2017/01/31

論語読みの論語知らず(後半)

勉学は光であり、無学は闇である


魂の探求の無い生活は、
人間にとって、生きがいの無いものである


唯一の真の英知とは、
自分が無知であることを知ることにある


我々が唯一知っていることは、
何も知らない、ということだけである


私が知っているのは、
自分が何も知らないということだけだ


汝、自らを知れ


                 byソクラテス

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少し前に書いた「裏切りの報酬」の中で、
私自身の金銭に対する不信感や嫌悪感といった、
お金とそれにまつわるトラウマが生まれることになった原因、
最初の核が出来た源流たる過去生に触れましたが、

この時できた、お金に対するマイナスイメージは、
お金に対する怒りや憎悪があるという単純なものでなく、
人や恩を裏切るもの、欲深な人々への憎しみと復讐心、
精神的かつ霊的な道(宗教等)を探究する人々への強い不信感、
そのようなものと複雑に絡み合って、
私自身の自惚れや偏見、高飛車で生意気な傲慢さといった、
スピリチュアルナルシズムを産み出していました。

今更ながら、そのような事実に気づき、愕然とさせられました。


たかだか、主役と
その他大勢のエキストラ的出会いにしか過ぎないというのに、
「彼その人」を知っている、同時代に生きていた、
会ったことがあるというだけで、どこをどう勘違いしたものか、

「教え」だって、子供で理解なぞしていなかったであろうに、
説話をしているのを聞いたことがあると・・・
(もちろん、それ以前の人生において学び、教えたこともあるが、
それは長らく伝言ゲームのように伝えられたことで、
徐々に意味が誤って伝えられ、解釈の間違いもあった教えのこと。
「彼」により、修正される前の不完全な内容です)


そして、
恩人、師を裏切り、見捨てた12人の弟子に対する怒りが、

「自分のほうがあなたたちより、本当の意味を知っている」
とばかりの高慢な自惚れを生み出していたのですね。


どこかで、無意識の中に、
「自分のほうが分かっている。知っている」
自分はなんでも知っている・・・みたいな、
勘違いした、知ったかぶりなエゴイズムが潜んでいるな、と。

そして、あらゆる人をジャッジするクセが
習慣みたいに身に付いていたわけです。

自分こそが正義で、真理を知っているもの、とばかりに。


なんとまあ、お恥ずかしい限りです。

気づいていないだけにたちが悪い。

本当に、エゴイズムには巧妙に騙されるものだと痛感しました。
2000年もこんな考えを自分の中に保有して、
知らずと、そんな醜悪さを振りまいていたんですから。

もっと、早く気づけよ、って感じです。

情けない。


さて、そんな風に私はまだまだです。

人としても、スピリチュアリストとしても未熟も未熟。
全然実践なんて出来てません。

知ったかぶりばかりで、偉そうに講釈を垂れていても、
本当に口先だけで、行動が伴っていないのです。

でも、言い訳ばかりしているわけにはいかないのです。

自分の撒いた種は自分自身で刈り取らなければいけません。

もう寄り道をして、
同じ過ちを無限ループで繰り返しているわけにもいきません。
やらなければいけない仕事がたくさんあるのですから。

本来取り掛かるべきだったことに、そろそろ、ですね。

いつだって、言い訳をして、
向き合うべきことから逃げてきた気がします。

クライアントさんや生徒さんたちに
上から目線でお説教をしたり、
突っ込みを入れている私がこれでは、
まったくもって示しがつかないなんてものじゃありません。

本当に私には他人の手本になれるような、
周囲からの尊敬を頂けるような人徳はひとかけらもなく、
慈悲も慈愛も、懐の広さも、全くないというのに、
よくもこの仕事をさせて頂けているものだと思います。

この分ですと、
生涯見習い中といった、三流のまま、
この人生を終えることになりそうです(笑)


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私がどんなにダメなヤツかのエピソードです。

その昔、実家でのことで色々あった当時、
事情を知っていて、とても力になって下さった方がいました。

その方は占い師の先輩で一回り以上年上の人でした。
彼女自身がご実家を乗っ取られるという経験をしていて、
親戚との間でとても大変な苦労をなさった方なので、
私の事情を察して下さり、あれやこれやと
親身になって下さいました。

精神的に辛く、参っている時に、
彼女の労りの言葉や親切は骨身に沁みたものです。

仕事(ゴーストライター)を紹介して下さったり、
住居を探すとき、私ひとりだと舐められるでしょうからと、
不動産屋巡りに着いてきて下さったりと心強くもあり、
とても面倒見のよい方でした。

