2018/10/30

吸収された他者の記憶

先に書いた記事の続きというか
延長線上で書いていますが、内容自体は関係ないかも

★ ★ ★ ★ ★ ★

人というのは、信じたいことだけ信じ、
自分が見たいと思うものだけ見て、
聞きたいことにしか耳を傾けない生き物だ

事実を聞かされたとしても、
受け入れられないことは拒絶し、
認めたくないことを決して認めようとはしない

良いとか悪いとかではなく、
それが人の心理的抵抗というもので

理性よりも感情が勝っている人にとっては、
個人的主観というものが何物にも優先されるから、
客観的に物事を図ることが出来ないとしても、
他者のことならともかく、自分のことに関しては、
物事への初期反応として、しごく当然のことであると言える

心が納得できるか出来ないかが、すべての判断の鍵になるので

★ ★ ★ ★ ★ ★

記憶と言うのはあやふやなものだ。
過去記事「記憶は嘘をつく」にも書いたことであるが、
当人が記憶していることというのは、
客観的な事実とイコールとは限らず、
あくまで当人が
そのように「思い込んで」いることにしか過ぎない

とはいうものの、過去生セラピーの現場にあっては、
真実がどうであったか…
ということを明らかにすることが目的ではなく、

それが事実とはかけ離れた虚構であったり、
勘違いや思い込みなどの偽りの記憶であったとしても、
当人が記憶して(思い込んで)いる頭の中にある物語や
体験からの心理的反応によって引き起こされた、
現代の人生に良くない影響を及ぼしている陰を極力取り去り、
問題を解決することが肝心なので

とはいうものの、当人が
「この朧げな記憶のようなものが、
事実(真実)であったのか知りたい」
という場合には、また話は違ってきてしまう




ある人が、
「子供の頃から、こういう夢をよく見るんです。
 そして何故か幼少時から、
 とある実在の、あの有名な少女がした体験に、
 心を惹かれるというか 強く関心を持ってしまい、
 自分が彼女だったとは思わないけれど、
 もしかしたら過去生で彼女と同じような立場で、
 似たような体験をしたのでは?と…」
当方を訪ねていらした。

だが残念ながら、私の見立てでは、
「その記憶は間違いなく、あなたの前世の記憶で、
 彼女と似たような経験をなさっているようですね」
とは言ってあげることは出来ず、
その方自身の推察を肯定することは出来なかった
(たぶん納得できなかったと思う)

とはいうものの、
あながち間違いということはなく、
その記憶が誤りであると、
と全面的に否定出来ないのもまた事実

しかし、ちょっと複雑で、
霊的真理の知識を学んだことのない人には理解しがたく、
事前知識のない人には説明しがたいものであったりした

単純に言うならば、
その方が自分の過去生ではないか?と疑われる、
史実的に有名である某少女と同じ時代に、
某少女と同様の体験をしたであろう、
その「少女」は確かに存在していた

けれども、
その少女は訪ねてきたその方自身ではなかった
同一人物ではない…のである

ではどうしてこの記憶のような確証が、
暗闇の中で怯え、
隠れ暮らす人生の記憶があるのか…
息の詰まるような閉塞感と絶望の影が、
今も心に残るのか…

実はその少女は、その方の当時の娘であった
(その方自身の体験ではなく、娘だった人物の体験)

その方はふたつ前の人生において男性で、
その少女の父であったのだが
戦時下において生き別れとなり、
少女と母は生きるために隠れ家に住むこととなった
父であったその方は捕虜として殺され、
某所に埋められることとなった
長らく発見されることのない、森の奥深い場所に…

しかし、肉体は生命活動を停止しても、
その霊に死はなく、生きているのである
(サイキカル体とノエティカル体は残っている)

父は妻と娘を捜した 
会いたいと思ったから

皮肉なことに肉体を失くし、
三次元に縛られる存在で無くなったことで、
霊は行きたいと思う何処にでも行ける

空間や物理的存在の障害や縛りがなくなった父は、
すぐに妻と娘を見つけた

けれど、
物理的存在としての姿を持たぬ父に、
妻も子はもちろん、誰も気づかない

妻と子の苦しい生活に寄り添い、
悲しい気持ちを全身で感じながら、
父は数年を妻子とともに生きることになった

つまり父は、家族としてそこにいて生活し、
母子と体験を共有したのだ


それが、
今生のその方の「想い」の正体であり、
哀しみの記憶の出どころ 

ではなぜ、
父性を持って親子に寄り添っていたはずのその人が、
共にそこに「父」として、家族として、
見守っている立場で、気持ちであったであろうに、
自分の立場と「少女」の立場を入れ替えて、
自分自身こそが少女であると錯覚し、
そのように視点を間違えて、
感情移入した記憶を所持していたのか…

それは別の人生、もっと前の人生で
親を亡くした孤児の女の子として生まれ、
とても酷い、劣悪な環境の中、
まるで山椒大夫のような極悪非道な輩の手によって、 
半ば監禁されているような生活を、
強いられていたことがあったからである

(ちなみにこの時、彼女は自分を捨てた親を恨んだが、
その親も子を捨てたのではなく、事情があって、
出稼ぎ労働的な状況下で命を落としていたのだが、
現代と違って、そうした連絡が行き届くはずもなく、
福祉的な援助や行政のサービスがあるわけでなく…
決して親が子を捨てたわけではなかったのだが、
そのような親の立場からの事情を知るという意味での、
逆の立場を経験する人生のレッスンでもあった)

なので、一つの人生の記憶ではなく、
肉体を失くして霊となった後に創られた記憶と、
その経験からフラッシュバックさせられた、
別の人生のトラウマ的体験の記憶と、
そういうのがごちゃまぜになって出来た記憶

これを説明するのはとても難しい

人は肉体を失くしてからも、生き続ける
「死」というのは実質ないので

さて、過去記事でも書いてるけど、
記憶とは「エレメンタル」のこと

「エレメンタル」は、
肉体と感情体と思考体の三つの身体によって創られる

肉体は行動の記憶を(肉体を使ったり、動かすデータ)
感情体は心の反応、喜怒哀楽の記憶を
思考体は知識や情報、頭脳労働といった思考の記憶を


肉体が消滅しても、
肉体が創る記憶の玉たる「エレメンタル」が
創られなくなっただけで、
感情体と思考体は「エレメンタル」を創り続ける
むしろ、肉体があったときより感情はより強烈で、
暴走しやすく、激しやすいし 
より過敏でセンシティブな状態になる

ようするに理性のブレーキ働かず、
感情がよりいっそう剥き出しになるんである
エキセントリックでヒステリックになる傾向で…
だから、肉体があったときよりも扇情的というか
創られるエレメンタルの質としては暴走系が多くなる

まるでイタリアオペラの主役たちみたいに、
ナルシズムに自分の置かれた立場に耽溺して酔いしれて
大げさなエレメンタルもたくさん創られてしまう
(マジ困りもの)

肉体がある時でも、
思考体よりも感情体優先で創られる
エレメンタルのほうが多かったりするのだが、
それが感情体と思考体だけになってしまうと、
困ったことにさらに顕著になる
感情体オンステージ! みたいな…

いわゆる
次の人生(転生)までの間の「中間生」って段階で、
(別の言い方では「霊界」在住時とでも)
この間にも人は様々なことを体験し、
体験したことに対して反応し、思考し、
結果として
「記憶」というエレメンタルを創っていくんです

その時創られる「記憶」があるから
過去生体験的な施療、
前世療法とかヒプノセラピーとかで混乱が起きる
矛盾した記憶があったりしてね
(例えば、
過去生の人生を年表に書き起こすとするならば、
この人生とこの人生を繋ぐミッシングリンクに、
この記憶がはまるとするならば、年齢的におかしい、
人生が重複するのでヘンだ…みたいな事が起きる)

ようするに、死んだ後に背後霊となって、
(日本におけるスピリチュアリズムの言い方)

自分の子供とか身内を見守っていたり、
血縁者でも縁もゆかりもない人に対して、
家庭教師のように善意からサポートをしたり、
あちこち浮遊していたり、今生を振り返ってたり、
自殺して地縛霊になって、何度も自殺を試みたり、
悪霊になって生きてる人に悪さしたり、復讐したり、

そんなのもぜーんぷ、
「記憶」としてのエレメンタルになる なっちゃう

物理的な肉体を持った存在として、
この現実社会を生きていないんだけど、
その人の「生」たる人生は続いているから

で、
他人の背後霊として、
(英語圏だとスピリットとかガイドとか)
誰かのサポートを数年していた場合、

たまーに、肉体を持っているその人のことを、
自分と錯覚しちゃうようなことが起きるのです
まったくの別人なんですけどね

ていうのも、
自己意識たるサイコノエティカル体
(第四の身体で六次元の身体)
が未成熟な人は、
(すなわち感情体であるサイキカル体と
思考体であるノエティカル体が未発達で
霊的成長がまだまだの人)

何故か、
カタチあるもの…形骸である肉体に執着するのですよ

だから、たまに人形とかぬいぐるみとか、
絵とか写真(ポスター)とかに、
入り込んでしまう霊(感情体と思考体だけの存在)が、
いたりするわけです
(それが災い的な心霊現象起こすから困ったもん)

「これが自分だ」と…
自分でも他人にも知覚してもらえる、
三次元の物質(人の姿をしたもの、近いもの)を
欲しがるんですね 
本当は欲しいのは肉体でしょうけど

たまーに動物にくっついている人間もいます
「私の前世は犬だった」「自分イグアナ姫でした」
みたいに、
自分が過去生で動物だったという人は、
こうしたパターン
(動物が人間に転生することはないし、
人間が動物に転生することもないので)

誰かに憑依していた期間も、
「前世」みたいにカウントしている?
いやさ「前世の記憶」として
錯覚しているケースあるんで、

「いえ…あの それはあなたが悪霊になって、
 取りついた人を困らせて、不幸に陥れてた時の、
 そのあなたの被害者たる方の記憶ナンですが」

ってのもあったりします

逆の立場で思い出す人も多いですよ

「私は過去生で男性に酷い目にあわされた」
って、
自分が今の人生で男性を苦手とする理由を、
自分は男性から性的被害を受けたからだ

…と思い込んでいる人がいましたが
それは妄想でかなりの間違い

男性を忌避し嫌悪する理由は、
自分が好きになった人に相手にされず、
振られた腹いせに、
「彼に乱暴された!」と騒ぎ、
相手を醜聞騒ぎに巻き込んだものの、
自分も結果的に評判落として、恥かいたんで、
自己肯定をするために
記憶の操作(誤作動というか書き換え)が起きたんです
(自分が悪いわけだから反省すべきところを
トラウマとして傷ついた記憶にしちゃってるんで厄介)

でもそうした自己保身、
自己弁護の気持ちが自動的に働いてしまうのは、
仕方がないです 人は弱いものだから
誰だって自分の悪いところは直視したくないもので


夢見る夢子ちゃんなクセは、
そういう痛い目にあっても、
なかなか学びを得ないことには、
そうそう治らないものだな~と
様々なこういう事例を見るたびに痛感します

(まぁ一言でいえば、
決して過去生に原因があったわけでなく、
その思い込みの激しい性格が、
今の生きづらさを創り出しているんですよ、
で片付けられちゃうかな)


そのような記憶の混在、混乱は多々ありますね
過去生リーディングをする人の側でも、
こうした事例を見抜くのは困難かと思います

セラピスト自体が、
クライアントさんが所持している記憶に騙されちゃうので

でも、まあ 冒頭でも述べたように、
過去生療法の現場やチャクラヒーリングにおいては、
何が真実なのか、
その記憶やクライアントに貯めこまれたイメージが、
事実であるのか否か、というのは大した問題ではなく、

肝心なのは、
クライアントの問題行動の原因を取り除いたり、
トラウマとなっていたりするシャドウセルフや
抑圧されている感情を解放することだったりしますので、

それがニセの記憶であろうが錯覚だろうが、
勘違いだろうが混在した他者の記憶だろうが、
追及することに関しては意味のないことです

クライアントさんにとって、
害のあるデータであるかどうかが論点ですので

ただ、それをむやみやたらと取り除くことが、
当人のカルマのレッスンに取り組む機会や、
霊的成長のための体験や
学びのチャンスを阻害することであるならば、
それは上手くいかないことでしょうし、
クライアントさんのそのような問題が、
このような記憶の混乱の原因であるならば、

自分に都合の良い記憶の作り変えに対して、
(それをやってしまう手前勝手な自己中さに)
ガツンと指摘しないといけないです

★ ★ ★ ★ ★ ★

さて、てな感じで、自分を主役にして、
ドラマチックに物語を作っちゃう人はたくさんいます
そういうつもりがなくても、
ほぼ無意識的に人ってそれをやっちゃうんですよね

別に過去生に限ったことでなくて、
今の人生でもそれをしている人はたくさんいます

いつでも自分が被害者な人とか…

とくに恋愛ではそうですよね
みんなドラマを勝手に創って演じてしまう
自分本位なストーリーで、
相手がシナリオ通りに動いてくれないとキレるし(笑)

相手の気持ちが知りたいといいつつ
相手に自分の気持ちを尊重してほしいだけだし
わかろうとしてないし みてないし

てなわけで、私は仕事で恋愛の相談は乗りますが、
プライベートで友人の恋愛相談は受けません
恋愛に関する話は聞かないよ~って断ってます
聞いてもしょうがないし 
そもそも相談のようで相談じゃないですもの
何をどう話しても 同じ話エンドレスの無限ループで
本気のアドバイス求められてないのわかるんで


はい、歴史は繰り返されるものです
人間は何千年、何億年生きても、
恋愛の前では、色恋沙汰では進化しない
永遠同じパターンを繰り返すもんだなあ…
としみじみ思います

先日のクライアントさんのケースだと、
やはり自分が死んだときの状況を、
間違って記憶している人がいました
(エレメンタル情報)

その人生でのその人は、
結構大きな屋敷の使用人で
なおかつご主人の愛人だったんですが、
金目当ての盗賊が襲ってきて、
いの一番に流れ弾に当たって死んでしまったんですね
だけど、何がなんだかわからないまま死んだので、
「盗賊が放った銃」によって自分が撃たれた、
という事実認識がなく、従って

自分の存在を煙たがるようになっていたご主人に、
「殺された(消された)」と誤解していたんです。

その人の霊性(霊格というかサイコノエティカル体)
の状態では、肉体を失くした後、
現実である三次元の状態をきちんと知覚できなかったので

てなわけで、
「私はご主人に銃で撃たれて殺されて 
 そのまま庭に埋められた
 コンチクショー!!」
というストーリーになっちゃった
(なぜ、どうして そうなった)


本当に記憶っていうのは、
その人がどう感じるか、どう記憶するか、
にかかっていると、その一言に尽きます。

疲れたから ここまで

知らぬが仏

今回はblogの主旨や内容とはちょっと異なる話。
どうでもいい、独り言です。

我が家にはテレビがないので、
空いている時間は、よくYoutubeを見ているのですが、
一時なんてことない、
とある人が料理を作っていて、
その家の窓からのぞく風景とかお天気の様子を
日記のように綴った、まるで童話のような動画…
にはまって、ほっこり癒されていたのですね。

何て言いますか、レシピ動画ではなく、
単純に料理を作っている手元を映しているだけの動画
それだけなのに、すごく伝わってくるものがあるんです
毎日を丁寧に生きる大切さ、その良さを教えてもらった
そんな清々しい優しい気持ちになれるのです

で、基本的には手元しか映っていないので、
コメント欄に書かれていることを見ますと、
皆さん、その方のことを
女性だと思われているみたいなんですね

ご本人、性別は書かれていないし、
とくにそうしたことを語られてないんですけど、
一回だけおっさんです、とレスされている箇所があるのと、
ガスレンジ横のステンレスに姿が映っている回があって、
男性だなってのが判るわけです

あと、そこ見なくても手と骨格かな
手首の太さとか、そういうの見れば
女性としてはがっちりしていると気づけるかと

であるのにも関わらず、
料理動画=女性という認識つーか先入観で、
書き込みをしている方が多いんですね

「すごく量を多く作りますね」
「ご飯てんこもりに食べる、あなたが好きだ~」

そりゃ男性ならそのくらいの量、
ふつー食べますって、量なんですけどね
むしろ少ないかな?って、ハイ

でも、私も最初は女性かと勘違いしていました
動画の構成というか作り方が女性的ではあって、
何となく一人暮らしのナチュラル志向の女性
そういう人物像をイメージさせる動画なので、
フィルターかかっちゃって先入観から、
女性にしては指関節がややごつくて、
手首も骨太でってのが目に入らず、スルーされてしまい、
女性にしか見えなくなってしまうのかな

とはいうものの、
性別でどうのこうのは動画の内容には関係ないですけど

そして、
一人暮らしを愉しんでいる独身女性の日常のヒトコマ
と思って、
そういうお料理好きで家庭的で、
華美な贅沢はしない地味で華奢な女性を、
イメージしている人に、あえて、
「この方、男性ですよー」と伝える必要もないのであった



で、
こんな風なネットの向こうでの勘違いから、
ふと思い出したことがありました。

それはバブルの少し後のこと。
新聞だったか、車内購読紙だったか、雑誌だったか、
何かの記事だったかは忘れてしまいましたが、
読者さんの投稿で新幹線にまつわる、
思い出かエピソードを綴ったものでした。

どんな文章だったか詳細は忘れてしまいましたが、

「バブルの頃、大阪に出張に行くことになったが、
 その時、新幹線で『お隣、よろしいですか?』と、
 隣に座ってきた女性と言葉を交わし、
 自分が大阪に今夜は宿泊するのだというと、
 『自分も大阪に行くので、夕飯をご一緒しませんか?』
 と誘われ、ドキリとし、一瞬迷ったものの、
 何時に仕事が終わるか判らないし、
 既婚者であることもあって断った
 けれど、後で宿にチェックインしてから、
 OKと返事をして一緒に食事をしていたならば、
 何か旅先での一夜の夢のようなことが、
 自分の身に起きたのかも知れない…と、

 ちょうど巷では「失楽園」など、
 渡辺淳一氏の不倫ロマンスものが流行っていた頃で、
 そのような作品の内容が頭をよぎって、
 そうした小説のようなことが、
 自分に起きたかも知れないのに、
 融通の利かない性格から、
 もったいないことをしてしまったのだろうか…

 だけどそういう小説の主人公のような、
 たまたま隣り合った、
 見知らぬ女性に声をかけられるという稀有な体験、
 もしかしたら旅先の恋になり、
 そこから始まったかも知れない出逢いが、
 自分にもあったというのは、今では良い思い出である」
 
なんかまあ、そんな内容でありました。
不倫は美化しちゃいけませんけど…
当人的には「ちょっとドキドキした想い出」
忘れられない旅先での出会いで、
目を細めて眩しく思い出すことなんでしょうけども

「ああ、この人って…

  知らないって
 実に素晴らしいことだなあ」

 と、思いましたのよ。

はい。

バブルの頃、新幹線売春てのがありました。
今もあるかどうかは知りません。
(JRが対策に乗り出してからほぼ壊滅したと思いますが)

はい、この人の体験てソレです。

新幹線の自由席に限るんですが、
単身で出張していると思われるであろう男性を見つけると、
「隣、座ってもよろしいですか?」と声をかけ、
目的地を聞いたり、ホテルを聞き出して、
「ご一緒しましょう!」ということで、
観光を一緒にしたり、
同行者ということで相手のホテルにinして、
お金を請求するお商売が。

いかにもソレに引っかかった…
いやさ引っかかる直前だったんだなあ、この人。

でも、
そういうのがあるってことを知らない、
この人にとっては「旅先の美しい思い出」
新幹線の中での美しい女性との出会い
に美化されているんだー

わかる人にはわかるけど、
わからない人にはわからないから、
まっいっか、ですが。

しかし、この投稿の掲載を決めた編集さんは、
こういう商売が世の中にあったことを知らないのか?
とも思いますが。

こういうお商売が世に存在していたことを知ってる人や、
実際引っかかって痛い目にあった人たちからすると、
「アイタタタタ」って、
ひきつりながら苦笑して読んでいるんだろーな、と思った。
(ふつーみんな声かけられた時点で、
 素人ではない商売女だって気づいて、
 話に乗るんだけど、気づかない人は、
 後で料金請求されて揉めることもあったらしい)


世間知らずと言えばそうで、
とはいうものの、
一概に知らないことを責めることも出来ませんが。
けど、不用心なのもどーかなって。
(当時の新幹線売春に関しては、
大手なんかだと注意勧告する会社もあったみたい
ま、出張で会社が宿泊費出しているのに、
んなことするなーってのはありますものね
でも確か、
大きなニュースで騒がれたことはないように思う)

そして世の中には色々なお商売があるというか、
手を変え、品を変え、
時代に適応して、あらゆることを商売のタネにする、
そういう人たちっているもんです
(オレオレ詐欺も最近は電話やメールでなくて
ハガキで総務省を名乗ったりするらしいし)

ちょっと考えれば「おかしい」って気づくようなことですが、
脳内フィルターがかかってしまうとお花畑になってしまって、
なんていうか、
自分に都合の良いドリームな物語に、
ドラマティックに演出されてしまう…ってのは、
どうしてもあるんですよね

結局、その人が「目の前で起きている事象」を、
どう捉えて、事実に認識して、感情が反応するか、
だけだから。

まあ、
この人が今生で真実を知る機会があるかどうか
その後で誰かに指摘されたかどうか知りませんが
知らないままなら知らないほうが、
夢は夢のままで美しく彩られた、
平凡な日常に訪れた、一片のトキメキを伴った出来事として、
宝石箱のように胸にしまっておいたほうが
この人にとっては幸せなのでしょう

