて、
それらと決別する、ほんの少しの勇気を持って、
自分を、人生を変えてみようと決心するべきなんだろう。

過去生の記憶を紐解いてみるのも一つの方法だが、
別にそれをしなくても、他の方法でも何でもいいのだ。

今の人生を生きるのに余計なものがあるかどうか、
それらを見つけて、手放す努力をすれば、
それがきっかけで、きっと何かが動き始めるだろうから。



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友人との会話で、
ご主人に奇妙なクセがあることを聞かされた。

「とにかく神経質で、
物の配置がいつも同じところにないと怒るの。
そして物音にものすごく敏感で、
真夜中に何か音がした時とか、わざわざ起きて確かめて、
異常がないと確認出来るまで、絶対に寝ないのね。
家鳴りとか、家の外で木の葉が落ちる音でもダメなの」

少し他にも気になることがあったので、
彼・・・友人の旦那さんの過去生を見てみようと集中してみると、


ジャングル、密林のように木々が生い茂った場所で、
迷彩服を着て、張り詰めた緊張感でひきつったような、
恐怖に怯えた顔をしている旦那さんの姿が見えた。

『これってベトナムだ。
そして旦那さんはアメリカ兵だったんだ』

過去に何本かの映画を見ていたので、
軍服や状況ですぐにそう理解というか推察できた。


私が見たのは、
銃を構えながら、密林?の中を恐る恐る移動している場面。
何人かの仲間といたのだけど、
音や声がするたび、振り向くと、一人ずつ減っていく・・・
その度に緊張の糸が張り詰めて、
気も狂わんばかりの恐怖に襲われ、
もう発狂しそうな、血管が今にも破れそうってくらいに、
心臓の音がバクンバクンしていて、冷や汗がだらだらと。

ものすごい緊張感。

やがて後から首に手をかけられ、
もう一方の手で喉をかっ切られて絶命・・・したらしい・・・

というところまで。

おそらく、ベトコンのゲリラ作戦で命を落としたのかな。
年はわりかし若くて、学校出たてという感じ。
ティーンということはないと思うし20歳前半というところ。



その話をすると、

「・・・そういえば、
ある日突然、『サバイバル入門』という本を買ってきたわ。
そして、あっちこっち、ページおりまくってるの。
一番最初に折ってるところが、『いかにして生き残るか』
というページだった・・・しかもアメリカの本だわ」

とのこと。

「なんでこんな平和な国に、日本に生まれて暮らしてて、
サバイバルゲームが趣味なわけでもないのに、
突然こんな本買ってきて、何だ、どーしたんだ?って
不思議に思ってた。
災害に備えるための防災の本なら分かるけど、
北海道の山奥に住んでたって、こんなの、
必要になりそうもないのにって、ねぇ。

でも、ベトナム戦争で亡くなっていたのなら、
そんな経験をしていたのなら、判るかも」


ちなみに彼女は私より一回りは下で、旦那さんは年下。
生まれ年を考えるに、矛盾はないわけ。
で、友人は戦争映画嫌いだから、
「プラトーン」とか「ディアハンター」とかは観てなかったり。

映画見ると、彼の抱える闇が分かると思う、けれども・・
人によっては軽くトラウマ映画にはなるから、
旦那さんの抱える問題を理解するためとは言え、
ベトナム戦争映画を見て、というのはやっぱり酷かなあ。


それに、兵士だったのは、前世(直前の人生)だけでなく、
別の人生でも、いくつか戦争に参加していたりして。
(女性だったときもあるけど、男性だった時のほうが多いみたい)

そういう戦場における精神的ダメージによって創られた
後世の人生でも引きずる習慣的行動や考え方。
この想念体のことを勝手に、
ロンリーソルジャーエレメンタルって呼ぶことにしちゃったけど。

(どうでもいい話だけど、勝手に名付けたエレメンタルの中には
かぐや姫エレメンタルとかマリー・アントワネットエレメンタルとか
あったりする。そのエレメンタルの特徴に合わせてww

※かぐや姫エレメンタルとは、男性に対して素直じゃなくて、
あれやこれや無理難題や注文をつけたり、ダメ出しをする
タカピー女だった時のパーソナリティのクセ
※マリーアントワネットエレメンタルとは、「パンがなければ
お菓子を食べればいいのに」というような、勘違い世間知らず
で上から目線的KYなやっぱり高慢ちきだった人生の
パーソナリティの考え方や思い癖

そんな風に、こんな傾向のエレメンタルあるなって、
分類して用語付けてしまってたりするのデス)


ロンリーソルジャーエレメンタルっていうと、とても軽いけど、
結構というか、かなり深刻なエレメンタルだなって思いました。


今はそれはしないけど、実家のお母さんが言うには、
水道水でさえ、煮沸しないと飲まなかった・・・そうなんで。
(東京都の水道水、世界一優秀なんだけどなぁ)

あと他人の作った食べものを信用してないとか、
それ以外にも共同生活を送る上で、
弊害になっていること、習慣とか規律とか、
色々とあるわけです。ここでは触れませんけども。

でもね、彼が前の人生で
ベトナム戦争に従軍して死ぬことになったというのも、
それはそれで意味があるというか、
それ以前の人生のことがあり、
そうした体験をする、その人生を生きる必要あってのことです。
だから、まあこの前世のことを、
短絡的に「可哀想」「お気の毒」と同情だけで
片づけることはできないのですけども。
必然的に、それまでのあれやこれやの経緯で、
このような「死」に導かれているので、はい。

でも、まあ・・・

困ったなあ、厄介だなあ、ロンリーソルジャーエレメンタルって。


そうですね。
この場合、当人が自分のことで悩んで、ではないので。
周囲が理解するしかないのですわ。
本人が自分のそうしたところを問題と思って、
解決したいと望み、相談してきてるわけでもないし、
知りたいと思っているわけではないことを、

「あなた、ソレ、
ロンリーソルジャーエレメンタルが原因ですよ」

「あなたのそのクセ、
前世でベトナム戦争で亡くなったときの後遺症、
PTSDが起因しているのですよ」

とはお節介にいうわけにはいきませんから。


この場合、妻である友人やその友人である私が出来ること、
彼に対して、何をしてあげられるかって言ったら、
彼のそうした意味不明で不可解な行動は、
そのような過去生の出来事があったからなのだと・・・
理解するように努めること。
そして、その傷が早く癒えるように祈ること。
ヒーリングもそのひとつの方法にはなりますが。




そんなこんなで、知らず知らずのうちに、
過去の戦争のロンリーソルジャーエレメンタルの影いやさ
過去生で体験した戦争のPTSDを引きずっている人、
意外と多いかも知れませんね。

未だ癒えず、解放されず・・・

もちろんPTSDは戦場における死に限ったことでなく、
あらゆる死によって、たくさんの人が抱える傷でもあります。

願わくば、現在の人生で、
後生の平和な人生と平穏な日常の中で、
少しずつ癒されて、
すべての人が解放されて、心の自由を取り戻せますように。


せっかく平和な時代の平和な国に生まれて、
安穏に暮らせる人生を今回選択して生まれてきたのだから、
背後から忍び寄る敵の影に怯えず、
ボッーとしてのんびりできる日常を、
もっと楽しんでほしいものです。


今の人生では、「戦場」を離れた多くの戦士たちが、
兵士だった時の人生から離れ、その記憶を埋没させ、
ただ、一人の人として癒され、魂の休息において、
愛のある日々を送り、少しでも人間性を取り戻せますように。



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霧がかかったような視界の中に、マライアがいた。
不自由な方の足を投げ出して、
もう片方を窮屈そうな形に折り曲げて、
デッキにぺたりと座り込んでいる。
誰かが肩にかけようとしてくれたらしいキルトは、
腰の周りに落ちてしまっている。
マライアはしきりに体を揺すっている。
前へ後ろへ規則的なリズムで。
無表情だからといってだまされてはいけない。
頭の中では嵐が吹き荒れいるのだ。

「マライア?」
彼女は固くこぶしを握り締めている。
戦闘に赴くときと同じだ。
顔に表情がないが、目には光が宿っている。
目の前のものではない何かを見ている。
マライアがどこに居るのか、クィンには判っていた。
わからないのは、そこからどうやって連れ戻すかだ。
「マライア、ぼくだ、ハニー。ぼくの声が聞こえる?
君が何処にいても、ぼくはきみと一緒だ。
覚えているだろう? ぼくたちはいつもふたり一組だった」
そこでクィンは声を高くした。
「マライア、ぼくを見るんだ」

身体を揺するばかりで、マライアは反応しない。
クィンはさらに大きな声で言った。
「撤退だ、コンラッド! 敵は全滅したぞ」
マライアが目を瞬いた。

クィンは彼女の両手を取った。
「一緒に戻るぞ。コンラッド。
聞こえるか? 戦いは終わったんだ」
マライアは手を振りほどこうしたが、
クィンはそうはさせなかった。
すると彼女はうなり声をあげた。

ドリーは見ていられなくなり、
すすり泣きをもらしながらその場を離れた。
ベスも涙を流し、ライアルの胸に顔をうずめた。
自分がここへ来たばかりに
こんなことになってしまったのだと思うと、たまらなかった。

クィンはマライアとの距離をつめて声を張り上げた。
「もう終わったんだ。基地へ帰るぞ。立つんだ、さあ!」
ぱちぱちとまばたきをして、マライアが突然大きくあえいだ。
まるで今までずっと息を止めていたかのようだった。
体の揺れも止まった。
クィンは前かがみになっていた背を起こした。
もう大丈夫だ。彼女は戻ってくる。

              冒頭紹介の本より

2017/01/18

裏切りの報酬

"Thirty pieces of silver"

これは慣用句で、
イエス・キリスト(Joshua Immanuel)の弟子であった
イスカリオテのユダ(Judas Iscariot)が
銀30枚で自分の主であるキリストを、
彼の敵である祭司長達に売り飛ばしたことに 由来する

Judas's payment 

すなわち主人を裏切って得た報酬が銀30枚


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


子供の頃から宗教嫌いで、とくに中でも
キリスト教が一番大嫌いだった私が、
ジョシュアが残した「真理の道」を教えていたりする。
これには誰でもない私自身が、
ちゃんちゃらおかしいことだとホント苦笑せざるを得ない。

昔の自分だったら、ありえないことで、
頭かどうかしたんじゃないか?と
幼少期の自分に、問い詰められそうな気がする(笑)