ですが、付き合いが長く、深くなってきたとき、
彼女のその情の厚さ、面倒見の良さが、
段々としんどくなってきてしまったのです。

彼女はよかれと思って、
あくまで親切に言ってくれてただけなんですが、
それはとてもよく分かってはいたのですけれど・・・

「ああしなさい」「こうしなさい」「こうするべき」
「だから私が言ったでしょう」「こうしないと駄目ですよ」と、
ちょっと過干渉的な物の言い方が多くなってきて、
そこに押しつけがましさとプレッシャーを感じて、
重たいというか、苦しくなってしまったんですね。
そのような言い方をされるのが、辛くて、
段々と会うにも、電話で仕事の連絡を取ることさえも、
ストレスを感じてしまって、しんどくなってしまったんです。

彼女にはそのような事由で精神的に辛いとき、
親切にしてもらい、よくしてもらった恩があります。
悪気があるわけでなく、こちらのことを思って、
色々と言ってくれているのもよく分かっていました。

今思えば、
少しずつ距離をおいて、適当に言われたことは流して、
ただ離れれば良かっただけだと、そう思います。
仕事も何か理由を作って断るとか、
そうすればよかっただけで。

けれども、当時の私はまだ甘ちゃんというか未熟で、
彼女に、私がストレスを感じてしまう物の言い方を
止めて下さいって言っちゃったんですね。
話せばわかってもらえる・・・そう考えていたみたいです。

でも、そこには、

「他人に対して威圧的な態度を取ったり、
自分の考え方や価値観を押し付けて、
相手をコントロールしようとするのは彼女の欠点で、
直したほうが彼女自身のためになるわけだから、
自分がその言い方で傷ついていると伝えて、
指摘するのも彼女のためだ」

っていう、上から目線な奢りがあったわけです。
これこそ押し付け以外のナニモノでもない。
他人を変えることなど出来ようはずはないのに、
他人を変えるなどおこがましいというか、
傲慢な自惚れでしかないのに。
(交流原則の基本は、
過去と他人は変えられない。
変えられるのは未来と自分だけ、ですから)


ああしろこうしろいうのをやめてくれ、みたいな・・・
かなり直接的な言い方をしちっいましたね。
相手の性格も考えずに。

結果として彼女は激怒し、物別れになりました。

まぁ、あちこちで私のことを怒っているというのも聞きました。
恩知らず、飼い犬に手を噛まれるとは的なこととか。


それから、10数年経って、
たまたま、彼女がネット上に書いた商業誌のエッセイに
私とのことが書いてありました。

色々と親切にして面倒を見たのに、
その恩を踏みにじられたことがあると。
けれど、その人と縁が切れた途端、
ツキが回ってきて、次か次へと仕事が回り、
よいことばかりが巡ってきたとも。
そして、結果的にその人は疫病神のような人で、
縁が切れて良かった相手なのだとありました。


はい。私は疫病神だったようです。


その文を読ませて頂いた時、ショックというより、
「ああ、この方とは多分どう話しても、
分かり合えなかったんだろうなあ」と思いました。

「『ああしなさい、こうしなさい』っていう、
その言い方は止めて頂けませんか?」
って話したわけですけど(伝えたつもり)、
彼女は、自分の抑圧的な物言いに
私がストレスを感じているということに対して、
悪いことしたな、なんてのは
残念ながら少しも思ってくれる人ではなくて、

こちらが親切で色々言ってあげたり、
してあげたりしているというのに、
不愉快なことを言ってきて、恩をあだで返すなんて!

と、自分のプライドを傷つけられたこと、
自分を否定された、自分の傷だけがすべてなんだと。

そういうことを伝えるまでに追い詰められた「私」の気持ちとか、
私という個の人間としての人格とか尊厳とか、
そこを考えたり、尊重してくれてたことはなかったんだ、
施しとか慈善事業をする対象のようなものとしてしか、
見られてなかったのかも知れないな、と。


とても残念に哀しく思いましたが・・・。
でも、たくさんよくしてもらったこと、
お世話になったのは事実で、そのことには今も感謝しています。
助けてもらったこと、親切に、優しくしてもらったこと、
想い出も大切なもので、それは忘れません。
もう二度と今生では会うこともないけれど、
彼女が心安らかに幸せであるようにと、祈るばかりです。