そういうことが世の中にはたくさんあります

2018/10/16

家族を守護する家のオーラ~空き家は魔の巣窟

自分語りからになりますが、
子供の頃、真夜中に外に出て、星を見るのが好きでした。
今は東京で昼間の月も夜空の星も見る機会がほとんど皆無で、
実家はなんだかんだ関東の千葉の工場地帯でしたから、
せいぜい一番星二番星といった、
特徴的な星や星座が見える程度で、天の川などは見えず。
それでも近所の空地や駐車場や車の屋根に寝そべって、
仰ぎ見る宇宙には格別のロマンがありました。

眺めていたのは星空ですけど、
わりと頻繁に見ていると、
満月や新月の時は空気が違うというか、
実に不思議なものを視ることがありました。
私の住んでいたのは、
普通の二階建や平屋などが並ぶ住宅街ですが、
当時はまだ自然もたくさん残っていた時代のこと。

満月の夜には、
立ち並ぶ木々たちが落ち着かないソワソワした様子で、
みな一様に背伸びをしてグーンと伸びているような、
そんな風に見えたのです。
木々は昼間は寝ていて、夜には起きるのですけど、
満月の日だけは、テンション高くなってる?
そんな感じで。
木が背伸びをするなんてことはあるわけないのですが、
なんかまあ、そのように見えたのですね。
あくまで例えての言い回しになりますが。

そして、
伸びをしているのは、樹木たちだけではなくて、
なんと家も、だったのでした。

そのころの私は
「人間」のオーラは見た事なかったのですが、
家にもオーラのような光があるのは解っていました。
昼間には分からないのですけど、
夜そうやって宇宙を眺めに外に出ていたりすると、
それぞれの家が何故か白く発光しているというか、
家を取り囲むように白い煙のようなものが、
1mくらい?かなもやっとしたものを見れたんです。

でも、それは
人の住んでいない空き家にはなかったんです。

そしてそれには強弱というのかな、
家から出ている(家を包んでいる?)
光が大きい家、小さい家、弱い家、
光が薄い、濃い…てな具合に色々ありました。
(当時は昼間でもその家の人に何かがあるときは、
見たりすることも出来ましたから→お葬式が出る等)

で、満月の時に、各家から出ている、
その光(オーラ)がびょーんとまた伸びるんです。
木々と同じで、上にまるで手を伸ばすかのように。
まるで月に向かって伸びをする感じ?
(「もっと、光を!」って感じだったのかなww)

人の声も音もないけど、そうした夜は賑やかで、
植物も「家」もザワザワ、ソワソワしていて、
落ち着きなく忙しない感じで(ランランとした感じ?)、
見ていると本当に不思議で面白くて、
何をしているんだろうなあ?
あれをすることでどうなるんだろうな?
と思ったものです。
誰も答えはくれませんでしたが。

鉄筋の家もオーラはありましたが、
木造の家ほど顕著で解りやすかったです。

でも、家が壊される前とか、
植物や樹木たちが伐採されてしまう前とかは、
数か月前から、お通夜みたいにシーンとなるんです。
満月の夜もとっても控え目になって。
後になって、ああそうだったのかと、
そう気づくことになるんですけど。


今は、私が見た「家」のオーラは、
まさしくその家の人たちの「氣」で、
オーラそのものだったのだと理解しています。
住んでいる人たちの「氣」が家にも貯まるんですね。
そうやって家も呼吸して、栄養を得て、
大げさに言うと、生命を宿しているのだと…
そして家もまた、住んでいる人たちに、
「氣」を分け与えているんです。

そういう意味で「家」とそこに「住む人」は、
お互いに持ちつ持たれつの相互関係があり、
「氣」を循環させて共存しているのですね。

昼間も太陽の光から、家も人も、
氣(エーテルバイタリティー)を吸収しているけれど、
満月の日の月光浴は、太陽の出ていない間、
家が月を経由して地球に届く、
「氣」を取り込んでいたんです。

きっとそれは住んでいる人たちのために…


人が住んでいない家はダメになる。

よくそう言われます。

それは換気をしないから湿気がこもって、
建材などが痛むからだと、
あと掃除やメンテナンスが行き届かなくなるから。
確かにそれが一番の理由でしょう。

でも、どうもそれだけではないようなのです。

「家」に命(氣)を与え、
吹き込む「人」がそこにいないから…
「家」にとって、共に生きていく共存者、
家族としての「人間」がいないからなのかもと、
私は思ったりします。

生きている人が住んでいないと、
きっと「家」も寂しいのでしょう。


(たぶん、家運というのがあるなら、
私が見た、その家から放たれている「光」
のことなんだろうなって思います。
誰か亡くなったり、事故とか色々あった家は、
その「光」が消えたり小さくなりましたから。
また代々続いている古い家とかだと、
家の奥にまた別の光の塊があって、
それはきれいなものもあるけれど、
ほとんどが汚れた感じの重いダークなものでした。
そっちは先祖代々受け継がれる家の因縁とか霊脈とか、
家系のグループエレメンタルだったんでしょうね。
仏壇や家宝と言われるものの品々や、
家長さんの後ろにそれはあったりしました)



話変わって、

やはり長いお付き合いの、
クライアントさんのセッション時。
家が色々とまたお掃除が必要だねーなんて
話になりまして。

その方の住んでいる家は木造の貸家で、
アパートというより、二世帯住宅のような、
一階と二階にそれぞれ別世帯が入る戸建てでした。

「家に来る人が、
 なんか家に来ると落ち着かないっていうの」

原因としては、
部屋の中に迷い込んで来た元人間とか、
誰かが創った良くないエレメンタルとか、
よくある雑多なそういうのみたいで、
普通は風通しをよくし、太陽光をいれることで、
時間の経過とともに消えていくような、
力の弱いものたちですけども。
どうしても日当たりがよろしくない北向きの部屋に、
そういうのがたまってしまっていたようです。

ですが、その家だけでなくて、
どうもその方の頭の上、二階が気になる。
聞くと、
前の住人が出て行って、今は空き部屋とのこと。

「結構、長期間空いているんですよ」

まあ、他にもたくさんキレイなアパートや、
安くて設備の整ったマンションもありますし
古い家で設備も新しくないから、
いまいち人気がないのかもね~という話なんですが。

ちょっと気になるので見てみると、
なんかビュンビュン走り回っている。

クライアントさん曰く、

「時々、
 二階から家鳴りとは違う、なんか音がするんです。
 誰も住んでいないんですけど…
 それが夜うるさくて、落ち着かないときが」

とっさに世界仰天ニュースみたいなので見た、
勝手に人の家の屋根裏部屋に住みついていた人や、
2chのまとめサイトで読んだ、
他所んちの空き家に勝手に住みついている人…
なんかを連想したんですけど。

いやさ、これ「人」じゃない。

浮遊霊というのもいるっちゃいるんですけど、
もっと数が多い、小さくて長いのがたくさん。
ハクビシンみたいなの。

まあ、ホンモノも東京にはいて、問題になってます。
聞いた話では天井裏に住み着いて家をダメにされた、
とか、都内でもアルアル獣害で、そっちのナマモノ、
つーかリアルハクビシンの方だったらば、
駆除してもらわないといけないところですが。

でも、どうやら生き物ではない。
…エレメンタル、動物霊の方でした。

人が住んでいない「空き部屋」ということで、
勝手に住み着いたらしいです。
階下の部屋には人住んでいるんですけどね~。

とりあえず、お掃除するしかないです。
(これも駆除なのか)

その後のお話を聞くと、
「音が止んだ」ってことだから、
まあ、見立てがあっていて、対処法も成功ってことで、
解決で、めでたしめでたし…なのかな。

ただ、その後も、誰か住人さんが住むまで、
空き部屋である間は、
時おりチェックしないとダメかもー
という話でした。


てなわけで、空き家や空き部屋には、
下手をすると、眼には見えない住人や何かが、
居ついてしまうことがあるって、
そういうお話でした。

汚部屋や汚屋敷や汚フィスなんかも、
人が住んでいたとしても、
必ずと言っていい割合で、
色んなよろしくないもののたまり場、
悪の巣窟みたいなところは多々あるけど。

一件丸ごとではなく、
アパートなんかの一部屋だけでも、
そうなっちゃうんだー 
というのを知った次第です。

まあ、共同住宅では、
いくら自分とこがキレイにしていても、
隣の住人が汚部屋にしていたり、
ネガティブ思考の人で、
ネガティブエレメンタル製造機だったりした日には、
自衛は難しかったりしますけどね。

3mくらいの距離でも、
隣の人のエネルギーは侵入してきますから。
(だから寝室の場所は考えないといけない。
隣家の寝室とは隣接しないようにとか、
道路や廊下など人が良く通る側にベッドを置くのは、
避けるべきなんですね。
都会の単身住居では難しいけど)

共同住宅では、どんな人たちが住んでいるか、
で建物のカラーが決まるから、
そのカラーに染められたり影響も受けたりします。
だから、「運気」を気にするなら、
どんな人たちが多く住んでいるかも重要。
土地との相性、建物との相性も重要ですが。

深い瞑想をする人が一人、
その地域(半径100m位もしくは一区画)にいると、
その地域の人々の精神は安定し、平和になる。
とは、よく言われること。
でも、その逆もあるんですよね。

共同住宅に住む人、
戸建てであってもミニ一戸建てみたいな、
狭いエリアに立ち並ぶ建売住宅なんかは、
左右前後の家の影響も受けざるを得ず、です。

そうならないためには、
自分の家の敷地内あるいは部屋の空間に、
自分の強い「氣」を放出するまでまんべんなく満たし、
左右前後上下の住人の「氣」やそれ以外のものが、
自らの居住エリアに進出し、侵略してくるのを、
頑張って防ぐしかありません。

とはいうもののの、それ以前に
自分の家の全空間を活気ある生命エネルギーで満たし、
水回りなどデッドスペースなどに、
ヘンな居候がいつの間にか居ついてしまわないよう、
防御策を練らないといけませんね。
(ここら辺、悪いものがたまらないようにするために
考えられた建築学、生活の知恵が本来の風水や家相)

てな感じで、空き部屋恐るべし。

今都内も空き家問題があったりするわけですが、
どんだけの動物霊や浮遊霊たちが、
そこにたむろってるんだろうなーと思ったりもします。

まあ、
霊やエレメンタルのいない場所なんてのが、
そもそもなくて、珍しいわけですけども。


(地下や地下街などは彼らの絶好の居場所で、
浮浪者の人は当の本人知らずして、
ペット飼いな人ばかりでおじゃりまする)

動物は好きですけどね、うむ。
動物霊=悪っていうわけでもなし。
彼らの存在そのものが邪悪ってわけでもない。
結局は創った人なんだよなー
(お稲荷さんに挨拶に行くと、その後に
他人から食べ物をもらうことが多い私)


そして、活気のある、
とても強い光を放っている家は、
だいたい「家族」の仲が良く、
いつも笑顔で暮らしている温和な人たちの、
その「笑顔」の波動が光の源なのでした。

2018/10/12

Imagine~ウォーよりショーを!~War is over

今月10/9はジョンの誕生日だったので<タイトル
そんな私はビートルズファン(好きなのはジョージ)。


エゴは自我、エゴイズムは自分主義。
両者は混同されて用いられることが多いが、
(エゴをエゴイズムの意味合いで引用している人が多い)
意味としては対極になる。

エゴがI am…「我故に我あり」であるなら、
エゴイズムはジャイニズム(ドラえもん参照)じゃなくて、
I'm justice,I am the rule books!という「自分至上主義」
まあ、天上天下唯我独尊、地球は自分のためにあるって思考。

このエゴイズムによって創られたエレメンタルは、
創った本人と同じ知性を持っているので、とても厄介。

世の中には、
このエゴイズムに騙され、唆され、操られ、
エゴイズムによるエレメンタルの目的を叶え、
欲望を満たすがためだけに、
奴隷のように生きている人ばかりである。

人の霊的進化(成長)は、5段階に表される(ヤコブの階段)が、
最初この世に人間として生まれ堕ちた時はまず、
人としての生存本能に従って生きるところからスタートして、
次には無意識で生きる
(自らが創ったエレメンタルを使って)ことになり、
そこから「知」を得て、意識が目覚める段階へと進み、
意識的に生きることを何度も反復して学びつつ、
やがて覚醒して、超意識を得て光明へと至ることになる。

とはいうものの、未だこの地球には、
本能と無意識で生きている人々がほとんどで、
圧倒的大多数と言うか過半数以上がそうなので。
地球自体の霊性はとてつもなく低いと言わざるを得ない。
実際、地球は劣等生の集まりで落第生ばかりなのである。

少し前の流行で、スピリチュアル・ミーハーな人たちが、
次元上昇(アセンション)だの何だのって騒いでいたようだが、
残念ながら、私たち人類(地球人は)意識低い系のままである。
ぜーんぜん意識高くなーいっっ
(女性の方が男性より柔軟で精神重視志向の人が多い)

別の角度から見た時にも、
この地球上の価値観は原始的な物質主義に縛られたままで、
各国のジャイアニズムが牽制し合って、
力を誇示し、覇権を争ったり、
自国の利益ばかり優先した結果としての世界情勢。



サイキカル界、ノエティカル界のレベルの7段階は、
しばし、
7つのエーテルセンター(チャクラに対応する)に対応し、
比例して語ることが出来るが、
現代の地球の価値観はようやって近代に至って
第三チャクラ(自己)に表される、
個人の時代にようやく到達したところで、
他者との感情や体験のシェアリングを味わえる、
第四チャクラ…他者と共有する愛の時代には未だ遠く、
そこに至っている人は少ないのである。
ていうか、それ以上の人は少数派(マイノリティ)で、
自分至上主義的な社会のイデオロギーの中では、
居心地がとても悪く、生きづらい時代と言ってもいい。

今はまだ不安と恐怖が人を所有へと駆り立てる、
パワーの時代(力で弱者を制する時代)であって、
愛と智慧が足りない時代であるし。
芸術や教育、体験的な経験よりも、
物質的至上主義であるので。
目に見えないものに価値を置き、
美を愛でたり、それらを大切にしたり、
自らをクリエートして生きようとする人々は、
呼吸が出来、自分らしく生きられる場所を求めて、
偏見や孤独の中、彷徨っていたりもする。


それでもまだ世の中は、数十年前、数百年前より、
確実に「良くなって」いたりするのである。

斎藤一人さんの著書かから言葉を引用させて頂くと、
いわゆる"生成発展"というやつで、
「人類の歴史は始まったときから、
 ずっと、だんだんよくなりつづけている」ので。

確かにそれはそう。
今の世の中は、過去の人類すなわち
私たちの過去生だったり、
先祖だった人々が願った未来。
あらゆる人々が制限のある現世をあきらめつつも、
子孫に希望を託した結果や来世であって、
こんな世の中を変えたい、社会を良くしたい、
こんな人生は、生活はもうイヤだ、
と思ったことから思考し、行動したことが、
社会を創ってきたのだから。

四次元の世界での空想、
五次元の世界での思索、
それによって創られたエレメンタルが、
グループエレメンタルとなったり、
発明やアイデア、インスピレーションの種となり、
誰かに拾われたり、大勢を突き動かす原動力となって、
三次元の世界に具現化されたものが、
物質社会を形作る構成要素となり、
私たちが今存在している現実世界として、
見て、触れて、聞くことが出来ている。

こんなものがあったらいいな、
もっと便利にできないだろうか、
どうすれば事故や人災を防げるだろうか、
地震に強い家づくりをしたい、
人の命を救いたい、

そんな人々の想いが今の便利な世の中を創ってきた。

確かに世の中はまだまだ不幸が多いし、
悲しい出来事も憤慨するような酷い事件も、
日々起こっていて、なかなか無くならない。
それでも、人命の歴史は進んでいて、
過去のどの時代よりも今のほうが良かったりする。

「世界がもしも100人の村だったら」
なんかを読むと、
まだまだだなって、痛感させられることばかりでもある。
希望を失いかけ、失望することも減らない。

でも、皆が願えば…
101匹目の猿がもっともっと増えていけば、
きっと世の中はもっともっとよくなっていくはず。

まず世界に平和を望むのであれば、
自らの内に平和を築かなければいけない。

by エドガー・ケイシー


そして、世界を平和にするためには、
一人ひとりが自分の問題と向き合い、
一つひとつ自らの内在する問題を解決していけば、
外界に表れている問題は無くなり、
すべての問題が解決していくのだと思う。

power to the  people !
ヒューマンパワーが地球を変える…

いつの時代でも、
時代の先を行き過ぎて、行き急いだがゆえに、
反発と抵抗の波にかき消されてしまう人がいたりする。

音楽や美術など、アートワークをする人の多くが、
そうした時代の声を聴き、
聞こえない音を聞こえる音にして伝え、
見えないものを視えるものに形状化して見せることを、
私たちにいつだってしてくれているのだろう。

時に音楽として、映画として、芝居の脚本や、
一枚の絵画やデザインの中に、
あらゆる「美しいもの」「前衛的なもの」の中に、
人の心を、魂を揺さぶり、情動を突き動かす、
Something と感動の渦を私たちに与えながら。




さて、我が家にはテレビがないので、
私はyou tubeをよく見ているのですが、
少し前には(今は別のにはまり中)、
Xファクターやアメリカンアイドル等の
オーディション番組にはまっていたり。
(いや、英語はさっぱりわかりませんけど)

とにかく思うのは、
アメリカは豊かな才能の宝庫だということ。
素人ながら素晴らしい逸材がとてつもなく多くて、
さすがエンターティメントの国だ、と実感させられます。

私は洋楽好きで(邦楽も聞きますけれど)、
幼少期より海外のバンドを聞いてきたものですから、
日本の芸能人のレベルの低さというか、
歌手やバンドやミュージシャンに関しては、
なんだかなって思うとこも多々。
ていうか、
曲の良さや実力で評価されないのが日本という国で。
でも、まあそれは置いておいて。

いや、本当に、感動するのですよ。
多少、やせらっぽいところはあるけど、
(簡単にスタンディングオペレーションする観客とか)
でもそこはテレビでエンターティメントなんで、
ショーとしての演出は必要だし、
感動の押し売りがウザイときもあるけど、
基本的には素晴らしいパフォーマンスや
歌唱力や個性を持った素人が多いから、いいかと。

ダンスやイリュージョンのパフォーマンスしかり、
シンガーなんかは一人ひとり、
ホント素晴らしい個性的な声を持っていて、
なんていうか、
こういう自分を100%表現できる場があるって、
そういうチャンスを与えられる場があるって、
とても素敵だなあとつくづく思ったのです。

見ているだけで楽しいですし、ウキウキしました。

ダンスや音楽(歌や演奏)だけでなく、
スポーツとかアートなんかも見る人に感動を与える、
素晴らしいもの。

オリンピックは私自身はあまり関心ないのですが、
それをする人にとっては、自己表現の場なわけで。

世界中の人が、こういう自分の能力を、
最大限に表現出来るステージに立てたなら、
そしてこのようなショーをもっと多くの人が楽しめて、
悦びと新鮮な感動を日々味わって共有出来たなら…
皆の心は満たされて、
争ったり、泣いたり、苦しんだり、怒ったり、憎んだり…
はもっと減って、
そしてこの世から諍いがもっと消えて、
人々が互いの利権を奪い合う戦争なんて、
バカバカしくなるんじゃないんだろーかって。

本当に…
私たちは互いに殺し合うよりも、
相手を力で制して、屈服させて、奪い合うのではなくて、
お互いの違いを認めて、
それぞれの個性や才能を賛美して、
互いの素晴らしさを評価して楽しんで、
そうやって生きていけたら、どんなにかいいだろう。

戦争(ウォー)なんかするより、
世の中もっともっとショーをみんなで楽しんで、
人々の心を豊かにして、笑い合って、
怒りや哀しみよりも、喜びと感動をシェアして行けたら、
どんなにかいいだろう。

毎日エンターティメントだらけで、
スポーツにしてもアートにしても勉強にしても、
皆が好きなことをして自分を表現できて、
誰かの心を満たし、自分も他人をも幸せにする人生を
生きることが出来たならば、
この世はあっという間に、平和になるだろうに…

世界中のどこかで拉致とかレイプとか殺人とか、
何処かの国が何処かの国を侵略したとか、
独裁者が民衆を苦しめて恐怖支配をしているとか、
子供が虐待されたとか、子が親を殺したとか、
一家心中とか、不幸な事故とか、虐めとか差別とか、
そういうことが一切無くなって、
悲しくて辛いニュースも聞かなくて済むだろうに…

なんて、そんなことを思ってしまいました。
上手くまとめられませんが。

2018/10/11

エネルギーヒーリング~レイキの恩恵

ヒーリングとは「治る力」
すなわち自己治癒力のことで、
身体が治ろうとするのをサポートする、
治療行為(施療)のことも意味する。

現代医学(西洋医学)も、
それに付随する理学療法もヒーリングだし、
東洋医学(中医学・韓医学・日本漢方)も、
アーユルベーダもチベット医学もタイ古式マッサージも、
世界中に存在する民間医学や療法はみんなヒーリング。
指圧も按摩も整体もリフレクソロジーも、
カイロプラクティックもオイルマッサージも。