いわゆる無神論者で仏壇すらも置こうとしない、
両親の元に生まれたので、
宗教に対してはフラットでいられたものの、
神に対する反発心は旺盛で(神社だけは好きだった)、
キリスト教に対する感情は憤怒にも等しく、
中学の入学式の時、赤十字に加盟する宣誓の言葉さえ、
「絶対いうもんか!」と歯を食いしばり、
適当にスルーすればいいのに、
とてつもない抵抗心で意固地になっていたのを覚えている。

マルキ・ド・サドの小説の世界観、
例えば「悪徳の栄え」や「美徳の不幸」に魅了されるのも、
別に隠微で退廃的な性的倒錯の世界が好きなのではなく、
インモラルで冒涜的な物語の中に秘められ、隠された、
当時の階級的社会の中で絶対的権力を持つ者たちへの、
彼らを貶めるべくな風刺と揶揄に同調、共感するからであって、
道徳と慈愛を説くキリスト教こそが、
腐敗と堕落と邪悪を世にはびこらせる諸悪の根源であると・・・
その元凶であることが作中で見事に
描写されているからにしか過ぎない。


そんなキリスト教に対する嫌悪感は、
過去の人生において、異端尋問とか魔女狩りだとか、
そうしたキリスト教の絶対的恐怖支配で負った、
体験からのトラウマ、その負の遺産というか、
記憶の名残程度に思っていた。


さて、私が金銭的なトラウマ。
お金に対する嫌悪感、
「儲ける」ことに対する強い拒絶反応を持っていることは、
こちらのブログの過去記事でも度々触れてきた通り。

そしてその自ら抱える問題に対して、
あれやこれやと原因を探ったり、アプローチなどもして、
問題の根を引っこ抜こうと取り組んでもきた。

でも、なかなか頑固で本質に辿りつけず。

昨年のちょうど誕生日頃、
ふとしたことがきっかけで、自分にとっての空白の期間、
を思い出すことになったのだけども、
それでスッキリ疑問が解決したかというと、一歩前進程度で。
ただ、それもまた自分が抱える問題の表れでしかなく、
逆にもうお金にまつわる問題に対して、
あれこれ取り組むことがどうでもよくなっていた。

ちなみに今回思い出したのは、
1800年代の後半から1900年代の前半の人生。
今の人生の前に数年しか生きられなかった、
短い人生を二つばかり、そして1800年代半ばに
カナダで普通の主婦として生きた人生があり、
(自宅に子供を二人遺したまま30代半ばで凍死)
その間が空白でどうしても思い出せなかったというもの。

今回のテーマの中では蛇足になるが、
なかなか解けない「お金に対するブロック」とは何ぞや?
と・・・延々と考えていて、
その日ふと入った店で聞いた音楽がきっかけになった。

その音楽とはチャールストン。
もともと好きでこの手の曲が流れていると、
身体がリズムを取るというか踊りだしたくなる傾向があったのだが、
(バブル世代でディスコにも行った口だけど踊りは超下手)
その時はスルーしていたのに、自宅に帰ってから、

「あ・・・私、踊れる」

さっき聞いた音楽を想い出し、何故かふとそんな気がして、

「確かこんなステップだった」

と・・・気が付けば踊りだしていたりして。

ちなみに音楽やダンスは聞くのも見るのも大好きだが、
救いようのない運動音痴で、自分では踊っているつもりでも、
ひきつけを起こしたタコ踊りみたいになってしまうので、
まさかステップを刻めるなんて思わなかった。

なので、

「なんで私こんなの知ってるんだろう?」

と我ながら愕然とした。

ピンクレディーだって踊れなかったのに!
学生時代の流行りは竹の子族みたいなのだったし、
ディスコブームの頃はトラボルタみたいなのや
アフロな人が踊っている「ソウルトレイン」とかだったし、
その後だって、「アラベスク」とか「ドナ・サマー」だし、
バブルの頃は扇子もってお立ち台とかあんなノリ。
「アメリカングラフティー」みたいなオールディーズのダンスを
友達とふざけて真似っこしたことはあるけど。
(男性のリフトが出来なくて二人してズッコケた)


めちゃくちゃ不思議な感覚だった。

したらば、ほんの数日でデジャブなことが次から次へと。

奇しくもこの人生の記憶が蘇り始めたのは、
あの世界恐慌があったと同じ10月29日。
あの暗黒の木曜日の頃・・・

一体当時何があったんだろう?

そう思って瞑想をすると、
忘れていた高校時代の同級生の顔が次々と。
親しかった友達もだけど、対して親しくなかった人も。
何故か彼らの恰好は顔はそのままで、
服装だけがレトロなジャズエイジファッション。

ああ、そうか・・・
彼らとは同じフラッパー仲間だったんだな、と。

そういえば私は、
「華麗なるギャッツビー」が好きだった。
(ただし、レッドフォードのほうね)
フィッツジェラルドの自伝を読んだこともある。
「風と共に去りぬ」の作者、マーガレット・ミッチェルの
自伝を元にしたテレビドラマも見ているが、
あの時代の空気感は何となく嫌いではなかった。

そして、思い出したのだが、
小学生の時、同級生に出した年賀状に、
私は摩天楼のイラストを描いていた。

特にニューヨークに憧れていたわけではない。
好きな国、惹かれる国はイギリスで、
アメリカという国はどちらかというと嫌いな国だったりするし。
ミュージカルが好きだから、
ブロードウェイに行ってみたいと思ったことがあるくらいで。

ニューヨーク、マンハッタン、摩天楼、
エンパイアステートビル、禁酒法、
ジャズエイジ、フラッパー文化、ウォール街、世界恐慌、
紙くずになっていくお金、たくさんの投資家の自殺

色んなことが芋づる式というか数珠繋ぎになって、
なんかあーって感じだった。

奇しくも私の母校は経済大学附属高校で。
後に証券会社とか銀行に勤務した同級生も多い。
そして、バブルを経験している世代だ。

すべての人が、ということではないが、
あの第一次世界大戦後のバブルを経験したのち、
世界大恐慌を経験した当時アメリカ人だった一部の人々が、
日本のバブル時期に転生していて、
カルマのレッスンを学ぶことになった、
ということに合点がいった。

皆1960年代に転生しているということは、
男性に関しては、第二次世界大戦に従軍して、
それで亡くなって、日本人コース・・・かなあ?
女性に関してはさほど長生きしなかった人たちが転生組かと。


そういえば、あの世界恐慌があったから、
第一次大戦にて敗戦国だったドイツが復興し、
ナチスが台頭することになって、
第二次世界のきっかけを産んだんだよな・・・と。
改めて「映像の世紀」をyoutubeで見返して、ため息。

そういえば、仕事で「お金」「投資」の質問をされて
パニックになったクライアントさんの前世は、
そのウォール街の暴落で自殺した投資家さんだったなあ。

符号は知らず知らず、そんなとこに出ていたんだ。


高層ビル街(都内だけど)に月がかかってる夜景。
「うわ、これと似たような情景を見てたわ」と愕然とした。

そう、それはニューヨークはマンハッタンの摩天楼。
ちょうど高層ビルが建ち始めたあの頃、
あの街の風景を、ビルにかかる月を私は見てたんだ。

ちょうどトランプがまさかのアメリカ大統領になってしまって、
マジかよ、アメリカ! って思ってた時だった。
自分がほんの100年も経たない前、
そのまさかのアメリカ人だったとは想定外で。

とはいうものの、この人生で起きたことは、
ちょっと言いたくないので割愛します(笑)
ちなみに自分は女性でしたが。
まあ、たぶんドイツで札束が紙くずになったとき、
アメリカに渡ってきた成り上がりユダヤ人金融家が両親。
そこまでかな、今のトコこの人生について書けるのは。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


さて、本題。

グループレッスンで、生徒さんたちのほうにも、
お金にまつわるエトセトラ・・・というか、
与えたり与えられること、受け取ることを拒否している問題、
自分の才能やスキル、技能的価値を、
金銭に換えることに対して抵抗を感じている部分への
ヒーリングワークに取り組んでもらっているんだけど、
先日のレッスンではお休みの人がいた関係で、
奇数になることから、私も参加したわけです。
(この辺りのワークは一段落したらまとめてもらって、
もしかしたらこちらにも掲載するかもしれません)

最初、結構古い時代のドイツ人のおっさんだった時、
(これは他の人に指摘されたこともあるし既に思い出し済)
のを読んでくれて、

まあ、この時は傭兵つーか、時に雇われの兵士で、
その他肉体労働なんでも請負屋・・・みたいな、
男性だったこともあって、むさくて図体どでかく、
粗野で気性も荒い、腕っぷしの強いおっさんだったわけ。

当人的にはリーダーシップがあって面倒見がいいって、
思い込んでるけど、ぶっちゃけジャイアンなワンマン野郎。
勘違い野郎だから人望なんてないわけです。
この時のお金や仕事に対する考え方、
他人に対する態度が問題ありあり、だったわけですが・・・

いきなり、第一声が
「そんなはした金じゃオレは動かねぇぜ!」だったし。

(つまりは、
今生私を苦しめた毒父とかジャイ子姉みたいな性格。
自分が出来ることは他人も出来ると思い込んでるとことか。
ヤツラを引き寄せたのは昔の自分みたいだったからっっ
なんという自爆!
そして仕事に対する姿勢が祖父と同じなんだよなあ・・・
あと今の人生でもコイツみたいな体育会系なとこあるし、
スパルタだし、ワンマンなとこ、あるし、
リーダー的立場になってしまうと出てしまうらしく、
そのせいで嫌われたり、反感を買う立場になること多々。
このクマ親父エレメンタル、弊害以外の何者でもないですわ)

でも、このクマ親父。
こいつだけ何とかしても元を絶たないと、ダメですね。
と、相方になった生徒さんの言う。

で、これを何とかする以前に、いくつか色々あった人生を
早送りですっ飛ばし、そもそもの源、
お金のトラウマを抱え込むことになった、発端の人生に。


そこで出てきたのが、かのユダヤの地。
約2000年前、ジョシュア・エマニエルに出会った人生。

これはまあ、「知って」はいたけど、
誰にも言ったことはなかった。
猜疑心から、自分でも敢えて視ることを避けていた。

キリストと会ったことがあるよ、なんてのは
色々と叩かれたり、批判されるモトだから。
でも、まあ今はオバサンになって人生残り少ないから、
まぁ、いいかって思う。

けど、「会った」ことがあるってだけだ。
決して弟子であったわけではない。

私は当時まだ子供で、小学校の低学年位の女の子。
貧しい、何処にでもいる村の子供だった。

彼が「話」をしている時、好奇心で話を聞きに行ったり、
飽きたら石ころを蹴ったり、友達と遊びだす・・・
そんな子はたくさんいた。決して私だけだったわけでなく。

ジョシュアは人の良いおっさん、という感じだった。
父親くらいの年の人だもの。

たまにパンとか、デーツ(なつめやしを干したもの)を
くれたのは、マグダラのマリアさんだったように思う。
優しい綺麗な人だった。

子供達は、そういうのを目当てに、
たぶん集まってたんだろうと思う。
(食べ物くれるのはみんな良い人理論ww)