それに私のやり方が悪かったのは事実で、
とくに何も言わず、ただ距離を置いて、
仕事の関りを絶って、プライベートでも会わないようにして、
季節の便りをするくらいの関係にまで、
その程度のところまで、
徐々に静かにFOすればよかっただけのこと。


賢く、上手くやれなかった私のせいなのです。

伝えて相手がどう思うか、どう反応するかってことを、
考えられなかったし、予測するのを無視してた。

それもこれも、無駄なエゴイズム、
「欠点を伝えてあげるのも、相手のため」っていう、
へんな正義感ぶった、自己欺瞞な傲慢さ故の過ちでした。



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そんな過ち、若さゆえの愚かな選択、たくさんあります。

失敗も数えきれないくらい。

後悔してもしきれないこともたくさんたくさんてんこもり。

ちいとも、上手く世渡りなんて出来ていないのです。

反省、反省、また反省。

永遠に反省して反省して、後悔し続けるのかも知れません。

「後悔ばかりが人生さ」とは何かの映画であつたセリフだけど、
それはそれで困ったもので、そうはなりたくないものです。

せめて、今からは・・・これからは、
もっとまともな判断が出来る、理性的な大人にならないとネ。

てなわけで、永遠に修行中。

半熟な、三流セラピスト(ヒーラー)としての
みっともない、へっぽこ人生はまだまだ続くようです。



みっともない醜悪な姿を晒して、
みっともない恥ずかしい人生を生きてるって自覚はあります。

我ながら、本当にヘタレな人生で、
過去生にしても、今生にしても、
後退してばかりの、成長のない愚かしい人生ばかり生きてて。
胸張って生きて、自慢も出来るような人生なんて、
全然生きること出来ていませんし。
これといって人に誇れること何もないです。


さて、この人生に痛みをもたらしてくれた人たち、
私自身に苦しみを与えてくれた人って、
結局、過去の自分だったりするのです。
ディフォルメ化された、私の欠点を誇張して教えてくれただけで。
自分が引き寄せたトラブルや事象、
それは本当に私自身の内面にある問題が具象化されたもの。
内面の醜さや攻撃的な考え、否定的な想念が創り出したもの。

他者への批判は自己の正当化で、妬みや嫉みがあるから。

この人生で出会った、たくさんの人たちが、
私の映し鏡となって、苦痛を教える教師となって、
私の中にある色んな「エゴイズム」を教えてくれました。

そうした人々との出会いが私を成長させてくれました。

クライアントさんやレッスンの参加者たちの中に見つける、
その人の解消すべき問題は、かつての私自身の姿です。

私もまた、クライアントさんや生徒さんの映し鏡となって、
その人の内側にある、醜い姿、エゴイズムの在りかを
人としての姿を持って、知らしめ、教える存在でもあります。

そうやって私たちはお互いに学び合っていきます。

クライアントさん、生徒さんもまた私にとって、
教師であり、私に課題を提供してくれ、
私にたくさんの成長と内省の機会を与えてくれる人々です。


自分が感じている痛みは、
過去に自分が他人に与えた痛みなんですよね。

私たちはカルマのレッスンを、
人に与えたり、与えられたりして、生きている。
それがお互い様、でもありますし、因果応報とも言います。

人間は本当に弱くて強いものであり、
愚かでありながら美しくけなげでもある。

そして痛い思いをしても、人というのは、
なかなか経験から学習する事が出来ない生き物でもありまして・・・

その都度、反省したり、後悔しても、
また同じところで躓いて、何度でも過ちを繰り返してしまう。
自分でもうんざりするほどに。

その位、自分自身や人生を変えることは難しい。
一度の人生で、すべてを理解して、過去を清算して、
生まれ変わって一から、
別人のように理想的な人間に成長することは難しい。



ほんの10数年前まで、
私は本当にどうしようもない人間でした。
傲慢で、生意気で、何様な占い師で、
派遣の仕事をしていた際も、
対して仕えないクセに態度だけはデカくて、
愚痴と文句は一人前で社会性も欠けていて。
謙虚さのかけらもありませんでした。

感謝するって気持ちがなかったのです。

ヒーリングの仕事を始めてから、
エゴイズムの種が膨らんで、
スピリチュアルナルシズムがムクムクと成長し、
勘違いから鼻が伸びきってたなあ、と思います。

真理の勉強を始めてからも、
すべてを知った気になって、自惚れていました。
自分のスピリチュアルナルシズムの何たるかを知らず、
自分は浄化と解放と、気づきの日々を送っていると、
まったくの誤解をしていたのです。