ボディワークとしてのヒーリングだけでなくて、
心や精神に対する働きかけをするものも、そう。
心療内科も精神医学の対処法も、
それらや民間のセラピーもカウンセリングも、
心や思考に働きかけるヒーリング。

癒しとは、崩れたバランスを元に戻し、
正常な働きを取り戻すように働きかけ、
不健康な状態を改善して、健康である状態へと導くこと。

物質的な次元の身体を対象として行うのか、
心の身体(サイキカル体)、あるいは
思考体(ノエティカル体)に対して働きかけるのか、
その違いに過ぎないのです。

三つの身体のいずれかが健康でない状態にあるなら、
その他の二つの身体とのバランスも崩れていて、
三つの身体は互いに補完し合う相互関係にあるので、
一つの身体に働きかけることは、
結局のところ全体に働きかけることであるので。
もちろん、原因となった、
一番ダメージを受けている身体と病巣(根源)に対して、
ダイレクトに施療を行えば結果(効果)が出るのも、
解決(回復)を促すことも早いのですけど。

で、
エネルギーヒーリングとは、基本的には、
「氣」である「エーテルバイタリティー」を
用いたヒーリングのことです。
(氣はマナやプラーナ、宇宙エネルギーとも言われる)

そして、エネルギーヒーリングの中でも、
「エーテルバイタリティー(氣)」を人から人へと、
譲渡して補充するのがマグネティック・ヒーリング
レイキとかクォンタムタッチとか手かざしとか、
気功やタッピングなどのハンドヒーリングが相当します。

「エーテル・バイタリティ(氣)」を元に錬成して、
ヒーリングに実用的なイメージの形にしたり、
氣のボ-ルを作ったりするなど、
「氣」を加工してエレメンタルやエーテルコードを、
操って働きかけをするのがサイキカル・ヒーリング。
エレメンタルの書き換えをするヒーリングはこれです
チャクラに働きかけるヒーリングもそうだし、
シータヒーリングやイメージを使ったセラピーやワーク、
ダイレクトにエレメンタルに働きけるサイコセラピー、
ヒーリングだけでなくて、霊能者さんたちがしていることも、
これになりますね(四次元や五次元の事象に対し働きかけて、
色々構築してる<霊体やエレメンタルにアプローチしたり、
霊道作ったり移動したり、封じたりの操作など)

そして、これを勘違いしている人は多いのですが、
スピリチュアル・ヒーリングは、
人間が行えるヒーリングではありません。
霊界(五次元、あるいはそれ以上の次元の存在)
の霊医と呼ばれる存在が行う施療のことです。
これはヒーラーはまったく疲れないし、むしろ健康になる。

肉体(三次元)に対しての働きかけでもなく、
感情体(四次元)に対する癒しでもなく、
思考体(五次元)に対する意識改革と、
神体(六次元)に対する働きかけで、
霊的意識の目覚めを促進して根本的な治癒を起こすので、
魔法のような奇跡が起きるのです。

これは物質的な三次元の存在である人と、
四次元、五次元、六次元以上の存在が、
チームとなって行う作業であるので、
人であるヒーラーは窓口となる受付係のようなもので、
その人自身の意志や力で起こせるものではないのです。

なので、
スピリチュアル・ヒーラーと名乗る資格のある人は、
そうした奇跡を起こせるチームの、
三次元での顔(代表で代理人)ということになりますが、
まさに選ばれた人でもあるので、
その人自身の意志でヒーラーをやりたくて、
その道に導かれた、というのはまずないです。
(解剖学とか医療的知識がないとなれないし…
という意味では医師免許を持っている人等の、
医療従事者が最も近い候補者ってことです。
医師でゴッドハンドの持ち主は
過去生でも医師だったのでしょうが、
背後にサポートがいることは間違いないです)

だから、
スピリチュアル・ヒーラーを名乗っている人は、
こうした霊的知識がバックボーンになくて、
謝って肩書や名称を名乗っている人がほとんどです。

本当にその意味を知っていたならば、
恥ずかしくて肩書を名乗れないはずですから。
(博士号のない人が博士を名乗っていたり、
マエストロの資格がない人が名乗っているようなもの)

マグネティック・ヒーリングは誰でも練習したり、
霊授を受ければできるようになりますし、
サイキカル・ヒーリングにしても、
鍛錬して習得することは誰でも出来るようになります。
が、やはりエネルギー・ヒーリングの基本は、
マグネティック・ヒーリングにあると言えます。

マグネティック・ヒーリングは習得していないのに、
サイキカル・ヒーリングだけを行っている人がいますが、
こういう方は自分自身の「氣」のみを使うのもあり、
クライアントさんを見た(施療)後の消耗が激しく、
相手から「受けやすい」というのがあったりします。
そして、先天的に「緑の手」を持った人でない限りは、
質の良いエレメンタルの生成には限界があるようです。

とはいうものの、
サイキカル・ヒーリングは、
その人のサイキカル体の状態に左右されるので、
サイキカル体が発達していない人には不可能です。
(創造力=想像力ですので。イメージ力のない人、
ヴィジュアライゼーションが苦手だという人は、
はっきりいってサイキカル・ヒーリングは無理です)

サイキカル・ヒーリングが上手くできる人、
この手法でのヒーリングが成功するか否かは、
その人のイメージ力と感情のコントロール力に、
委ねられています。

マグネティック・ヒーリングは、
どんな人でもほとんどの人が習得できますが、
サイキカル・ヒーリングに関しては、
上記のような制限というか条件があります。
そして、スピリチュアル・ヒーリング。
これは出来る人はほとんどいません。
それが出来ると思い込んでいる人は、
まず出来たためしがありませんし、勘違いです。
スピリチュアル・ヒーラーは存在しますが、
その存在に出逢える人はまれです。
出逢えたこと自体が見えない世界からの導きであり、
入手不可能な特別チケットを手に入れられた、
という意味になります。
(医師以外での一般の仕事をしている
スピリチュアル・ヒーラーは確かに存在しますが、
彼らは自分の存在をまず他人に誇示しません。
従って、ネットの世界にはまず出てきません。
かなりコソコソやってます。
けれども、見えない縁で繋がれる人は繋がれるのです)
※私みたいにこうしたblogで、
 あれやこれや書くような真似はしない人たちです。

サイキカルな能力と
スピリチュアルな能力はまったく別ものです。

サイキカル・ヒーリングに長けたヒーラーで、
スピリチュアリティの高い人には、
霊的な存在(透明なヘルパー)のサポートが付き、
やはりチームでの仕事をすることになりますが、
六次元以上の存在が介在しないので、
どうしても「心の癒しと解放」(四次元の身体)を
主体とした働きかけ、ヒーリングになります。
この段階で、五次元の身体にまでヒーリング効果が到達し、
意識の変革(気づき)が起きることも間々ありますし、
スピリチュアル・ヒーリングが出来ない、
単なるサイキカル・ヒーラーでも、
レベルの高いサイキカル・ラーならば、
それに類似した効果や結果を出せます。
(そこまで行かなくてもいい線行っているというか、
近い仕事をしているというか、そんな感じで)

但し、その結果を自分の能力(手柄)と過信し、
常に安定してそれを引き起こすことが出来るのだと、
そうした勘違いが生まれてしまうのが、
ヒーラーにとっての不幸の始まりです。
(まぐれで除霊が出来たのを常にできると思ってしまい、
それを看板にしてしまい、自らが背負う悪循環を作る等。
その他、たまたまクライアントさんの病気が治ったのを、
自分が直す力があると思いあがってしまう等‥)
まだまだ、そのレベルの人はエゴイズムを持っていて、
完全には捨てきれていないからです。

スピリチュアル・ヒーリングが出来るヒーラーは、
エゴイズムを捨て去って小我から大我の境地に至り、
他人のために生きることが幸福と自覚できている人なので。
つまり聖人か聖者一歩手前かそのレベルに達している人。
このレベルのヒーリングを受けると、
人生がまさに180度転換して変わってしまいます。
青天の霹靂、頭に雷が落ちて人格が一変してしまうくらいの、
それくらいの覚醒(魂の目覚め)がその人に起きるのです。
2ch用語で言うならば、その人の手に触れられただけで、
DQNが一瞬で背筋がしゃんとし、頭を丸めて、
きりっとした聖人君子になってもーた、とか…
一瞬でウォーターして「うう、アタシ間違ってた(号泣)」
になっちゃうような、そんなことが起きるんです。
(どんなバーサーカーでもその状態には戻らない)

マグネティック・ヒーリングでも、
エーテル・バイタリティー(氣)を補充し、
三つの身体のバランスを整えることで、
肉体のダメージ回復を促進し、
メンタルの状態を上向きにさせることは可能です。
基本的にマグネティック・ヒーリングは、
物質的身体に対する働きかけがメインですが、
肉体に不足していた氣が満たされることで
同時に消耗していた四次元の身体への負担が減り、
そちらにも氣が行き渡ることから、
感情的な安定が促進され、氣持ちが良くなるのです。
そのことから、四次元の身体の状態が改善され、
長期的に受けることでダメージも回復しやすくなります。

マグネティック・ヒーリングも、
サイキカル・ヒーリングも、
習得する自体は難しくなく、鍛錬して、
日々実践して、経験を積んでコツさえ掴めば、
イイ感じに上達してもいきます。

けれども、その先の段階に進むには、
その人自身の人間力、霊的成長の度合いというか、
スピリチュアリティ(霊性、人としての品格)次第で、
その人のその人類同胞に対する奉仕の精神や
ヒーリングをする動機、
人としてのその人の人間的な魅力に魅せられた、
霊的な存在たちがサポートしてくれるか否か、
その存在たちがどのレベルの存在たちなのか、
そうしたことに左右されることになります。


☆ ∞ ☆ ∞ ☆ ∞ ☆ ∞

さて、私はその昔、
手塚治虫先生の「ブラックジャック」を読んで、
外科医に憧れたときもありました。
でも頭脳が足りないし(理数系は壊滅的)、
経済的にも進学とか無理だったのでその道は×。

ていうかー
それ以前に私は超虚弱体質(いわゆる病弱)で、
自己免疫システムに異常あるし、単腎だし、
体力要な仕事に就くこと自体、無理がありました。

ですから、普通のOLに憧れました。
それか普通の主婦に。

ちなみに無駄に霊体験とか多かったし、
占いなんかも習得していたけど、
占いとか霊的な仕事とかだけは、
絶対にしたくないって思っていたのです。

けど、何の因果か、結局占い師やって、
今はレイキのティーチャーで電波な仕事していたり。
(おや…?)

犯罪学とか好きで検視官系の本、読み漁って、
犯罪捜査の協力をするサイコメトリーに憧れて、
来世はそっち系のことをしたいと思いつつ、
監察医なんかもいーなーと(来世ね)思っていますが、
臭いに敏感で臭いのはノーサンキューなので、
その時点で死体の検視とか無理だなーと。

まあ、話逸れました。

レイキを習得する前、20代の頃ですが、
台湾に気功習得しに行ったことがあります。
先輩に誘われて参加したのですけど。
最初は東京での合宿ということでしたが、
伝授して下さる方が高齢でヤバイかも、ということで、
私たちが台湾に行くことに。
何が何だかよく分からないで参加しましたが、
その時、初めて天と地の氣の交わるところに行き、
大地の「氣」のパワーを感じる経験をしました。

普通気功って、太極拳や合気道みたいに、
「氣」を感じるところから少しずつ体得するのかと、
そう思ってもいたのですが、
当時は何をされているのかわからなかったんですけど、
レイキのアチューンメント(伝授)と同じで、
霊授で「氣」の道を繋げてもらってたんですね。

でも、
せっかく使えるうようにしてもらったというのに、
成り行きで取得したものですから、
真摯に向き合わず、そのままにしていました。

その後、愛猫がリンパ腫で亡くなって、
ペットロスに陥ったことから、
その時、好意で愛猫に対して、
遠隔ヒーリングをして頂いたことや、
ダメージを受け、憔悴した私を見かねて、
ヒーリングのサポートを受けたほうがいいと、
友人が勧めてくれたお陰もあって、
その友人であるレイキヒーラーの人のところに。
(この下りはどこかに書いたとも思いますが)

1980年代にニューエイジ・ムーブメントが起きた時、
レイキは日本に逆輸入され、一時脚光を浴びたのですが、
当時の私の印象として、「レイキって胡散臭い」
偏見というか先入観から、毛嫌いしていたというか、
敬遠していたものだったのですね。
気功はともかくとしてエネルギーヒーリングとか、
チャネリングとか、そういうのに対してもそうでした。

占いの仕事していても、占い自体に抵抗ありましたし、
今も新興宗教アレルギーだし、
ミーハーにスピリチュアルを語っている人は苦手です。
十分私自身が電波な人間なんですがっっっ

でも、まあその時は心身ともに弱っていたこともあり、
抵抗なく友人の勧めを受け入れられたんです。

で、受け入れて、
レイキのヒーリングを受けてみたら、
実際にものすごく元気になれた。
心身共に前向きになれたんです。

半年間、愛猫の闘病生活の末の喪失感、
仕事も出来ず、日常生活もままならないほど、
悲しんで嘆いて、心身共に消耗しきっていて、
完全に「氣枯れ」してしまっていたんでしょうね。

何度か通わせて頂いて、自分を取り戻して、
「レイキ」を体感して、これは有益なものだと思いました。
自分がそれまでもっていた偏見や先入観も捨てられたし。
心身共に安定している、
この状態をキープしたいなとも思ったし、
もともと不安定な気質で心も弱く、
病弱で精神状態に左右される健康状態だったこともあり、
それが改善出来るかも、と伝授を受けたんです。

当初、仕事にしようとかは思ってなかった。
ティーチャーにしても、なろうと考えてなかったです。
まだ占い師はしていましたが。
アロマセラピストとしての仕事や、
メディカルハーブに関連する仕事をしたかったので。

たまたま、占いのお客さんとしていらした人で、
「霊を憑依させてる」人や「氣の消耗」が原因だ、
と言う人が続いたので、
「レイキヒーリングさせて下さい」となって、
そういう機会が増えたので、メニューに入れてみた。
気が付いたら、そっちが本職になってたパターン。

アロマテラピーのトリートメント中に、
クライアントさんが急に泣き出してしまったことがあって、
どうやら
過去生の情報にアクセスしてトリップしてしまったので、
それで仕方なくというか巻き込まれるようにというか、
必然的に、状況的に仕方なくヒプノセラピーやら、
過去生リーディングをするようになってしまった。

たぶんレイキのアチューンメントを受けたことが、
私の歴史でひとつのきっかけだったとは思います。

でも、まあ、もともと子供の頃から、
霊的な体験はそれなりにしていたし、
神秘学やそっち系の知識もあり、
占い師で人の話を聞く経験が豊富だったから、
何となくにしてもその延長線上で出来る仕事というか、
無理なく移行できた職種という気がします。
(今の仕事をする土台があったというのかなあ)


色々と前置きが長いんですが、

結果的に気功修行ではなく、
レイキのアチューンメントを受けたことで、
あれやこれやと今に至る道筋がパッと開いた私ですが、
その前の気功修行にて台湾の某パワースポット、
「天と地の氣が交わるところ」に行ったのも、
ちゃんとした布石、道筋であったわけですね。
たった一週間しかいなかったけれど、
いるだけで「氣」が体内に満ちる経験をして、
「氣」が充実するってことがどういうことか、
実際的に体感出来ていたので。

その時はなんでも解るというか、
リーディング絶好調でした。
怖いものが一切なく、なんていうか無敵で、
今の自分はなんでもできるってくらいに、
気が大きくなっていました(ジャイアンでなく)。
都会に存在するあらゆる電波や他人の想念が、
あちらこちらを飛び交っているのが身体で分かるというか、
すべてが自分を通り抜けていくのがわかるみたいな。
このあたり上手く説明できないんですけどね。

でも、その気功の奥義を授けてくれた
仙人のような老師が私に何をしてくれたのか、
その時にはまったくわからないのでした。
日本に戻ってきてから、上記の状態になったんで。
(台湾にいる間は旅行気分で浮かれてました)


レイキのアチューンメントは、
「レイキの回路」を作る、という表現ですが、
ふだん私たちが三つの身体の維持と回復のために、
栄養として取り入れてる「氣(エーテルバイタリティー)」
とは違う種類の霊氣と名付けられた、
「氣(エーテルバイタリティー)」を取り入れるために、
その受信アンテナと通り道を作り、
それを掌のチャクラから放出出来るようにする…
そんな感じですね。

なので、
アチューンメント(伝授すなわち霊授)中に関しては、
あれこれ「氣」の流れをいじられることになり、
その後の21日間、体内にて氣の調整が行われるので、
人によっては、体調を崩すこともあります。
心身ともに不安定な状態に陥ったり、
趣味嗜好の変化が起きたり、色々ですね。
(たまに一日でファーストからサードまで伝授したり、
きちんと定められた日数・行の期間を開けないで、
連続した日程で霊授を行っている人がいますが、
それは大きな間違いですね。
21日間という単位は、行の基本的な期間ですので、
きちんとセルフヒーリンクに省略された行期間は、
守らないといけません)

氣の流れが大きく変わって、
一時的に氣の波動が上がるので、
貯めこんでいたマイナスの感情(エレメンタル)が、
居心地悪くなって騒ぎ出すというか暴れるというか、
これを浄化(デトックス)とも言いますけど、
好転反応として捉えたらいいのかな、と。

レイキを受けたから波動が上がって、
心身の問題すべてが解決っていうのはないです。
霊的な成長が伴っていなければ、
体内の氣の波動が上がった状態というのは、
一過性のもので一時的な体験にしか過ぎません。
そうした良好な状態は短期間しかキープされず、
数か月あるいは数年位で落ち着きます。

この状態をレイキの効果が消えた、無くなった、
力を失ってしまったとか、回路が閉じた、詰まった、
というような言い方、捉え方をする人がいますが、
そういうことではないのです。


私の場合、
レイキのアチューンメントを受けて、
体内の氣が攪拌されたかなんかで氣の流れが変わり、
氣が充実し、波動が上がったお陰で、
生きるモチベーションが上がりました。
その代わり、ヒーリング・クライシスが酷かったです。
貯めこんで抑圧していた負の感情…
ネガティブなエレメンタル(記憶)のフラッシュバック。
とてもしんどく、大変でした。

けれど、それを乗り越えた後は、
健康面での恩恵がありました。
今も決して身体は丈夫とは言い難いのですが、
レイキを受ける前までは、
少しストレッチなどの軽い運動をしただけでも、
間接に負担がかかって炎症を起こし、
熱を出して寝込んでいたのですが、
その後、スポーツジムに通って運動をしたり、
ヨガやストレッチなど普通にできるようになりました。
一年中風邪を引いたような症状もなくなり、
2、3年に一回大きな風邪を引く程度で済んでいます。

幼少期のトラウマで食べれなかった、
ある食べ物が食べれるようになったり、
高所恐怖症で歩道橋も渡れなかったのに、
渡れるようになったり、
二階以上の建物のベランダも何とか、
低層階なら大丈夫になりました。
(このあたりは過去生の記憶の解放の
恩恵のほうが大きいのですが)

あれほど好きだったお酒も弱くなり、
あまり飲まなくなりました(笑)
タバコも止めました(美味しくなくなって)。
ファストフードとかも気持ち悪くて、
身体が受け付けなくなりました。
(まったく食べていないわけではないです)

てなわけで、
私はレイキを取得したことで、大きな人生の節目を迎え、
否応なく仕事の転換期を迎えることになりました。
これに出逢っていなかったら?とも思いますが、
確実に導かれたと思いますし、必然だったのだと思います。
ティーチャーになることも考えていませんでした。
人に教えるなんて自分には向いてないし、とんでもないと。
でも、霊的真理の学びをすることとなり、
そうした知識を得た事、要望を頂いたことで、
ティーチャーになって12年の月日が経ちました。


実際、ティーチャーになって、
たくさんの方にレイキをお教えしてきましたが、
受けられた方たちの中では、
ヘビースモーカーだった方が「タバコがマズイ」
となったり、キッチンドランカーだった方が、
「コップ一杯飲んだら、もうダメで」
となってしまったり…
「果物や野菜をモリモリ食べるようになった」
とか、アレルギー体質が改善されたとか、
楽になった、という人もいらっゃいました。

単なるプラセボ効果なのかも知れませんけどね。

体質や体調、思考や趣味の変化もさもありなん、
気持ちや考え方の変化、見識や意識が変わった…
という声もたくさんあったりします。
思ったことが叶いやすくなったとか、
精神的に安定するようになったとか、
細かいことを気にしなくなったとか、
生きるのが楽になったとかとか…

それは「氣」の流れによる波動の変化と、
一時的にせよ、そうした効果によって、
負のエレメンタルとおさらば出来ている
(ネガティブエレメンタルから解放された)状態を
味わっているからでしょう。

そうした
「氣の抗生物質的」な「特攻薬効果」
をどこまで維持し続けられるかどうかは、
その後のレイキの使い方、付き合い方次第、
とも言えますね。生活態度や氣の扱い方。
平たく言えば、その人がどう生きるか、
どのような人生を生きようとするのか…
レイキという回路を持ったことを
どのように自分の人生に活かそうとするのか、
氣が充実した状態や、
波動が上がったことによる恩恵的体験をしている間に、
何をするのか、掴むのか、気づくのか…
すべてはそれ次第に委ねられているのかも。