ヨハネは一番年が若く、一人だけ風貌が違ってた。
他の弟子たちはむさいおっさんばかりだったのに
ヨハネだけ、ギリシャっぽいっていうのかな、
色が白くて、かっこいいお兄ちゃんて感じだった。

そして彼らは子供たちが周囲で騒ぐのを良く思ってなくて、
いつも蹴散らされてたかな。

ジョシュアの母であるマリアさんもたぶんたまに
息子に逢いに来てたんだと思うけど、
ふつーのオバサンだった。特別綺麗な人ではなく。

そうだねぇ・・・
頭を撫でてもらったことくらいはあったかも知れない。
その程度。特別可愛がってもらったとか、はない。
でも、いつもにこにこと面白いこと言ってるなって人だった。

ちなみにダスカレ、もいた。
けど、彼は私よりほんの少し年上だし、
一緒に遊ぶグループではなかった。
村が違うっていうのかな・・・接点がさほどなくて、
顔を見知ってるって程度だったと思う。

たぶんそんな風に、あの人の周囲にはたくさんの人がいて、
そしていつも同じところにずっと居たというわけではないから、
たくさんの人たちがこの時、彼に会っていて、
転生した人生でも影響を引きずることになったのだろう。


でもって、その前、遥か昔、エジプトにて、
アテン神の信仰がアメン神の信仰に、
とって代わられようとしていた時、アテン神殿にて、
神官見習いのようなことをしていたわけなんだけども、
その時の先輩にダスカレ(プラトン、ダビィンチ、バッハ、
トルストイ、そしてダスカレとして生きたその人)がいた。
だけど、当時は向こうは上司というか、
立場が違い過ぎたので、話したことも関わりもないわけ。

その時に「真理の教え」というのを秘教として学んだから、
それを正すために降りてきた、ジョシュアが人として
顕現したときに、接触する人生を生きることになったのだろう。

残念ながら、その時の私は子供だったこともあり、
ハナシなんて聞ーちゃいない、
それよか配られるパンが目当てって、そんな体たらくだったけど。

ここまではね、自発的に何となく思い出してはいたんだ。
でも、この人生が、「お金」を嫌悪するようになった、
元の元、源たるルーツ、原因のあった人生とは思わなんだ。
全然結びつけてはいなかったんだよねぇ。

私にとって、ジョシュアは人のよいおっちゃん、だった。
子供たちに優しく、太陽みたいに明るくて、面白い人。
それだけ。

その人がある日突然、売られてしまった。
銀貨30枚、30デナリという金額で。

しかも、彼を師匠と仰ぎ、慕っていた、
スポンサーのごとく世話焼きだった弟子によって。

まだ子供だったから、大人の世界の事情はよく分からない。
だけど、だからこそ、ショックだった。

人は簡単に、人を裏切るのだ、と・・・
お金のために、恩人も売るのだ。
尊敬していると、
この人のためなら何でもすると言っていた口で、
犯罪者と引っ立てられたその瞬間に、
その人を否定し、見捨てるのだ。

弟子たちは蜘蛛の子を散らしたかのように去って行った。

街を引きづり回され、処刑された地に、
遺体を引き取りに来たものは、女性たちだけだった。

この出来事はものすごくショックで、
私に「お金」に対するマイナスイメージ、
否定的な印象、お金は汚い、という強い想いを
インプットした。

まさに「お金」は「裏切り」の象徴だった。

あの人の好いおっちゃんは
「僅か30デナリのために売られたんだ」

この出来事が始まりだった。


師匠のハナシを邪魔するなと、
子供である私たちを蹴散らし、
熱心に話に耳を傾けてた弟子たちは、
いざという時に彼を見捨て、
あっという間に彼との関係を否定して逃げた。

そんな奴らが、
彼の教えを理解しているなんて思わなかった。
だから、彼らの言葉として書かれている
「聖書」なんて信じられるわけはない。
彼らが創り上げたキリスト教なんて、大っ嫌いだった。

真っ先に逃げたクセに。彼を見殺しにしたクセに。
あの人の教えなんて、まったく実践してなかったクセに。


・・・

そんなこんなでユダのことも憎んだ。
ユダみたいな恩を仇で返す人、
逃げた弟子みたいな人、
キリストの弟子たちが大っ嫌いだったから。

みんな汚いっっ!!
大人なんて嫌い!
お金に汚い人なんて、だいっ嫌いっ!

子供であるがゆえに、
まだ純粋さの残る年頃であったが故に、
そう強く思ってしまったみたい。

ここまで解説されて、

「あ゛あ゛ー」って心当たりありすぎで、脱力感。


そういえば、そういう
部下に裏切られたり、弟子に裏切られるパターン。
その後の人生でも作ってたなー
お金のために売られるつーか、そういうの。
魔女狩りの時もそーだったし・・・遠い瞳。

して、今の人生でも、ちょうど8歳のとき、
父方の祖父が亡くなり、
遺産相続問題で親戚とあれやこれやあって、
「大人は醜い、お金にみんな汚い」って、ハイ。
その年の夏に近所の犬に噛まれて大怪我した時も、
治療費とか慰謝料のことで親があーだこーだやってて、
そん時も「お金の問題じゃないのに!」って激怒したし、
犬に噛まれた時も白昼商店街で人がたくさんいたのに、
誰も助けてくれなくて、ショックで口がきけなくなったり、
まあ、いろいろあったなー ちょうど同じ年の頃だー

2000年前に出来た、深く感情に落とし込まれた
お金に対する嫌悪感が核となって、
それが雪だるま式にどんどん膨らんでこじれて、かー

そして、あの人と同じ立場に立たされるようなパターン、
ユダ的、ダイバダッダのような人と関わる因縁パターン、
引き寄せの法則作ってたってかー

目一杯脱力感です。

ダメだ、こりゃ・・・早く何とかしないと。

って言っても、年季がね、入りすぎです。


はい。とりあえず 何とかします。


そうね。当時は子供だったから、
どうして裕福でお金に困ってなかったユダが、
彼を売ることになったのかなんて、理解できなかったもの。

今はそうねぇ・・・わかる、かな。
ていうか、判らないといけないのでしょうね。
私もそこは学習しないといけない。

そして、ヒゲのおっつぁんは、そういうこともすべて見越して、
これから起こることもすべて納得というか計算した上での、
あの人生を生きたのであろうから・・・

そこもね、ちゃんと納得しないとね。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


ちなみに、私自身は歴史的に名を残すような
有名人だったことは一度もなくてー
だけど、そういう人と、ちょこっと掠る人生というのかな・・・
後に名を残すことになった人と会えたりは、お陰様で。

ジョシュア以外には、日本の飛鳥奈良時代ですけど、
行基さんとかにも会ったことはある(奈良の大仏建てた人)。
これも農民の子供で、怪我で右目が見えなくなったとき、
たまたま村に潅水工事のため来てたんだけど、
(行基さんは先頭になって働くような人だった)
「可哀想に」って、頭を撫でてくれて、
残った左目まで失うことはないようにって、
何かぶつぶつ唱えてくれたりなんかした。

本当にそれだけ。弟子とかになったりはない。

ちょっと会えましたー お姿見かけしましたー

その程度だね。


今の人生でも、
手塚治虫先生を間近で見たことあるとか(見ただけ)、
長嶋さんに無理くり話しかけたことがある・・・とか、
(アンチ巨人だが長嶋さんは野球ファンにとって別格)
そういうことってあるけど、マジその程度。

身内とか友達とか知り合いとかの類でないのがミソ。

つまりは通りすがりってヤツですねー 残念。


でも、同じ時代に生きて、会えたってだけでも、
そんなすごい人に会えてたってだけでも、
それだけでも、十分満足っていうか、嬉しいよね。
誇りに思うべきことなのかも知れない。








2017/01/14

いつわりの記憶

アメリカ人は、
アメリカン・ドリームと言われるサクセス・ストーリーが大好きだ。

分かり易いもので例えると、
当時無名だったスタローンをスターダムに押し上げた
映画「ロッキー」なんかが典型的と言えるかな。

階級制度があって、ブルーカラーだのホワイトカラーだの、
生まれた時から出自に支配され、差別されるイギリス、
そしてその支配下にあったアイルランドとか、
そうした国から脱出してきた移民たちが築きあげ、
革命を成し遂げたフランスが後押しをして独立した国・・・
希望と自由を象徴とするアメリカという国だからこそ、
そういう成り上がりストーリーが好まれるのかも知れない。

生まれに関係なく、人は成りたいものになれ、
夢を叶えることができるのだと信じさせてくれるそんな物語。
(とはいうものの、ロッキーもスタローンもイタリア移民の末裔か)

そして同時に不死身のスーパーヒーローもアメリカ人のお好み。
天災や事故現場などで、人が人を助け、
動物たちを救出するリアルタイムかつ危機一髪の救出劇とか、
これまたアメリカでは高く評価され、軒並み視聴率の高い番組。
(犯罪も秒刻みで簡単に奪われる命もそーとー多いわけだが)


これがフランスとかイギリスとかだと、
貧しい身寄りのない孤児だと皆に蔑まれ、
不遇な人生を生きていた正直で心正しきものが、
実は高貴な血筋の落とし胤、あるいは正当な跡取りだった・・・
なんてのが好まれたりするし、王道なストーリーだったりする。
(恋愛ものは恋愛もので王道がまたあったりするけども)


日本はってーと、やはり農耕文化というか、
士農工商(実際は士商工農エタヒニン)という身分制度があり、
人口の大多数を占めていた農民&一般庶民が、
権力側に、虐げられ、抑制されていた怒りと恨みの記憶から、