それでも、少しの光明の中、
内省と挫折を繰り返し、今自分を冷静に見れていること、
ようやっとのこの地点に到達できたことを思うと、
一進一退の学び、エゴイズムのそぎ落としの日々は
無駄ではなかったと思いますし、

幼少期の体験からのPTSDを始めとして
自らの諸問題(性格の歪みや心の弱さ、憑依体質)を克服すべく、
スピリチュアルなワークやセッションを受けたり、
ヒーリングを学んで自分で取り組んだり、
真理の教えと出会って、学びに取り組んだことで、

時間とお金はかかったけれども、
自分はとても変われたと思うのです。

まだまだでトホホなところはいっぱいありますが、
スピリチュアルなワークや道において、
こうした自分を見つめ直す機会を持たなかったなら、
どうしようもない、自己顕示欲と自己承認欲求、
そして自己欺瞞と高飛車で自惚れでいっぱいの、
エゴイズムの塊な自分のままで老害をまき散らし、
昔以上に周囲に迷惑をかけまくっていたに違いありません。

そういう意味でこうして変われたことは大きいです。

完全に変われているかどうか、は判りません。
相変わらずだね、と・・・
以前の私を知る人は言うかも知れませんし。

それでも、自分を振り返ったとき、

「人は変わろうと思えば、
過去と決別して、変われるものだ」と思います。

もちろん時間は掛かります。簡単ではないです。
一日で欠点や問題とおさらば出来ることはなく、
年月をかけて、じっくりと取り組む必要があります。

人生そのものが癒しのプロセスで、
人と人の出会いとか、経験が、学びが、
その人を育てていくことになるのですから。

スピリチュアルなワークを受けたり、
そうした教えを学ぶだけで、変われるわけでもありません。

スピリチュアルなワークや学びを受けつつ、
日常のこと、人間関係のこと、
人生そのものに取り組むことが肝心だと思うのです。

ワークやセッションを受けること、
スピリチュアルな知識を学ぶことは、
現実生活(物質的次元)に現れている自分の内面の問題、
それらの事象との関連性や対処法としての取り組み方、
その問題が何故起こったのか、どう考えるべきなのか、
そうした現実との付き合い方や
物の見方(考えや感情の落としどころ)の手助けになるだけです。

別に知らなくても生きていけますが、
知ることで、新しい視野や着眼点を得ることが出来ます。

少なくとも私は、
このような角度から自分の問題と向き合うことで、
発狂することなく、この11年を乗り越える事が出来てきたかな、
と感じています。

すべての人が同じように益を見つけられるとは限りませんけど。
また、生徒さんたちが同じように感じてくれているとも、
そこはそれ、判りませんけれど(笑)

そもそもきちんと教えることが出来ていたり、
的確なアドバイスを与えられているとも、
その人が抱える問題を乗り越えるための
適切で効果的なレッスンを提供できているとも、
言えないのですけれどもね。

何しろ、三流の先生ですのでっっ


なんていいますか、親がだらしなく、
頼りないほうが、子供はしっかりするといいますから、
私があまり先生してないで、あくまで同等の仲間、
むしろ皆さんに世話を焼いてもらって
助けてもらうばかりのダメな反面教師ってほうが、
生徒さんはしっかりして、自発的になるかも知れませんね。
実際そうか。


確かに、自分と向き合うのは辛いし、しんどいことです。
自分の中の「恐れ」を知って、
心とか精神を鍛えるために、弱い部分をそぎ落とし、
ひたすら己が欠点で人生の障壁、問題として現れている、
周囲に痛みをもたらしているエゴイズムを捨てていく作業は。

霊的成長と一口に言っても、
自分の闇の部分に光を当てて、
心のデトックス、醜い心のお掃除をしていくことですから。
見たくないものをいっぱい見ることになる。

でも、それをしないと、人生を変えることは出来ない。
自分自身が変わらないことには、
過去を乗り越えて、新しい人生を生まれ変わって
生きることは出来ないので、「生みの痛み」は必須で・・・

でも、そこを抜けたら、生きることがラクにはなるのです。


自分を知ること。

本当の自分の姿を知って、本当の望みを知ること。

そこがすべての始まりであり、帰結する場所でもあります。


変わろうと思ったら、勇気が必要だけれども・・・
変わらないことには、何も始まらないのです。

自分が変わればすべてが変わる。

これは本当です。

何よりも私自身が実感しています。

それを知った11年でした。

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