そっち側に行くのか、元の道に戻るのか…

レイキの根本的な教えの中にある考え「八正道」
この「八正道」を実践して生きられるなら、
きっとその人は、
光明に向かって行くことが出来るでしょうが。

せっかく修得したというのに、
「使っていない」とか、
「自分には取る意味がなかった」
「回路が塞がっちゃったみたい」
「ちゃんと伝授してもらってなかったみたい」
として、そのままになっているなら、
それはもったいないこと。

時間とお金をかけて、
そして「導き」があって、得た縁のこと。

きちんとご自分の人生に活かして頂きたいものです。

2018/10/06

通過儀礼~エゴをそぎ落とすためのエアポケット

高き者のことば

私は知っている、私が九夜の間
風吹きすさぶ樹に吊り下がり
私自身の刃に傷つき
オーディンに捧げて血を流し
私自身をいけにえにして
根はどこに延びているのか
誰も知らぬ樹に
しばりつけられて

誰も私にパンを恵まず
誰も私に角杯を恵まなかった
底知れぬ深みをうかがい
私はルーンを発見した

咆哮をあげ、私はルーンを掴みあげ
気を失い、大地に落ちた

私は健やかになり
賢くなった
成長し、成長を愉しんだ
ことばからことばへと
さらに、ことばへと導かれ
業から業へと導かれた

---古代ノルド語「詩のエッダ」(西暦1200年頃)より

∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞


私みたいな仕事をしている人、
そして真理(道)の探究者に関しては、
時おり「お試し」的な揺さぶりが、
拒否権なし(強制的)に定期的にやってきたりします。

別に真理の探究者だけでなく、
普通の人もみんな「カルマのレッスン」には、
日々直面させられているものですが、
それにも増して強烈な愛のムチ的なものが、
「霊的知識」をちょっとでも学んだものには、
否応なく容赦なく、雨あられのようにやってきます。
これでもか、これでもかってくらいに。

ビジョンクエストみたいな感じですかね。
スピリュアル・エマージェンシーみたいな、
「目覚めなさい」「起きろってばコノヤロー」
と…足元からすべてが崩れ落ちて、
人格崩壊と狂気の境をさ迷うな激しいのは、
さすがに一生に一度か二度くらいですけども。

それよか小さいの、中くらいの波、
エゴイズムを捨て去れぇぇぇええぃいいい!
と行き詰まって奈落の底に突き落としてくる、
「シャーマンの死」はもうしょっちゅう。

何故かって、
私みたいな仕事をしている人間がエゴイズムに陥ると、
スピリチュアルナルシズムを発症して、
他者に対して罪深いことこの上ないからです。

エゴイズムを完全にそぎ落として、
人よりも霊的成長の段階が進んでいるからって、
この仕事が出来ているというわけではないので。
(決して特別な選ばれた人間ではないのです)

エゴイズムの罠はそこいら中にたくさんあります。
「七つの大罪」も「108つの煩悩」も「ケガレ」も、
ぜんぶエゴイズムですけど。
エゴイズムではないと思っているものも、
結局のところエゴイズムだったりすることもあるし、
偽善だったり、私利私欲だったり、
大我でなく小我だったりもよくあることで。

こういう仕事をしているからって、
なんでもわかるわけではないし、出来るわけでもないし、
悩みがないわけでも、感情がないわけでもありません。

逆に煩悩、我欲があって、
自分自身の矮小さを知っていて、
エゴイズムの怖さをよく知っているからこそ、
現実世界でエゴイズムに翻弄されている人の苦しみや、
その背景や状況が理解できるっていうのはあります。
悟ってないからこその視点というのかなあ。
(すべてを悟った聖者様ではなくて、
限りなく俗物なナマの人間ですもの)

結局、人は自分自身を育てることしか出来ません。
そして、自分自身の問題を解決するのが、
何よりもプライオリティの高いことなんだなって、
色々と痛感させられる今日この頃。

それが世界平和への道というか、
世の中をよくすることであり、
社会のためになることで、貢献であるのです。

はい。
世界の平和を望むのであれば、
まず自分自身に内在する問題を解決すること。
それが先決です。

世の中の一人ひとりが、
自分自身の問題を解決できたなら、
地球はとてつもない、良い環境になり、
何一つ問題のない、平和な星となるのです。

地球に住むみんなが、
自らのエゴイズムとおさらばできたのならば…


だから無理に背伸びをせず、
誰かのために生きたり、犠牲になる必要はなく、
自分の手にあまることは手放し、
まず自分のために生き、
自分の能力でできる範囲から、
手を付ければいいのです。

一人ひとりが自分を救うことから始めれば、
地球のすべての人が救われるのですから。

∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞


前にもどこかの記事に書いたかなと思うのですが。

霊的な仕事に就くべき人というのは、
幼少時からあれこれ「テスト」されたりします。

・どういった種類の能力が一番秀でているのか
・どの方面に資質・適性があるのか

私の場合も色々あったかなと思います。
今にして思えば…ですけども。

ケガをする人のビフォーアフター、
火事になる建物のビフォーアフター、
これから亡くなってしまう人に目印
とかとかな状態を見てしまうなど、
数か月、数年先のニュースを先見とか、
予知的なことを見させられたり…

夢の中でニュースで報道されていた被害者が、
犯人教えてくれたり、なんてのもあったし…

その他色々あれもそうかこれもそうか、っての。

でも、上記に書いたようなのは、
一時的に顕現しただけの能力で、
短期間で終わってしまいました。
今はもう当然ながら出来ません。

今は未来を視ることが一番苦手です(笑)

年を重ねて経験を重ねたから、
出来ることが増えたかというと、そうではなくて、
上記に書いたようなことが出来た、
子供の頃が一番サイキカルな能力、
すなわち霊的な能力が秀でていて、
色んなことが解ったし、出来ていました。

今は当時と比べて無能の極みです。

ヒーリングの仕事を始めた頃より、
ヒーリング能力は別段変わってないというか、
むしろピークは過ぎて、パワーも能力も、
当時より落ちたんじゃないかとかも思いますしww
チャネリング能力というかアカシック読んだり、
他人の過去生とか読み取るリーディング能力も、
そんなに?と自分でも思います。

ていうか、必要なこと、
伝えるべきことしかもう解りません。
余分な情報は来ないんです。
アクセスも出来ないし、必要もないって感じ。
誰と、どことコンタクト取っているのかも、
今は気にしてないし、重要ではないのでしょう。

それを落ちた、能力が無くなったというのなら、
きっとそうなんでしょうし…
でも、たぶん私自身の方向性、
適性が決まったからなんだろうって自覚はあります。

というのは、
やはり私は「教える」のが道なんですよね。
どうやら施療とかは二の次のよう。

一通り色んな事をやらせて頂いたけれども。
そーですね、組織の仕事で言うなら、
一般職として受付から一般事務から企画広報、
営業や総務、経理とかあれこれやってみたけど、
結局は執行部…に落ち着いた…とか。
あくまで例えですけど、そんな感じ。


だから今の私がしていることは、
どちらかというと、
スピリチュアル・コーチングなのかも知れません。

ヒーリングもするし(レイキも気功も)、
エネルギーリーディングも出来ないわけじゃないけど、
そっちは専門的に極めたスキルではない。

その人の霊的成長、進化の流れを見て、
本来、魂が望んでいる、
その人が進むべき方向に運命の軌道を修正するため、
そぎ落とすべきエゴイズムを指摘して、
当人の性格と道の矯正を指南するコーチ。

なんでしょうね。

そのためにあれこれ自分自身がさせられたって、
一時的に色んな霊的能力を使わせてもらった、
そう思います。

だから、神通力的な霊的能力は有してないです。
判らないこともたくさんあります。

そして私自身がまだまだ道の途中で、
初心者的、修行者であります。

エゴイズム、まだまだいっぱいてんこもり…
先が長いです。

人としての修行に終わりはありません。

2018/10/04

自分を偽ると人生も偽りとなり貧困となる

エレメンタルのことについては、
レッスンでも勉強会でも、
くどいくらいに色々な角度からお話して、
きちんと理解して、知識や対処法だけでなく、
生き方や意識を変えて頂くことをしてもらわないと、
というのがありますね。

かくいう私も昨日、不本意にも、
使いたくないエレメンタルを使ってしまいましたっっ汗

さて、「他人は自分の映し鏡」という言葉は、
ほとんどの人が聞いた事があると思います。

エレメンタルのことで言えば、
自分が所有しているエレメンタルが、
同種のエレメンタル(所有している人)を、
引き寄せてくる、というのがあります。

私のことで言えば、
友人知人もそうなのでしょうけど、
仕事で関わることになる、
クライアントさんがまさにそうですね。

スクールや講座を開いていたときの生徒さんも然り、
グループレッスンの参加者も全員がそうでした。

面白いことに、
自分がその時に考えていることや悩んでいること、
旬の話題や課題?に引き寄せられてか、
同じような問題を抱えているクライアントさんが、
集中するというかいらっしゃることがあります。

これも引き寄せの法則なんですよね。
そして私自身の課題、取り組むべき問題が、
お客さんを通して示されているという事実。
お客さんの中に私自身の問題を見ることが出来、
お客さんに対して語られる言葉が、
そのまま自分に対するアドバイスである時も多いのです。

(お客さんにメッセージやアドバイスを伝えながら、
『まるで自分自身に言っているみたいだな』
と思うことは日々多く、我が身を振り返ることばかりです。
そういう意味で、
私はこの仕事を通して多くのことを学んでいますし、
お客さんの姿からたくさんのヒントをもらっています。
この仕事を通して、
自ら作り出したエレメンタルの対処方法を教えてもらったり、
自らの過去の姿を反省したり振り返ったり、
成長させられる機会をたくさん与えてもらっているので、
そのことには本当に感謝するしかありません)


先日もそうでした。
お金の問題について深く考えていると、
お金の問題について悩んでいる人が立て続けに続き、
同日にいらした方が全員お金の悩みということが…
それぞれ初回の方でなく、リピーターさんでしたが。

一名の方は遠方にお住まいで、
経済的事情も背景にあることから、
年に一回いらしてくれるかどうかの方なんですが、
もう一人は都内にお住いの経営者の方。

お金の問題といっても、
経営悪化で明日にでも債務整理とか破産とか、
そういう深刻な問題ではないのですが、
どうしても景気に左右される面は否めなくて、
多少の業績悪化で利益がイマイチだったりは、
どの業界、お商売にもありがちなことです。

従業員雇っての株式会社の経営者の方なので、
有る無しを語る金額が、
私たち庶民とはケタ違いだったりしますが、
逆にそれだけ大きな財産を築いて有する方だからこそ、
激しく執着してしまうのかなとも思ったりします。
(お給料をもらう側ではなく、
払わないといけない側でもあるから、
当然と言えるでしょうね。
経営維持や収支の変動に無関心な経営者では、
雇用される側としても困ってしまいますし)


それぞれの方のお金に関する悩みや問題は同じではなく、
独自の背景や原因があるんですが、
不安や心配を抱いていることに変わりはなく、
共通している問題やレッスンがあったりもするのです。


話はちょっと逸れますが、
私はもともと占い師というところから、
今の仕事をスタートさせています。
最初に習得したのはトランプやタロットの兆学でしたが、
後に命学たる占星学に導かれ、独学で学びました。
小学生や中学生の頃の話ですが。
以来、中学の頃から同級生を相手のアマチュア時代、
そして社員など他の仕事をしてから占い師になり、
20年位はなんだかんだ続けていたものの…

結果的に占い(兆学や相学)というのは、
天気予報のようなもので、予測でしかなく、
天体や地球(天と地)の法則との関係性から、
個人の運命を鑑みていく命学にしても、
魂の起源(ルーツ)やブループリント、
過去生やカルマのレッスンなどの概念がなく、
これまでのその人の人生の歴史から一部を抜粋し、
かいつまんで紹介した履歴書のようなもので、
今生のスタート地点たる環境や、所持しているもの、
すなわち特徴や個性、能力を知ることは出来ても、
概要のみで全容ではないし、絶対的なものではない。
ですので、
秘めた可能性や資質や才能が開ける方向性を見るには
うってつけなんですが、「運命」として捉えるのは、
誤りというかよろしくないという結論に至りました。

そしてもう一つ。
個人の運命に囚われてしまうと時流を見逃す、
というのもあるのだと…

例えば占星学はもともと「人間」ではなく、
「国家(民族)」の行方を見ていくための学問でした。
なので、宇宙(神のような意志)が促す、
人類の進化や成長への方向性を見るには、
これ以上はないというほどうってつけの学問なんですね。
(もちろん易経も森羅万象と人類の関係性を見るには、
最適な学問ですが、私は習得してませんので語らずでっっ)

この占星学が示す「星の言葉」は、
まさに、
天が人類に対して霊的進化のための道を、
背中を押すようにして囁いている、
一人ひとりが宇宙にたった一人の存在として
創造的に自分らしく生き、
自らの魂を輝かせるための道へと誘う、
メッセージそのものなんです。

私はもう基本的には、
占いを用いてクライアントさんの相談に乗る、
ということはしていませんが、
仕事に絡んだことや適職などをみる時だけは別で、
今でもチャートを出してチェックすることはしています。
(個人的にはタロットもちょっとした判断の助けにはする)

でも、
チャートに出ていることは可能性と資質であって、
たいがい本人がやりたいこととイコールではないので、
基本的には今のその人や魂が望むことを重視します。
優先すべきは、今の希望ですから。
(但し、カルマのレッスンの導き(潮流)には
 逆えないことの方が多いのですが)

人生とはその人が選んで創っていくべき、
「新しい地図」なのであって、
他人に決められたレールの上を歩くことではないので。
例えそれが天の定めであったとしても、
当人の強い意志や決めた事に勝るものはないのです。

なので、占い(この場合、命学)は、
あくまで自分に対する情報であり、
参考にすべき意見として聞くべきで、
絶対的なものとして自分を呪縛するべきもの、
あるいは、
何もしないでやってくるものを表している地図ではない、
ということを理解しておいたほうがいいと思うのです。

そして、
スピリチュアルなサポートと占いは本来異なるものです。
ここを混同している人がとても多いのですけど。
まあこの辺りは別の機会に置いておくとします。

でもって、
この宇宙(創造主)からの人類へのメッセージ…
一人ひとりが霊的に進化していくために、
人類に対して働きかけている大きな流れのこと、
何を考えて何に取り組むべきか何を成すべきか等、
具体的に星からの叡智の言葉を、
とても解りやすく上手く伝えてくれているのが、
みらいみくさんのblogかなーってことで、
ここでオススメさせて頂きますね→西洋占星術の入口
自分が何を準備しておくべきかのタイミングや、
どんな心構えでいるべきかまで教えてくれますよ。



そろそろ本題に戻ります。
そんなみんなで人類に「目覚めなさい」って
メッセージを伝えてくれる占星学では、
数年前から、

「偽りの仮面や着ぐるみを捨て、
 嘘偽りを全部捨てて、
 そろそろ本当の自分を生きようよ!」

っていう時流と段階に入っているんです。

世の中の動きや、
地球の宇宙におけるステージ(波動)がそうなっているから、
その流れに逆らって生きている人は必然的に、
苦しい想いをして、
閉塞的な気分に追い詰められてしまう。

過去の古い価値観に縛られている人。
誰かのリクエストに応えるだけの人生を送っている人。
自分の意志をもたず、
周囲の思惑に流されて生きている人。

どんどん生きるのが辛くなっています。
自分を表現できず、自分を見失って、
色んなことが上手くいかなくなってしまう。

私は今は占い師ではなく、
スピリチュアルセラピストとして、
クライアントさんの相談に乗っているわけですが、
ここ数年、そういった問題を抱えている人が、
圧倒的に増えていると感じます。

先にお金の問題で来られた社長さんも、
その事業をやりたくて始めたわけではなく、
続けたくて続けている仕事ではなく、
いまさら他に出来ることもないし、
いちおう利益が回っている事業だから…
「お金」を自分に確実に与えてくれる収入源だから、
という理由で自分をごまかしつつ、
騙し騙しで何十年も続けている方でした。

でも、好きな仕事ではない、
もともとやりたくて始めた仕事ではない、
というのがあるので、
仕事から得られる「悦び」がなかったんです。
だからいつの間にか、
「利益」を上げることが目的となり、
「お金」に執着し、通帳の金額が増えていくことだけが、
自分のスタイタスとなり、アイデンティティとなった。

ある程度の年収を稼げるようになれば、
現実世界においてはそれは「成功」となります。
けれど、心が得るものは何もないのです。
家族のためと言いながら、
家庭サービスは仕事を理由におざなりになり、
お金を十分に与えて、教育さえ受けさせれば、
それが家族の幸福であると錯覚した故に、
家族との絆は築けず、心はバラバラになり。

ビジネスを拡張し、
収益を上げるマネーゲームに没頭するものの、
何のためにそれをするのかという目的意識がないと、
結局は金額の変動に気持ちを左右され、
自分の幸福のありかをお金に支配されてしまう。

"人は、パンのみに生きるにあらず"

過去の記事で書いたことがありますが、
カルマになる行為や出来事について、
「そこに愛はあるのかい?」
というクエッション(問い)が突っ込みのようにあって、
レッスンとしてお試しのように繰り返されると…
それは他者に対してもそうですが、
もちろん自分にも適用されるわけです。


今の日本でもワーキングプアーや浮浪者、
生活保護を受けないと生きられない人、
福祉や行政の保護を受けられないで、
貧しい暮らしを強いられている人はたくさんいます。

けれど、第三国(後進国)と違って、
明日のご飯を得るのが精一杯で、
生きるためにギリギリの生活をしている、
という人は少ないほうです。
決してお金持ちで豊かではないけれど、
何とか明日の生活をしていくことは出来るし、
贅沢や人並を望まなければ、
妥協したり生活レベルを落とせば、
生きていくことの出来る人たちがほとんどです。

後進国の人たちは仕事したくても仕事がなく、
選びたくても選ぶほどの仕事がありません。
ですが、今この先進国たる日本では、
たくさんの種類の仕事があり、会社の数もあり、
起業したり、自営業や自由業など、
身分や性別、出身などで仕事が制限されることもなく、
様々なスタイルの働き方を選ぶことが出来ます。

選択肢は狭いようでとても広いのです。
誰しもに、職業選択の自由が与えられています。
(同時に労働の義務もありますが法律でも保証されてます)

嫌いな仕事を自分のためではなく、
誰かのためにと、自分を犠牲にして、
イヤイヤ行っていても良い内容の仕事は出来ません。
適性のないこと、苦痛なこと、
悦びや楽しみを得られないこと、
自分に実りを与えられない仕事をしていても、
結果的に心を破壊してしまうだけで、
その人からお金と時間を奪うことはあっても、
得るものなどないのです。

そういうことをしているとどんどん貧しくなります。
お金はどんどん離れていきます。
その前に「人」が離れていくことになります。

何故かというと、
その人自身が愛のない生き方をしているからです。
自分自身に愛を与える暮らし、愛のある生き方、
愛のある仕事をしていないので、
愛がどんどん枯渇して、心が貧しくなっていきます。
すると余裕がないので「他人」に与える愛もなくなり、
人生や生活自体が貧しくなって、
結果として貧しい人生を生きることになります。

例え収入が良い仕事でも、
身体や心を壊して、いつか働けなくなり、
最終的には病気になって、その治療費が嵩み、
健康を取り戻すためにたくさんの出費をすることになります。

鬱になったり、内臓の疾患になったり、
中毒になったり、肉体を欠損したり、
目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり…
心が悲鳴を上げて身体がシグナルを発して、
「もうこんなのは止めてくれ!いい加減にしてくれ!」
と機能を停止させ、気づかせようとするのです。
働かせないように、動けないようにするために、
ありとあらゆるクーデターを起こしてくるのです。


こういう人がいました。

イラストレーターになりたかったのだけれども、
親に反対され、自分でも難しいかもと思い、
周囲を納得させるための就職先として、
収入の良いIT関係の仕事に就きました。
けれど、右脳型のその人にとって適性はなく、
はっきりいって苦痛だったのです。
それでもお給料がいいので頑張りました。
ですが、
慢性的な胃痛や胃痙攣に悩まされることになりました。
その後、ノロにかかったり、O157にかかったり、
何度も入院しましたが、会社は辞めませんでした。

次には胃にポリープが出来ました。
簡単な手術で取り除き、すぐ復帰しました。

しかし翌年についに胃がんを発症しました。

ここに来て、ようやく当人は、
「あれ…?どうしてこんなにたくさん病気になるんだろう」
と思ったのです。
でも、
心配した友人や相談した専門家に転職を進められても、
「一度決めた道だし、今さら他の仕事は…
 何しろ今の会社は収入いいし」
と、
迷ったものの転職をすることを考えませんでした。
結局、手術して摘出したものの、若かったこともあり、
ガンは他所に転移してしまいました。

この人の病気の原因が、
ストレスと言ってしまうのは簡単です。
でも、この人にストレスを与えたのは、
誰であろう、その人自身であることは間違いありません。


確かに好きなことをして稼ぐのは簡単なことではありません。
誰もがハリウッドスターや花型スポーツ選手になったり、
夢見ることを叶えられるわけではないというのも事実です。

でも、自分に向いていること、適性のあること、
自分の可能性や個性を伸ばしたり、
他人に感謝されたり褒めてもらえる才能や、
楽にできることを仕事に活かす道を捜すことは、
さほど難しいことではないはずです。

やってみたいことにチャレンジして、
それでダメだったらあきらめもつきます。
他人に押し付けられたことで失敗するのと、
自分で決めた道で失敗するのとでは、
その後の立ち直りや引きずり方、
責任の所在の押し付け方など、
結果も大きく異なります。