「石川五右衛門」「鼠小僧」みたいな、
金持ちから悪銭を奪って奴らに泡を吹かせ、なおかつ
その奪った金を庶民にばらまいてくれる義賊なんかが人気で、

あとは、やっぱり・・・
昭和の時代劇「水戸黄門」「遠山の金さん」みたいな・・・
弱きものたち、庶民や百姓をいじめて私腹を肥やす悪代官らを、
さらに大きな権力ふりかざして、ひれ伏せさせて、
悪事暴露して、お仕置きして、スカッと懲らしめて退治する、
自分たちが出来ないことを代わりに仕返ししてくれる、
安定の定番物語・・・復讐的完全懲悪話が好きでんなー

「忠犬ハチ公」「忠臣蔵」みたいな忠義モノも、
働きバチ的お武家DNAの持ち主は大好物みたいですけど。


あとは浪花節が好きだよね、日本人は。
(浪花節は日本人にしかわからない話だとオモワレ)

「浪花節だよ、人生は」・・・は歌のタイトルだけど、
平成以降の生まれには分からないだろうな。

どんなのが浪花節かというと、
単純に言って不条理な世の中で貧乏人が苦労する話ってとこ。
お涙頂戴が満載の悔しくて悲しくて、辛い話etc。
「夫婦善哉」「喜びも悲しみも幾年月」「一杯のかけ蕎麦」
とか並べてみても古すぎてわからないか。

なので誰にでも分かり易いのだと、
とどのつまりが「フランダースの犬」みたいな物語。
外国が舞台の作品しかも児童文学っぽいアニメだけども。
主人公がお約束のビンボー。味方はか弱い娘一人だけ。
大人にも子供たちにもいじめられる惨めな境遇。
しかし清貧だが心はとても清く、才能豊か。
けどやっぱり報われず、死んでしまう。

日本人の農民&一般庶民DNAは、
こうした物語に自らの不遇な過去をなぞらせて、投影し、
どうやらカタルシスを感じるものらしい。

ちなみに「フランダースの犬」は
ベルギーはフランダース地方が舞台だったりするけれど、
書いたのはイギリス人の女性。んで、アニメと原作はかなり違う。

けれど、日本で制作されたこのアニメは、
実に日本人が陥落するツボをキャッチーに捉えていたんだな。

キリスト教国である西洋諸国やアメリカ人はこのアニメでは
泣ける人はほとんどいず、怒りを感じる人のほうが多いらしい。

日本人のポイントは、感情移入。
何処まで共感できるのか、
何処まで「自分」とだぶらせられるのか、なんだよね。

(イタリア人やギリシャ人も悲劇が好きだなって思いますけどね。
オペラとか、ほとんど登場人物全員死ぬし、救いがない話ばかり。
だからカンツォーネという演歌みたいな曲があるんかしら)


そういえば、派遣の仕事をしていた時、
某大手カラオケ配信会社に行く機会があったりしました。
カラオケビデオの映像と音、字幕(歌詞)のチェックでしたんで、
カラオケ好きな私としてはウハウハ。

だけどねー J-Popとか洋楽なら良かったんだけど、
(アニメでもよかったのにっっっ糞っ)
何の因果か、私が割り当てられたのは「演歌」

いやさ、美空ひばりとかサブちゃんとか
その方面の明るい歌なら嫌いじゃないですけど。
よりによって演歌・・・大っ嫌いですのに、演歌。

なんかねー 延々と一日中、画像と歌詞のチェック、
音声チェックさせられて結論付けたのは、

"演歌"が日本をダメにしている」に違いない・・・って。
(これは誰かの陰謀だくらいに思ったwwww)

ていうかー 歌詞がね、なんていうか。。。
暗いとかそういうのではなくて、、
ひたすら浪花節的な私苦労してます、あぁ辛いです、
そして私ってなんて不幸なの、ヨヨヨな自己憐憫
不倫万歳、耐えて忍んで、そんなアタクシ可哀想
黙って三歩下がって、苦労厭わずついて行きます
三つ指ついてあなたの帰りをご飯作って待ってるわ的な?

そんなイライラするエネmeで
ナルシズムやヒロイズムに酔いしれてる
ダメんずウォーカーなバカ女の自分語りな歌ばっか・・・

半分遊びチックな仕事だったけど、発狂しそうになったわ!
ただてさえ嫌いな演歌が、さらに大大大大大嫌いになった!

中島みゆきの怨念ソングも十分怨歌だけどさ。


こういうの聞いてるから、
幸せが縁遠くなるんだよっっ!!

刷り込みで自ら洗脳して、
自己暗示効果で、
さらに不幸を呼び寄せてんだよっっ!

ゼーハーゼーハーっっっ


(まあ、繰り返し歌うことで歌詞(言霊)にパワー込めて(魂込)、
「エレメンタル」をば、日々創っているわけです)




・・・ってな具合に、
アメリカ人はこうなりたいという
自分の将来、未来を描いて、夢見る力が強い。

けど、日本人はどちらかというと過ぎ去った過去の感情、
現在の自分の境遇と類似のものに共感を見出して、
そこに自分自身を投影して慰めを見出す傾向がある。
自分を酷い目にあわせた存在が
「ざまぁ」な結果になってスカッとするか、
お涙頂戴話の主人公に自己投影して、
「自分て可哀想」「けなげな私ってエライ」と
追体験して不幸に酔いしれるか・・・二分化しているけど。

もち、すべての人がそうだと決めつけられませんが。

国民性というか民族性というか、
地域の特徴なのかは判りませんが、
受けた教育や文化や宗教的背景によって、
集合体無意識が刺激される出来事、
心の琴線に触れる話には差異があるようです。


∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


さて、本題です。

以前「記憶は嘘をつく」という記事にも書いたと思うのですが、
人の記憶というのは必ずしも正確ではなく、
実際に起きた現実を伝えているものではなかったりします。


記憶というのはあくまで、その人の心象風景でしかなく、
その人がその出来事をどのように受け止めたのか、
どんな筋書きにまとめて、自分自身に納得させているのか、
・・・に過ぎなかったりします。

なので、客観的な議事録的な記録とは、
一致することはほぼなく、
その人自身が主人公となって、その目線で語られること、
当人の心に強い印象を残している風景と共に、
その出来事をどのように捉えているのか、なので、
同じ出来事の当事者だったとしても、
差異が生じることは否めません。

例えば、悲観的に捉える人と楽観的に捉える人では、
まったく違った意味合いの出来事になります。
同じ体験、境遇に置かれたとしても、
ある人には喜劇、ある人には悲劇、というように。

これはもうその人それぞれの価値観、
心の偏差値だったの耐久力だったり、
精神の成熟度、感じ方や考え方の違いだったりするので、
千差万別の物語が生まれることになります。
それでも共通して語られる出来事が、
歪みなき真実ということになるでしょうが。


過去生セラピーにおいて、
その人のエネルギーボディから情報をリーディングしたり、
ヒプノなどの半覚醒状態での誘導催眠、
あるいはチャクラワークなどで当人に読み取ってもらう時、

時おり、アカシックレコードとは一致しない、
その人自身の人生の情報(過去生含む)ではないもの、
を感得することがあります。

例えばそれがどういうものかというと、

①中間生において、他者の人生に関わったときに創られたもの

②過去生あるいは今生において、
 他人の人生に共感したり、感情移入して創られたもの

③過去生あるいは今生において、
 自分の人生で起きている現実が受け入れられず、
 空想すなわち想像を膨らませ事実を捻じ曲げて創ったもの


①の場合は、
一度人生を終えて、次の人生までに至るステップの途中・・・
つまりはひとつの人生を終えてから転生準備に入るまでの間、
時に地上(三次元)で生きている人の人生に関わることがあります。
それは生きている時の親族だったり、友人だったり、
お世話になった人や、自分が助けてあげたいと思った人など。
転生サイクルが長くゆっくりしていた時代には、
特に遺した子供とか孫とかが心配だったりすることから、
しばらく、サポートすることもあったので(名付けて補助霊)、
その時にわりかし傍にいて一緒に経験をすることから、
疑似体験的に「記憶」が出来てしまうことがあるようです。


②の場合、
本を読んで、主人公に感情移入したり、
映画とか、憧れのスターに入れ込んで、
自分がその人であるかのような妄想を膨らませたり、
本や映画の物語や憧れの人物の人生を生きたかのように、
ニセの記憶を作ってしまう・・・などがあります。
昔は退屈な日常を生きている人も多かったようで、
昨今よりも、遠い異国のお話しや他人の経験に自己投影して、
憧れの人生を妄想の中で楽しむ人も少なくなかったのかな。

例えば、侍女とか貧しい境遇にある人が、
自分が仕えている主人の人生を、身近だからこそ、
あれやこれやを知り尽くしているというわけで、
自分がその人自身の人生を生きたかのように
感情移入していた結果、思い込みの記憶があったり、とかね。
相手に憧れていたり、同情していたせい、なんでしょうが。
まあ、相手と自分の境界線が無くなって、
互いを同一視するほど、
仲良いとか距離無しの関係だったりなのかな。


で、③が一番やっかいで、
その時の自分の人生を・・・現実を湾曲して捉えていた。
②に近いと言えばそうだけど、
実際の現実を受けいれようとせず、
ありのままの世界を見ずに、
自分の都合の良いように解釈して、創ってしまう。
今の時代で言うと、誇大妄想の結果の記憶。
心を酷く抑圧させたり、妄想爆発の結果だから、
当時は精神病というか、病んでいた人の可能性ありで。
こういう記憶っていうのは、扱いが難しいです。

そうさなー 例えば、貧しい孤児の女性が、
「私は本当はプリンセスなの、
いつかお城から本当の両親が迎えに来るの」とか、

あまり美しくなく、どちらかというと醜女で、
男性にも相手にしてもらえない、性格もイマイチな人が、

「私が絶対の美女すぎて、みんな高値の花と思って、
誰も声をかけないのよね。そして私に釣り合う人は、
この中にはいないのよ、みんな醜い男ばっかりなんだもの」

と本気で思い込んで、現実を直視せず、
作り上げた虚構の中でプライドを保つために、
斜め上の発想から作り上げた記憶とかとか。

今の世だと、キチとか勘助とかストーカーとか、そんな世界。


で、おおまかにざっくり分けるとこんな感じなのですが、
それ以外にも、

他人のデータ(想念体としてのエレメンタル)を読み取り、
コピーしたものを元にして、他のいくつかのものと合体し、
さらにあれやこれや加工されて、こねくり回されたあげく、
ひとつのストーリーとしてまとめられてしまう場合も。

この場合、元(核)になるものは、
他者が作ったもの(空気中に浮遊)である場合もあるし、
その人の中にある小さな想いのエレメンタルだったり、
創作物(フィクション)から受けた強い印象だったり、
現実にあった出来事からのインスパイアだったり・・・
あるいはそれら種々様々なものがMixされて交わって、
というのもある。
どういうものが入り混じり、どんな物語が後付けされるかは、
元になったものの性質もあるけど、
加工する人の嗜好というか、思考と想像の方向性といったところ。


まだ三次元に具現化されていないなら、
創られたそれらの想念体は引き寄せの法則として、
その人にそのような現実を生きさせることになるので(今生でなくても)、
心からその人が望む未来や必要な経験なら、いいんですけど。

実際に体験してきた過去の人生(感情)なら、仕方ないとして。
単純に妄想の産物として創られたこの手の記憶は、
その人の人生に混乱を生じさせ、
本来進むべき未来から遠く離れた、
望まない人生を生きさせることになるので、よろしくないですね。


まっこと、人の想像力というのは実に豊かなもので、
心の力が強い人は、簡単にエレメンタルを創りあげてしまう。


客観的な見方が育っている人なら、
他者の人生を眺めて、
「こういう人がいる」と創られたデータを読むとき、
まず自分の感情がゆすぶられることはないから、
その段階で、それはその人の人生ではないと、
当人も納得する方向で確認して、あっさり解決てか
手放すことも容易だったりする。

①はそんなで、②にしてもそう。

でも、自分自身で作り上げたドラマに浸りきってしまう、
劇場(激情)型の人の場合は、
これを当人に違うものと区別させ、納得させるは難しい。
離反して、解放させるにしても、
まず抱え込んで手放したがらないので。
つまりは「記憶」という物語・・・
自分がヒロインになれる世界に対する執着があったりして。

そういう人は大概③も持っていたりする。


過去生セラピーにおいては、
その過去生が事実であったかのかどうか、
ニセものの記憶であるかどうか、と・・・
真偽を判断するのはあまり意味がない。

そもそも過去生というもの、実証・検証の出来るものではない。
科学的根拠などどうやったって示せないのだ。
妄想、虚言、作り話ではないと、証明すらできないものを・・・
とりあえず、輪廻転生(過去生)が存在する、という
前提において、このようなセラピーは成されるわけではあるが。

ともあれ、
それが本当の記憶にしてもニセモノの記憶にしても、
その記憶がその人の顕在意識及び潜在意識下に存在することで、
その人の人生ならびに生活、人格形成に弊害をもたらし、
あまたの問題を作り出しているのであるから、
それを整理整頓してその記憶の落としどころを創り、
人生に影を作り出している状態から解放しよう・・・
というところでの過去生セラピー(ヒーリング)である。

その目的さえ遂げればいいのである。

が、ニセモノの記憶を作り続ける精神構造、心の歪みにこそ、
諸悪の根源的なルーツがあるならば、
時に、創られた記憶の正誤に触れたり、
何処がどう事実とは違うのか、解説したりすることもあったり。



∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


で、人というのは、
今の自分の置かれた境遇、心情を代弁するような物語、
曲などに自己陶酔をして、カタルシスを感じることがある。

先に書いた、
ダメンズ選んでしまう自分の問題であることを棚に上げて、
えばりんぼのオレ様に「尽くしてしまう、可哀想なアタクシ」
と演歌の歌詞に己が姿を投影して、
悲劇のヒロイン気取って、
苦労してるアタシ、耐えてるアタシえらいわー 褒めてー

みたいな人・・・とか。

失恋ソングに自分の過去の恋愛を投影して、
当時を思い出し、号泣してしまう人・・・とか。

今の人生でもそうだけど。

これが、まあ・・・過去生でもそうなのね。

普通過去生のことなんて、覚えてないから、
無意識下でついつい反応しているだけなんだけども。


映画にしても、小説にしても、ドラマやコミック、
古典や詩、オペラや歌ももちそうね。

過去の自分の生きた人生を、姿を彷彿とさせる、何か・・・
心の琴線に触れるものって、人それぞれで。

けど、それによって、何かが昇華させられるのも事実。

その物語を知る(見る)ことで、
過去の自分が慰められたり、救われることもある。


ちなみにうちの生徒さんで、
過去にお女郎さん(日本では花魁、韓国ではキーセン)だったので、
「ファンジニ」に号泣、和楽器バンドの「虹色蝶々」を聞いて号泣。
自分の中の何かが反応するわけ。
哀しいわけではないのに、涙が止まらなくなる。
自分の中の誰か、が泣いている・・・みたいに。

私も「犬夜叉」の桔梗に感情移入してどっぷりになったこともある(笑)
映画でなくて海外ドラマ「椿姫」でドーンとなったこともあるし、
妙にツボに入ってしまうコミックやドラマもあったりする。
戦争映画で恋人が出征して残されるハナシに弱いしっっ
条件反射的に号泣してしまう、お決まりのパターンの物語があるわけ。

駄作とか名作は関係なく。

こういうのって説明がつかない。


そういう時はもう、気が済むまで泣いてくれって感じではある。

けど、あんまりどっぷりに浸りすぎると、
とくにカラオケなんかで、
そういう悲劇的かつ悲観的な歌詞ばかり歌ってしまうと、
「カタルシス」=「解放」に向かうならいいけど、

繰り返し歌う=想念が入る=「言霊(言魂)」作成

になって、いわゆる「引き寄せのパターン」となり、

再び同じ運命を繰り返す、という未来をリクエストすることに。


だから、どっかで打ち止めにしないと、ではある。

過去の自分の感情を追体験して、
その時の抑圧された想いを共に感じてあげて、
その時泣けなかった想いを解放することも大切だったりするけど、
「あたしって可哀想」ってとこにいつまでも縛られて、
いつまでもその感情に引き摺られて、酔いしれ。
耽溺してしまうと、なまじ原型があるばっかりに、
強烈なエレメンタルが新たに創られ、パワーアップしてしまう。

なので、どっかで手放さないとネ。

そのためにも事実を事実として、
客観的かつ理性的に受け止めて、
記憶を整理整頓するのも必要だなーとつくづく思います。


はい。

てなわけで、恋人が欲しいアナタ、

いつまでも失恋ソングや怨念ソングを歌っていると、

永遠に失恋し続け、ダメンズに引っかかる未来を
自分に引き寄せて、ギフトしてしまうことになりますのでご用心をば。

明るいミライ、こうなって欲しいと思う、
理想の未来を描いている歌詞の歌をばんばん歌って、
なりきり、浸りきり、楽しんで歌いましょうぞよ。

2017/01/09

五常の徳~人として見失ってはいけないこと

仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌

というと、南総里見八犬伝で有名かな。

この八徳でも先の五つ、「仁・義・礼・智・信」のことを
五徳、あるいは五常ともいい、儒教で説く5つの徳目を指す。

ちなみに台湾に内気功の合宿に参加させて頂いた時、
この言葉をひたすら何回も朝から晩まで復唱させられましたっっ。
その位、肝に銘じるべき、大切な言葉だということで。
(読み方、発音は中国語だったけど)





Wikiから下記引用させて頂きますが、

仁・・・人を思いやること。

孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしており、日常生活から遠いものではないが、一方では容易に到達できぬものとした。『論語』では、さまざまな説明がなされている。ある場合は「人を愛すること」と説明し、顔回の質問に対しては、「克己復礼」すなわち「己に克ちて礼を復むを仁と為す (私心を克服して礼を重んじること。それが仁である)と答えている。前者は外部に対する行為を指し、後者すなわち顔回に対する答えは自身の内なる修養のあり方を指している。具体的な心構えとしては、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』顔淵篇、黄金律)がよく知られている。すなわち、「仁」とは、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことである。

義・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義。

中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。

礼・・・「仁」を具体的な行動として表したもの。

もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに上下関係で守るべきことを意味するようになった。儒者のなかでも、性悪説の立場に立った荀子は特に「礼」を重視した。

智・・・道理をよく知り得ている人。知識豊富な人。

信・・・友情に厚く、言明をたがえないこと、     
    真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。

これに、

忠・・・主人と家来の人間関係
孝・・・親と子の人間関係
悌・・・兄弟姉妹の人間関係

の三つを加えると、儒学の八徳となります。

もう少し簡単にまとめると、

仁:思いやり、慈しみの心

儀:道理、道徳にかなうこと

礼:守るべき作法、敬うこと

智:物事を正しく判断する力

信:誠実さ、あざむかないこと

忠:真心、君主に仕える道

孝:父母によく仕えること

悌:兄弟の仲がいいこと

という感じ。

けれど、 この八徳にこだわりすぎると、
またそれはそれで弊害もある。

特に、「忠・孝・悌」に関しては、これに囚われすぎることで、
かえって先の五徳に離反する道を取ってしまいがちなので。

ようするに、親に従いすぎたり、
血の繋がりや情を断ち切れないことや、
忘恩に報いすぎ、忠義に盲目的になりすぎてしまうと、
人としての道を見誤ってもよしとしてしまうことなど。

そこが儒教の欠点でもあり、 宗教にも言えることだけど、
 正しい理解もなく教義の形だけなぞって盲目的に縛られると、
教えそのものが諸刃の刃になってしまう。


∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 


心を亡くすと書いて、「忙」しいと読む。

人は余裕がなくなると、 色んな事を見失って、
たくさんのものを置き去りにしてしまう。

物事が上手くいって、すべてが順調なときほど、
忙しくて、慌ただしい状況であればあるほど、
忘れてはいけないことがある。

時間がないからこそ、時間を作って、自らを振り返り、
人としての自分の在り方を見つめ直して、
本当にそれでいいのか、正しいことをしているのか、
 自分の生き方は、自分にとって正しいものであるのか、
 何か忘れていることはないか、 おざなりにしていることはないのか、

周囲の人たちに対して、感謝の気持ちを伝え、
謙虚な気持ちで日々の出来事と接することが出来ているのか、
 忙しさに流され、自分の心の声を無視していないか、
気持ちのない仕事をしてはいないか、
身近にいる大切な誰かの心のSOSを見逃してはいないか、
周囲の人とのコミュニケーションが疎かになってはいないか、