他人に押し付けられたことで失敗すると、
誰かを恨んでしまいます。
自分で決めたことで失敗したのなら、
納得も行くし、とりあえずやってみたし、
精一杯やってみた結果を受け入れて、
次の経験に生かそうという前向きな結果を生むので、
それは良い人生での収穫になります。

自分の長所を活かせる仕事、
他人から感謝の言葉をもらえる仕事をすること、
やりがいがあって、自分を与えることの悦びがあって、
自分自身を最大限生かせる仕事をするのって、
人が人として生きるのに必要なことです。
そのようなステージを与えられて初めて、
人は自分自身を肯定するることが出来ます。
自分の人生も、他人の人生も、です。

仕事で感謝されたり、認められるのって大事です。

他人に自分の能力を提供することで、
誰かに喜んでもらい、感謝される。

それは自分だからこそできることで、
自分の個性が活かせる(殺さない)道で、
自分自身に愛を与える道で、
他人や世の中に対しても愛を与える道で、
自分自身も周囲の人をも、豊かにできる道なんです。

それを間違えてしまうと、
身体や心や、そして宇宙が、
「その道は違うよ」「間違ってることにいつ気が付くの?」
とばかりに、道はどんどん狭くなって、閉ざされて、
気が付いたら呼吸が出来ないくらいに、
苦しくて辛くて、動けなくなってしまいます。
お金もどんどん出るばかりで、回らなくなります。

何故なら、
自分自身に「楽しいこと」「悦び」を与えないのは、
心身に栄養を与えないことと同じなのですから。

心が貧しい、肉体が貧しい状態は、
現実をも「貧しい状態」へと導くのです。

お金は生きるために必要なものでありますが、
手段であって、目的ではないのです。
自分自身を豊かにするためのものです。
そのお金の稼ぎ方、使い方を間違えると、
愛の無い使い方をして、自分自身に栄養を与えず、
自分を育てることに使わないでいると、
霊的にも現実的にも貧困になるばかりです。



さて、上記の社長さんは、
何年も同じことをずっとアドバイスをするのですが、
「困った」ばかりでアドバイスを実行する気配が、
まったくありません。
「言われた通りになってしまいました」と、
そうした報告ばかりです。

でもいらっしゃるのは一年に一回か二回。
「収益が減っていくのが心配で不安です」と
メールや電話で愚痴報告を下さったりするものの、
継続的に取り組むことは前向きに考えて下さらず。

「あなたが変わらないことには…
 意識や考え方を変えて、
 これまでの生き方を改めようとしないことには、
 何も変わりませんよ。
 誰かが助けてくれるのを期待して待っていても、
 あなたしかあなたを助けられる人はいないんですよ」

と、おりにふれてはお伝えしていますが。
何年越しのクライアントさんであっても、
世忘れた頃に数回来るか来ないかの人で、
アドバイスをまったく実行してくれない人に関しては、
結局いつも同じアドバイスを繰り返し伝えるしかなく、
です…(他でも同じこと言われたらしいですし)

「他人に送ってこられる念(生霊)のせいだ。
 これを取ればビジネスも上向きになるはず」
になっちゃってますので。
それを取っても、
引き寄せている当人の意識がシフトしないことには、
取ってもまたすぐくっ付くからあまり意味がないです。
(ぶっちゃけカルマのレッスンなので)
と説明しているのですが…

たぶん、うちに来るお金も惜しいのだと思います。
払えない金額ではもちろんないけど、
自己投資する金額として価値を見いだせないのでしょう。
これは個々の価値観だから致し方ないです。
別にうちでなくても、何かご自分がこれだと思える、
有効なセラピーや自己変革への手段が、
見つかればいいのですけどもね。
占いやセラピーやカウンセリングでなくても、
人生の見方や意識変えちゃいますっていうような体験、
一か月間バックパッカー旅行とか、
勇気を出してスカイダイビングにチャレンジとか、
なんかまあ、ビジョンクエストみたいなこととか、
そういうのが望ましいんですが。


そして、
その方が本当にやりたかった、
ビジネスや事業形態に、
そろそろシフトチェンジして欲しいんですけれど。

お金に執着して、地位にしがみついている限り、
今のビジネスは下り坂で未来はなく、
幸福になれたり、上手くいくことはないので。



てなわけで皆さんも、
自分を偽らず、自分の個性を生かし、
魂を輝かせ、喜ばせる、
愛のある仕事に向き合ってくださいましね。

あなた自身が「財」になり、金を産む卵になれる仕事。
見つけて下さい。
(その前に汝自身を知らないといけませんが)

それをしないと、これからの時代、
どんどん生きづらくなるだけですヨ。

とにかく
「自分を表現する」ことをサボッていては、
ダメ出ししか来ませんからね~

2018/09/22

成長して力を増すエレメンタル~負の引き寄せパターンの誕生と収束

ちょっとタイトル長いですね。
まるで陳腐な二時間ドラマの
タイトルみたいになってしまったっっ汗

エレメンタル無くしては、
私たちの人生もパーソナリティを語ることは出来ず、
私たち自身そして人生の構成要素そのものなんですが、
同時に「死なす」ことが出来ないものなので、
意に反したものを創ってしまったり、
悪癖や悪習慣、悪しき道に誘う、
負のエレメンタルを創ってしまったりすると
マジメに後が大変で、
創った本人を苦しめる不幸の根源になってしまい、
とてつもなく恐ろしく怖いものでもあります。
(これを手名付けることが出来る、
エレメンタルマスターになれたら怖いものナシですが)
※ポケモンマスターではありませんっっ


さて、今回は私の経験に基づいた、
負のパターンを創り出したエレメンタルのお話をば。


20代のとある時期に私は家探しをしていたのですが、
猫を飼っていた事情もあって、
一戸建てにこだわっていたことから、とても難航しました。

しかし、ラッキーなことに、
「転勤の間だけだし戻る時期が読めないので、
 家賃は希望通りでOK、猫も可、自由業OK」
というリッチな物件が見つかったんですね。
本来30万の家賃相場でしたが、めちゃ破格の家賃で。

大家さんは某テレビ局に勤務のご夫婦。
そうした背景から、
会社勤務ではない私の職業的事情にも、
理解を示して下さったのでした。

風水や気学やってる同業の友人にも相談すると、
「絶対いい! ここにするべき!」と太鼓判。

ルンルンで契約をし、引っ越しの日が決まった後。

大家さんから、
「左の隣の家のオジサンなんだけど、
 とても気難しくて困った人だから、
 お付き合いには気を付けてね。
 あなたが女性だと知ってなめてくるかも。
 うちは正直いって仲悪いんだ。
 昔から色々とトラブルがあってね…」

あらら。
それを聞いてしまった私、
ちょっとビビリ~に構えてしまいました。

親が地方出身者(ド田舎)で、
育ったのは東京の隣とは言え、
都会でもない田舎でもない中途半端な住宅地。
そして昭和の生まれ、その価値観で育ってます。
引越してお隣に挨拶に行くのは当然のこと。

挨拶をしに行った時、
恐ろしくイジワルな人のはずのお隣さんは、
愛想よくニコニコと私を出迎えてくれて、
普通の親切な人に見えました。
「あら、意外」

とはいうものの、
大家さんから色々と聞かされていたので、
油断できないしな~と、
警戒心を解くことが出来ませんでした。

結局その家に住んでいた間、
私がそのお隣さんから嫌がらせを受けたり、
イジワルをされたり、
トラブルが発生することはありませんでした。
大家さんが本社に戻って来るまでの間、
お陰様で平和に過ごさせて頂けたのです。

何かあったときに大家さんと連絡取る時、
「何かされてない?」などと心配され、
悪口だったり今までのことを聞かされるくらいで。


でも、ここに住んでいる間、私の中には、
「お隣さんは気難しくて怖い人だ。
 何か言ってきたら、されたら、どうしよう」
という恐れが芽生えてしまい、
お隣さん=悪みたいな印象(先入観)が、
エレメンタルとして育ってしまったのでした。

その時点ではまだ霊的真理について、
私は何も知りませんでした。
障り程度も学んでいない時期だったのです。

さて、
次に引っ越したところの大家さんも、
とてもイイヒトでした。
東京の郊外に家を建てて住んでいたものの、
お母様が亡くなってしまい、
その都内の家をどうしようかと悩まれていたところ、
不動産屋さんがこの人に貸してみたら?と、
縁を取り持って下さったのです。

密集地ですので一階の日当たりは良くないけれど、
とても広い一戸建てて、猫飼いもOKでした。
けれど、住んでみると、
玄関が接するお隣さんがこれまた強烈なご夫婦でした。
(奥さんは旦那さんに従ってるという感じ)

決して根は悪い人たちではないんですが、
なんていうか過干渉で、
悪い意味で昭和ヒトケタ生まれの人たち。
自分たちの価値観を押し付けてくるのですよ。
何しろとっくに隠居している人だから、
いつも家にいて他人を監視しているのか?って感じで。
家の中に入ってしまえばいいのですが、
会いたくないあ、といつも身を縮めていました。

大家さん曰く、
「あ~あの爺はねー
 生きてるときからうちに文句ばかりつけてきて、
 親も散々悩まされ、苦労しましたよ。
 増築のときにもいちいち怒鳴り込んできて。
 違法なんかしてないのに。
 子供のときから知ってるけど、イヤな爺でね」

もう片方のお隣さんはとても感じの良い人で、
良い御近所付き合いをさせて頂けたのですけどネ。


さてそこもシロアリが出てしまい、
取り壊すことになったので、また引っ越し。

アパートの一階と二階でワンフロア一世帯の家で、
庭があり、猫OKな予算内の家が見つかりました。
もち、家賃交渉しましたけど(希望通った!)。

二階に住んでる同棲カップルは、
お二人ともとても感じのよい人たちで、
生活音も静かで友好的な関係を築けました。

大家さんもお電話でご挨拶をしましたが、
「何かあったら遠慮なく~」
という感じの良い人でした。

ですが、ところが…

同じ大家さんから借地権で土地を借りている、
お隣さんご夫婦がまた、とんでもない人たちでした。
勝手にこっちの敷地内(庭)に入ってくるし、
玄関ではなく、庭のほうから覗いて声をかけてくる。
まったくもって「天上天下唯我独尊」な人たちでした。
結局色々困ったことが起きたので、
(カーテン開けられないし、仕事(来客)中も覗かれるし)
大家さんや管理会社である不動産屋を通して、
トラブルを訴え、間に入ってもらったのですが。

それに対して逆切れをして、怒鳴られたり、
イジワルをされたりって、大変なことになりました。
(町内会長さんにも相談したりとかetc)

そんなこんなで、
段々嫌がらせが酷くなったのもあるし、
上手く行っていたお二階さんが引っ越しした後、
新しく転居してきた人(ゲイカップル)も、
これまた勝手な人たちで、ついに耐え切れず…
もう無理!と値を上げることになり、
平穏無事な生活と環境を求めて、
引っ越しすることを決心しました。
立地や家自体はとても気に入っていたのですが。

ちょうど愛猫が亡くなり、ヒーリングを学び、
そして霊的真理などを学び始めた頃のこと。
私のこっち方面の仕事に大きな変化の波があって、
ものすごく精神的にも浮き沈みが激しい時でした。

愛猫が死んでしまったことから、
ペット可の物件にこだわる必要がないので、
次の転居先はマンションになりました。
荷物はたくさん処分することになりましたけど。

そこの家では階下の奥さんがとても神経質で、
ちょっとメンヘラ?っぽくありましたが、
お隣さんはシェアをしている女性二人組と、
もう片方も女性でしたが普通の人でした。

けれど、まぁ何もないということもなく、
かといって以前と比べると大したことなく…
マンションの駐車場の向かいに汚屋敷みたいな、
昔ながらのトタン住宅のようなところがあって、
夜中に仲間と道路で騒いでいたりするのが、
ちょっと迷惑って、そのくらいなものでしたので。

さて。。。

ここで気が付いた人もいると思うのです。

はい。

これがエレメンタルによって起きたことです。

きっかけは、
ここで話した一番最初の家に住んだとき、
大家さんから聞かされた情報から創ってしまった、
お隣さんへの良くない印象(先入観からの不安)と
「畏怖(未知のものへの恐れ)」の気持ちです。

これがすべての始まりでした。

その気持ちが核となり、
「困った問題のある、お隣さんがいる」
というエレメンタルを誕生させ、
住居環境、物件へと私を引き寄せ、導き続けたのです。

実際にはそのような体験はしていないというのに。
先入観が「問題のある人がお隣に住んでいる」
という思い込みのエレメンタルを作り、
現実を創り出し、引き寄せる発端となったんです。

現実には私を困らせるお隣さんなんて、
いなかったというのに…


次の転居先では、
そのエレメンタルによって、実際に
「困ったお隣さん」がいる物件に棲む羽目になりました。
大家さんは前回と同じようにイイヒト、右隣の人もイイヒト。

そして次の転居先。
前回の住居で実際にお隣さんにされたこと、
それに対して不快な感情を抱いたことなどが加わり、
さらなる面倒で困ったお隣さんが住む環境へと、
私は導かれてしまいました。
大家さんもやはりイイヒト。
もう一人のお隣さんに相当するお二階さんもイイヒト。

ここに住み初めてから、
私は霊的知識を学び始め、真理について知り、
エレメンタルについても知己を得ました。
そうした知識の背景や
霊的成長の道を選ぶことにしたというのもあってか、
少しずつ自分がどうしてこのようなパターンに陥って、
繰り返しのご近所問題に悩まされることになったのか、
おおよそのことがわかってきたのです。

とはいうものの、
そうしたトラブルの渦中にあって、
感情がさざ波たっていましたから、
今ほどは自分のことを客観的に見れず、
スピリチュアルナルシズムの罠に陥ったり
カルマのレッスンやらで、
租借して理解と知恵に落とし込むまで、
だいぶ遅れたというか時間が掛かりました。

(それでも知識を持ったことと、
その原因=理由が理解出来始めたことから、
カルマのレッスンも解消に向かい、
勢いを増していたエレメンタルのパワーも収束に向かい、
マンションに越す頃には、
現実化の力がおとなしくなっていたのです。
それでもこのエレメンタルは不活発になったとは言え、
死ぬことなく存在していて、
再びパワーを与えられるのを待ち構えてもいますから、
再び活性化させないように、意識を向けないよう、
十分に気を付けないといけないのです)

そして、自分を悩まし苦しめる、
このトラブルの始まりのすべては、
このエレメンタルを作ってしまったことからであり、
その後で現実化されてしまった時に抱いた強い感情、
すなわちお隣さんに対して抱いた不快感や恐怖…
こうした感情がエレメンタルに栄養として注がれ、
「お隣さんに理不尽なことで悩まされる」
といったようにどんどんパワーアップして大きく育ち、
引き寄せの力を強大に高めていったのでした。

このエレメンタルを無力化することによって、
今はとくにご近所トラブルのない環境に住み、
お陰様で平和に暮らせているわけです。

はい。どうでしょうか。
エレメンタルが成長するっていう実例になりますが。

これがエレメンタルの力であり、エレメンタルの怖さです。
無力化(ミイラ化)して、書き換えをするなど、
活性化させず不活発化するのは並大抵のことではありません。
たった少しの感情から、とても短い期間に作られたものでも、
私の場合15年もの長きにわたって悩まされ続けたのです。

生まれてからの環境から創られたもの。
あるいは生まれる前の、過去生から繰り返し使われ、
何千年も培って成長し、パワーを蓄えてきたものを、
完全に無視して克服するのは至難の業です。
エレメンタルと対峙するのは、たやすいことではなく、
生半可なことではないのです。
ぶっちゃけ戦っても勝ち目はありません。

そして、エレメンタルというのは、
「好き」「嫌い」、「NO」「YES」は判断しません。
「こういう気持ち」という、
エレメンタルが出来上がってしまったならば、
ひたすら「こういう気持ち」を引き寄せ続けるだけです。

「嫌い」「要らない」「お断り」「キャンセル!」
も区別せず、通じず、
二度とゴメンな出来事であっても、
出逢いたくない人であっても、
存在するだけで全部が「YES」となり、
「欲しい」「ちょうだい」なリクになってしまい、
ただ同等の波動のものを引き寄せ続ける磁石になるだけ。

そんなこんなで、
エレメンタルというのは出来上がってしまった時点で、
そこに含まれた「感情」を当人に体験させることを、
再度リクエストし続けるオーダー表のようなものです。

創った当事者がその事象や感情に意識を向け続ける限り、
それを具現化させるための十分なパワーを与えられ、
現実化するための準備をするのです。
具現化するための期間はまちまちではありますが…

実のところ、こうやって運命って出来ていくのです。
すべての人の人生は、
その人自身が創造するエレメンタルによって創られ、
築かれ、引き寄せられ、導かれていくものなのです。

これが人生を創造する「からくり」です。
人の運命を創っているものの正体です。

私を苦しめた、
負のパターンのサイクルがそうであったように、
あなたを苦しめている出来事も、
あなた自身が過去の何処かで創ったエレメンタルによって、
マグネットのように導かれ、引き寄せられているのです。


引き寄せの法則は、
ロンダ・バーンの著書「シークレット」から、
一般に周知になっていったのだと思いますが、
それ以前からもちろん、
古代の叡智として伝わっていました。
知識の源、出どころは同じです。
(ユダヤの知識はもともとエジプトの神殿から
持ち出された霊的真理における教義の
秘術、叡智が原点から持ち出されたものなので)

ただ、
エレメンタルのことを難しく詳細に説明するより、
「引き寄せの法則」とカジュアルに説明したほうが、
普通の人にはわかりやすいのです。

霊的真理の中で語られたエレメンタルや、
カルマの法則の知識の一部を取り出して、
教義や教訓的に伝わっている内容よりも、
なじみやすい理解の仕方であるならば、
そのほうが伝わるによいように思います。

というわけで、私たちはもっと、
自らの考えること、思うこと、言葉にすること、
に対して、意識して注意を払わねばなりません。
一瞬思ったり望んだことでも、
それがエレメンタルの種となって、
何かを引き寄せ、それに対しての反応がまた、
その種に栄養を与え成長させ、パワーを与えては、
あなたにその「感情」「思考」を体験させるため、
現実としての出来事や人物を引き寄せようとするので。

思ったことや考えたこと、口にしたことでさえ、
ものすごいパワーをもって具現化されるのです。

まして実際に習慣化していることなら尚更。
一度経験したことが繰り返されるのは当然です。
そして、過去を引きずっていたならば、
いつまでもその環境に居続けることの選択となり、
過去に生きるだけの人生となってしまうのです。

ですので、
起きてもいないことで不安になるのは止めましょう。
まだ何も起きていないのに、
未来を心配するのも止めましょう。
起きて欲しくないことを考えるのも止めましょう。

過去に起きたこと、今起きていることで、
望まなかったこと、起きて欲しくないことを考えるのも、
望まない選択をしようとすることも止めましょう。

言葉に気を付けましょう。
自分の云った言葉は自分に戻ってきます。
他人に対して思うことは、
自分が誰か他の人からそう思われる結果になります。
悪口や愚痴、不平不満も批判も否定も、
自分が人にされたくないことは止めましょう。

嫌いなことや嫌いな人のことを考えるのは止めましょう。
好きなもののことを考え、好きな人について考えましょう。

起きて欲しいこと、
望んでいる未来をまっすぐに考えましょう。

怒りや憎悪はいつまでも抱えず、自己批判もせず、
過去もネガティブな感情も早めに手放してしまいましょう。

上手く行かなかったこと、失敗や恥は忘れてしまいましょう。
上手くいかなかった他人や失ってしまったものは、
想い出だけ大切にしまって、執着は手放しましょう。

反省や内省はしても、後悔は止めて、
自分も他人もジャッジするのは止めましょう。

あなたが今感じて、味わって、浸っている感情が、
あなたの未来を創っています。
あなたのその感情が、もっとこの感情を味わっていたいと、
その感情を味わえ体感できる現実を創り出しているのです。

お金がない、お金が足りていない、
出逢いがない、男運がない、

などと思っていると、
その通りの感情が味わえる人生しかあなたは生きられません。
あなたはずっと今感じている感情を「この感情」が欲しいと、
未来にオーダーし、リクエストし続けているんです。

あなたの未来は、
今あなたが感じていること、考えていることが決めているんです。

あなたがあなたの未来を、人生を創っているんです。


思考に気をつけなさい。
それはいつか言葉になるから。
 
言葉に気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。
  
行動に気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。
 
性格に気をつけなさい。
それはいつか運命になるから。

 - マザー・テレサ -

2018/09/21

人格と人生の破壊者~シャドウ・セルフという名のモンスターエレメンタル

まず前置きとして。

何度もここで書いてきましたが、
エレメンタルとは想念体のこと。
エーテル・バイタリティーの、
四大元素(エレメント)の比率によって、
その性質が大きく左右され、決定づけられるので、
「エレメンタル」といいます。

とはいうものの、
やはりエレメンタルと言われてもピンと来ないかもですね。
氣の塊と言った方がまだわかりやすいでしょうか。

人が、
自分の三つの身体(肉体・感情体・思考体)に氣を取り入れて、
それぞれの身体の使い方によって、氣が練られて、
そうして出来たものが「エレメンタル」です。
とはいうものの、
エレメンタルは人間だけでなく、大天使たちも、
いわゆる創造のエネルギーの扱い主はみんな生産します。