そんなことを考えてみる必要があるだろう。

先に書いた記事の友人Yは、
仕事で結果を出すこと・・・評価されることに拘っていたため、
(何れかの仕事で有名になり、成功して認められること等)
その目的を叶えるために徐々に手段を選ばないようになっていき、
長年の人間関係をないがしろにし、恩や義に背き、
信頼や誠実さを遵守することや自らを成長させ、高めることよりも、
仕事と仕事に繋がる利害関係を最優先するようになっていった。

結婚して配偶者を得、さらに義父母のバックアップによって、
 経済的に不自由のない安定した生活を保証されてからも、
彼女の名声や仕事への執着は絶えることがなかった。

子供が出来た時、子と家庭のためにも、
仕事をセーブしてはどうかと進言しても、
 せっかく手に入れた仕事を手放すなんてとんでもないと、
睡眠時間2時間という生活を改めることはしなかった。

彼女が欲しかったのはお金でも生活の安定でもなかったから。

幸せな家庭もあって、仕事も順調で、売れっ子で、
すべてを手に入れて、すべてが上手くいっているスゴイ私。

彼女はその頂点に居たかったのだろう。
色んな人に羨ましがられる自分でいたかったのだろう。

それが長い間、努力しても報われず、
下積みとも言える芸能的な世界で辛酸やら苦渋やら、
 屈辱的な経験をたくさんして、いつか見返してやるとばかりに、
 傷つけられた自尊心を取り戻すために必要な、
 精一杯の自己顕示欲と見栄で、自己承認の方法だったのか。

旦那さんが浮気したのは一時の気の迷いだったのだろうが、
朝から晩まで仕事漬けの彼女に、
家庭での安らぎを得られずに、外に何かを求めたのかも知れない。

彼女が辿った道は正しい道ではなかった。

 結果、彼女はすべてどころか自分の命を失うはめになった。

人として一番大切なものを見失って、
愛する人を傷つけて、たくさんの友人を切り捨てて、
辛いときに自分を支えてくれた恋人を踏みつけにして、
そうして手に入れたものは、まさに「砂上の楼閣」だった。

彼女が誰よりも欲しがって、手に入れようとした世界は、
決して彼女を真実の意味で幸せにするものではなかった。
彼女はエゴイズムに飲み込まれて、
そのエゴイズムの願望を叶えるためだけの操り人形になっていた。

嫉妬に苛まれ、他人を羨み、妬み、 あらゆるものを欲しがり、
自分のほうが他者よりも優れているのだと、
自分には人から羨ましがられる素晴らしい才能がたくさんあって、
特別な力を所有している選ばれた人間であると・・・
そう誇示したいがための。 (だからこその肝臓ガンだった)

Yが、人としての大切なものを忘れず、
見失っていけないものを見失わないでいたならば、
 今ごろ彼女はすべてを手に入れていたろう。

昔からの人間関係を大切にし、 友情に忠実かつ、
他人に対して誠実にふるまい、 約束を守り、
愛あるコミュニケーションを常に取り、
高名さよりも信頼を得ることに徹していて、
恋人の支えに常に感謝を示していたならば・・・

他に好きな人が出来てしまったにせよ、
そのことを誠意を尽くして説明と謝罪をし、
今までの恩に対して気持ちを込めて感謝を伝え、
綺麗な別れ方というのは難しいにしても、
それまでの共に過ごした年月と相手の献身に対して、
 何かもう少し別の方法で償うことも出来ていたならば・・・

物事が上手くいき、長年の夢が叶ったことに対して、
 これまで支えてくれたり、力になってくれた人たちの、
そして仕事に理解のある旦那さんや家族の協力のお陰であると、
そんなことを口に出したり、
形ばかりだけでもそうした感謝の文章を、
日記にも綴ることが出来ていたならば・・・

結果は違っていたろうな。。。と思う。

何処かで、彼女が気づけていたならば、
 自らの行いを、周囲あってこその自分であることに 気が付き、
色々なことに感謝を持てるようになっていたならば・・・

すべては遅すぎることだけども。

実際、彼女が見たのは「天使」なんかではなく、
「天使」のふりをした「悪霊」以外のなにものでもない。

彼女の利己的でひどく醜い、
ただれたエゴイズムに引き寄せられた存在だろう。

善なる存在の導きがあったなら、
そこには気づきと自らの過ちを知る機会があったはず。

魂のケガレがよこしまな存在を引き寄せたというもの。

そのような状態で、エゴイズムに支配された状況で、
高次元の存在とのコンタクトなど、望めるべくもない。


∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 


さて、そんな風に神仏のフリをする、低俗な存在は多いし、
それに騙されるスピリチュアリストたちも後を絶たない。

人は簡単に、
 自分には出来ないことができる人を尊敬して、信頼したりする。

未来を予知するとか、何かを当てるとか、
 透視能力が優れているとか、霊が視えるとか、
 宇宙人とコンタクトが取れるとか、チャネリング出来るとか、
驚異のヒーリングをするとか、宙を飛べるとかetc・・・

雨を降らせたり、止ませたり、天気を操ったり、
神のお告げを聞いたりとか、霊を上げたり降ろしたり、

神通力だの霊能力だの超能力でもなんでもいいんだけど、
そういう人知を超えた理解のできない現象に対し、
畏怖と謙虚さを抱くのはよいが、
だからといって、盲目的にそれを賛美するのはどうかと思う。

所詮、それを地上の次元に
現象として起こしているのはその人自身ではないので。

頭がいいから、IQが高いから良い人であるわけではないように、
学力が低く、言動や行動が粗暴だから、
必ずしも道を外れた生き方をするようになるわけでもないわけで、
 優れた才能や能力を持っているからといって、
必ずしも人間として人徳を備えているわけではない。

そうした力はモノは使いようで、
何のために使うか・・・が一番大事だったりする。

自分の存在を誇示するためにそれらは披露されるべきものではない。
そうした力を備えていることを称賛されるために使うべきじゃない。
自分を信用させたり、ひれ伏させたり、畏怖させるために、
そうした力が備わっているものではないので。

もちろん、他者のために使うべきではあるけれど、
 へんな使命感に燃えすぎると、何かを見失ってしまう。
だからちょっと変わった自分の能力とは、 客観的に、
上手く付き合っていく方法をマスターしないといけない。

サイキックな能力が開花し始めた人、 もともと備わっている人ほど、
謙虚さを人一番身に着けないといけないし、
自分の能力と上手く付き合っていく生き方を学ぶ必要がある。

そのためにも、サイキックな能力以前に、
スピリチュアリティを身に着ける必要があって、
霊的な生き方を心がけるべきだったりする。

その霊的な生き方っていうのが、「人としての道」になる。
 人として決して忘れてはいけないこと、 見失ってはいけないこと、
黄金の心を自らの中に磨き上げ、育てていくこと、という道。

大事なのは、「人としてかくあるべき」だけ。
日常で五常の徳を大事にして、
心掛けていさえすれば、ほぼ間違いないのかも知れない。


∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 


時々、新興宗教などの信者でそういう人を見かけたりするけど、
前世の罪を贖うために、朝晩永遠と念仏を唱えたり、
ひたすら写経するとか、勤行的なお勤めを熱心にしたりとか・・・

それ自体は悪いことではないと思う。むしろいいことで。

ていうか、
日毎の生活の中で、仕事や家族との時間を除き、
余暇の時間をあてる範囲でなら、かな。

そういう行為、活動に無理に他者を巻き込んだり、
仕事に悪影響を与えたり、家族との時間を犠牲にするのはね、
そういうのはどうかと思う。

職業的なプロならともかく、素人の場合は。

お布施なんかやスピリチュアルなことに対する金銭の割り当ても、
時にその位の出費をしないことには、確かにその人にとっては、
浄財や善哉(善行)にならないってこともあるから、
一概には言えないし、すべてを否定することも出来ないのだけれども・・・

自分以外の家族の生活を犠牲にしてまで、
そこにつぎ込むのは度が過ぎてるし、
それでは何のための善行なのか本末転倒で。

うん、たまにいます。

過去生に自らが犯した罪を贖うために、
慰霊のために時間とお金を費やす人。

今の人生の罪なら誰しもが納得の行動で当然の行動と言える。
また自分の過去の悪行を思い出し、罪を犯したと悔いること、
その罪の大きさの前に跪き、懺悔を乞うたり、
贖罪の気持ちを持つのはいいことだと思う。

それは悪いことではないし、
それも生き方のひとつだから。
むしろ、そのような行為を通じて、
その人が成長し、人として大きくなれるのであれば。
自分を含む周囲の人々をも幸福にする道であるのならば。

けれど、それをするがために、
今生での人生をないがしろにするのは違うと思う。
仕事を、人間関係を粗末にして、
他者と交わりなく、閉鎖的な生き方を選ぶことは・・・

今生での人生を振り返り、
自分が表してきたこと、他者との関係においての自分、
自らの人としての問題点や不足していること、
見落としてきたものや疎かにしてきたことを、
そうしたことを改めようとはしないで、
今の自分を何一つ変えようとはしないで、
人生を新しく生まれ変わってやり直すくらいの気持ちを持たずに、
それを周囲に示すことすらせずに、
それで何が「前世の罪を贖える」というのだろう?


何故なら過去にその人が
そのような大罪を犯す事になった原因が、
すべてその人のそれ、他人を心を理解しようとはせず、
人の気持ち、想いを軽視する点に他ならないのに。

今の人生でもまったく変わらず、
そうしたところを一切顧みることもなく、
「性格も考え方も昔と変わってない」というところで、
いくら「申し訳ありませんでした」って土下座されても、
それでいったい、どうやって、許せと?
その懺悔のどこに、本気と真心を認めることが出来るのだろう?

今生きている人生であちこちほうぼうに迷惑かけて、
恩人に後ろ足で砂をかけるようなことをしたり、
他人に対して無関心なままなのに?
友人に対しては数百円のお金も使うのをためらうのに、
そういうスピリチュアル懺悔にはお金は惜しまない姿勢のままで。

そんな形ばかりの謝罪で被害者が納得するとでも?

本当に反省しているなんて、誰が思うんだろう。
いくら毎日ありがたいお経を唱えたりしていたとしても、

そこには「これさえすれば赦してもらえる、贖罪になる」という、
被害者たちの怒りの想念を解くことによって、
今の自分の人生の障害を取り除きたいというだけのエゴイズムが
 めちゃくちゃ透けて見えるんですけども。
(自分がラクになりたいってだけのが)

そんな手前ミソな謝罪。形だけの懺悔のポーズ。
今の人生をきちんと生きられてないこと、 他人を見下し、
人間関係を疎かにして生きていること、
被害者の霊たちはみんなオミトオシだったりします。

自分の何が悪かったのか、何が欠けているのか、
そこが全然わかってない限りには。
わざわざ多額のお金かけて、現地行って、
儀式だか何だかに行脚して大量のお金を投入するよりも、
まっとうな人間にお成りなさいな、って皆言ってるんじゃないだろうか。

毎日延々とお経を唱えて、
霊能者の言いなりになって、パシリになる時間があるなら、
自分の才能を生かして社会に還元して、
仕事で社会貢献をするべきでしょう。

昔からの人間関係を大切にして、 真心で人と付き合うべきでしょう。
日々の出来事に感謝して、
起きることや出会う人とのご縁ひとつひとつを大切にして、
気持ちを込めて仕事をして、たくさんの人の力になるべきでしょう。

気づくべきことに気づかず、 大切にするべきものを見落として、
人と人との繋がりや縁を軽視して
社会から与えられた自分の役割も放棄して、
それで一体、どこに行こうとしているのだろう。

被害者たちがどうして今も腹を立てているのか、
どうして赦す事が出来ないでいるのか、
何が一番許せないのか、知ろうともせずに・・・
自己満足だけの浄霊とやらに一生を費やすのだろうか。
こういう人たちって。


前世の罪が云云かんぬんじゃなくても、
先祖の罪が、因縁が、とか・・・
なんかまあ、そんなこんなにしても、
今の自分の人生の物事がうまくいかないことで
神仏の力やご加護を借りるにしても、
何かスピリチュアルな方法に頼ったりするにしても、

肝心の自分の行動を振り返り、
自らの生き方を変えようとする人は少ない。

神仏の力を借りるにしても、加護を得るにしても、
スピリチュアルな方法での対処方法にしても、

まずは自分が改めるべき点(性格や行い)をチェックすべきで、
その上で人知を超えたことに関してだけ、
助けを求めるべきでしょう。

自身が気づかず他者に対して犯している、日々の小さな過ちとか、
やるべきなのにやっていないこととか、
自分自身が良い人間になろうとして、その努力をした上でないと、
先祖供養にしても前世の贖罪にしても、
スピリチュアルな方法論に頼ることも、
神仏のご加護も助けもはっきりいって意味がなかったりする。

って、これは私自身の経験ですれどもね。

確かに、先祖の因縁的障りや霊的な問題、
神様の障りとか、人知を超えた問題はありますし、
本人が生き方を変えようと努力しても抗えない、
どうにもならない問題が存在してたり、
影響を与えていることも世にはままあります。

だけども、それ以前の問題というのはたくさんあるし、
本人がしっかりと意志をもって、心正しく現実を生きていることで、
そのような影響を最小限に食い止めていたり、
まったく影響を受けないで生きている人もいます。

その逆に本人の心根や生き方の問題で、
受けなくていい影響を受けている人も多かったりします。

だから結局は、
その人自身がどうあるか・・・どう生きているか、が一番大切で、
過去生の影響も、先祖の障りも、霊的な影響も、
すべては今のその人の生き方次第であると言えるのです。

とどのつもりが、
人生を変えたいなら、自分を変えるしかない。

それに尽きると思います。


∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ 

夕べ、Yと電話で話をしている夢を見た。

Yの夢を見るのは、10年ぶりくらいだろうか・・・

どんな話をしたのかは覚えていない。
ただ、楽しく色々と盛り上がったとだけ。

ブログに書いたこと、彼女は怒ってはいないようだ。

利を見て義を忘れる

人を待たせるということは、
その人を大切にしていない証拠。
あなたの時間より私の時間の方が大切ですという
無言のメッセージである。

by松下幸之助


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


メールの返信をしない人がいる。

多忙だったり、精神的ゆとりがなかったり、
あるいは返事をわざわざするほどの内容ではないとの判断か、
COやFOをしたいという無言の意思表示でなのか、
もしくはわざわざ返事を返さなくても、
以心伝心で通じ合っているから大丈夫との思い込みか、
迷惑で無視しているというだけなのか、

その理由は判らない。


借りたものを返さない人がいる。

それが誰かからの借りものであることを忘れてしまうのか、
もらったものであると勘違いするのか、
それとも、相手にとっては他人に貸せるほどの
対して価値のない、捨ててもいい程度のものと思うのか、
モノであっても心の貸し借りであり、
信頼あっての好意であるということが理解できないのか、

きちんと返さず、有耶無耶にしてしまう人の何と多いこと。


待ち合わせの時間や約束を守らない人がいる。

遅くなるという連絡もせず、
相手が納得するような説明はそこになく、
遅れても悪びれず、謝罪の言葉はとても軽々しく、
相手の時間を奪っているということに無頓着で、
その時間を楽しみにしている人の気持ちを、
自分が踏みにじっていることすら気づかない。

他人の気持ちや都合など一切お構いなしの人。


そういう人たちは、

たいてい自分の都合の良いときだけ、
気が向いた時だけ連絡してきて、
相手がどうしているかなんてことは訪ねようともしない。
今どんな状況に置かれていて、
どんな悩みを抱えているのかなんて知ろうともしない。

「どうしてるの?」「元気なの?」・・・と、
相手を気遣うだけのコンタクトなど取ることはなく、
何か助けがいる状況にあったなら手を貸そうというスタンスで、
他者と交わろうとも、関わろうともしない。

相手が病気で倒れていようが、
辛く苦しい現実に押しつぶされて死を考えていようが、
無関心で自分には関係のないことと思うのだろう。

連絡を取らぬ間に相手が死んでいたとしても、
きっと心の端にも掛からず、動じないのだろう。
ネットのニュースの遠い誰かの死を聞くのと同じ重さでしかなく。


必要なメールの返信もせず、貸したものを返さず、
遅刻魔で、約束にもコミュニケーションにも底なしにルーズで、
おまけにケチで、自分のためだけにお金を使って、
他人のためにお金も時間も使わず、
恩を仇で返すばかりか後ろ足で砂をかけることをする人。

そうした人を何人か知っている。

得てしてそういう人は
スピリチュアルなことに関わったとしても、
途中で脱落するか、道を間違えていく。

人と人との間で大切にすべき、守るべきものを大事にしない人、
義や忠を守らない人、愛や思いやりを持たぬもの、
他人に対して不誠実な人は、謙虚さのかけらもないから、
自らのスピリチュアルナルシズムの罠にかすめ取られて、
「七つの大罪」の前に堕落するか、精神を病んでいく。

時に命さえも失うことになって・・・


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★


このことを書くには迷ったし、
多分彼女は自分のことを書かれるのを歓迎はしていないだろう。
それでも書いてしまう私は酷い友人かも知れない。


親友だったYが亡くなったのは今から12年前のことだ。

同業の彼女と出会ったのは友人の紹介だったが、
初対面から気が合って、互いにシンパシーを感じ、
まるでずっと昔からの知り合いだったかのように意気投合した。
(実際、彼女と私は姉と妹だった時があったのだが)

仕事を掛け持ちしている多忙な彼女のこと、
あまり頻繁に会う時間を作ることも出来なかったが、
それでも近況をよく電話で報告し合ったし、
お互いの愚痴や悩みの相談を一晩中朝まで話すこともあった。

彼女はDJやナレーターとしての仕事も抱えていて、
ラジオやテレビ番組に出ることもある人だった。

いつからだったろう。
彼女の中で、向上心や仕事への焦りが、
嫉妬や傲慢さ、高名を得たいという欲望に代わっていったのは。

「私のほうが、アルマよりも当たるんだからね」

そんなセリフをヒステリックに口にするようになっていた頃、
彼女は色んなことにルーズになっていった。

仕事優先で、ドタキャンは当たり前。

「明日遊びに行ってもいい?」と連絡してきて、
食事やもてなしの支度をして待っているものの、
昼を過ぎても、なしのつぶて。
「あと一時間くらいしたら」という連絡があっても、
夕方になってから、
「ごめん、やっぱり仕事が入った」という。

そうした不義理をされたのは私だけではなく、
昔からの友達、いわゆる利害関係のない人間すべてが、
彼女の私生活での優先順位から後回しにされていった。

それは彼女と共に暮らし、、
生活のすべて(金銭的なことも)を支えてきた、
長年の恋人に対してもそうだった。

ラジオ番組でのアンケートというか、
人気投票のようなものをお願いするときだけは、
しおらしく頭を下げて、マメに連絡をしてきたりする。
なんかちょっと違うんじゃないかって、
そういうヤラセ的なこと・・・止めても聞く子ではなかった。

私は随分と口を酸っぱくして、彼女にお説教をした。
あーでもないこーでもないと、色々と諫めることを言った。
でも、この頃には何を言っても、聞くようなふりをして、
はいはいはい、で流されていたように思う。

やがて彼女は結婚をした。
だけども、それは彼女が婚約者と言っていた、
同棲相手たる恋人ではなかった。

きちんと納得して別れたわけではない。
彼女が彼を捨てた形になった。

それでも私たちはまだ親友でいられたので、
結婚式にも出席した。二人はとても幸せそうだった。

彼が、元カレに対して彼女がしたことを
知っていたかどうかは知らない。

相手の親は結婚祝いに新築のマンションを二人に贈った。

やがて彼女は妊娠し、経済的にも恵まれて、
あれほど認められたがっていた仕事のほうでも、
同時に忙しくなった。

相変わらず他人に対して、気まぐれで、
そして仕事の名声に対する執着も激しくなって、
彼女の傲慢な態度や言動に対して、
相変わらず私も言いたいことを口うるさく言っていたが、
彼女には、すべてが上手く行っている彼女に対しての、
私の焼きもち、羨望と映っていたようだ。

そんな時、決定的なことが起こった。

彼女のホームページの掲示板に、
一見、誹謗中傷とも取れる辛辣な書き込みがあったのだ。

というのも、その少し前に、
彼女の旦那さんの浮気が発覚したのだけれど、
どうして判ったかというと、彼女曰く、
「天使が夢枕に立って教えてくれた」というもの。

何でも寝ているとき、天使が枕元に立ち、ふと目を凝らすと、
旦那の浮気現場の映像がリアルに見えた、そうなんである。
(そして帰宅して問い詰めたら、あっさり白状した)