このエレメンタルのカテゴリは大変広く、
まず人のすべての想念(思ったことや考えたこと、記憶)、
肉体的動作の記憶、言葉(言霊)など。
そして生霊や呪術もエレメンタルですし、
パーソナリティとしてのエレメンタルもあります。
動物も植物も昆虫や魚などもエレメンタルです。
時に人の想念は、幽霊や想像上の生き物を、
人が認知し、視覚でとらえられるほどの高水準の存在を、
三次元レベルで誕生させたりすることも出来ます。

そしてエレメンタルは単純に、
良いものと悪いものの二種類に分けることも出来ますが、
感情から派生したもの、思考から派生したもの、
人ではないものが創ったもの、完璧なもの、不完全なもの、
本当に色々なものがあります。

使い魔や式神、動物霊と言われるもの、聖なる存在、
信仰に基づいて創られたもの、霊脈や霊道、
祖霊的なグループ、神々のエネルギーの集合体、
また個人の創り出した同種のものが引き寄せられて、
集まったグルーブエレメンタルはとても厄介です。
(民族や人種、国の集合体無意識と言われるもの等)

エレメンタルを理解せずして、
私たち人類の歴史や個人の人生を語ることは出来ません。

困ったことに私たちの人生はエレメンタルによって操られ、
支配されているといっても過言ではないからです。

けれども逆を言えば、このエレメンタルを理解し、
支配され操られる状況から何とか脱却して、
自らがエレメンタルを自由自在に操ることの出来る、
エレメンタル・マスターになることが出来れば、
これほど素晴らしい人生の幕開けはないでしょう。

とはいうものの、それは並大抵のことではありません。

何故なら、
エレメンタル・マスターになることは、
悟りを得ることであり、解脱することであり、
まさに輪廻転生の輪から脱出するチケットを
手に入れられたと同意語だからです。

エレメンタルは困ったことに死にません。
その活動を抑制し、力を奪うことは出来ても、
消滅させ、無に消えさせることは出来ないのです。
残念ながら人間の力では…

私たち人間がエレメンタルに対してできるのは、
出来るだけ無力化させて、
使わないようにミイラ化させることだけ。
そして、
その破壊的で邪悪なエレメンタルよりもより強力な、
建設的で善なるエレメンタルを量産することだけ。

★ ★ ★ ★ ★

さて本題。

私たちの人生には問題が山積みです。
今の人生に満足して、十分幸せだと、
とくに問題なく順調だと思っている人は
さほど多いものではないでしょう。

人には何かしら悩みや問題があります。
まったくない人もいますが、そうした人は幸いです。
すべてが順調に、思い通りの人生を生きられる人は珍しく、
誰しもが、
上手く行かないことのひとつやふたつを抱えており、
何か始めようとすると躓いたり、人間関係で悩まされたり、
いつも同じ場所で間違えてしまうとか、
同じパターンの似たような出来事に遭遇してしまう、など。
他人から見て、
完璧ですべてが上手く行っているような人であっても、
悩みや不満や苦しみなどは存在しているものです。

けれど、障害や問題といった人生の障壁は、
結局のところ、
その人の内的な問題の表れでしかないのです。

外側にある世界は、内側にある世界の現世であり、
心の問題(四次元に創ったエレメンタル)や
思考の誤り(五次元に創ったエレメンタル)が、
すべて三次元(現実社会)に具現化された、
その結果そのものだからです。

問題は、
その人の苦しみのタネの原因となっているのが、
何であるのかということだけ。
それがいつ派生したもので、何に起因しているのか…

まずそれを知ることからでしょう。

人は、人間としてこの世に生まれ堕ちた時から、
エレメンタルを毎日生産しながら生きています。
人生の最初の時から輪廻転生を繰り返し、
何百回もの人生で創ってきたエレメンタルの総量は、
想像を絶するハンパない圧倒量です。

そして、その人自身の性格すなわちその人自身は、
過去生から現在まで創ってきた、
エレメンタルの総量とイコールだったりします。
つまり人というのはエレメンタルの集合体なんです。

私たちが好むと好まざるを選ばず、
過去生から作ってきたエレメンタルは
私たちの性格に反映し、行動を左右します。
意識していようといまいと、です。
ほとんどが無意識的に、で。

人生を邪魔しているのは、他人なんじゃありません。

確かに霊といった存在や、
他人から飛んでくる悪意や生霊や、
呪いだの祟りだの、環境や外部的要因、
そうしたものに邪魔されることはあります。

エレメンタルは同種のものと引き合います。
氣の塊ですから、固有の波動を持ちますし、
その人独自の波動は雰囲気を創り出し、
他人から好かれたり嫌われたり、
人や物事を引き寄せたり引き離したりします。

今生はとても善良でおとなしい人であっても、
過去生では攻撃的で自己中心的な人だったとしたら、
そうしたエレメンタルが今生ではなりをひそめ、
表立った性格を支配していないだけのことです。
一生そのエレメンタルが陰に隠れたまま、
二度と力を持たなければいいのですが、
時に何かのきっかけで復活する場合もあります。
そして、
その人がそのエレメンタルを使っていなくても、
時にそのエレメンタルに気づく人もいます。
過去生で関係があった人でなくても、
その人が今はそうした特質を表していなくても、
気づいて敬遠してしまう人もいたりします。

その人自身の人生を邪魔しているエレメンタルが、
今の人生の初期においての刷り込みだったら、
その影響を逃れることはさほど困難ないかもしれません。

けれど、それが過去生から
何世代もにわたって練りに練って練られて創られた、
年季もののハードでヘビーなダークキャラだとしたら?
この影響や支配下から逃れるのはとても厄介で、
生きることそのものが困難な苦行とも言えるでしょう。

自分の無意識下に刷り込まれた、
恐怖や邪悪な想念に悩まされ、
いつどこでその根を持ったのかわからない、
性格の歪みや悪癖に永遠に悩まされるのですから。

今その人を悩ませている問題が、
その性格(パーソナリティ)にある場合、
自分の中の、
どういったエレメンタルがエゴイズムを持っていて、
自分の人生に暗い影を落とすシャドウセルフとなり、
望まない現実を引き寄せ、人生を邪魔し、
望む未来と隔てる壁を創り出しているのか…

それを知って、考え方や思い癖を直すべく、
直したい性格の歪みを自覚して、
内省と瞑想をし、理想の自分になるための目標を描き、
その目標に向かって、生きながらの生まれ変わりを決心し、
トランスフォーメーションと自己実現と変革を起こすべく、
セルフ・イメージなどに励んだり、
金銭的余裕があるならサポート・プログラムを受けて、
自分改造と性格矯正のための、
トレーニングを積めばいいだけです。

それは新しいエレメンタルを作ることで、
望まない、使いたくない(活性化させたくない)
エレメンタルを無視したり、
不活発化、無力化することに他なりません。

精神疾患においての人格障害を発症している人は、
ほとんどがこのシャドウ・セルフを通り越して、
モンスター化してしまった、
強烈で強力なエレメンタルの問題を抱えています。

そしてこのエレメンタルは、
三つの身体のエーテルダブルと、
エーテルセンター(チャクラ)に対して、
深刻なダメージを与えます。

ですから、チャクラを整えるだけでは追いつきません。
この悪魔的なエレメンタルから力を奪わないことには、
どうにも元の健全な状態にもどすことは不可能です。
それはもしかしたら、
今の人生だけでは時間が足りなくて、
先の人生、未来生やその次の人生にまで、
持ち越してしまうかも知れません。

多数の霊的存在のグループによる憑依が、
精神障害の原因を創り出している場合には、
こうした霊的な存在を追い出すことによって、
改善されるでしょう。

霊的な存在を科学的な手法で追い出すには、
電気ショックなどが有効で、
その昔、精神病棟などで効果を示したときには、
明らかに霊的な存在が患者を悩ませていた場合です。
(精神科において、霊的存在に対処して
結果を出した実例の症例報告の良書として、
アメリカの精神科医・ウィックランド博士の著書
「迷える霊との対話」が参考になるかと思います)

でも、エレメンタルが原因である場合は、
そのような方法ではどうにもなりません。
エレメンタルは霊に似て霊に非ず、だからです、


霊的な存在や
他者の創ったエレメンタルに悩まされる人、
特に霊を引き寄せてしまいやすい霊媒体質、
中でも憑依体質の人に関しても、
結局のところ、
その人の所有しているエレメンタルが、
その霊を引き寄せているのが実情なのです。

過去生で創ったものにしても、
今の人生で創ったものにしても、
人というのはそれまでにその人が創った
すべてのエレメンタルの集合体なのです。
リアルで活性化させて使っているもの、
不活性化させてしまいこんでいるもの、
その二つに区分されているだけで、
ちょっとイヤなことがあって怒りを感じたり、
哀しみを覚えたりして、波動が下がってしまうと、
普段は使わずに済んでいる波動の低いエレメンタル、
すなわちマイナスの感情で創られたそれらに、
スイッチが入ってしまうことがあります。

そしてその波長に引き寄せられた霊的な存在や
他人が創ってゴミのように浮遊している邪氣、
類似の想念体を引き寄せて、
その身にくっつけてしまうことが多いのです。

そうならないためには、
常に霊的健康を維持するように努めること。
氣を充足させ、楽しいことや明るいこと、
他人や世の中のためになることを考えたり思ったり、
愛情や思いやりの心を示して、感謝を口にして、
睡眠と休息を十分に取り、健康的な生活をし、
良い習慣を取り入れ、愚痴や不満から遠ざかること。
ネガティブな考えや想いを、
なるべく活性化させないようにして過ごすこと。
…などです。

そして、精神的な調子のよい時に、
自分の性格的な問題を客観的に見つめて、
外側の世界に映し出されている現実的な問題と、
自己に内在する性格の問題の因果関係を突き止めること。
つまりはシャドウ・セルフの問題に取り組むことです。
これをすることで、
自分自身というものを知り、自分の人生を考え、
自分がどのようなエレメンタルを日頃から創っていて、
どういったエレメンタルの集合体であり、
どんなエレメンタル、エゴイズムを持っているのか分析し、
結果として弱体化するべきエレメンタルを知って、
意識的にどのようなエレメンタルを創っていくべきなのか、
どういった生活をして、どのような習慣を取り入れるべきか、
そうしたことがはっきりするからです。

でも、それはとても辛くて、しんどくてめんどくさくて、
気の遠くなるような先の長~い憂鬱なことですが。

けれども、これをするか否かで、
自分が人生の苦しみの渦や、
いつも悩まされる負のサイクルパターンから、
抜け出せるか抜け出せないかが決まってくるのです。

今の人生で間に合わないにしても、
これをするかしないかで、
圧倒的に未来世も変わってきてしまいますから。

人の感情はとても厄介なものです。
そして感情はときにモンスターとなって、
その人自身にも周囲にも襲い掛かり、
不幸になる選択をさせたり、苦しめたりします。

どうしようもない抗えない感情に翻弄される時、
人はたいてい内なるモンスターの支配下にあります。
シャドウ・セルフが狂ったように暴れだして、
あらゆるものを破壊しようとするのです。

そのスイッチとなるのは、
怒りかも知れないし、恐怖かも知れない。
覚えていれば向き合うことも、
他人に理解を求めることも可能ですが、
過去生の、すでに忘れてしまった、
思い出しようもない、証明も出来ず、
説明しようもないことが背景にある場合には、
どうにも制御できないもう一人の破滅的な自分を抱えて、
一生そんな自分に怯えて、
苦しみ続けけることになってしまいます。


かくいう私の中にもモンスターが棲んでいます。
過去生から積み上げられてきた、
他人や世間、社会に対する怒り。
被害者だった時の自分もいるし、
加害者的な立場の黒歴史な汚点もある。
哀しみから発狂してしまって自殺した人生のとか、
理不尽な目にあって人を憎悪し、呪ったときのも。
色んなものが少しずつ溜って、練り上げられてきた、
なかなかどうして手強い、邪悪なキャラです。
恐ろしい般若のような毒だらけの攻撃的な鬼女が。
私の中の「魔」ですね。

このblogを読んでいる人なら、分かると思うのです。
だって毒舌だし、選ぶ言葉も暗いでしょう(笑)
他人に対して厳しいし、辛辣で皮肉屋で批判的で…
何より自分のことは棚に置いてるし。
決して明るく楽しい気分になるような文体ではないですし。
まぁ、性格は歪んでますよ。醜いとこいっぱい。
性格悪いです。心も狭くてキレイではないです。
親切で愛情深い人間ではないです。優しくないし。
嫉妬もコンプレックスもあるし、イジワルです。
そういう自分が好きかと言われると、好きではないですが。

人をうんざりさせるダークサイド、たくさん持ってます。
闇ならいっぱい抱えています。
だからこそ、この仕事が出来ているというのもあります。
他人のダークサイドに動じず、驚かないから。
人はそういうものだと思っているので、
打ち明け話も不幸話も残酷な過去生も冷静に見れるんです。

そりゃ、たまに人の欲望の醜さ、自己中さに、
辟易して疲れてしまって、キレるときもありますケド。

でも、自分がダークサイドな面もってなかったら、
他人のネガティブな側面を分析していかないといけず、
過去生や様々なエレメンタルを視る必要のある、
今の仕事はとても出来ていなかったと思いますし、
耐えられることが出来ていなかったと思います。

そしてこのblogに書いているような文章も、
(とくにケースファイル)書けていなかったと思うのです。

だから、
私の抱えるダークサイドは私の血肉の一部であり、
黒歴史であるシャドウ・セルフがあってこその私。
とはいうものの、使い方なんですよね、これ。

はい、エゴイズムもエレメンタルもようは使いよう。
他人を、人間を理解するための材料にすればいいのです。

幼少期より自覚してて暴走させたくないと、
そう理解して抑制して、
刺激しないようにしているのですけれど、
しかし、エレメンタルは強し。
無意識に顕在化して暴走させることは近年ないけど。
でも、呑まれそうになって、
負けてしまいそうになることは多々。

エレメンタルとは決して戦ってはいけない、
と言うけれど…。

私の中にいるモンスターはなかなかどうして、
無敵な破壊者(デストロイ)なんですよね。
嵐を呼ぶハリケーンみたいだし、
ヒンズーの女神カーリーかドルアーガかって感じ。
出来れば、慈愛の女神様に練り直したい。
何百年かかるか分かりませんが(出来るのか)。
いやさそれにずっと取り組んできましたのよ。
でも、エゴイズムと向き合うのは一生の課題ですから。
ダークヒーローに仕立てられるのが今の精一杯かな。
とはいえ、私の場合、
お陰様でだいぶおとなしくなってきたんですよ。

このシャドウ・セルフ…
現実社会に望ましくないものを顕在化してしまう、
自分に内在する闇でありネガティブの源で巣窟。
自分の人生に陰を創り出し、
人生を邪魔して問題を創り出しているこの存在、
邪悪なモンスターを退治することは、
まさに悪魔祓いと言ってもいいかも知れません。

とはいうもの、正面切って戦うのはタブー。
まずは敵(汝自身)を知ることから。

ちなみにエゴイズムとその人は別のもの。
きちんと切り離して考えないといけません。
とはいうものの、それ自体難しいことだったりします。
その人自身を変えるというよりは、
エゴイズムを取り除くためのアプローチ。
それがシャドウ・セルフを癒すということです。

私自身、この自分に内在している、
たくさんの過去生での人生を通して創られてきた、
怒りのパーソナリティの集合体にものすごく悩まされました。
色んな問題やトラブルを引き寄せては引き起こし、
悪い方に考えたり、そのような選択をしたり、
爆発して暴走してのトラブルメーカー。
傷付きやすく、キレやすく、行動に一貫性がなく、
周囲に迷惑をかけ、振り回す、まさに歩く迷惑。
憑依体質というのも相まって、
めちゃくちゃで支離滅裂な性格で人生でした。

もちろん、
生まれ育った環境やネガティブな刷り込み、
そういう背景もありますが、
引き寄せているのは過去からの思い癖と思考、
シャドウセルフの自虐的でエセな自己犠牲心とか、
被害妄想や自己中な傲慢さ、
復讐心や蓄積した憎悪や怒り。
これらの集合体としてのエレメンタルが形成した、
とてもダークなパーソナリティ(エゴイムズ)。

結果的に私の人生のうまく行かない原因、
私の人生を狂わせ、望まないものにしている元凶が、
このシャドウ・セルフだったのです。

それを知り、向き合い、
克服するべく対峙することは、非常にきつい作業でした。
過去生を知り、ヒーリングのテクニックを身に着け、
霊的真理の知識を学んでいった段階で、
いかにシャドウセルフの存在、
エレメンタル(エゴイズム)の力の強さ、
それによって人が、人の人生が操られていることなど、
クライアントさんたちの姿を通して、
そして自らの身をもって知ることになり、
少しずつ少しずつ時間をかけて、
実践と失敗の繰り返しで、
結果が出ては学んできた感じです。

未だ試行錯誤のところもありますが。

だからこそ、
そうしたシャドウセルフに人生を翻弄され、
狂わせられている人に対して、
もっと何かサポート出来ないか、と考えました。
グループレッスンを通じて、
エゴイズムやエレメンタルについて知ってもらったり、
霊的知識を学んでもらって、
内省やエクササイズに取り組んでもらったり、
セッションにおいてセラピーやヒーリングなどの、
テクニックでアプローチしたり、
リーディングの情報を伝えるだけでは、
どうしても本質的な問題に行きつかないというか、
意識的に取り組んでもらうには弱いのです。
もっとクライアントさんの方で、
自主的に取り組んでもらわないと、
双方向でタッグを組んで頑張らないことには、
とても難しいというのがこれまでの経験上、
唯一分かったことでして。

★ ★ ★ ★ ★

で、こんなメニューを考えました。
まだサイトにページ作っていないんですけど。

そんなこんなで、
自分に内在するシャドウ・セルフを癒したい!
無意識の問題・性格の問題を改善したい、
過去生のトラウマやクセを克服したい!

という人向けに、メニューを考えてみました。

webサイトのカスタマイズセッションのページに、
掲載していますので、
興味のある方はこちらをどうぞクリックしてください。

2018/09/20

異次元散歩での奇妙な出会い

先月と今月の体験談。

夢と呼ばれる世界が、
四次元(サイキカル界)とイコールであることについては、
これまで何度か説明してきた通りなのですが。

サイキカル界は自分の想念の存在する世界であり、
自分のサイキカル体(四次元の身体)が、
行くことの出来るエリアで体験することであって、
従って、行ける場所は限られています。
※すべてのサイキカル界のエリアに
 行けるわけではない、という意味で。

過去からこれまでに辿ってきた道のり
+今の霊的成長の段階で行ける場所
ということで、
そこで出会う人は自分と波長の合う人
すなわち霊的レベルが同じ人ってことになりますね。


さて、その日の「夢」の中で、
私はとても広大な、お屋敷のような、
平屋造りの日本家屋にいました。
ちょっと面白い、迷路みたいな家。
でも、色んな人がその屋敷の中で、
自分の居場所を作って住んでいるんです。
まるでシェアハウスみたいに。

気が付くと、
たった三畳くらいの開け放たれた部屋の中、
私もテレビで見知ったことのある妙齢の女性が、
一心不乱に絵をお書きになられているんです。
亡くなったときよりは少しお若い頃の姿で。

絵描きさんではなく、某伝統芸能の方ですが、
何故かひたすら絵を描かれていたりする。

ちなみに私はとくにファンでもなんでもないです。
スキャンダラスなゴシップ記事で、
お名前とか素性とか、その下りを
ほんの少し存じ上げていたってだけのこと。
当然ながら、今は故人な方です。

私の話しかけたことに応答はあるけれど、
存在にはほぼ無関心で、
顔をこちらに向けることはせず、
ただ絵を描くことに集中しているのでした。
生前、絵が趣味だったかどうかは、
知る由もないのですがね。

生きてらっしゃったときには、
もっと広い自室を持っていたと思うのですけど、
それにしてもどうして、
無限大かつ迷路のように巨大なお屋敷の、
たった三畳程度のとても狭ーい部屋に、
大切なもののあれやこれやを押し込めて、
そこだけが自分の住む世界で居場所だと、
そう言わんばかりに机の前に身を縮ませて、
ひたすら一日中絵を描いているのか…
私にはわかりませんでした。

部屋の仕切り(ふすま)は開け放たれているものの、
廊下を通り過ぎ、行きかう人には目もやらず、
声を掛けられても淡白な対応で、
同じ屋敷に居を構える人と交わらず、
積極的に関わろうともせず…

その姿はブラウン管の向こうで見知り、
マスコミなどが語ってきた、
その人の虚像とは一致しないものでした。

てなわけで迷惑そうなので、
私はその屋敷の中、すぐにお暇下のですけども。


さて、これは先日。
今度は舞台というか、景色が西洋です。
色々な事件というかドラマが展開しまして、
そこはちょっとアレなんで省略しますが。

目覚める寸前に、ある名前を語られました。

「トルーマン・カポーティ」

「…? 誰やソレ。
 聞いたことあるような無いような」

一生懸命忘れないように暗唱して記憶して、
起きた後、パソコン立ち上げて検索しましたよ。
ネットって実に便利です。

ああ、「ティファニーで朝食を」
の作者さんだったんですね。
まったく知りませんでしたっっっ
ちなみにこの映画も見ていませんっっ
名作なのはわかっていますけど、
あんましオードリーの映画は見る気がしないのです。
(「シャレード」は見たかなぁ)