して、こともあろうに、
彼女はこのことを自分のサイトの日記に書いてしまった。

それを読んだ私は、
すぐに彼女に電話して削除するように伝えた。
匿名の掲示板でもないし、多少なりとも職業上において
名のある人物の公式サイトだし、
これから保育園だの学校だの通う子供のこともある。
いくら旦那さんがしたことが赦せないことだからといって、
恥を全国区にさらしていいわけではない。

しかし、それに対しての彼女の回答は、

「アルマ、
私には天使がついているのよ。
私は天使が見える人間なの・・・
天使は私に、夫の浮気現場の映像を見せてくれたの」

いかに自分が天使と繋がれる、
選ばれた素晴らしい能力の持ち主であるのか、
そういう慢心さに酔いしれていた。

ああ・・・ダメだ・・・もう彼女は誰の云うことも聞きはしない。
自分が真実を見抜いたとばかりに自信をもってしまって、
自らを省みるようなことはしないだろう。

そんなあきらめを抱いたことを覚えている。


そして、掲示板の匿名の書き込みは、
Yが、今の名声をまるで自分一人の努力と力で
手に入れたようにのたまわっているけれど、
たくさんの人を踏みつけにして、善意や恩を仇で返して、
色んな人を振り回して、義理を尽くさず、
不誠実にふるまって、他人を利用するだけ利用して・・・と、
彼女がこれまで周囲の人にしてきたことを責め、
旦那さんに浮気された現場を透視したとか、
さも自分はすごい能力の持ち主であるかのように言ってるけど、
そうやって相手の過ちをネットで辱めて、楽しいですか?と、
因果応報で自業自得であるとは思わないかなどと、
そういうことが書かれていた。

私がこれを知ったのは、彼女の電話からで、
電話に出るなり唐突に、


「あの掲示板に書き込みしたのは、アルマでしょう!」と、
一方的に確認もせず、罵られ、叫ばれ・・・

まあ確かに、私が常日頃、いやさ以前から
彼女に対してお説教というか、アドバイスやら、
私が警告していることとほぼ同じ内容のことだったから。

でも、まあ 胃の一番に疑われたのもショックだったけれど、
何よりも、ここまで言われても、
彼女自身が自分にも悪いところがあるという想いには至らず、
何故このような復讐をされたのか、その原因を考えようともせず、
指摘されたことの一つひとつ、我が身を振り返らず、
ただひたすら、書き込みをした人を憎み、騒ぎ、
犯人捜しを始めたときにはもう、ただ悲しくて。

そして書き込みをした人は、
彼女が手ひどく振ってボロボロになった元カレを支え、
結婚することになった人だったのだけれども・・・
でも、元カレはともかく、その人に逢ったことはないにしても、
私もその内容には同意というか、本当にその通りだと思ったし、
彼女の仕打ちに対して、そこまでしたくなるのも、
そういいたくなるのも痛いほど分かったので、責める気になれず。

で、結果的に誰が書いたか分かったということで、
私を犯人扱いしたことに対して、Yは誤ってきたのだけど、
その時点で、相変わらず彼女は相手のことばかり責めていて、
自分が誰かを傷つけてきた事実と向き合いもせず、
元カレの気持ちや、そこまでのことを言いたくなった、
その奥さんの気持ちを汲み取ることもせず・・・で、

これは赦してはいけないな、と思った。

そんな風におかしくなってしまう前の
Yのことはとても好きだったし、
たくさんの楽しい思い出もあったし、
見捨てたくない気持ちもあったけど・・・

私が突き放したからと言って、それで傷ついて、
反省することも、自らを振り返るという保証もないけど、

それでも笑って許して元通り・・・っていうのは、
赦すことは彼女に良くないように思った。


それが今生の別れとなった。

その年の暮れに、彼女はガンになった。
わずか2か月の闘病生活で、彼女は旅立った。

幼い子を残して。


肝臓ガンだった。
若いから、進行は早く、あっという間だったとのこと。


彼女の死を聞いたとき、
私はもっとなんで早いうちに彼女の考えの誤り、
人としての道に外れた行動や生き方を、
もっともっと強い口調で、うるさいと言われようと、
何と言われようとしつこく言い続けて、
おかしいものはおかしいと、叱り続けて、
嫌われようと避けられようと、
耳にタコができるまで、訴え続けることをしなかったのかと
心の底から悔いた。

なんて言われようと付きまとって、
もっと人を大事にしなさいよって・・・

もっともっと周囲の人に対して誠実にふるまって、
感謝をして生きることをしなさいよって、

どんな関係も大事にしなさいよって、

そういう人としての大事なことをどうしてもっと、
彼女に伝えられなかったのか、身近にいて教えられなかったのか、
そういう影響を与えられなかった自分が歯がゆくて、

それが出来なかった自分が悔しくて、ただ泣いた。



今もそういう、彼女に似た人を見るたびに、
何も出来なかった自分を思い出し、
何も出来ない自分に絶望し、がっかりさせられる。

他人を変えることは誰にも出来ず、
他人を救うことは誰にも出来ないと知っているけど・・・

その人が求める以外のアドバイスも出来ず、
くぐもった瞳を持つ人の目を覚まさせるような、
そんな圧倒的な説得力のある言葉も人徳も、
自分にはないこと、とっくに思い知っているけれど・・・

スピリチュアル・ナルシズムに囚われ、
エゴイズムの波に溺れている人をたくさん見るたび、

自分の非力さの前にため息をつくしかない。




Y・・・いつかまた別の人生で出会う時があるのだろうか。
その時は私は少しでもあなたに良い影響を与え、
耳を貸してもらえるような、
実になる言葉を語れるようになっていたいとただ願う。











2017/01/08

スピリチュアルな道

結局のところ、
スピリチュアル(霊性)において、一番大切なことというのは、
「人としての在り方」以外のなにものでもなく、
人と人との関係性、自分以外の他人をどう大切に出来るか・・・
この一言に尽きると思う。

すべての発端はそこで、帰結するのもそこ。

つまりは自分を含めた他者への愛の示し方であり、
自分以外の存在の固有の個性を寛容に受け入れ、
相手の内的世界も慈しんで、尊重して生きること。

目には見えない世界を尊重して大事にして生きるとは、
目に見えるものの中に込められた、
人の想いも大切にして生きること。

人の心を、気持ちを大事にして、
想いの行方を見極めて、受け止めて、きちんと伝えて、
どんなことにも真心を込めて、誠実に向き合って、
命を大切にして、生ある世界を輝かせて生きること。


いやさもっとシンプルに言うと、

自分以外の人との関係性、
他人との関係性を大事にして生きること。

出会いや縁を大事にして、
身近にいる人にしても、そうでない人にしても、
関わった人たちすべてを大切にして、
思いやりや愛情を示して、誠実に生きてさえいれば、
間違いはないというか・・・

たぶん、本当にただそれだけのことなんだろう。

スピリチュアルな道というのは、
しごく簡単でさほど難しいことではない。

スピリチュアリストが大切にすべきなのは、
何よりも謙虚さで、人としてどう生きるかで、
周囲の人たちに日々自分の愛情や思いを伝えていくこと。
そして愛のある行いや仕事をすること。
そのような生き方を貫こうとする段階で、
私欲(エゴイズム)が邪魔をするから、
余計なエゴイズムを切り捨てていく修養をするだけ。
自分も周囲の人も不幸にするような、
自分の中にある考え方や思い癖を断ち切っていく道を、
自らに課すだけのこと。

スピリチュアルな修養というのは、
内省して自らの行いや生き方を振り返り、
己が欲望、エゴイズムを冷静に見つめて、
自身を含む色んなことを観察していく目を養って、
エゴイズムに呑まれない生き方が出来るようにと・・・
物事への理解力を高めて、心や精神の力を鍛えたり、
愛ある生き方とは何かを模索して、
それを実践するためのトレーニングでしかなく・・・


だから、人間関係を・・・
周囲の人との関係性を疎かにしてまで、
進むべき道ではないんだよ。

霊性を高めるというのは、
偉業を成し遂げる立派な人間になることでもなく、
奇跡を起こせる聖者になることでもなく、
自分の命を犠牲にして世を救うヒーローになることでもなく、

たくさんの人に
愛情と理解を示すことの出来る人になろうとするだけのこと。

それはそんなに難しいことでも、特別なことでもない。

身近な人との縁を大切にするだけでいい。
大切にしたい誰かを愛するだけでいい。

まずは身近な人から、
家族や友達、仲間とか、職場の人たちとか。
そして何よりも自分自身。

自分が示すことの出来る愛情や友情を示すことからでいい。

でも、無理に誰かを愛する必要性なんて何処にもなく、
どうしても好きになれず、愛せない人を・・・
憎しみや嫌悪感を覚えてしまう人のことを、
赦すことのできない人を愛せない自分を責める必要はない。


自分に親切にしてくれる誰か、自分が愛している誰かに、
「ありがとう」って、感謝の気持ちを素直に伝えるだけでいい。


人は、人の間でしか成長できないし、
人間関係によってしか、人の霊性も精神も磨かれない。
それは本当のことで、
人間力を身に着けていくことこそが、霊的な成長で。

そこには神のメッセージを聞くとか、宇宙意識と繋がれるとか、
霊の姿が見えるとか見えないとか、スピリットたちと話せるとか、
奇跡的なヒーリングが出来るとか、未来が分かるとか、
神通力があって雨を降らせることができるとか、
他人の過去生が分かるとか、透視能力があるとか・・・

そんなのはどこにも関係ないし、必要もない。

そんな特技なんかどうだっていいんだ。

身近な誰かの心を思いやり、
気遣ってあげる優しさを示せること以上に大切なものはどこにもない。

誰かの事を大切にして、
労わってあげる気持ち以上に尊いものはない。


大切な誰かと一緒にいる時間。
その人の言葉を聞き、心ある言葉をかけ、
その人にとって必要なものは何であるのかを考え、
精一杯できることをしてあげるだけ。

人を大切にすること、モノを大切にすること。

そのような生き方を示すのが
霊性(スピリチュアル)な教えの法であり核。


逆を言えば、
それが出来ないで何がスピリチュアルか?
ということになるだろう。



・・・とはいうものの、私自身、
それを実践して生きて来れたわけじゃない。
どちらかというと、過去において、
あまり人もモノも大切にして生きることはしてこれなかった。
其れがゆえにそのことを強く教えられ、
骨身に沁みさせられる経験があっての今ともいえるから。

だからこそ、
それが一番大事なんだと気づかされたというのもある。
結局のところ、スピリチュアリティの是非や真価は、
人との関係性、人を大事に出来るか否かであるのだと。