ちょっと色々不思議な感じでした。


なんだかなー

夢と言う世界、四次元たるサイキカル界で
出逢えてしまいましたってことは、
以前お会いした歌舞伎役者さんもそうだけど、
今回の〇間〇さんも、トルーマン・カポーティも、
私と同じ霊的次元に属している人って、
そういうことになりますのよね。

なんだかなー

でも、
話がとても合いそうな人たちではないんですがっっ

謎です。

きっと何か共通点とか類似点があるのでしょうね。
知りたいような知りたくないような…


追記:
ちなみに、
伝統芸能の師匠さんである某さんは、
亡くなられてからの転生前の状態。
トルーマンさんの場合は、
過去生のパーソナリティのコピーとしての、
エレメンタルです。

2018/09/10

智に働けば角が立つ

「エネルギー酔い」について。

それがどういうことかというと、
ようするに「に酔った」ということ。
この場合のエネルギーとはに他ならないので。

確かに、
たくさんの氣を一度に体内に受けてしまったことから、
まるでオーバードーズのような、
ショック症状が起きることがあったりはします。
(氣に満ちた場所に行ったり、人や存在と接したことで)

また、波動の荒い状態にある人が、
とても細かくて高い波動の氣に触れたり、
体内に通してしまうことで、
異質なものを体内に入れてしまったような、
一時的な拒絶反応のようなものが出てしまうことも。
そういう時は船酔いや脳震盪を起こしたかのように、
気持ち悪くなったり、立っていられなくなってしまう。

人間が一度に体内に取り入れられる
氣の量というのは一定量がほぼ決まっていて、
特別な行をした人以外、個人差というのはあまりない。

消費量は別として、体内に蓄えられる備蓄量、
一度(毎分単位程度)に受け入れられる許容量には限界があり、
許容量を超えると、
食べ過ぎや飲み過ぎで身体に負荷をかけてしまうがごとく、
一時的な体調不良を起こすこともある。

でも、それはまれなこと。
そんな頻繁に起こることではない。

たいていは一過性の症状で、すぐに回復するし、
長引いたとしても数日のことで終わる。
(それが継続して長期間にわたって起きるのは、
その人に問題を提示していたり、必然で起きていること。
このあたり後述で説明しますが)

逆にエネルギー不足(氣不足)のほうが深刻で、
これはすぐに改善されないと、
身体が長期的なダメージを負ってしまう要員となる。

さて、それはそれとして…
この辺りはあくまで本題に至るまでの予備知識。


知人にコンタクトを取ると、
「エネルギー酔いが酷くて、半月くらい酔っ払い状態」
との言う。

心の眼でなんとなく見てみると、
彼女のノエティカル体だけが首の後ろから、
斜め後ろにピューと飛び出していて、
エーテルダブルが伸びきり、
離魂病の状態にあったりする。

通常、離魂病状態というと、
ほとんどの人がサイキカル体が飛び出ていたり、
ズレていたり、
どっかあさっての方向に行っているものだけど、
ノエティカル体だけというのは珍しい。

でも、実はオカルトやエソテリックな学びや
サイキカルなワーク、エネルギーワークをしている人、
実践的魔術をしていたりする人に、
結構見られる状態だったりする。

自分の霊的身体の成長度やレベルを見極めずに、
無謀なエソテリックかつサイキカルな行をした結果、
あるいは瞑想などのエクササイズをし過ぎた結果として、
三つの身体のバランスが崩れて、
エネルギー酔いのような軽度な症状を起こす人もいるし、

離魂病を発症して、エネルギー漏れ起こして、
気が上に上がってしまい、地に足つかず、
サイキカル界と現実の境界線が曖昧になっている、
という状況の人もいるし…

テンション高くなって気分が常に高揚し、
眠れない、飲めない、食べれない、
一か所にじっとしていられない、落ち着かない、
常に頭が何か考えていて、心が忙しく反応して、
逆に何も考えられず、心が無反応で無味無感想で、
五感を失くした状態のように何を食べても味気なく、
常に時差ボケのような、酔っ払っていような、
エンドルフィン大放出のドーパミン状態みたいな、
ランナーズハイともラリッてるとも言えるような、
そんな症状になってしまう人もいる。
これが長期的に続いてしまうと、
まるで統合失調症としか思えない状態になるんだけども。
ちなみにこの状態、
スピリチュアル・エマージェンシーと似ているけど、
似て非なるものだったりする。


さて、
サイキカル体というのは感情の身体。
ノエティカル体というのは思考の身体。

ほとんどの人が感情(欲望)優先で生きているもの。
だけど、そうでない人ももちろんいて、
感情に流されず、常に知識を吸収し、思考を磨き、
思考優先で生きている人たちがいるわけです。

で、思考優先のクールな人たち。
理知的で論理的でいいじゃん!…って思うわけですが、
それはそれで弊害というか問題もあったりするのです。

また思考優先の人がすべて、
そのような症状に悩まされるわけでもなく、
ノエティカル体だけが抜け出してしまう人には、
特徴というか、とある共通点が見られるんですね。

こうした症状に悩まされることになる人の、
特徴・共通項としては、

・まず第一に人間関係にドライ。
・他人と自分との間に一定以上の距離を置き、
 なおかつその距離を縮めようとはせず、
 自分のテリトリーに入れないよう囲いを作る。
・心の内を見せず、語らず、聞かず、
 他人との感情的な交流を徹底的に避ける。
・協調性がないわけでも非社交的なわけでもないが、
 仲間意識を持たず、常に「部外者」のスタンスを守り、
 何処までいっても一匹狼的な距離と立場を保ち、
 親密かつ家族的な関係を他人と築きたがらない。
・何か用事(目的)がない限り、
 自分から積極的に連絡は取らない。
 (マメに連絡はしない)
・情報のアンテナは高いが、広く浅くがモットーで、
 他人の状況に好奇心を抱くことはあっても、
 他者の内面には無関心で相手の動向や近況は聞いても、
 体調や心情、精神状態を心配しての声掛けはほぼない。
 (季節の便り的な挨拶、様子伺いは皆無)

といったところ。

このような性格的特徴が悪いとか間違っているとか、
そういうのではないのです。

決して排他的で狭量な人たちというのではないし、
個人主義で個性は強くても、むしろ社交的で、
わりと誰とでも気さくに付き合うし、
仕事にも私情を交えず、公正かつ公明正大。
そして感情的にはならないしイジワルもしない。
なので敵を作りにくく、付き合いやすい人かと。

早い話が女性であっても男性脳なタイプ。
理性的で理詰めで合理的な思考が優勢を誇っている人。

けれど、共感性には非常に乏しい。
他人の心に寄り添うってこと、
まずしてくれない人だったりするし。

心の打ち明け話が出来ない相手だから、
心情的な話が出来ず、疎外感を覚える相手でもある。
本音や信頼が見えない相手というか、
心と心の繋がり、ふれあいを求め、
人間関係に温もりと深いコミュニケーションを
求める人にとっては、手ごたえなく、ちょっと寂しい相手。
とくに恋愛なんかでは突き放されたような、
理解しあったりまじりあったりできない孤独が募って、
カサンドラ症候群に陥ってしまう人もいるかもしれない。

まあ、それはそれとして。
ではどうしてこのようなタイプが、
ノエティカル体が飛び出してしまう系の、
離魂病になってしまいやすいのか…

それは単純に言えば、
感情体をほとんど使わず、思考体ばかり使っていて、
思考が感情を抑圧するなど、分離させて使っていて、
共に情報交換をして使うことをしないもんだから
サイキカル体とノエティカル体が乖離してしまって、
三つの身体の成長のバランスが崩れてしまった。

そんな感じ。
それが何処からだかはわからないけれど、
いつの間にか感情体を育てることが、
後回しになったというか怠ってしまったというか、
おざなりにされてしまっている間、
思考だけ群を抜いて先に成長してしまった。

「心」を育てることよりも…感情よりも思考重視で、
知識や理屈、理論を追い求めすぎて、
思考(体)ばかり育てることに偏ってしまったせいで、
感情体は弱体化して脆くなって、
感情のエネルギーの受け皿が弱いというか、
耐久性がなくなってしまった、みたいな。
(あくまで例えて話していますが)

実際、離魂病はエネルギー漏れ起こすし、
色々と心身の健康にも支障をきたしますが。

一般の人だったら、
またもうちょっと違う出方していたと思う。

ここで問題なのは、
単なるエネルギーワークの実践者も含めて、
エソテリックな知識の勉強をしている人たち。

こういう場合、「カルマのレッスン」として、
お題を提示されているので、
単なる霊的な身体のバランスの崩れ、
として簡単に正常な状態に調整することは難しい。

何故ってそこに本人に対する
「気づき」が求められているので。

エネルギーワークの従事者であるなら、
「氣」を扱う仕事をしているのだから、
「氣」のコントロールくらい、
自分自身でちゃんとできるようにおなりなさい、
という警鐘、示唆として起きていることだったりする。

まぁ、当然かもです。
氣のコントロールも出来ないのに、
そういう仕事してんじゃねー! ってお叱り受けるのは。

エソテリックな勉強をしている人の場合も、
対して変わらないです。
知識を学んで、それでちゃんと実践してる?
というお試し。

インプットばかりしてないで、
ちゃんとアウトプットしなさいよ!

というような意味合い。
エネルギーワーカーに対する「問いかけ」と
さほど変わりはしないんですけどね。

この場合の実践ていうのは、
クラフトやプラクティスなどのテクニックのことではなく、
エソテリックな教義の真意を理解したのなら、
それが何を意味しているのか解っているよね?
自分がどういう風に生きるべきなのか理解してるよね?
さぼってないでちゃんとやんなさいね!

エソテリックな教義では、
真理の探究者は進化し成長しなければいけない
ということをあれやこれやの角度から説いています。

そして人間は人の中でしか、
成長することが出来ないと・・・
それが真理の教えの中核にあります。

ようするに、他人との関わり合いなくして、
人は自分を成長させ、研磨していくことはできない。
だから、今の人間関係を見直し、今の自分のやり方、
他者との関わり合い方、感情の現し方を考えろって、
示唆と警告が身体の問題として表れている。

他人と交わることを恐れたり、避けたりしてはいけない、と。

自分の中にある創造性、
内に流れ込む愛情のエネルギーを、
現実社会である三次元において、
自分にとって正しい方法で具現化し、
言葉や態度で他者に対して、
相手がわかるように伝えないといけない。

まあ、それです。

愛のエネルギーをちゃんと形として、
外に出していないから(表現してないから)、
出口なく行き場を失った愛のエネルギーがうっ血して、
不活発な(腐って老廃物かw)エネルギーとなって、
その人の体調不良の原因というか、
三つの身体のバランス崩しまくりで、
あれやこれや不調で苦しむことになるって感じ。

霊的知識を学んだ人だからこそ余計に。
他の人よりこういう「お試し」だったり、
「問いかけ」的な試練は自然と多くなります。
カルマが具現化して戻ってくるのも、
学んでいる人とそうでない人とでは雲泥の差があって、
超特急で色んなことが早く起こるようになります。
だから、
「あの時蒔いたことが戻ってきたんかー」って、
分かりやすいし、気づくのも早くなります。

知識を身に着ける、霊的知識を学ぶってそういうことで。

まあ、何千年も何百年もあと、生まれ変わってから、
戻ってきた引き寄せ法則的なカルマのレッスンでは、
原因なんて覚えてないですからね。
覚えているすぐその直後でそれが具現化されると、
因果関係がわかって便利ですって、反省もしようがあったり。


結局、霊的な知識、宇宙の法則でもなんでも、
真理を学ぶということは、愛を学ぶのと同じで、
人間としてどう生きていくのか、
どんな人間になっていくのか、
人として人と交わって、正しく生きる方法を学ぶこと、
社会のために同胞と協力して、
皆が住みやすい世の中を創っていく方法を学ぶこと、

だったりするので、

周囲の人の心に寄り添って考えたり、
共感して、親愛の情を示して、
深いコミュニケーションを取っていく…
ってことを疎かにしていると、


それは霊的成長とはまったく相反する生き方なので。

当然、三つの身体のバランスも崩れるし、
第四の身体であるサイコノエティカル体も、
それではまったく育ちません、
育つ機会を得られませんって、
魂からの突っ込みというか、ダメ出しが入るって感じですかね。

てなわけで、開けゴマ…ではなく、
オープンハート! なのでありました。

知識や視野のオクターブを広げたら、
同時に心のオクターブも広げないと、
結局高みには登れないよってなオハナシ。

2018/08/28

自己管理の大切さ~霊的健康のススメ

セッション時でのことなので、
久し振りにこのテーマでの記事です。

クライアントさんというか、友人のことなのですけど。
帰省した直後から、どうもヘンだ…と、SOSの依頼。

というか、
その友人とはSNSで繋がってもいるのですが、
その直前にプロフ写真を変更したのを見て、
「うわ……ちょい、ヤバくね?」
とは思っていたのです。

(押し売りはしたくないので、
当人から相談されないことには、
よっぽどのケースでない限り、
私からは気づいたこと等、とくに言いません)


電話をもらって声を聴いた瞬間、
「わお、おもらいになりましたね」
で…やっぱりそういう相談かー、だったんですが。

「東〇〇(自殺の名所)に行ってしまった」

なんでも、急に身内が、
そのすぐ傍の某所に行きたがって、
強制的に連行?されてしまったらしいのです。
そういう場所だから、
地元であっても当人は避けていたというのに…。

ヒーリングワークのスキルとかはない人ですが、
もともと神仏に対する信仰心がある人なので、
自分なりに何とかしなくてはとあれやこれや、
色々と思いつく限り試してみて、
多少は離れていったみたいで軽くなったものの、
まだダメだと。

周囲にも
「目つきが危ない」「相当ヤバイ」
「早くどうにかしたほうがいい」
と言われる始末。

で、私のことを思い出し、
お客さんとしていらして下さったわけですね。

ええっとー まだ残ってました(憑いていた)。
亡くなられた方たちの残留思念。

やはりアレですね。
飛び込み自殺だと、途中岩壁とかにぶつかるからか、
肉体のダメージが相当です。
骨折とかあれやこれやでバキバキでズダボロ。
もう肉の塊としか言いようがない。
飛び降り自殺の場合、高いところからだと、
途中で意識喪失して痛くないっていうけど、
でこぼこした断崖から落ちた場合は、そうは行きません。
(私も過去生で経験者→自殺でなくて突き落とされた)
ぐちゃぐちゃになります。
そして痛いです、ハンパないです。
一瞬で死ねるわけではないですし…激苦しみます。
よしんば運よく海に直接ダイブできたとしても、
コンクリートに激突の衝撃、その下の岩石でぐちゃり。

てなわけで人としての形骸をとどめてないんだな、コレが。
(たぶん人の形骸をとどめてたのは、
友人がトライした初期の段階で離れたらしい)

でも、基本その人たちは悪意がない人たち。
人生が辛くて死にたくて死にたくて追い詰められて、
それかふとした瞬間いろいろ虚しくなって魔が差して、
「あ~死にたい」と吸い込まれていった人たち。
行くべき場所に導けばいいだけです。
自殺者とはいえ、元は素直な方々でしたので楽でした。
(今回はね、たまたま。対話や説得する必要もなくて)

どうも、半年くらい前から、
徐々にサイキカル体が抜け出していたようで、
(原因となったことはプライバシーなんて省きます)
そんなこんなで離魂病状態に陥ってて、
エネルギー漏れからエーテル体にダメージが少しずつ。
波動下がって、スキだらけになっていたところ、
そんな場所に連れていかれた…と。
(理由はそういう状態だから=負の引き寄せ)

だけど、それだけではなかった。
某新興宗教から何か来てる。
(宗教的な干渉は特徴ありますので分かりやすい)

話聞くと、
帰省した際に再会した知り合いの入っている、
某宗教施設に連れていかれたという話。
前々からあれやこれや勧められて断っていたものの、
今回ふとそこって何信じてるとこ?って
気になっていってしまったらしい。
(まさに波動下がりまくりだったから=負の引き寄せ)

「あっちゃ~! やっちまったか」って感じです。

さて、どうしようか…ですけれど。

とりあえず近況報告もそこそこに横になってもらい、
身体のオーラのあちこちに張り付いて、
残っていた方々にとりあえず対処して、
そっちの方からの邪念と「見張り」の方に対して、
暫定的な対処をば(何したかここは企業秘密)。
しいて言うなら、
この宗教、他のとある宗教を嫌ってて、
敵視しているのでそれを利用させて頂いたって、
そんなとこ。

で、氣(エーテルバイタリティ)の補充。
このあたりは普通のレイキヒーリングでOK。

で、とりあえずはここまでかな、と思ったんですが、
(霊的汚染を受けていた期間にもよるのですが、
毒素のようなもの、邪氣が完全に抜けるまで、
人によって一週間か数か月か、しばらくかかる)

ぼやけていた視野が明瞭になり、視界が開け、
不安定だった下半身がしっかりしたと、
本人ひと安心したのもつかの間・・・

なんかおかしい

あれ?

で再度ベッドに戻ってもらいました。

しまった、とりこぼしか…!

完全に私の失敗、見誤りです。

某宗教団体からの見張り対策として、
あることをしたんですが、
その前にやるべきことを忘れてた。

例えて言うならば、
ばい菌を完全殺菌する前に、
縫合したり包帯を巻いてしまった。
なのでばい菌まで閉じ込めてしまった。

慌てて、いったん外してやり直し。

とりこぼしに関しては、
帰省に際して、お墓参りに行った時、
どうも「お墓に入れない」遠縁の人たち…
を持ってきてしまっていたんです。
今までは拾わなかったんですけど、
今回帰省前から波動下がりまくっていたので。

隠れキリシタン?の人たち数名。
仏教のお墓には入れなかったのですね。
加賀藩に縁合って匿われてた人たちとのことでしたが。
友人曰く、
お隣の県(当時は藩か)に親戚はいないっていう。
まあ、関所が出来て移動禁止になる江戸時代以前は
どうだかよく分かりませんからね。
もしかしたら、どこかでつながってたかもです。
同じ北陸ですし。

三人ばかり女性で一人は身なりの立派な男性。
その男性は首ではなく、
腰からロザリオ?ぶらさげてました。
この方はちょっと宣教師っぽい立場でもあったみたい。
(外人ではなくどうみてもお侍)
本来なら刀を差すとこなんですが、謎。
そして加賀藩とキリシタンって??でした。
女性たちは殺されるときにロザリオは奪われてたみたい。
そして初期のキリシタンなら信仰の対象は、
「デウス様~」だと思うんですけど、何故か
マリア様(マリア観音)に反応していました。

とりあえずうちにあるロザリオを友人に握ってもらい、
マリア様とかキリスト教関連のグッズを身体に乗せ、
福音香を焚いて、マリア香も焚いて、
聖書の一説にて成仏?昇天か…を祈るところまで。
(マリア信仰に反応するのでそっち方面の祈りで対応)

辛かったんだろうなって思います。
500年もの間、そこに縛られていたんかーいって。
(幽霊でなくて、エレメンタルですけど)

ふがいないのですが、
最初の段階でとりこぼししてしまったのは私の不覚。
けれど、イイワケをするならば、
一つ取ってみないと、次が現れない、
下に隠れているものが判らないのもまた事実。
(だからイイワケするなって)

それでも、霊的毒素つーか、
しばらく後遺症は残ってしまいます。

これはその場だけでできることではなく、
時間かけて身体から抜けていくのを待つしかない。

汚染受けていた期間が短ければ回復は早いけど、
数か月、数年単位だと、なかなかです。

友人の場合、
その日のうちに胃痛、肩こり。
翌日に頭痛、肩こり、異常な眠気。
そして手のしびれと全身から何か抜けてくゾワゾワ感。

胃痛は消化器系(主に腸や肝臓そして膵臓)に、
貯まっていた邪気が外部と直接つながっている、
胃に集まってきたから。
でも、肉体の痛みを感じ始めたというのは、
気もそぞろで肉体に対して鈍感になっていた意識が、
肉体に向いたってことでいいことなんですよ。
肩こりも相当前から出ていたと思うし。

そしてそれが移動して今度は頭痛に。
口からげっぷとか嘔吐で出ればいいんですが、
頭から抜けようとする場合もあるんで、
するってーと、前頭部もしくは頭頂部が痛くなる。

異常な睡魔は身体がダメージから回復するために、
休息をしようとしている証拠なので問題なし。

報告もらったのですが、
たくさん寝たなら翌日スッキリとのことでOK。

あとは眩暈のようなふらつき。
眼鏡の度を変えたときのような違和感ですね。
これも珍しいことではなく、
長らく離魂病とか、三つの身体がズレてた人の場合、
もとに戻ったとき、正常な状態に身体が慣れるまで、
なんかヘンな感じ…を体感することになります。

疲れ的な重さでなく、下半身がしっかりしている、
安定している、重さを感じるという状態でのコレなら、
直っていく過程においての反応ですので、
問題視する必要はないのです。

このように、セッション後に
クライアントさんから経過報告を頂いて、
経過観察をすることはとても大事なことです。
とりこぼし施療ミスをしないためにも。

でもまあ、この友人のように、
敏感な体質(霊媒体質)で霊的成長の過渡期にある人は、
定期的に波動チェックというか、
霊的メンテナンスは受けて欲しいなあ、と…
思ったりする今日この頃。

けれど、当人の意志が大切なことですので、
無理強いは出来ません。
見守るだけです。
まあ、そこはそれ、受け身なお商売ですんで。

セッション直後に、
「ああ、そういえば」と。
友人はどちらかというと神社好きなんですが、
何故だか、東京に戻ってきてから、
以前知人からもらった「不思議のメダイ」を
ずっと握りしめていたことを思い出し。

まぁ、そういうことですね。
きっとあの方たちが求めていたのでしょう。

てなわけで、
うちには仏教、神道、キリスト教関連のものの
備えがあったりします。ヒンズーもあるな。
けど、イスラムとかユダヤとかになると、ない。
かなり以前のことですけど、
海外で土着の神様(西洋ではない)関連のものを、
お持ち帰り(物理的なものでなく)していた、
クライアントさんがいて、
「うわー どうすればいいの、コレ」
ってのがあったので、
やっぱり色々備えておかないといけないのかな。
コーランも必要かな。
そしてすぐ取り出せるようにしておかないとかな。

でも私何の修行もしたことござんせんの。
めちゃくちゃ自己流でいい加減なの。
それでいいのか…ってのがあります。
その前に私、魔女だろって突っ込みか。
いやさ、多神教ですから。
なんてったって、宗教チャンポンが日本人の特権なんで。



でもって、
もう一人、別なクライアントさんの話です。

チャクラヒーリングのフルを、
定期的に受けてくれている人なんですが、
この間久し振りに見たとき、
なんじゃこりゃ?っていうエレメンタルが、
元気に第二チャクラの海の中、泳いでいたりする。
最初は「龍?」と思ったんですが。 
よく見ると、顔が昔見た事のある、
ハチのようなアブのような、
妙な顔の虫に似ているんです。
そして胴体の部分は何故か節足類。
ムカデみたいな?

とても色鮮やかで、でもよく見るとキモイ。

どうも、身近な誰かに対して、
ちょっと斜め上な、イジワルな気持ちを
最近抱いていたみたいで、そのエレメンタル。
その人に対して創ったものというより、
昔作ってしまった、同類の他者に対して抱きがちな、
モノの見方の想念で、
いったん収束していたものの、
それがむくむくって元気になっていたと。
(エレメンタルは死なず消すことは出来ない。
よって栄養断ちしてミイラ化させるしかない。
ミイラ化していたのが栄養あげてしまったんで、
復活して元気になってしまったという話)

それと、第一チャクラが真っ黒になってた。
ここは家族、血縁者と繋がっているので、
当人の、というより、家族のリアルタイムのが、
まああれやこれや来ていたわけです。
兄弟姉妹たちの心の澱とか、
兄弟姉妹、家族であるクライアントさんに対する、
複雑な気持ちとかそういうもので。

何度掃除すればいいんだって思いますが、
生きている限り、何も出ないことはないっていうか、
住んでいる家でも、チリやほこりは毎日出るわけで、
一度徹底的に大掃除したからって、
それで永久に清潔で掃除の必要のない、
キレイな家に住み続けることは出来ないって、
そんな感じでしょうか。

身体もある意味、私たちにとっては「家」ですので。

人間の肉体も定期的にお風呂に入る必要はあるし、
歯磨きも毎日しないとダメになるし、
(口臭より歯周病恐るべしですぜ)
心も日々あれこれ善い事も悪い事も考えるわけだし、
あっという間にケガレは貯まります。

そういう意味で、
自分でもメンテナンスし続けることは必要かも。
一度受けたからって安心しきらないで。

それでもどうにもならなくなったら、
掃除のプロである他人のサポートを求めるのもアリ。

霊的なメンテナンスもチェックも、
時には必要ですよと、
たまには商売根性で宣伝してみます(笑)

あ、私もちゃんとセルフケアはしてますよ。
瞑想したり、セルフヒーリングしたりとか。
でも、さぼりがちなのは否めないなっっっ


補足
写真で霊的な状態がどうしてわかるのか…
写真はまさに現身で「写し視」だからです。
昔の日本人は写真を撮ると「魂を抜かれる」とか言って、
写真を写されるのを怖がったものですが。
魂は抜かれないけど、
写真はその人のエレメンタルになるので、
当人とのリンクが出来るんです。
エーテルコードによって繋がってるということ。

なので、その写真に肉体以外の後の身体、
サイキカル体とノエティカル体が写っているか、
それらの身体のエーテルダブルに、
エーテルバイタリティ(氣)が流れているか、
その霊光(オーラ)たる氣の輝きや状態を見て、
判断するんですね。それだけです。

サイコメトラーとか写真での霊視をする人は、
それを見てます、それだけのことです。


2018/08/25

憑依と霊的汚染:低級霊の常套手段と悪霊軍団

前テーマの続きです。
なりすまし(騙り)とそそのかす霊的存在について。


まず前説から。

三次元を視点(観念)の中心に生きている私たちにとって、
それ以外の次元の世界及びそこに属する存在は、
通常時においては視界(視野)には入っていません。

よしんば四次元の眼が発達している人で、
視界に捉えて視ることが出来ていたとしても、
その存在を認識していない人は、
「目の錯覚」や「気のせい」で済ませていたり、
現実に存在するものとして脳で処理してしまっています。

実のところ、誰もが自分が属している、
四次元と五次元の存在(霊やエレメンタル)の、
姿形や声を捉えること(霊視や霊聴)を、
しようと思えばできるのですが、
この三次元(現実)に注意と意識を向けて、
生きる上での妨げになることが多いので、
それは望ましいことではないので、

従って、
「宇宙の法則(神聖なる計画)」の中において、
3つの身体が健全かつ健康な状態であるものは、
三次元に常に意識が向くようになっているのです。

このあたり上手く説明するのが難しいのですけど…

3つの身体の栄養素であるエーテルバイタリティー
(氣=生体エネルギーのようなもの)が十分に摂取され、
身体に有害な老廃物のごとくなエレメンタルが、
適切に定期的に処理され、
健康を損なう外部の刺激…ウィルスや病原菌のような、
邪気やネガティブな存在の攻撃から守られていて、
3つの身体(肉体・幽体・霊体)の調和が、
バランスよく取れていれば、

人の身体は異常も問題もなく機能しているので、
3つの身体が個別に体験・体感していることを、
相互に伝達しあって共有しつつ、正常に処理するので、
(感情と思考と理性と行動のバランスが取れているので)
視野が狭まることなく、現実感をもって、
目の前の出来事に対処することが出来るのです。

とはいうものの、その人の人間性
(人格=霊性=霊的成長度=レベル)にも左右されます。

ある程度の霊的成長を遂げている人は、
(四次元と五次元の身体、なおかつ
肝心要の六次元の身体が発達している人のこと)
三次元に存在するものと別次元
(四次元と五次元、人によっては六次元)に
存在するものを明確に区別することが出来ます。

でも、未だ六次元の身体が未発達で、
四次元と五次元の身体も未成熟な人の場合、
別次元のものを明確に区別できなかったり、
(その人の霊的レベルに応じてですが)
幻聴や幻覚や妄想として、
あるいは現実と混同したものとして、
別次元からの声や形骸を捉えることになります。

ようするに、
霊的成長度がある一定レベルに達していない人は、
自分と同じ次元の階層に属しているモノや存在であっても、
その形骸や存在を正しく認識して、
個別のものとして捉えることが出来ないっていうこと。
(三次元のものとごちゃまぜになる)

相手の姿や存在を正しく識別できないということは、
色々と混乱と弊害が起きるモトです。

例えば、オレオレ詐欺。
電話の向こうの声の主が別人であっても、
電話(通信機器)というフィルターを通してしまうと、
よほど特徴的な声でない限り、
何しろ相手を認識しようにも姿が見えないもんだから、
簡単に「騙されて」しまう人がいたりします。

まして、霊的存在なんて、
「声」なんて聴いたことないし、
馴染みの誰かに紹介してもらって、
顔合わせなんてしたことないし…(当たり前だ)。

例えば先祖や身内の霊を見分けるのに、
生前に会ったことがあるとか、
写真を見たことがあるとか、
両親や親族の誰かにクリソツだとか、
なんかその人がその人である根拠とか
証拠でもあれば別ですけれども。

その「視る」ことが出来なければ手立てなく。

(ちなみに四次元と五次元の存在たる霊が、
物質的次元で知覚してもらえる状態に、
自分の姿を形骸化するのって大変なんですよ。
育ちざかりの子供10人分の生体エネルギーが必要で)


さてここから本題。

なりすまし…騙りって何よ?っていう話ですね。
ズバリ霊的な存在が、自分を偽ることです。

その昔ネットでもありましたよね。
ネカマとかネナベ?とか…
SNS上でも、
50歳のオバチャンなのに10代と偽って、
写真もあかの他人や娘や息子の写真使って、
嘘ついて文通(死語)する人とか…たまにいます。

「わたしゃ、神様だよ」みたいなのもいれば、
「仏で~す(ほっとけ)」
「我々は宇宙人だ!」
「ご先祖さまじゃぞ~♪」
「私、名乗るほどのものではありませんが、
 実は有名人の〇〇なんです」とかあれやこれや。

神様に毎日手を合わせてるような人のところに、
「私は神様ですよ~」なんて言って、
「あら、神様から啓示がきたわー」
みたいに信じさせてしまう…そんな感じ。

もしくは、
たまたま自分の存在をキャッチしてくれて、
どうも声を聴けてるっぽいぞ、と思った相手に、
その人が「もしかしてあなたって〇〇様?」
とイメージしたり、問いかけてきたときに、
それに乗って、
「そうそう、それそれ 私〇〇です」
と当人のフリをするのもいます。

こういうことするのは、
一般的に低級霊って言われてる波動の低い存在。
生前に性格悪かった人、からかい癖のある人とか、
あとは、仕える場所、主を失ったはぐれ狐とかイズナ等、
不良化してしまった元神様のお使いといった、
動物霊と呼ばれてるちょっとレベルの高いエレメンタル。
(でも本物の動物の霊とは違うもの。
 動物を核にして作られた存在ということで)

式神みたいな植物のエレメントから作られたものは、
そういうことほとんどしないですね~。

そしてこのちょっとレベルの高い(意識高い系ではない)
エレメンタルが曲者なんです。
結構、知恵持っているし、力もあるし。
人の心の中とか読めるから(同じ四次元の存在だから)、
その人が信仰している対象のヴィジュアル読んで、
(何故って、その人のエネルギーフィールドの中に、
その人がイメージしたもののエレメンタルが
データとしてあるんだもの<すべての思考・創造の産物)
自分の姿かたちをそのヴィジュアルにして、
相手に「視せる」芸当ができちゃったりするのもいる。

普通は脳内妄想なイメージ、
自分の内的な声として…ですが。


さて、前説で三つの身体が健康な場合、
三次元に注意と意識が向くようになってて、
別次元に焦点がズレることはないように設定されてる。
という話をしました。

でも、健康を損なってしまうと…
別次元の扉が開いてしまうことがあります。

健康を損なっているとき、というのがミソです。

ええっと、まず過去記事でも幾度か説明した、

・離魂病という状態のとき
 (肉体と幽体と霊体がズレている
 あるいは幽体か霊体が抜けっぱなし状態)
・チャクラ(エーテルセンター)に異常が起きてる状態
 ※ダメージを受けたり機能亢進に陥っているとき
・霊的な存在に憑依されたり、長期間攻撃を受け
 生体エネルギーを消耗し、三つの身体が損傷して、
 霊的波動が極めて低い状態にあるとき

ですね。ざっくりいうと。


また、
・意識が三次元でなく四次元や五次元のほうに
 向いていることが多い ほぼ肉体から離れている
 ※いわゆる右脳型と言われるアーティスト系の人
  ある意味で離魂病の一歩手前
も健康を損なっているほどではないけど、
三つの身体のバランスが崩れているので、
職業病的なものとして、幽体(感情体)が鋭敏です。

また、霊的な仕事をしなければならない立場の人は、
しばしばスピリチュアル・エマージェンーという、
「お試し」をマスター(透明なヘルパーさん)たちから、
強制的に受けさせられることになるのですが、
(これはそういう仕事をイヤがっている人に起きる)
そういう人は、このぶっ壊れ状態になるので、
(お引きずりさん的廃人状態で人間やめますか?みたいな)
多次元との境界線もほぼ失くなってしまうので、
ここはまたちょっと違うんですよね。
でも、見分けは普通の人にはなかなかつかないことです。


あと、霊的なエクササイズやトレーニングをした結果、
肉体の感覚も合わせて、三つの身体の感覚が敏捷になり、
別次元のものを知覚、認識できる状態になることも。
但し、そうしたトレーニングによって、
3つの身体がバランスよく鍛えられた結果であれば、
霊的成長したことでのシックスセンスの芽生え、
と言えるのですが、

取り組んだ霊的なエクササイズやトレーニングが、
段階を踏んだものではなく、無謀なものであって、
かえって3つの身体を痛めつけることになり、
バランスを崩し、「健康を損なった」ことでの、
多次元との境界線が曖昧になってしまった。
であるのに、
それを霊的能力の開花と錯覚してしまう人は、
実に多いです。

そういう人は低級霊に騙されて、
人格をどんどん貶めていきますし、
エゴイズムやネガティブなエレメンタルに囚われて、
どんどな傲慢さとエゴを増長させ、
スピリチュアルナルシズムの罠にかかってしまいます。


でもって、
統合失調症や人格障害、認知症の人は、
大体において、
チャクラ(エーテルセンター)に大きな異常があって、
中でも第一チャクラは相当なダメージを受けています。
そして、3つの身体がズレまくっています。
故に、
エーテルダブル(身体の枠組で3つの身体のつなぎ目)が
伸びきって、損傷を受けています。
よって、生体エネルギーたる、
エーテルバイタリティー(氣)もそこからただ漏れ。

なので、
多次元(三次元以外のとこ)との境界線が消滅。
色々と混在したものを視ることになるのです。
認知症の人の場合は、
第7チャクラも如実に損傷しているので、
主に過去のエレメンタル(記憶の媒体)を、
壊れたレコードのように読み続けます。

人格障害の人は、
過去のネガティブエレメンタル、
エゴイズムに完全に支配されている状態です。
というか、2パターンあって、
まず1つのパターンとしては、過去生のエレメンタル
(パーソナリティとしてのエレメンタル含む)に、
乗っ取られた状態の人。
なんていうのかな…
性格が悪くて歪んていたときの過去生の人格が、
今の人格に乗りうつって、その人格に同調する、
とても質のよろしくいエゴイズム丸出しの
エレメンタルを選んでローディング、エンドレス…
みたいな感じですね。
もう1つのパターンは、過去生の人格ではなく、
悪魔的な存在(悪霊)やエレメンタルに支配され、
身体を乗っ取られているって状態。

それが自分の過去生の人格か他者かってだけで、
たいして違いはないです。

統合失調症の人の場合、
四次元と現実(三次元)が混在してしまって、
区別がつかなくなっている状態ですね。
「声がする」って幻聴は、
四次元での「声」を単純に聞いているだけですし、
「視た」というものも次元が混在した世界です。

過剰な被害妄想状態の人で、
当人たち(周囲)が「言ってないこと」を
「言っている」ように見たり聞いてしまうこと
…例えば、周りが自分を見張っているとか、
出会う人出会う人が、知っている人知らない人共に、
自分のことを悪くいっている…なんてのは、
その人たちの決して言葉には出さない本音、
ネガティブな感情や思考のエレメンタルを
読み込んでしまっていたり、
4次元や5次元の身体の顔や姿を見ていたり、
という可能性もあるし、

そそのかし(騙り)をする輩や、
生きている人に対して悪意を持って接している、
霊的な存在(低級霊)やエレメンタルたちが、
その人に話しかけ、
もしくは良くない幻想としてのイメージを
その人の四次元の眼に見させていることをしている、

そのいずれかという可能性です。

その人の幻覚や被害妄想の度合いで、
判断できるかとは思いますが。

困ったことに後者は、
誰かの人生を破壊するのが大好きな存在たちが、
寄り集まって、それをするのがモットーな団体となり、
一人また一人と、手ごろなターゲットを見つけては、
幾世代にもわたって、過去から現代へと
あちこちで繰り返しているのです。

精神を破壊して自我や人格を崩壊させるだけでなく、
犯罪をそそのかしたり、自殺をほのめかしたり、
争いや不実を助長させようとしたり、
車に乗っている人をおかしくして、
人の列に突っ込ませたり…

こういう闘いは、神話や伝説の昔からあり、
聖書の中や経典でも語られています。
なかなか無くならない困った歴史です。

何故、奴らレギオンたちが居なくならないのか…

それは人の欲望が尽きないから。
何度滅しようとしても、
彼らの復活を人々が望むかのごとく、
彼らのエサとなるエゴイズムを人々が創り続け、
温床となる場を提供し、共存しようとする。

それが人の望みで多くの人が、
彼らを飼育することを選んでいるから。
…としかいいようがないですね。



てなわけで、少し振り返ってまとめてみると。

その1)
多次元に存在している霊的な存在を
キャッチすることはさほど難しいことではない。
それをキャッチできたからと言って、
その人が特別選ばれた存在だとか、
特別な能力があるわけではないということ。

その2)
だが私たちは、霊的成長を遂げる目的と、
今生の自分の人生をきちんと生きるために、
現実世界(三次元)に意識が向いている。

その3)
とはいうものの、
多次元的な存在の認識の仕方は、
その人の霊的成長度によって異なる。
どのように認識しているか、である。

その4)
3つの身体のバランスが崩れ、
霊的健康が損なわれている人は、
多次元の境界線が曖昧になりやすい。
結果、現実世界(生活)に混乱をきたしがち。

その5)
そして4次元と5次元の次元には、
三次元の肉体を持って生きている我々に対して、
悪意を持ってちょっかいをだしてきて、
だまくらかしてからかって翻弄して遊んだり、
精神を混乱させ崩壊させ破滅に導いたり、
支配して操って自分たちの道具として、
犯罪に走らせたりそそのかしたりする、
不良集団ともいうべき悪霊軍団がいる。

などなど。

霊的健康が損なわれてしまって、
4次元と5次元の境界線が曖昧になって、
それらの存在が視えたり、声が聞こえたり…
そこまではわりとあるある出来事。

(多次元との境界線が曖昧になるっていうのは、
上手く説明できませんが、その前に、

三次元と四次元のものと身体を通して、
五次元の身体は思考して、創造する。
三次元と五次元のものと身体を通して、
四次元の身体は体感して、想像する。
このプロセスの結果、
上の二つの次元の身体で「そうぞう」したものを、
三次元の身体を使って、三次元の物理的次元において、
何か行動や言葉などで表現していく…という
順序立てた、表層に至るまでの
三つの身体同士の正常な相互関係から派生する
生命活動と人間の人生の創造があるわけですけど、

このプロセスや順序が狂ってしまうといいますかね。
まるで電話回線の混線が起きてしまうがごとく、
配線があっちこっちめちゃくちゃになって、
違うところ同士のコードが繋がってしまい、
ヒューズが飛んで、バッチリーがあがってしまう、
みたいな…
まあ、誤作動が起きてしまうような、
そんな現象とでもいいましょうか。
うーん、この説明では分かりづらいかしら)


でも、声が聞こえるからって反応して、
コミュニケーションとかコンタクトを取って、
もしそれが善人や普通の存在ならいいけれど、
悪人やよろしくない存在だったとして、
付きまとわれたり、憑依されたり、
さらになりすまし(騙り)をする低級霊で
オレオレ詐欺みたいな感じで騙されて、
「あら私、霊能力に目覚めちゃいました」
「天使や神様、宇宙人と話せるんだ」とか、
そうこうしているうちに、
悪いのがたくさん集まってきて…って、
そういうのが問題でたいへん危険。


だからチャネリングは危険なのね。
もちろんこっくりさんとかウィジャ盤も。

霊能的な仕事の人で、
なりすましに騙されている人は少なくない。

もちろん人間に働きかけをしてくる、
良い存在もいますし、身内や先祖の霊だっているし、
そうしたガイド的な人とのコンタクトも、
まったくないわけではないけど。

コンタクトを取ることに執着するとダメですね。

もし、良き存在から話しかけてもらったり、
言葉をかけてもらったと感じたら、

「ああ、いいアドバイス、メッセージをもらった。
 感謝します、ありがとう」

そこだけで終わらせたほうがいい。
それ以上、継続してのコンタクトを望むべきではない。

何か聞こえたり、見えたりしても、
それが内容のないものや気分のよくない、
ネガティブなメッセージや存在だったら、

路上の井戸端会議の話や
カフェで隣に座った人の雑談がちょっと耳に入った、
その程度でスルーするべき。
いちいち意味など考えない。

普通に生活していたって、
周囲の人の声や音は聞こえるし、
自分以外の他人も物質も存在している。
4次元や5次元の声も音も、存在もそう。
それとまったく同じ。

道歩いていたって電車の中でだって会社にしても、
おかしな人や気持ち悪い人、変態もいるし、
感じよい人も無名の人有名な人色々会うことになる。
美しいものもあるし、汚い場所もあるし、
冷たい感じの建物も居心地の良い公園もある。

4次元や5次元の世界でも同じ。
4次元や5次元にあるものだから、
そこにいる存在で、姿が見えない存在だから、
すごい人たちだとか特別な存在ってわけではない。

彼らとコンタクトをとれたからって、
それは感動することでもない。
いちいち過敏に反応しないことが大切。

彼らがどんな人であるのか、
現実に生きている人を見極めるように、
見極めることの出来る目を持っていないのならば、
気にしないで過ごすのが一番いい。

そんなことより現実に注意を向けること。
この三次元に生きている存在や物質的社会と、
上手くかかわっていくことを学ぶべきなのです。


はぁー 疲れたのでここまで。